箱  庭   … 9





「ねぇ先生、これ要るんじゃないかと思って持って来たんだけど。あんまり使ってないシーツと枕!」

 縁側に片手をついて首を伸ばしながら、セキが白い塊を差し出している。言葉どおりのシーツと枕なのだろうが、生憎化野は今、手が塞がっていた。一つ入った次の部屋、大工仕事で怪我したトクジの指を診ていたのだ。

「ええっと、うん、使うからそこ置いといてくれるかい?」

 顔だけ向けて化野はそう言ったが、言った傍からセキを引き止めた。左手首がもう一方と比べて何やら…

「待った。セキさん手をどうした。ひねったとかじゃ?」
「えぇ? いや、これは別に、昨日畑仕事を張り切り過ぎて、少し浮腫んでるだけですよー」
「これこれ、ここをどこだと思ってるんだ、医者の家だぞ。診るからそこ座って、庭でも眺めて待っててくれ!」

 セキはまだ二十と少しくらいの若い顔に、困ったような表情を浮かべてそれでも座って待っていた。若いが彼女には小さな子供がいて、きっと家で待っているのだ。

 化野は今はトクジの指の怪我を診ているが、その前は少し風邪気味だという子供を診ていた。さらにその前は、だいぶん前に膝を痛めて、まだたまに調子が変だという若者の足を。

「繁盛だねぇ、先生」
「いや、繁盛っていうか。今はとにかく小さいことでも診せてもらわんことには、島の人の名前と顔と古いカルテが一致しないもんでな、些細なと思えても診たいんだよ」
「仕事熱心だねぇ」

 一度は剥がれかけたトクジの爪は、もう殆どいいようだ。そう告げて送り出して、次はそこで待っていたセキの手首を診る。いつの間にか彼女の傍には女の子がくっ付いていた。家が近いから、ここまで迎えに来てしまったのだろう。

「お、セキさんの子か? 可愛いな、お名前は?」
「ゆきー!」
「夕暮れの夕に黄色って書いて、夕黄なんです」
「ほうほう、旦那さんは?」
「最初の日に、一緒に先生に挨拶した青五」

 セキは「赤」と書くのだと前に聞いた。すると赤に青に黄色で、信号機みたいだな、と化野は言い掛けて、言わないように口を閉じる。別に言ってもいいだろうが、もしかして知らないかと思ったからだ。名前に色のあるものは、この島で生まれこの島で育ち、本土に渡ったことが無い。
 
 結局セキの手首は軽い捻挫だ。湿布はないから同じ効果のある塗り薬を塗ってやって、ガーゼを貼って治療とする。手首の腫れが引いて痛まなくなるまで、無理はしないようにと告げて、化野はセキとその娘を縁側から見送った。

 まだ昼を過ぎたばかりだが、結局朝から四人を見て、昼飯をどうするか考えていなかった。貰った芋餅があるが、それでいいかな、などと頭を掻く。あ、そういえば魚の干物も貰ったのがある。随分と妙な取り合わせだが、空腹なのだし美味い。

「ギンコー」

 ちょっと声を大きくして呼ぶと、さらに一つ奥の部屋で気配が動く。ややあって、ギンコは大きな皿に食べ物を乗せて運んできた。割れたのを繋いだ跡のある皿。それに取っ手の取れたカップと、小さく欠けている湯のみに、それぞれ茶を入れてある。

 皿の上は芋餅と枝豆だったので、どうした、と聞くと、豆はついさっき、裏から里人が来てくれて行ったと言う。

「だいぶ覚えたか?」

 と、ギンコが聞いた。

「まぁ、結構な。これで二十二人診たはずだから、あと診ても居ないし、一度も会ってない人間は、五、六人くらいだろう。明日あたり、その家を探しながら往診でもするかな」

 島へ来てから、実はもう十日になる。最初の三、四日でこの家が住める家になり、必要そうなものは先を競うように皆が届けてくれ、まだまだ万全ではないものの、この家はもう医者の家であった。

 前の医者が書いたカルテも引き継いだ。なんとか使えそうな道具や、傷んでいない薬も受け取って整理した。あとは島民全員の体の「今」を確かめ、カルテと本人を一致させつつ、一人一人の話をちらりほらりと聞き始めたところである。

「それにしても熱心だな。そんなに急がないでも」
「何かあった時に、その人の事は知らない、で済むもんじゃないだろう。こういう小さな村では、やはり自分の家族を思うような気持ちで臨むのが………」

