記 憶  ……  13






 タダハルは、ただ、目を見開いた。何も言わず、けれどそのまま項垂れて、長いこと黙り込んでいる。その長い沈黙の後、静かな溜息と共に口を開いたのはイサだった。

「…助けになりたいだけだ、って、あんた言ったよな」
「言った。助けになれたらそれだけで…」
「なら、手伝って貰うさ」
「……あぁ…」

 座っていた岩から腰を上げて、また三人で荷車を押し引きする。ガタガタとまだ不安定な音。行く先に海が見えてきて、足元の地面には砂が少しずつ混じってきた。あと少し進んだら、後は手運びだな、と思ったその時、波音に混じって、近い場所から声がした。

「ギンコさん、イサさんも、それに…」

 声のした方を見ると、そこには白也が立っていたのだ。 

「タダハルさん、ではありませんか…?」

 波打ち際に、白也が乗ってきたのであろう小舟が一艘、舳先を砂に刺し、ゆらゆらと揺らいで浮かんでいた。





 白い着物を着たなりで、潮風に袖をはためかせ、白也は三人に歩み寄る。酷く静かな佇まいのまま、ギンコやイサの問う眼差しを受け止めて、彼は言った。

「私が、何かを知っていて来たわけじゃありません。荷が多いのは分かっていたので、舟一艘では積み切れない。だから、ここまで出迎えをと思っただけでしたが」

 タダハルは白也の姿を見て、彼が今の神官だと気付いたのだろう。青ざめて、怯え、逃げ去りたいような顔をしていた。島の住人の誰から見ても、タダハルが島を出た事実は普通ではないことだが、ヌシに仕える神官の意識からすれば、到底許されざることに違いない。

 けれど白也は多少の躊躇いはあれど、その口元で薄く笑んでさえいた。

「実は、島の浜辺で昨日の夜、化野先生とサナミさんが話をしている姿を見たんです。なんの話をしているのかは、聞こえなくとも察することが出来た。多分あなたの話をしているんだろう、とね。だから、今ここでタダハルさんが居るのを見て、あぁ、そうか、とだけ思ったんです…」

 予知、予言、そんな大それたものじゃない。予感と言えば少し近いだろうか。神官になってから、そういうことは初めてじゃない。どういう意味かなどは分からないが、ただ、ここにタダハルの居ることが不安な何かだとは思えず、悪いことが起こる気も、不思議としなかった。

「何故今、此処に居るか、話して頂けますか…?」
「白…」

 何か言いたげにみじろいだイサを、片手を軽く上げることで止めて、白也はもう一度、タダハルにだけ問い掛ける。

「あなたは一度はヌシに背き、勝手に島を出た人だ。その時の私はまだ子供で、神官の任にはついていませんでしたけれど、それでも貴方が島を出た時のことは知っています。何年も月日の過ぎた今になって、島に渡る為のこの地に現れて、あなたは何がしたいのですか」
「俺、は…」

 イサやギンコに言ったのと同じ言葉を、恐らく彼は言おうとしていたのだろう。島に渡れるとは思っていない。ただせめて、手伝いたいだけだ、と。だが、それが音になる前の逡巡は、少しばかり長かった。

「正直に、思っていることを言えばいい。心底、あんたが思っているままを」

 その時、いきなりそう口を挟んで、ギンコは荷車の傍を離れたのだ。イサが反射的にその背を追う。声が聞こえにくくなるほどまで遠く離れてから、彼はまだ遠ざかるのをやめないギンコの背に言葉を投げた。

「お前っ、今、他人のことになんか構っていられる時じゃないだろ、ギンコ、お人よしも大概に…っ」
「だからだよ。イサも聞いたんだろう。タツミの話を。ナキ島のヌシは、過ぎ去った昔の裏切りを判断材料にしたりはしない。ただその人間が、島に居たいとどれだけ強く願っているか、それだけなんだって話」
「あぁ…聞いたよ」

 ギンコは漸く足を止めて振り向き、歪んだ笑みを口元に刻んで言ったのだ。

「そういう話を、赤の他人の為に今説明してやる余裕なんかない。だから突き放しただけだ」

 それを聞いたイサは、く、と小さく笑う。ものは言いようだ。突き放したと言われればそうなのだろう。でもイサにはギンコのさっきの言葉が、タダハルの背を押すようにしか聞こえなかった。

 何年も何年も、ずっと離れ離れの愛するものと、もう一度だけでも会いたい。そう渇望してい居るだろうタダハルの感情に、ギンコの心が動いたのだろうと。

「…まぁ、どっちでもいいけど、ね。でも俺は、あいつの存在が何にどんな影響を起こすか、きっちり見届けなきゃならない。俺の仕事にも関わることだからさ。お前もある意味煽ったんだから、なんて答えるか聞くべきだろ」
 
