箱 庭 … 13
手のひらが痛かった。もう随分と年老いて、皺の深く刻まれた私の手。酷いというのはずっと分かってたんだよ。何年も前からずっとずっと分かっていた。我が子にあんな思いをさせて、鬼のような仕打ちをしてきたのに、あの子はずっと傍にいてくれた。
本当は、我が子なんかじゃ、ないっていうに。血の繋がりさえ直接は無いのに。それを知らずに母として慕い、あんなにも酷い、辛い思いをさせられてさえ、お前、今までよく傍にいてくれたねぇ。
サナミ。その名前はお前の本当の母親がつけたんだよ。あれは本当に奥ゆかしい優しい子だったから、私の夫の名から「波」の一字をちゃんと取って、私と私の夫に、お前をくれると言ってくれたんだ。昨日の事のように、あの日のことを覚えているよ。
あの日、私は死んだ夫にお前のことを見せたくて、彼岸に一番近く思える場所にお前を連れて行った。そうしてそこにお前を置いたら、私が初めてこの島にきて、あそこへ行った時と同じように、美しい花が一面に咲いた。私の時は赤い花だったけど、お前の時は淡い淡い淋しいような薄紫の花だった。私はその花を一輪摘んで、お前の髪に挿して、そこであの人に話しかけたんだ。
ほら、ねぇ、波壱さん、綺麗でしょう。
あの日、私の髪に挿した花は、
あなたに見て貰う前に枯れてしまったけど、
この子の花は見えるでしょう。
そこを立ち去るときには、花は結局、萎れてすっかり枯れたっけねぇ。
心から大切に大切にお前を育ててきたはずなのに、どうして私はこんなにも心が捻じれてしまったんだろう。身勝手なのも酷いのも、すべて自分と分かっていながらお前を叩いて、今回ばかりは見捨てられてしまうけれど、それで私を捨てたあの子が自由になるんなら、それでよかったのかもしれないよ。
それでも、心の中でだけは、お前を我が子と思っていいかい?
「言ったのか」
最初にそう尋ねたのはギンコだった。化野は井戸に冷えた水を汲みに行き、やがては戻ってきて、サナミの腫れた頬を冷やすための新しい布を彼女に差し出す。彼女の声は震えていて、後悔していると分かった。
「…言いました」
「なんて?」
「私に子供が授からないのは、きっと私の体のせいで、他の人との間にだって出来っこない。それに、もしもそうじゃなくても正治さんの子供以外、産む気はない…って」
不謹慎にもギンコは、ひゅ、と口笛を軽く吹いて、上出来だ、頑張ったな、と笑って言った。だけれどサナミは辛そうな顔をして、すっかり萎れて項垂れている。小さな声が消えそうになりながら続いた。
「私…言ったんです。お母さんだって、父さん以外の人との間の子供なんて、欲しくないでしょう、って。お父さんのことが好きだったから、私を産んだんでしょう…って…」
でも、と、サナミは言葉を詰まらせた。その後は声になどならないで、ただただしゃくりあげるような嗚咽が響いた。彼女の細い背中を、潮次がそっと撫でて宥める。何度も何度も、穏やかに静かに、ゆっくりと撫でて…。
「もういいから、その頬っぺた冷やしながら、そっちで休ませて貰え。今はあんまりいろいろ考えんでいいから、なぁ、サナミ」
サナミはじっと潮次の顔を見て、また大粒の涙を零しながら頷いた。化野に案内されて隣室へ行き、新たに敷いた布団に横になっている気配。その気配を聞いてから、潮次は禿げ上がった頭を、力の抜けたように深く下へ向ける。なんだかまるで、他人事では無いような空気だ。暫し黙ったあと、老人は言った。隣室のサナミにだけは、聞かれないようにと、随分擦れた声。
「わしは言ってしもうたが、教えるにしても時期を誤ってしまったのよ。今言うべきじゃぁなかったんだ。庇いたかったんで、つい明かしてしまったがのぉ。あの子は…サナミは、わしと、わしの死んだ妻の子だ」
「……」