 唐突に化野の言葉が止まった。彼は頭に指を立てるようにして、軽く項垂れて目を閉じる。

「…あだしの…っ?」
「あぁ、いや、頭痛じゃないから、心配するなって」

 ただ、何かを思い出せそうな気がしたのだ。脳裏で揺らいだものは一体なんだったのだろう。転生する前の別の人生が、また垣間見えたということだろうが、なんとなく、そうじゃないような感じがして、彼は小さく身を震わせた。

「…もう、今日は仕事はするな。きっと疲れてるんだ」
「大丈夫だよ。別に具合が悪いとかじゃなくて」
 
 その時、家の垣根の外の小道を、小さな子供が二人走っていった。ひとりはついさっきここに来ていた夕黄、もうひとりは見たことが無かったから、思わず腰を浮かせて駆けて行く後姿を眺める。

「セイゴとセキの間の娘達だな。ひとつ違いで長女が夕黄、次女が紅実。紅の実と書いてクミだとか」
「なるほど。うまく色の文字を入れるもんだが、セキはまだ二十一、ニだろうに、二人も子供がいたんだなぁ」

 何気なくそう言うと、ギンコはちらと化野の顔を見た。

「…島じゃ人が少ないから。血が近いゆえの心配事がなければ、若い娘には沢山産んで貰いたいところだろうな」
「あぁ、なるほど。そう…かもしれん…」

 思いも寄らぬことを言葉にされて、化野は思わず子供らの姿から視線を離した。この島はあからさまに閉じた土地なのだ。新しく来るものは多くても数年に一度、女とは限らないし、女だとしても子供の産める年齢かどうかも分からない。

 待て。ということは、もちろん若くてこの島にやってきた男も、同じように貴重だということにならないか。つまり、この場合望ましいのは、ギンコも化野も、できればそれぞれ島の女と…。

「あと、お前の分だぜ?」
「えっ?」

 言われてみれば、餅も枝豆もきっかり半分残っている。それを頬張りながら、化野はたった今の思考を頭の奥深くに押し込んだ。だって同性だろうとなんだろうと、化野の伴侶はギンコなのだから、それはどうしようもないことなのだ。




 化野がこの十日で慣れたことの一つに、寝入る時間と起きる時間の変化がある。

 蝋燭かそれに準ずるものしか灯りが無いから、夜更かしをしようにも難しいし勿体無い。夜中まで何かをするくらいなら、空が白んだ途端に起きて動いた方が余程合理的だ。ランプにわざと薄暗く灯をともして、化野はギンコの名を呼んだ。

 そして彼が頷いて傍にくると、すぐに灯りを消してその手を掴み引き寄せる。胸を重ねて抱き合いながら、吐息に混ぜるように化野が呟いた。

「どうしてるだろうなぁ」
「…誰が?」
「いや、別に誰というんじゃないが、俺の居たあの場所で、俺がいなくなった後の皆は、どうしてるかと思ったんだ。理事長がまた誰か気に入りを見つけてきて、俺の消えた穴にそいつをすっぽり入れたかもな…」
「…だとしても」

 関係ないだろ、とギンコは言うのだと思った。それを聞いたら、そうだな、と言って笑って、キスをしてギンコを抱こうと思っていた。けれどもギンコは違うことを言ったのだ。…だとしても

「お前は随分優秀な医者だったから、その後につれてこられたヤツは、随分荷が重くて大変だろうぜ。それを思うと、結構、小気味いいけどな」
「…そ、そうか? 俺なんか、別に大した」
「それにさ。気付いてなかったみたいだけど、お前を好きになってる看護士とか、薬剤師とか、通院患者とか、かなり居たんたぜ? 俺はお前をいつも見てたから知ってるんだ」
「まさか」

 …でもお前はいつも、
 本当はそこにいない人間みたいに振舞ってて、
 そんなお前に、
 誰も恋を打ち明け打けられなかったんだよ。

 あそこにいたお前はまるで抜け殻。
 今、この島にいるお前こそが、
 きっと本当のお前の姿。
 
 俺の傍にいる、今のお前こそが…


「化野」
「あ、あぁ、うん、寝ようか」
「……好きだよ」
「えっ、あ…なんだ、いきなり」
 
 月明かりだけの薄闇でも、照れた顔をしているのが分かる。

「おやすみ」
 
 ちゅ、とキスをしてギンコは目を閉じた。化野はそんなギンコの髪に唇を埋めて、自分も同じ言葉を返そうとした。けれどもその言葉は何故かその時、声にはならない。どれほど同じ響きで言おうとも、ギンコがこちらへ注ぐ想いの深さには、きっといつまでも追いつけない、と化野は思っていたのだった。 

