記 憶 …… 12
化野はこの頃、浜に居ることが多い。暇さえあれば、と言っていいほど家を空け、何をするでもなく、ただ波打ち際を辿るように歩いている。一昨日も、昨日もそうだった。そして今日も。
夕日の色が長く水面に伸びていて、その橙で顔を染めながら、眩しそうに目を細め、遠くを、遠くを見て今も浜にいる。
「お寒くないですか」
声をかけられ、何処か遠い目をしたままの彼が、静かに振り向くと、其処に立っていたのは、サナミだった。
「そう、ですね。少し。でも大丈夫です。昨日の方が風は強かった。でももう少ししたら風が変わって、ぐっと冷えるんです。毎日そうだ。だから、サナミさんは早く帰った方が」
けれどサナミはそれへ頷こうとせず、近付いて化野の隣に立ち、後ろでひとつに結んだ髪の後れ毛を、片手で押さえながら、じっと、遠くの波を見つめる。
「ひとりで、居たいですか?」
「え? いや、そんなことは…」
口篭もった化野に少しばかり笑んで見せ、彼女はこう言った。
「先生を見てると、昔の自分を思い出すんですよ。あの人が、行ってしまった後の私。やっぱりこんなふうに、ずっと浜で待ってた。帰ってくるって信じたくて。……あ…。不吉に聞こえたらすみません。そんなつもりはないんです」
言葉の終りは焦るように響いた。言ってしまってから、自分の言葉に気付いたような風情だった。
「そんなふうには思いませんよ」
「ごめんなさい。先生の姿を見て、私、久しぶりにあの人のこと、いろいろ思い出してしまって。いい人だったんです。誠実で愛情深くて、いつも物静かで、でも信じたもののことだったら、とても情熱的で、簡単には折れなくて」
「えぇ、カルテを見ても、そういう為人は分ります。医者としても尊敬できる方だと思う」
化野が言うと、サナミは、ふ、と顔をあげ、少し頬を染めて嬉しげに笑った。
「よかった。あの人が聞いたら喜びます」
まるで、その言葉を伝える機会があるかのようにそう言って。でもすぐに気付いて、悲しげに項垂れる。
「あの人きっと今頃、奥さんや子供たちの元に帰って、私のことなんて、もう…」
「そんなことは…!」
反射的に反論をした。でもそのまま言葉を続けることは出来なかった。どうしているか、どこにいるかも分らない人間のことだ。もう会える筈の無い相手でもある。もしかしたら死んだかもしれない。だからきっと最善は、忘れることなのだろう。
「私、誰かにそう言って貰いたかったんだわ。そんなことない、って。離れててもまだ想ってくれてるって…。ごめんなさい。帰ります。先生も、お風邪を引かれないようにして下さいね」
砂浜に浅い足跡を転々と残しながら、サナミは帰って行った。彼女の足跡が、宵闇に飲まれて見えなくなった頃、化野も漸く家に戻る。今日もギンコは帰ってこなかった。なら、明日だろうか。それとも少しずれて、さらにその先。
電話やメールが無いことには、すっかり慣れた筈だったのに、その事が毎日辛かった。約束のひと月丁度は、とうとう明日。
「もうすぐ、着くね」
漁船の上でイサがそう言って、ギンコは言葉も発さずにただ頷いた。その強張った横顔を、どうしてやることも出来ず、眼前に見える漁港を見やれば、迎えの数人の影に隠れるように、ふ、と動いた人影があったようだった。イサはあえて何も言わず、ギンコと共に、渡し板のタラップへと進む。
数分後、漁船はなんの問題もなく港へと着いた。漁師らは丁寧にすべての荷を下ろし、昔ながらの大きな荷車に、彼らの分の荷を山と積んでいく。この後は、イサとギンコでほぼ島の裏側まで、それを押し引きして行くことになる。
荷車のままいけるの。途中までなんだよな、と、うんざり顔でイサは溜息をついた。
「ほんと言うと、もう一人くらい手が欲しいとこだけど」
ちら、と意味深に後ろへ視線を流しつつも、イサは大人しく荷車を押し始めた。ギンコも足元に気をつけつつ、力を込めて前へと引いている。がらごろと時代錯誤な音を立てながら進む二人の荷車に、後ろから付いてくるものがあって、ギンコもイサも、もうとうにその事に気付いていた。
「ほんっと、諦めわる…」
「まあ、それだけの想い、ってことだろうけどな」
イサの小さな呟きに、ギンコは殆ど即答でそう言ったのだ。眉をあげてイサは大袈裟に驚いた顔をする。