ギンコも化野も、言葉がなかった。随分親身な、とは何処かで感じていたが、まさかそんな事とは思わない。潮次は言うのだ。サナミと同じく、ミツにもずっと子が出来なかったのだと。ミツの実の妹で、自分の妻のシヅにばかり三人もの子が出来て、ある日ミツは潮次を人のいない浜に呼び出して言ったのだという。
どうしても身籠りたい。
この島で、あの人の子供として育てる子が欲しい。
だから一度でいいから、どうか、私と…。
その時のことを思い出したように、潮次は膝の上の両手をぎゅっ、と握っていた。悔やんでいるような、どこか懐かしんでいるような、不思議な顔だとギンコは思っていた。
請われるまでもなく、とうとうと潮次は言った。
ミツの旦那の波壱はわしの兄でなぁ。だから、ミツとわしとの間になら、きっと兄にもちゃんと似た子が出来るだろう。そこまで言うミツの想いが少し怖かったが、ずっと悩んでいたのも分かってたから、わしは妻にちゃんと相談して、ただし妻にまで話したことはミツには言わずに、一度だけ関係を持ったのよ。
だけどそれでも子供は出来んかった。一度きりと約束しとったに、ミツはもう一度、と言うてきた。何度も呼び出されて断っているうちに、波壱が病になって、ひと月ほどであっさり死んだ。皮肉なもんでな、その頃、わしの妻のシヅには四人目の子供が出来とった。
やがて生まれた子は女で、生後すぐというに妙にミツに似て見えた。生きる望みを失ったようになって、細々とただ生きとるだけのミツに、この子を育ててもらうがよかろうと、夫婦どちらからともなく決めたんだよ。
女ってのは、みぃんな、そんなに子供が欲しいもんなのか? それともミツが特別なのか? 別にこの島のヌシが、どうしても産めと言うたわけじゃないだろうに。ミツやサナミに子が出来んでも、その分、出来る家には出来とるんだから、それで島が栄えりゃ構わないのとは違うのかい。
だからわしは前々からミツにも言っとったし、サナミにもそうさせろとすすめてたんだ。医者にちゃぁんと見てもろうて、答えを聞いたらそれでもう分かれと。子が出来ない体だと知って、島に尽くすんなら別の形でいいだろと。
「あぁ、それか…」
化野がぽつりと呟いた。潮次老人と話した時、言っていた言葉にやっと納得がいった。遠慮などせず、診てもらやいいと言うのは、そういう意味だったのだ。だが、正直、機材も何もないこの島で、触診や何かでそれと決めつけるは無理なことだったが。
溜息を一つついて、熱い茶でも出そうと思って台所へ行ったら、いつの間にか席を外していたギンコが、先に湯を沸かしていた。横になっているサナミを除いて、三人分の茶を入れながら、化野が重たい口調で言った。
「どうしたもんかな…」
「どうって。それはサナミとあのばあさんと、それから実の父親のじいさんとが決めるだろ。病や怪我じゃないんなら、お前の出る幕じゃねぇよ」
「え? で、でもわざわざここに来たってことは、俺に何かして欲しいことがあるからで…」
「そりゃ、あのじいさんが、機材なしでも不妊症が証明できると思ってるからだ。出来ないもんはしょうがない」
「しかしな、頼られたからには俺も何か…」
ギンコはそんな化野の悩める横顔を、じっと眺めた。一人残されるギンコの為に、サナミとの間に子を作ったらどうか、なんて、そんなことを考えていた男とも思えなかった。結局はこんなにも、優しい男なのだ。自身の都合で人を利用するなんて向いてない。
「そういや、さっき聞いといたが、サナミはあの家に戻ると言ってたぜ。自分もいろいろ気が動転してたし、実の娘じゃないとかそういうのもショックだったが、それだって身内には違いないし、何よりここまで育ててくれたんだから、自分の母親はミツだけなんだ、だとさ」
「…て、手回しがいいな……」
「いい助手だ、と言ってくれ」
入れたばかりの茶を口にして、熱そうに顔をしかめてから、化野はギンコの言葉に頷いていた。
明け方、やっと空が白み始めたばかりだというのに、サナミはきちんと身繕いして化野とギンコと潮次に頭を下げた。ギンコと化野はそこらにごろ寝したようだったが、潮次老人だけが一睡もしていないような顔をして、酷く心配そうにサナミを見る。