「…おやすみ、ギンコ」





12/07/2


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箱  庭   … 10


 その日も前の日に引き続き、まだ朝のうちから化野とギンコは連れ立って島の家々を巡っていた。既に顔見知りの家はただ声を掛ける程度、初めて会うものの家には、少し居座らせてもらって、先の医者の書いた日誌やカルテを手にして話を聞く。

「ほうほう、前に腰痛で見てもらったことがあるんだな。それ以外には風邪の処方が年に必ず数回か。お年にしては達者で何よりです」

 化野はにこにこと笑って、老いた男に話を聞き、聞いたことを自分の手帳に記す。この老人の名は潮次と言って、年は島の最高齢の69才。この島が人の住む場所として開かれた最初の数人の一人だと言う。

 そういう話はまた是非聞いてみなければと思うが、今日はまずカルテとの照合が目的だった。

「今度の先生もまた熱心で。ほんとにありがたいねぇ、こりゃあ頭が下がる」 

 そう言いながら、老人は化野とギンコに茶を進め、殆ど禿げ上がってしまっている頭を手のひらですりすりと撫でる。柔らかな深い笑みをして、彼は染むように言った。

「けどなぁ、先生、なんかあってもそう根を詰めちゃぁいかんよ。この島はヌシ様の守りがあるで、島のもの皆それへ添うてさえいれば、変わらず達者でいるんだし」
「…うんうん、そうだなぁ」

 なんとなく聞き流すように相槌を打って、化野は広げていたカルテを閉じた。出されたお茶に礼を言いながら腰を上げ、その家の縁側からも見える、遠くの一軒屋を眺めた。

「昨日も一昨日も留守だったんだが、今日はいるかなぁ、あそこの家の人は」
「あぁ、満津んところかい。多分いるんじゃないかねぇ、あんまし外へ出ておらんだろうし。ま、わしは正直、遠慮なぞせんと、診てもらやいいと思うんだがの」
「? 遠慮って」

 振り向いて聞き返したが、老人はそれへ答えずに、またにこりと笑う。

「さてな、とにかく色々話を聞いてくるといいよ、きのうもおっといも訪ねたんなら、今日はそろそろ顔ぉ出すんじゃないかと思うで、先生もそっちの人も若い男の人だでな」
 
 ますます意味が分からない。その家を出ながらギンコを振り向いたら、何故か、ふぃ、と視線を逸らされる。

「今の何だろうな、何となく意味深じゃなかったか?」
「さぁ…」

 視線を逸らしたまま、ギンコは煙草を燻らしていた。何を考えているんだか分からない顔だ。そんなことは自分で考えろ、とでも言われている気がする。そのミツさんとやらに会えば分かるだろうか。

 化野はカルテの束をぱらぱらと捲り、それらしい名前が見つからないので、もう一度最初から捲りなおして首を傾げる。

「掛かったことがないのかな。なんの記録もないが」
「行きゃわかる」
「そうだけど、さっきは医者に診てもらえばいいのに、みたいなことを言ってただろう。持病でもあるんじゃないのかと思うじゃないか」
「あぁ、そうだったかな」

 もうギンコは先へ歩き出していて、化野は慌ててその後を追った。訪ねる家はこの島の民家の一番端の家。なにやら他の家とは随分離れている。もしかして偏屈なのか、と妙な不安が湧いてきた。

 だがまさかその程度のことで引き返すわけにいかず、一本だけ続いている小道を歩いて近付けば、結構広そうな家の縁側に座って、ぼんやり庭を見ている女の姿が。

「あの、失礼だが、ミツさんだろうか」

 化野の声にその女は、はっ、と顔を上げて二人を見た。少し暗い感じはするものの、中々綺麗な女だった。昔ながらに着物を着て、古びた雰囲気の家や庭にしっくりと馴染んでいる。

「ミツは母です。私は娘のサナミ。茶色の波と書きます。新しく来て下さったお医者の先生ですね。ようこそ島へお越し下さいました」

 ミツさんと、娘さんのサナミさん。丁寧に頭を下げられて恐縮しながら、化野は心の中で二人の名前を手帳に刻む。サナミは化野とギンコを家に招き入れてくれ、島では珍しい紅茶を入れてくれた。そして、お茶菓子を持って出てきたのは、彼女の母のミツである。