「へぇ、ギンコ、気付いてるんだ」
「そりゃな」
「…どうしたもんかなぁ」
相手は元々は島の住人だ男だ。だからナキ島の存在を隠す意味はないし、渡守りのことだってよく知っている。それに、あの茶髪から聞いた話によれば、男は三日前にはこの漁港に付いていた。
「何処から島に向かうのかも、もう調べたんだろうなぁ。舟、隠し場所があるわけじゃないしね。…やれやれ」
心底だるそうにそう言った後、急にイサは荷車から手を離した。がくり、と重さが増したことにギンコも気付いて、無言で足を止める。イサは体ごと後ろを振り向き、少しばかり声を張った。
「どうせついて来るんだったら、手伝って欲しいんだけど…っ」
気配が、確かにどこかで跳ねた。待つこと暫し、壊れ家の影から、タダハルが無言で姿を見せる。今度も口を開いたのはイサだった。
「何でもいいから手伝いたい、ってそう言ってたよね。島に渡れなくともいいから、何か手伝いたいだけだって。だったら押して。二人で押した方が早いし楽だしっ」
「いいのか」
信じられないことを聞いたような返事に、イサは肩をすくめてみせる。
「舟に運ぶの手伝わせるだけだから。ギンコも、異論ない?」
「俺は、別に」
気のない返事は単に、余裕が皆無だからだ。感じのよくないイサの態度にも、前のような不満は欠片も見せず、タダハルは荷車の後ろに手を掛けた。イサとタイミングを合わせて押せば、さっきまでよりずっと簡単に荷車は進む。
「用意された舟は一艘だし、今回は俺も向こうに渡る。あんたまで乗せてる余裕は、最初っから微塵もないからね」
釘を刺す言葉に、タダハルは無言で頷いた。
荷車はギシギシ、ガタガタと音を立てて進んでいく。違和感に最初に気付いたのはタダハルだった。押す手に伝わる振動が、走る路面の凹凸と違うリズムを刻んでいる。気付いて、躊躇いなく荷車を止めさせ、車輪と車軸の交わる部分が緩んでいると指摘した。このままじゃ車輪が外れる、と。
衣服が汚れるのを構わず、すすんで地面に横になり、あちらこちらを改めていた彼は、足元を暫し探して小石をひとつ、大きな石を一つ拾ってきた。また仰向けて荷車の下に潜り込むと、軸の外れかけている部分に小石を差し込み、楔とするようにして、大石で打ちこんでいった。
「これでなんとか保てばいいが」
医者のすることとは思えないが、あまりの器用さに、イサもそれを褒めずにいられない。
「…へぇ、あんた医者以外に何かやってたとか? 凄いね。助かった」
「あの島で暮らしてた頃は、専門外とか、出来ないとか言ってられなかった。見よう見まねで何でもやったよ」
ついでだからと、道の端の岩に座って皆で休みながら、タダハルは懐かしむように、そう…。その時、ふと気付いてギンコが言った。
「手に怪我を…」
「あ、あぁ、このぐらい、別に」
指に巻いたハンカチが、見る間に赤く染まって行く。ギンコは荷の幾つかを急いで開けて、タダハルの怪我した指を消毒し、その下部を裁縫道具の糸で縛り、血止めを塗って、さらしを少し切ってそれをあて…。
「若いのに、手際がいい。薬剤師と聞いたが」
「島の今の医者の措置を、いつも見ているからってのもある」
「そうか、いい医者なんだなぁ。サナミは、その人を手伝ってるんだろうか。もしかしたら、今はその医者と…」
一緒になっているのか? という響きだった。それだけははっきりと否定したくて、ギンコは首を横に振る。言ってしまってから、言わずともいいことまで口にしたことに気付いた。
「サナミは今も一人身だよ」
話を黙って聞いていたイサが、ギンコ、とひとこと、彼が言ってしまった言葉を、咎めた。
続
お話がものっそいゆっくり進んでいる自覚はありまする。すみません。だからこそこっちばかり更新して進めようとしているのですが、それでも遅いですね。
でももうじきギンコは舟に乗るし、イサも共に渡るし…タダハルさんはどうかと言うと、内緒ですよー。
まるで対になるように、ナキ島では化野がサナミと話しをし、漁小島ではギンコがタダハルと話をしたのですね。蟲の仕業、とは言いませんが、運命なのかなぁ、とかとか…。サナミもタダハルさんも一途だよね。願いを叶えられるものならば、と少し思います。
ではでは、また次回v
15/09/23