記 憶  ……  1




 イサは開いて眺めている文書を、いつまでもぱらぱらと捲りながら、少しだらしなく車窓に寄りかかっている。随分空いた列車で、彼の傍に人は居なかった。ぼんやりと、思い浮かべている相手の顔は、どれだけ見つめていようと遠い。

 過ぎ去った彼の過去が、イサに見えるわけじゃない。でも本人から話は聞いたし、あの島に執着し、とりわけ海を見下ろせる高台のあの家に、随分こだわっているのを知っている。

 大方、あいつとの思い出の場所にでも似ているんだろう? お前はいつだって、あの男のことばかり…。ただそうやって苛立っていたのに、今は、恐ろしいような心地がする。

 まるで、移し取ったようにそっくりな風景を、イサは見たのだ。




 その家には、病がちの年老いた女が、たったひとりで住んでいたのだという。いつも幻を見ていて、訪れた人にそれを語るような、変わり者の女だったそうだ。

 すぐ傍には、老女がいつも過ごしていた小さな公園がある。そこから見た風景が、あまりにも、島のあの場所から見た景色そのままで、イサはどう考えていいのか分からなくなった。

 だって、あのお医者の先生は、ここへ来たのを最後に消息を断ったのだと、聞いていたから。

 偶然のようにそこに居合わせて、老女を彼一人で看取って、彼女の遠縁や医療施設に連絡を取り。そして、他の誰にも姿を見られずに、彼はそこから消えたのだという。そして次に現れた時には記憶を失っていた。そのすべてが偶然とは、とても思えなかった。

 でも…。
 調べてくれなんて、
 もう、言われてないんだけどね。
 知りたいかどうかさえ分からない。

 でも、お前が居なくて、
 なんだか、あんまり詰まらないから。

 文字で埋まったその報告の、何枚にもわたる内容。人に調べさせたことが殆どだったが、今日のように、イサ自身が聞いて書き付けたことも含まれている。

 ところどころ線を引いてある場所なんか、ギンコが見たらどう思うだろう。彼の生まれた日にだって、きっと心を揺らす。もともと住んでいた家と、家族のことも調べがついた。そこでの彼の暮らし。そして…。
 
 記憶を失った前後、彼はおそらく、ギンコがあれほどこだわっている場所と、同じ風景を見て居たのだということ。

 イサは不意に少し笑う。

 それとも、こんなことどうだっていいか?
 もう安心していられる場所を手に入れたから、
 過去のことなど、興味もないかい?

あの島は地図にも乗っておらず、あらゆる文明のリキを受け付けず、島が人を選ぶ土地だ。だからこそイサは、仕事絡みで何度も行ったことがあったし、ギンコよりもあの島には詳しいぐらいだった。蟲がヌシをしているという、あまりにも特異で、特別な…。

ヌシはギンコを受け入れた。蟲を寄せ、本来なら光脈筋には長居できないはずの彼を、住まうに相応しいものとして、ヌシが許したのだ。つまり。

 あの場所でなら、ギンコは、多分。

 その時、胸ポケットのケータイが震えた。遠出する時だけ身に着けているから、慣れない振動に心臓が跳ねる。好きになれない、着信、ってヤツ。液晶の表示は仕事で馴染みの相手だ。

「戻れってか? はいはい」

 たった今列車が滑り込んだホームを見れば、丁度下りる筈の駅。それほど思いに沈み込んでいたつもりはなかったのに、危うく乗り過ごすところだったらしい。

「っと。やっば」

 下りつつ彼は通話を繋げる。電話の相手は彼のことを、イサ、以外の名で呼んだ。不機嫌そうにイサはそれを咎める。

「誰それ、知らない名前」

 仕事柄、呼び名を変えるのは珍しいことじゃないけれど、ギンコがくれた名だから、その名で呼ばれたい。だってもうギンコは呼んでくれない。呼び声の届くところに来てくれるのは、今度はいったいいつになるのか。もしかしたら、もう。

「今? 近くになんか全然いない。都外だからね。分かった、約束はしてなかったんだから、待たしといていい。もう戻る」

 柔らかな雨はいつの間にか、細い針のような雨に変わっていた。白く光りながら視界に無数の線を引いている。イサにしか見えないが、淡い金色を帯びたものが、その雨の雫の中にいるのだ。まるで紗の檻みたいだと、イサは思った。

 あいつ、
 閉じ込められてるみたいだと思ったけど、
 それは俺も変わらないのかな。
 自分がこんな自由にならないのは初めてだ。

 ま、人間なんてね、
 いつだって誰かの手の上だけど。





「風邪の薬、胃薬と化膿止めと、消毒薬、注射器と針も必要だし、あぁそうだ、あと湯たんぽが欲しい。電気が来てないから、あればいろいろ使い勝手が…」

 言われるままに書き止めながら、ギンコは化野の真剣な横顔を盗み見ている。きりりと引き締まった医者の顔だ。見られていることに気付きもせずに、棚の前まで行って、化野は抽斗を開け閉めする。この間出来上がって、そこに備えて貰ったばかりの棚だ。

 あった方がいいんじゃないかとギンコがいい、手先の器用な島民が、しばらくかかって作ってくれた。抽斗はそう多くはないが、便利だと化野は喜んだ。なんだか手に馴染むようだ、とも。

「あぁ、そうだ。包帯も。ヌシ様の御加護か、病にかかるものは少ないが怪我は案外いる。それから固定用のテーピングが欲しい。これは優先順位が低くていい。注射針までは極力欲しい。あっ、解熱剤を忘れていた。欲しい順位の上の方に入れといてくれ」

「おいおい」

 化野が思い付くたびに細々と言うから、メモ用紙はもうぐちゃぐちゃになってしまっている。書いた自分が見ても、わかるかどうかあやしいぐらいだ。苦笑いしてまた一枚紙を取り、ギンコは卓の上でそれを書き直し始めた。