 こちらも昔はさぞ綺麗だったろうと思える老女で、年は六十と少しと言ったところか。地味な色合いの着物のなりだったが、すっきりとした立ち居ぶるまいも達者そうだ。

「まぁ、よくぞ来てくれました、このような外れの家にまでわざわざ」

 普通に歓迎してくれて、化野は少なからずほっとする。二人の今の体調を聞き、持病の有無も確かめ、別に会話にはなんら問題はないのだが、途中からなにやら酷く居心地が悪くなってきた。

 それというのも、母親のミツの方が、ギンコや化野のことを、ずっと見ているのである。特に化野の一挙手一投足を、目に焼き付けるように、まじまじと。その上、ギンコが不意に席を外し、一人で外へ出て行ってしまったから、視線はさらに化野に集中してくる。

「ところで」

 切り出されたのは、その直後のことである。

「先生は、まだお独りで?」
「え? まぁ、この通り一人身…」

 するりと正直に答え、化野はその途端、ミツの眼差しの意味に気付いた。サナミは見たところ三十前くらいだろう。この家には母のミツと二人暮しで、夫も子供もいる様子がない。つまり…。つまりこの問い掛けは。

「あっ、お話も終わったので、今日のとこは失礼します…っ」

 化野は勢い良く立ち上がり、引き止めるミツを振り切って、急いで外へ出てきた。ギンコの姿が見当たらなくて、あちこち見回しながら速足でその家から遠ざかり、小高い丘の上まで来て、やっとギンコの姿を見つける。

「おっ、お、お前…なんで一人で出て行っ…」
「あのばぁさんの視線が来る比率を見てたら、もう狙いをお前に決めたようだったから」
「……な…っ。き、気付いてたら教えてくれてもっ」

 ギンコは肩をすくめて少し笑った。

「気付かねぇ方が鈍いんだよ。それに教えるったってどうすりゃいいんだ。あそこで『娘の再婚相手として狙われてるから、とっとと逃げようぜ』とでも言えって?」
「…さ、再婚っ? なんでそんなことまで分かるんだ?」

 やっとギンコは化野の方を見て、それから面白そうに軽く笑って見せる。

「分かんねぇか? 妻のいねぇ若い男を見ただけで、あんなにがっつくぐらいだぜ? そんな女の娘が、三十前まで黙って未婚でいられるとは思えんね。彼女、結構美人だったし、今まで一度も貰い手が見つからなかったってこともねぇだろ」
「あ、あー…」

 納得がいって、化野はぐったりとその場にしゃがみ込む。ギンコは浜から上がってくる風を浴びながら、咥えていた煙草を消して、ちゃんと携帯用の灰皿の中に吸殻を捨てていた。

 化野にはそこまで説明しなかったが、ギンコには実は、もっと詳しいところまでが読めていた。ミツは年齢から言っても恐らく、さっきの潮次老人と同じ、島の最古参の一人だろう。つまりそれはヌシ信仰が厚いという意味になる。

 ヌシのために、ひいては自身たち島民のために、島を栄えさせようとする気持ちは人一倍だろう。我が子がまだ若い娘なら、子供を沢山作らせて、その子らをちゃんと育てることで、島のために尽したいと願っているに決まっているのだ。

「…まぁ、仮にお前が」
「あ、あの…っ、すみません…」

 何かを言おうとしたギンコの言葉を遮るように、唐突に後ろから声を掛けられた。振り向くまでもなく声で分かる。ついさっきまで話をしていたサナミの声である。

「すみません、それを、み…っ、見せていたけだませんか?」

 はぁはぁ、と息を弾ませて、彼女はそう言ったのだ。視線は化野が抱えているカルテだった。





12/08/05


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箱  庭   … 11



 ギンコは黙って、少し先まで道を歩いた。化野は何やら言いたげにしたが、そのまま彼の隣にいて、聞きたくない話を耳にするのは嫌だったのだ。

 サナミはカルテが見たい、と言ったが、そんなのは口実だろう。自分の意思で来たか、母親にせっつかれて渋々来たのか知らないが、化野に言い寄るに決まってる。化野はさっきも、あの老女を相手にしどろもどろしていたし、基本的に女に冷たくするなんて、出来やしないんだろう。だったら尚更。

「タダハルさんは、私の夫だった人です」

「え」

 風に乗って聞こえてきたサナミの声に、ギンコは思わず振り向いた。化野も驚いたように彼女を見ている。タダハル、って誰のことだ? いや、どこかでその名を見た気がするのだ。字は「正しく治す」と書く。医者にぴったりの名だ、と、そう言って化野が笑って…。