「ご迷惑お掛けしました。私、家に帰ります」
「やっぱり帰るのか? 嫌でなければわしのところに暫く居て貰っても…」
妻には死なれ、子や孫とは同居していない老人は、この一晩で末の我が子と共に暮らす夢でもみたのかもしれない。まだ打たれた頬は少し赤かったが、サナミは毅然と顔を上げている。女は強い、と、化野は思っていた。
「だって、やっぱり母を一人にはできませんから。ちゃんと落ち着いて話せるかどうか、私、もう一度やってみたいんです」
「そうか。手伝えることがあったら、何でもわしに相談するんだぞ。何しろわしはお前の…」
「ええ、わかってます、潮次叔父様。何かあったら、今度は母と一緒に、叔父様を頼ります」
実の父だから、と言いかけた言葉は、サナミの声に遮られた。サナミは背筋を伸ばして家に戻り、心配でこっそりついて行った化野は、その家の玄関から漏れ聞こえるミツの泣き声を聞いた。詫びる声と、礼を言う声と、それ以外は言葉になってもいない、どこか子供のような声だった。
「お母さん」
と、サナミは言う。その声は随分とはっきり外に聞こえた。もしかしたら化野がそこにいるのを分かっていたのかもしれない。
「あのお医者様に今度、一緒にちゃんと診察してもらいましょう。そして二人で元気で長生きして、子だくさん過ぎて大変なおうちがもしあったら、その人のことお手伝いしましょうよ。そうすれば、ヌシ様はきっと喜んで下さるから」
自分で産めないなら、人の産んだ子を自分の子のように大切にすればいい、ミツが自分にそうしてくれたように。
ミツの声は外までは聞こえなかったが、頷いているのが見えるようだ、と化野は思うのだ。してサナミの言っていた「診察」で、新たな事実が分かることになるのだが、それはまだ数日先の話であった。
続
もっとミツを悪者にするはずだったんですが、なんでかこんなことに!
約束が違う! 展開どうしてくれる!つか、波壱さんの設定が無い。どんな人なんだろう。島を開いた人って。しかし今後も影が薄いかもですー。
12/09/09
14話へ ↓
箱 庭 … 14
その日から半月も経った頃だろうか。夕刻前、ミツとサナミが連れ立って化野の家を訪れた。
あの日に化野が外で漏れ聞いたように、診察をして欲しい、と言うのである。どこが悪いから、というのではなく、隠れた病がないかどうか、良くない兆しなどもありはしないかと。つまりは健康診断、ということだ。化野はにこにこと愛想よく応じ、二人を奥まで上がらせた。
女の身ゆえ、縁側すぐの部屋から一つ奥へと案内すれば、ギンコは既に立ち上がっている。診るんなら出ていようか、と、そう言って、ギンコは燃えさしの蟲煙草を手にしたまま、縁側の方へと身を移した。
変わったことはないか、どこか痛いとかだるいとか、気になるところなどないかと、温かな声で化野が聞き、女たちが考えながら返事をする。漏れ聞こえてくる二人の声も穏やかで、ミツなどは何やら別の女のような印象を与えるほどだ。それこそ、憑きものが落ちたような、と言えばしっくりくるだろうか。暫しあと、三人とギンコの間に、閉じていた襖と障子とが開く。
「今、ここで俺の分かる範囲では、お二人とも何も問題は無いですよ。ミツさんも達者そのものだ。こんなにお元気な体なら、達者、などと言う言葉を使うのも合わないかな。いや、お若い」
世辞も少しは含まれているのだろうか。老いても十分に美しいミツは、そう言われて満更でもなさそうな様子だ。化野もギンコも内心で、女だなぁ、と思ったが、母の嬉しそうな様子を見てサナミは安心した顔でいる。そして、診察の支払いなどは化野に断られ、気兼ねしつつ帰ろうとしている二人を、何でもないような言い方でギンコは引き止めた。
「蟲の障り、とか、そういうのは特に見なくていいか。何もないとは思うが」