「あぁ、すまんな。いつ行くって言ってたんだ? 白也は」
「……三日後だよ」
「なんだ、そうだったか。それだったら明日中に、もう一度よく考えてみる」
「え?」

 ギンコは顔を上げて唖然としてから、小さく肩をすくめる。鉛筆を投げ出し、畳の上でごろ寝しながら、視線は化野へ置いたまま。

「なぁ、医療品以外に何かないのか? 例えば服とか」
「服、かぁ、着古しを色々もらったから、当面要らないが。季節が変わる前には用意しなきゃならんし、でもそれは女の人らに聞くべきだな」

衣類と食料品については、島の女たちの方が遥かに把握している。男が下手に口を出すと、余計なことばかりすると叱られるらしい。

「ちょっといいかなぁ、セキ」

閉じている奥の間への襖を、軽く叩いて化野は言った。中からすぐに朗らかな返事が返る。

「いいですよ、どうぞっ」

襖はからりと内から開けられて、其所にいたのはセキとサナミ。今日はこの家で空いている広い部屋を借りて、布類や古着の整理をしていたのだ。

島で一番古いサナミの家の蔵には、これまで仕舞い込んだままにしてあった、着物や反物が沢山あった。ミツがそれらを急に出してきて、島の皆で分けて使って貰いたいと申し出たのである。広げられ、或いは巻いたまま積まれた布の数に、化野は目を見開いた。

「凄いなぁ。店が開けそうなぐらいじゃないか。でもこれは、どれも着物用の?」
「洋服にだってちゃんと出来ますよ、先生」

品のいい小花柄のものを広げて、サナミの肩に当てながら、セキは随分楽しげだった。サナミも曇りのない顔で笑っていた。ミツが自分の蔵の中のものを、島の皆でと言い出したことも嬉しいのだとわかる。

「ミツさんは家に?」

 何気なく化野が聞くと、サナミはやはり嬉しげに、どこか誇らしげでもある顔でこう言った。

「今日から家で、着物の着付けとか、お裁縫を教えているんですよ。和装で過ごせる人や、自分で縫える人を、もっと増やした方がいいって」
「へぇ、着物を?」
「お前も、作ってもらったらいい」

 話の途中だと言うのに、ギンコがいきなり後ろから口を挟んだ。化野の横をするりと擦り抜けて、置かれている反物の一つにギンコは手を伸べる。何処にでもありそうな、無地の青。それを取って眺めて、これがいいと、そう言った。

「いや、俺は着物なんて着方も…」
「だからミツさんが教えているんだろ? 習えばいい。それに、すぐに体が思い出すさ」

 笑みの滲むような声に、一瞬、言葉が出なかった。何を思ってギンコがそう言ったか気付いたからだ。その着物の青も見覚えがある。夢の中の自分、つまりはギンコの知っている過去の自分が、いつも着ていた着物の色と似ているのだ。

「ならそれを、着物に仕立てて貰うか。あぁ、お前にはそっちのがいい、そこの生成りの色の」
「でも、先生、これは襦袢なんかにする薄手の生地ですよ」
「寝巻にするならいいだろう?」

 なるほどそれならいい、とセキはいい、さっそくその青と生成りの反物を横にわけて置いていた。化野やギンコも着ると言うし、男衆にはこれを機に和装に慣れて貰おうなどと、サナミと話が弾んでいる。

 誰かに合せて洋装に仕立ててしまえば、その服はそれで終わりだが、着物ならば解いて作り直すことも出来るし、サイズの合う合わないで困ることが少ない。限りのある生地を皆で使うのなら、絶対に和装だと意見が合っていた。

「ギンコ」
「…えっ。おい、な…」
「いいから」

 にこにこと見ていた筈の化野に、腕を掴まれ元の部屋へと引きずられ、襖を閉じた途端、ギンコは抱きすくめられる。逃げる所作が一呼吸分丸ごと遅れて、唇は塞がれていた。声も立てられない、すぐ隣の部屋に人がいるんじゃ。

 息さえ詰めなければならなくて、暴れるのも自身で封じた。気配が、伝わってしまうから。なんて、本当は、抗いたくなどないからだ。けして短くはない抱擁と口づけの後に、化野がギンコの耳朶に囁いた。

「お前が望んだ青い着物を着るから、お前も、白い寝間の着物を着てくれ」

 ギンコは潤んだような目を伏せて、息だけの声で問い返す。記憶の重なりが嬉しくて、胸がざわめく。今、二人きりじゃないのが悔しいぐらいに。

「……お前の為に?」
「嫌か?」
「わけ、ねぇだろ」

 もがいて、とうとう腕の中から逃げ出したギンコに、化野が笑って言った。

「冗談抜きで、そのうち蔵が欲しいぞ」

 ギンコは何故か少し、遠いような目をしたのだ。それを化野に見せないように、彼は項垂れて、海の見える縁側へと出ていく。

「…そうだな」

 あぁ…そうしたら、
 ますます近付く。
 過去へ、あの時間の中へ。





 




 

当サイト「LEAVES」の9周年です。2/26が。過ぎてますね。はぃぃぃぃ、知ってますっっっ。でもこの「記憶」は、その日スタートを目指していたんですけど、過ぎちゃいました。ごめんよ「我が家」。これからもよろしくね「我が家」。愛してるよ←

そしてこんな小さな、そしてこんなしつこい蟲師サイトに、足を運んで読んで下さる皆さまにへ、こころよりの感謝を込めまして。これからもどうぞよろしくお願いします。

本日2015/02/28は「LEAVES」の9年と二日目でございます。もう大台の十年も目前っ、走り抜けるぜっ。




15/02/28