 ギンコが振り向いた視線の先で、化野がカルテを抱えなおすのが見えた。彼女に渡して見せてやる素振りはない。一言二言、化野が彼女に何かを言い、二人は連れ立ってギンコのいる方へ近付いてきた。

「ギンコ、サナミさんにはちょっと家に来てもらうことにした。まだよく聞いていないが、どうやら少々ややこしい話のようだからな」
「あぁ。…俺は? 居ていいのか? それともちょっと出かけてようか?」

 声に拗ねたような響きが混じってしまった気がして、ギンコは自分の女々しさが嫌になった。彼女がここまで追いかけて来た理由は、化野への求婚じゃなさそうだと分かったのに、それでもこんなに声が捻くれる。

「居ていいよ。…いや違うな。居てくれ、俺の傍に」
「あ、あぁ、わかった」

 化野のその言い方。それ、二人きり以外のときに言っていいようないい方か? 呆れながらもギンコは肩の力を抜く。どこまで意識してか知らないが、やってくれる、と、そう思ってギンコは小さく笑った。



「まずは礼を言わせてくれ。こんなに細かくて見易くて、心の籠もったカルテを記しておいてくれて、随分助かってるんだよ。本人に言いたくとも、もう亡くなっているんじゃどうしようもないが、せめてご家族だった人に言えれば、少しは。…本当にありがとう」

 畳に手をついてまで頭を下げた化野を、必死になってサナミは止めた。か細い声が呟いている。

「あ、あの人は、人様にお礼を言っていただけるような人じゃ…」
「…何故?」

 化野が真っ直ぐにサナミを見た。彼女はきつく唇を噛んで、今にも泣いてしまいそうな顔をして、それでも泣かずに、こう言った。

「あの人は、わた…、島から、逃げたんです…」

 震える声で、それでもぽつぽつと語られる話から、ギンコにも化野にも、少しずつ事情が分かってくる。

 タダハルはとある事情で、この島に一人で来た医者だった。年はサナミより随分上だったが、それでも二人は気が合って一緒になった。若くて美人で働き者の妻を持って、医者の仕事もまずまず順調で、タダハルにもなんの不満もなかっただろう。

 でも数年経っても子供が出来なくて、それが二人の間に歪みを作ったのだという。サナミははっきりとは言わなかったが、言わなくても分かる。つまりは彼女の母の満津が黙っていなかったのだ。一緒になってから二年経ち、三年経ち、とうとう五年目になって、まるで当たり前のことにように、離縁の話になった。

 子供が出来ないんじゃしょうがない。まだ娘が若いうちに、ちゃんと子を授かれる相手のところに行かせる、と。

 勿論、タダハルがすぐに頷くはずも無い。満津は医者でも専門家でもないのに、子が出来ない理由をタダハルの方だと決め付けたのだって、実際おかしな話なのだ。

「きっと、タダハルさんが理由じゃないんです。私にしか言わなかったけど、だってあの人、本土には奥さんも子供も居たんです。だから、もしもどちらか子供が出来ない体質だというなら、私の、方が…」

 項垂れたサナミの目から、ぽたぽたと涙が零れ落ちていた。勿論、彼女はその話を母親にもしたのだ。でも聞いてはもらえなかった。子供をちゃんと産んだ自分の娘に、一度も子供が出来ないなんて、そんなこと、たとえ事実だって満津には到底受け入れられない。

「母は分かってくれませんでした。私を家に連れ帰って、二度とはタダハルさんには会わせないと言いました。結婚していようと、いまいと、とにかく島の誰かと、か、関係を持って、私に子供を作れと。勿論、そんな母の要求に簡単に頷く男の人なんて、この島にはいません。そうこうするうち、タダハルさんが一人で小舟を出して、島から、逃げ…」

 はぁ、と、大袈裟なくらいの溜息をついたのはギンコだった。まるで行儀の悪い子供のように、床に脚を投げ出して座って、彼はガリガリと白髪の頭を掻く。

「悪いけど、あんたの母親、正気じゃねぇなぁ」
「おい、ギンコ」

 化野は一応、咎めるような声で言ったが、同じ感想しか持てなかった。そして、ただただ、目の前の女が可哀想だった。細くしゃくりあげる背を、化野がそっと撫でてやる。それをチラリと見て、次もまたギンコが言った。

「俺は化野と比べりゃ優しくねぇから、ちっときついことも言うけどな。いいかい? それであんたはほんとに自分の夫が、仕事も妻も全部投げて、逃げ出したと思ってんのか?」
「…っ」
 