この里の人間は、皆「蟲」の存在を分かっている。見えるものと見えないものがいるが、それでも知らぬものはない。診られるだけのことを見て貰おうと決めて来ているらしく、サナミはこだわりなく頷く。ギンコはその時になって、やっと煙草の火を消し、黙って座敷の中へ上がって言った。
「蟲師が蟲の気配を見るのは、医者のする診察とは違いますから、そう硬くならずともいいですよ。ちょっと失礼、じゃあ…サナミさんから、少し」
そう言って、来ている着物の上から、さらりさらりと体に触れる。触れているかどうか分からないくらい簡単に、胸を、そして背中を、最後に手を取って。どこか緊張したような顔のミツにも、サナミにしたのと同じように。ギンコは顔を上げず、やや下を向いたままで殆ど無言。少し離れて見ている化野にだけは、ギンコの表情が見えていた。
「何もなくて、何よりだったな」
化野がそう言ったのは、二人が帰って行って、その後ろ姿も見えなくなってからのこと。窺うようにギンコの顔を覗き見れば、ギンコは化野の方へ顔を向けて、淡々と言った。
「……ないわけじゃねぇ」
言ってどうにかなることじゃないから、黙っていただけだ。二人は確かに、蟲に憑かれている、と。
「二人がこの部屋に入った時、俺が吸っていた蟲煙草の煙がまだ残っていた。そうじゃなきゃ気付かなかったかもしれんが、ざわめいたんだよ。あの二人の体の奥底に、深く浸透している蟲の気配が、確かにな」
「…よくない状態なのか? 払うことは?」
「気配が消えかけるほど同化している。到底無理だろう。それに…今更、かもしれん」
そこまで言って、唐突にギンコは腰を上げた。出掛けようとする背中に問えば、白也のところへ行くのだという。家を不在にする旨、慌てて紙に走り書きして、化野もその姿を追いかける。
「説明してくれ」
「まだ、想像の域を出ない。が、恐らくはそうだろう。ミツとサナミに子が出来ねぇのは、ヌシのせいかもしれないんだ」
「そ、そんなことが、ある…のか?」
息を切らしながら問うた言葉に、ギンコは返事をしなかった。家にいた白也は、ギンコの申し出に頷いて、古びた箱を取り出してきた。いずれはそう言われる気がしていたのだという。
「これが、島を開いてから、あなた方が来るまでの記録です」
「記録?」
「代々の神官に伝わってきたものですよ。一番古い記録は、この島を見つけて移り住んだ初代の『波壱』から…。私で三代目になりますから、そう多くはありません。島人とヌシとの間に起った常とは違う事柄を、神官が見聞きしたもの、すべてが書きとめられてあります」
箱を受け取る前にギンコは尋ねた。
「…誰にでも見せるもんじゃねぇだろう。いいのか?」
「確かにそうですが、島人を守るお医者様にだけは、申し出があった場合にのみ見せていいことになっているんです」
「化野は医者だが、俺は違うぜ?」
言えば、白也はにこりと笑う。
「貴方の存在は、神官の私に準ずる。もしも俺に何かがあれば、次の神官は多分ギンコさんでしょう。勿論これは、俺が今そう思っていることで、決まったわけではありませんが」
それへは頷きもせず否定もせず、ギンコは箱へと手を伸ばした。中に入っているのは、先月までの記録で、化野やギンコがここへきてからのものはない、故意に外したのだろうと、ギンコには分かっていた。恩に着るよ、心の中だけで呟いて、ギンコはその記録の、古い方からページを捲り始める。
そこには、ミツのことが書いてあった。ミツが夫の波壱に告げたこと。そして彼女が赤ん坊だったサナミを、一人でここに連れてきたことも。その頃も今も、神官の住まう家は、ヌシの居場所へ向かう通り道にある。ミツは気付かなかっただろうが、彼女の行動は、その時の神官に一部始終見られていたのだ。
でも、それだからこそ、今、その時何が起こったか。ヌシとミツ、ヌシとサナミとのことが分かる。ミツは二度、ヌシの花を摘んだ。自分の為に、そしてサナミの為に髪に挿して、そしてその花は、そこを離れた途端に色褪せて枯れたのだという。手書きで記されたその中に、花を摘んだものの記録は他にはひとつも無かった。