 そう言って、イサはギンコの腕を掴み、踵を返す。ギンコは抗いらしい抗いをしなかったが、掴まれた腕も体も、ずっと強張っていた。

「…島に」

 速足で戻った二人の耳に、深く項垂れて顔の見えない、タダハルの言葉が聞こえる。

「島に渡りたい。妻に、一言詫びを…。いいや、違う。俺はサナミに会いたいんだ。会って、そして許されるのなら、共に暮らし…共に、老いていきたい」

 その姿をこの目に映し、
 この耳で声を聞き、
 やがてどちらかの命が途切れるまでも、
 今度こそは、傍を、
 ずっとずっと離れない…。

「頼む…。今一度機会をくれ。その舟に乗せろとは言わない。ひとりで、なんとかして島を目指そうと思ってた。例えばこの島で小舟を手に入れて…。もしも波が荒れて舟が覆っても、木の欠片にだってなんだって、縋りついて泳いででも」

 それでもヌシに阻まれるなら、
 漸く諦め切れるだろう。
 例えその為に死んでも、本望だと。

タダハルは地面に膝を付き、手を付き頭を下げた。額を土に擦り付けるようにしながら、肩を震わせた。

「だから嫌なんだ」

 吐き捨てるように言ったのは、イサだった。軽く足元の土を蹴って、微かに舞い上がった砂が、タダハルの下げた頭にかかった。幾らなんでもらしくない態度に、ギンコがどこか物言いたげに彼を見ていた。

「この島で小舟を手に入れて、だって? 何のためにって聞かれたらどう説明する気? 自分のしようとしてる事が変に目立つって自覚もないわけ? あんたさ、全然わかってないんじゃない? こうして港の真逆側からこっそりと、こんな小さな舟で渡るしかない意味を。どれだけ不便でも、渡守りが年にたった二度か三度しか行き来しない理由も」

 そこまで一息に捲し立て、でもイサは軽く肩をすくめて、その後は数歩下がった。そして荷車に寄りかかり、明後日の方を向いて呟く。 

「……ってね、容赦ない上に余計なこと言った。もう黙るよ、あとは白也が決めることだ、神官なんだからさ」

 だが、そうやって名指しされた白也は、はっきりと首を横にふり、無意識の仕草なのか、己の手首を逆の手で撫でていた。

「いいえ、決めるのは私じゃありません。それを決めるのは、ヌシ様です。だから私の乗ってきた舟をあなたにお貸しします。一人で乗って一人で島を目指し、ヌシ様に決めて頂いてください」
「ふ、舟を…?」
「ええ。イサさんの言う通り、あなたをここに放って置くのは私も気になります。だったらヌシ様に、今これから貴方を『裁いて』頂くのが一番いい」

 風が強く吹いて、砂浜にやや傾いて打ち寄せられている舟が、四人の視野で、ぐらり揺れた。白也の言葉を聞きながら、ギンコがすうっと青ざめたことを、その瞬間にはイサも気付かない。 

「は、言うね、白也。それでこそヌシに仕える神官だよ。でもせっかく今、ここに四人揃っているんだから、もう一つの舟に荷を積みこむのを、手伝って貰ってからにして貰いたいかな」

 イサのそんな言葉を聞いた白也は、慣れた仕草で袖を襷に括り上げた。

「そうですね、あちらの舟の方が少し大きいから、まず向こうに詰めるだけを積みましょうか。どのみち全部は積めないですから、残りは二度目以降に」

「白也」

 ギンコがその時、随分と小さな声で白也を呼んだ。漸く絞り出したかのような、苦しげな声だった。 

「イサとあんただけで、最初は行ってくれるか? 俺はここで荷の番をする。最後の最後に渡る時、乗れればそれで」
「え、でも…。それだと化野先生が心配します」

 即座に白也がそう言ったが、ギンコはただ首を横に振って、最初の時も二回目も、自分は舟に乗らないで待つというのだ。重ねて何か言おうとする白也だったが、イサがその問答を一言で挟むことで止めた。

「ぐだぐだ言うようなら、俺があの先生に言ってやるよ。ほんの数時間の差で必ず戻るんだから、そのくらい黙って待ってろってね。それでいいんだろう? ギンコ」

 お前も必ずすぐに、島へ渡る。怖気たからじゃなくて、万が一を思い、白也の身や荷を案じただけ。ずるずると日を延ばしたりはしないだろう。そういう意味で、イサは言葉にせずにギンコに釘を刺したのだ。

「…あぁ、イサ、必ず」

 ヌシは島に渡りたい気持ち、島を想う気持ちだけを読む。それだけの筈だと思っても、怖れる気持ちは皆無にならない。舟で島を目指すことで裁かれるかもしれないのは、タダハルだけじゃない。ギンコもなのだ。

「あいつに伝えてくれ、信じていてくれ、必ず戻る、と…」 








 

   




 

 ちょっと久々の「記憶」です。正直、タダハルさんが島に戻ろうとするとは、当初まったく思ってなくてですね。タツミの存在を書いた時から、そこらへんは変わってきたかなって思う。あの島は、恐らく永遠には在れない。

 と、思うのです。って前にもどっから書いた気が?

 そうか、この話ってそういう話なのか。そ、そうか…。ひーっ、書くの大変そうっっっっ。いやいや、其処まで書かない可能性も、あるわいな、まだっ。変なコメントになっちゃった。

 けど読んで下さりありがとうございますっ。



15/10/10