 項垂れている彼女の唇が、きつくきつく噛み締められて色を失くしていく。零していた涙さえ止めて、嗚咽も消して、彼女は何かに堪えているようだった。また、ギンコが口を開いた。

「あんた、ここでこうして話してることも全部、ヌシが聞いてるとか、思ってねぇか? 聞いてなんかねぇから、そんな切れるほど唇噛んだりすんの、まずやめな」

 サナミは顔を上げる。そしてまるで恐いものをでも見るように、ギンコを見た。

「あ、の…」
「割り込んですまんが、俺からもちょっといいか? サナミさん。気になっていたんだが、どうしてこのカルテの束が見たいんだ? サナミさんのカルテも、ミツさんのカルテも、タダハルさん自身のカルテも、この中にはないよ」
「…そ、う、ですか…」
「はっきりと書いてあるもんなら、知りたいと思ったんだろう? 自分が子供の出来ない体なのかどうか。自分の体にやっぱり原因があるんなら、島のどの男と、何回そういうことしたって、子宝なんか望めんからなぁ」

 言い当てられて堰が切れたのだろうか。止まっていたサナミの涙が、またぽろぽろと零れ出した。彼女は幼い子供のように泣きながら、上擦った声でこう聞いた。

「タダ…ハルさんは…っ、わ、私や母がっ、嫌で…島を出…っていっ…たんじゃ……」
「ないだろ、そりゃ」

 呆れて、少し笑ってしまいながら、ギンコはそう言った。化野も強く頷いていた。二人にはタダハルが、この島から小舟を出した理由にだって想像がついている。化野は思ったことを、サナミにすべて話したのだ。

 あんたの夫は医者だったから。だからな…。

「たぶん、本土へ渡って不妊に関する資料をここへ持ってきて、ミツさんに膝詰めで説明するか、それで駄目なら更に準備を整えて、サナミさんもミツさんも、一緒に本土へ連れていって、目の前で精密検査をしてでも、事実を…。サナミさんの体じゃあ誰と何をしても子供は出来ないことをわかってもらう。タダハルさんはそうしようとしたんだ。もうそうするしか、愛する妻を失わずに済む方法がなかったからだよ」

 子供が産めない女だって、ちっとも構わない。ただ、惚れた女と添い遂げたいだけの、強い想い。危険を伴っても、出来ることはすべてしたいと思ったのだ。

 化野の話を聞いて、サナミはそっと顔を覆った。覆ったままで何度も頷いた。信じたくて、信じたらヌシに背くようで、信じていない振りをしてあれからずっと、切なく辛い年月だった。心の奥で母を恨んで、それも隠し続けてきたのだ。

 化野がまた優しく彼女の背を撫でる。ギンコは黙って、そんな彼女の姿を眺めていた。

 島から勝手に出て行く。それは、絶対にしてはならないことだ。それでも、この女の夫はそうしたのだ。一人で小舟を出して、必ず戻ると誓いながら島を離れた。そして、二度とは戻らなかった。戻らない理由をギンコは知らない。もしかしたら、ヌシが、と心の片隅にただただ過ぎる。

 それが仮にヌシのしたことでも、それでもギンコは思う。ヌシはこの話を聞いてなんかいない。ヌシは…。蟲は、そんなものじゃない。そこまで万能ではないはずだ。それに、言葉まで縛るような、そんなことをするのは、人間だけなのだから。

「…あんたさ、そんなに子供、欲しいかい?」

 ぽつりとそう言ったギンコの言葉に、彼女はしっかりと首を横に振ったのだ。迷いはもう無かった。

「あの人との子供じゃないなら、いりません」
「…だろうね。それ、あのおっかない母さんに向かって、はっきり言えるかい? 無視されても泣かれても、殴り掛かられても、死んでやるとか言われても」
「…い、言います」

 あんた、いい女だね、とギンコは小声で言った。うん、と化野も言った。化野がそう言った途端に、ギンコは少し不満げな顔になったようだった。



 
 
続 


12/08/16


12話へ ↓




















箱  庭   … 12






 帰っていくサナミを縁側で見送り、その姿が視野に居なくなってから、化野はぽつりと言葉を発した。

「ギンコ」
「ん、なんだ?」

 何となく、名を呼ばれた響きに違和感を感じながら、ギンコは返事をする。

「お前さっき、何を言いかけた…?」

 さっきと言うのがいつのことなのか、言いかけたというのがどの言葉のことか、はっきり分かっていながらギンコは何も言わなかった。なんのことか分からない振りもしなかった。勿論、自分が化野に、言おうとしていた言葉も覚えている。あんなのは、ただの自虐だと。