「何か、わかったのか? ギンコ」
「…俺はヌシじゃあねぇからな」
ぽつり、と、ギンコは言った。そして彼は白也の顔を真っ直ぐに見た。
「聞くが。あんたの前で今まで、ヌシの花を摘もうとした人間はいたかい?」
「…えぇ、一人くらいは」
「それをあんたは止めたんだろう」
「えぇ…。これはその中にも書かれていないことですが、前の神官から、言葉で伝えられたんです。花を摘んだものが女なら、命を生み出すことを、生涯封じられる、と」
化野は息を飲んだ。ミツとサナミに子が出来ない理由は、ここにあったのだ。しかも、神官になったものはそれを知っていた。波壱も知っていたのだろうか。それは今となっては誰にも分からないが、もしも知っていたなら、彼はそれを妻のミツには言えないでいたことになる。
「…待て。それならどうしてそのことを皆に知らせないんだ。少なくとも、俺は一度も聞いてないぞ」
「それは…ヌシ様の元へいくときは、常に神官の俺が連れて行くことになっていますから、俺が気を付けてさえいれば」
「それだって、もしも…っ!」
「贄、か…?」
ギンコの言葉に、化野も、そして白也も、ぎくりと肌を強張らせた。
「ヌシの居場所へいくのなら、常に神官のあんたを通して。それを守れずに隠れて赴き、神聖なはずのヌシの花を摘むような島人が居れば、そいつは贄となっても文句は言えねぇ」
白也はそれを否定しなかった。唇を噛んで項垂れ、白い顔色をして暫し黙ったあと、ぽつり、ぽつりと話し出した。
「ヌシ様の花は、そう簡単に摘み取れるものではありません。摘もうとして掴んだだけで消えてしまうからです。それが普通の花のように、容易に摘み取れるのは、数十年に一度の筈。その時は、ヌシ様が相手をお選びになると言います。呼び寄せ、花を摘もうという気にさせ、そして摘ませるのだと」
「………」
ギンコは黙っていた。彼が化野の方を向くと、化野は膝の上で両手を強くこぶしにして、それをぶるぶると震わせていた。
「…帰ろう、化野。この島はこれまでそうやって続いてきたんだ。ミツは、あれほどヌシに尽くしたがっていただろう? 知らないまま、彼女は誰よりもヌシに尽くしてたんだよ。自分の体と、我が子のように愛するものの体を捧げていたんだから」
化野が見た時、白也の顔色は真っ青だった。彼はまだ若くて、神官になってからもほんの数年。子の出来ないミツがずっと苦しんできたことも、もしかしたらサナミが辛い経験をしたことも、知らなかったのかもしれない。書き綴られていたのは、ミツが花を摘んで、一度は自分の髪に、二度目はサナミの髪にそれを挿して枯らせたということだけなのだ。
「頼みがある…」
その家を出る時、化野は白也を振り向いた。
「これから先、誰かがヌシの花を摘んだら、どうかそれを俺に知らせてくれ。その人がもしも悩んでいたら、医者の俺からそれとなくその人に言うよ。あんたには多分、子供は出来ない。どうやらそういう体らしい、とな」
「…必ず」
白也はそう言って、それを固く約束した。その帰り道、黙り込んでいた化野が、小さな声で呟くのだ。
「ヌシ、ってのは、それほど偉いのか」
「…さぁな。ただ、この島の海は、本当なら漁にはとことん向いてねぇらしいぜ。餌になるものは少ねぇし、海流の関係で、大きな魚の群は随分遠くを通り過ぎる。土壌も痩せてて、作物なんかそうは採れるはずがねぇんだと。それなのに魚は食っていけるだけ獲れ、作物も毎年ちゃんと実るんだそうだ。それが、ヌシの御加護、なんじゃねえのかと」
「…そんなものは」
「ヒトはどうだ? 化野。土や海を汚すようなものを四六時中ばら撒き、食うより多いものを常に獲り、要らなければ容赦なく捨てるだろう。その上、自然に還らねえようなもんを、俺ら人間は、どれだけ作り出してきたんだろうな」
それで、いったい何を返した? 何を守ってやった?