「あんなこと、本当に言ったら怒るからな、俺は」
「……」

 無言のままでギンコは化野の顔を見る。言いかけただけで結局は言葉にしなかったことを、化野が分かっているとは思えなかったのだ。けれど、見据えるような強い目をして、化野はギンコに言い聞かせてきた。

「自惚れかも知れんが、お前が辛くなるようなことは、俺はしたくないんだ。例え人助けの為だろうがなんだろうが、俺はお前を一番に大事にしたいと思ってるよ。…知ってるだろ?」
「知ってるよ…」

 すまん、と、ギンコは口の中だけで小さく詫びた。化野のことを、ギンコはよく知っている。今、目の前にいるこの男のことだけじゃない、今までに何度も何度も、己の前に現れては消えて行った、沢山の『化野』の記憶がギンコの胸の奥にあるから。

 時には、見ていて泣きたくなるほどの無私。他人の為に心を砕き、身を投げ打つ姿も、何度も見てきた。そうやってヒトの為に自分を犠牲にしては、それを知って痛むギンコの姿を見て、化野はさらに己を責めて苦しむのだ。そんな化野を知っていて、あの時、ギンコはこう言いかけていた。

『仮にお前が、あのヒトを助けたいと思うんだったら、
 俺は反対しねぇよ。止める権利はねぇしな…』

 もしも可哀想に思うなら、抱いてでもなんでもしてやればいい。彼女とお前との間に子供が出来たとしても、お前が選ぶのは俺だから。それだけは残酷なくらい分かり切っているから。自分の妻と子を捨てることになったって、一度こうして俺に繋がれたお前は、死んじまうまで俺だけのものだ。

 そうだよ、これは自虐なんかじゃない。ただの我欲だ。化野がどれだけ自分のものか、どれほど強く想ってくれているのか、確かめたかっただけのこと。その為だけに、あの可哀想な女の過去と現在を材料にしようとしたのだ。

 本当に化野がそんなことをしたら、きっと息ができくなるほど苦しむ癖に。ただでも不幸なあの女の事を、きっと本気で恨むだろうに。なのにそんなことを思った。醜いよ、俺は…。

 ギンコは唇を噛んで、唐突に立ちあがった。いつでも化野の傍に居たいはずなのに、時々無性に逃げたくなる。黙って化野の横を擦り抜けようとしたが、手首を取られて引き留められた。

「どこに行く?」
「ど…。別に、そこらをぶらっと…」
「そんな顔をしてか? 行かせられんな」

 化野はギンコの腕を取ったままで自分も立ち上がり、奥の部屋へと進みながら呟いた。

「こういう時は、蔵もあったらよかったと思う。それか離れとか。それだったら母屋に急に人が来ても、慌てないで済むんだが」
「何言ってるんだ」
「何って。分かってて聞いてるだろう、お前」

 化野は何やら少し意味深に笑って、そう言った。見つめ返すと、その笑みが少し歪んだ。



 襖をぴったりと閉め切って、化野はギンコの肌を求めた。ギンコは嫌がらなかった。まだ昼を回って少しの時間で、こんなことをするには明る過ぎたが、化野はどうしても今、ギンコの事が欲しかったのだ。

「好きだ、ギンコ…」

 好きだというこの感情が、ギンコのいうそれとは少し違っていたとしても、心からの想いだということには変わりがない。どれだけ追いかけても追いかけても、ギンコはそれ以上の想いで自分のことを思ってくれて、あまりにも大きなその想いのせいで、時々常軌を逸している。

 まるで、この世に俺とお前以外、感情のあるものが誰もいないかのように、無神経で、残酷で。それでも…

「好きだよ。お前だけだ…。だから」

 俺を試して、お前自身が傷つくようなことは、あまりしないでくれ。

「あ、ぁ、あだし…の」

 求める意味で化野が触れると、いつも、ギンコの空気が変わる。ギンコは化野以外の何もかもを忘れてしまったように、すべてを彼に傾け、自分に触れてくる指を、聞こえてくる息遣いを、鼓動を感じ、うっとりと酔う。時折思い出したように薄目を開け、窺うように視線をくれるのは、多分、化野を気遣ってのことなのだろう。

「…別にどこも苦しくないし、頭痛もしないよ」

 そっと言ってやれば、安堵したようにまた眉根を寄せて快楽を手繰り寄せる。シャツを胸の上までまくり上げて、あらわにさせたギンコの肌に、化野はゆっくりと唇を這わせるのだ。ほんの数センチ唇が滑っただけで、切なげに背を反らし、身を捩じらせてギンコは喘いでいる。

 指先で脇腹を辿り、びくりと跳ね上がる腰を抱きながら、化野はギンコの衣服を剥ぐ。一糸纏わぬ姿にさせ、素肌のどこにでも口づけを落としながら、化野は呟いた。

「…お前が女だったらな、子が出来るまで昼夜問わず犯ってるかもしれんぞ」
「なに、馬鹿なこと…」
「馬鹿でも、本当にそう思うんだ。なぁ、お前、子供は嫌いか? もしも俺の子がずっと傍にいたら、お前は淋しくならずに済むのかな…」
「……」

 愛撫されながら、ギンコは少し乱暴に化野の髪を掴んだ。俺に自分の子を残して、それで安心して自分は死んでいこうというのか? そんなことを、考えるのはやめてくれ。そんなことを、心のどこかで思う。

 化野はギンコに髪を掴まれたが、その指の力はすぐに抜けた。愛撫を止めさせようとする仕草じゃないように思えたから、化野は彼に触れるのをやめない。そこをやんわりと口に含んで吸って、ギンコが喉の奥で細く叫ぶのを聞きながら、段々と強く追い詰める。

 愛しい体を抱きながら、胸の奥の底の方で、心が微かに捩れていくのを感じた。捩れて、そして化野は、おかしなことを考える。

 例えば、もし、そういうことがあって、サナミと俺との間に子供が生まれたら、その子供は俺に似ているだろうか。育つごとますます俺の姿に似るだろうか。俺がこの世にいられなくなったあとも、ギンコはここに居続けるのなら、その子供はギンコの慰めになりはしないか。

 でも、サナミは自分の夫の子以外、欲しくないと言ってたじゃないか。俺もなんだか、考えてることがおかしいよ。不死の恋人を持つのは、ほんとうに…難しい。どうしたらお前に、少しでも沢山の幸せをやれるだろう。出来もしないことしか考えつけないで。

「………はは、馬鹿なことだ。本当に…」

 化野の腕に包まれたまま、ギンコはぼんやりとその呟きを聞いていた。化野が、いったい何を馬鹿だと言っているのか、よく分からなかったが、それでも自分のためを想ってくれているのが、酷くあざやかに分かった。

「なら、そんな馬鹿なこと、考えなくていいよ。お前がいてくれるだけで、俺には十分なんだから。それ以上なんて、ないんだから」
「…そうか。あぁ、そうだよなぁ」

 でも、俺はお前を残して死ぬんだ。こんなに俺を想っているお前を残して、いつかはこの世から消えるんだよ。

 まだ夕にもならない時間なのに、そのまま二人は少しだけまどろんだ。互いに何も身に着けていず、触れている肌の温みが愛しくて、何も言わずにじっと身を絡めていた。それはほんの一時間程度のことで、幸いにしてその間は、誰も化野の家を訪れるものはなかった。

 ゆっくり、ゆっくりと、時の流れが現実の中に戻ってくる。ほのかな狂気と迷いの波に踏み込んだ魂から、その波がゆっくりと退いていく。現実を取り戻し、空腹を思い出して、化野は言った。

「……なぁ? 夕飯、どうしようか、ギンコ」
「ん、貰ってきたもんがなんかあったろ。あれでいいんじゃないのか?」
「そうするか。男所帯はこれだからなぁ。なんか料理することもぼちぼち覚えないと、医者が栄養不足で体調を崩したりしたら笑われる」

 ギンコはだるそうに身を起こして小さく笑い、化野に脱がされた服へと手を伸べた。下着を履き、ズボンに足を通しながら、明後日の方を向いて彼は言う。

「なら、今日は俺が作ってやろうか? 俺のは外で一人分煮炊きしてた名残りだから、かなり大雑把だが、それでいいなら」
「え? 作ってくれるのか? ギンコが? そんなの贅沢なんか言わんよ」
 
 化野は嬉しそうに飛び起きてそう言ったが、結局その夜、二人には夕飯を食べる余裕などなかった。ギンコが有り合わせのもので、何か作り始めた直後、訪ねてきたものがあったのである。

「先生、…化野先生。飯時にすまんがねぇ。ちょっと、この人を中に入れてやってはくれんだろうかね」

 聞こえてきた声は、昼にあった潮次の声のようだった。庭へと向いた障子を開けると、そこにはやはり潮次と、彼に寄り添われたサナミがいたのである。サナミの頬は赤く腫れて、彼女は濡れた布で、それを冷やしているようだった。







12/08/28