この島のヌシを酷いと責めるより先に、それを我が身に問うてみろ。
化野は足を止めて、空を仰いで目を閉じた。痛みを堪えるように、きつくきつく閉じたの瞼の裏に、サナミの涙が見えるのだろうか。ミツの痛みを感じるのだろうか。結果的にこの島を追われた、サナミの夫のことをまで。
「お前は厳しいなぁ、ギンコ…」
「そうか? お前が人に優し過ぎるのさ」
お前、人の分を嘆いてる場合じゃ、ねえのにな。心の中に秘めるように、ギンコは思っていた。この島へきてから、そろそろひと月を迎える。静かに眇めたギンコの視線の先では、寄り始めた様々な蟲が、音もなくさざめいているのだった。
続
12/09/23
15話へ ↓
箱 庭 … 15
「でも、俺は医者だからな」
真っ直ぐに前を向いて、化野はそう言った。
「ヒトがどれほど罪深くとも、ヒトを診るよ。それが俺の出来ることなんだよ、ギンコ」
そう言ってギンコを見た眼差しは、まるで許しをでも請うような。ギンコは穏やかに笑うと、視線を軽く下へ向けて言ってやる。
「別に、診るな、なんて言ってねぇよ」
ヒトは確かに自分勝手であり過ぎたが、だからといって、生きるなとは神でも言うまい。生物は皆、生まれたからには生きようとする。そしてそれを助けるのが、医者であり、そしてまた生きるものであるのだから。
うん、と一つ、化野は頷いて、何を思ったか唐突に道を脇へ逸れた。畑と畑の間を縫うように、細く続く道を、危なっかしい足取りで駆けてゆき、その向こうで鍬をふるっている里人の方へ近付いていく。とんとん、と腰を叩いている男や、脇に座って一休みしている女。それへ茶を差し出している娘がいる。
「腰が痛むのか? 前々からか?」
そう、化野が言うのが、風に乗って切れ切れに聞こえた。里人は笑顔で何やら答え、彼にも茶が振る舞われているようだった。化野はきっと、こんなことを言っているのだろう。
精が出るのはいいことだが、無理はいかんぞ。
腰でもどこでも、何か調子の悪いことがあったら、
俺のとこへ診せにきてくれ。
しんどい時は誰かを寄越してくれれば、
ちゃんとこちらから出向くから、遠慮は無しだ。
まるで、何年も前から、この島の医者であるかのように。
もう日は落ちて、島には段々と闇が染みていく。家々を一つずつ歩く漁師がいた。獲れた魚を夕餉前に、それぞへとわけて歩いているらしく、化野はそれへも声を掛ける。子供を連れて家へ帰ってゆく母親とその子にも。庭先で洗濯物を取り込んでいる女にも。そうしてギンコのところへは、中々帰ってこない。
困ったものだと笑いながら、ギンコは先に家へと戻る。灯りをともして、彼は戻ってきた化野を迎えるのだ。おかえり、などと、中々慣れなくて言えないが、ただいま、という化野の声を聞くために。
翌朝、雨戸をあけると、目の前を見慣れない蟲が横切った。季節が徐々に移り変わるごと、それまで見なかった蟲が目立つようになることもある。同じ蟲だが成長して姿の変わることだってあるけれど、それでもギンコは、少し困ったような顔をして、その蟲が漂っていく先を見た。
庭の垣根のあたりに潜む蟲。庭石と庭石の間を、するすると這う別の蟲。枝先に枯れかかった葉のように見える、あれも蟲だ。見慣れたものの間に、ここでは初めて見た蟲が、ひとつ、ふたつ。
開けた雨戸に手を触れて、じっとそこに立っているギンコに、いつしか起き出して布団をしまい終えた化野が声を掛ける。
「拗ねてるのか? 昨日はすっかりお前を忘れて帰りが遅れたから」
「…馬鹿か、なんでだよ」
「でもなぁ、俺は俺のできることを、この島で」
「あぁ、分かってる。お前がいい医者で、俺は嬉しいよ」
やっぱり拗ねているんじゃないのか? と、いぶかるように首を傾げて、部屋の中に戻ってきたギンコの腕を取る。
「島の皆の体の事も心配だが、俺はお前の体のことも気になってるよ」
「…? 俺の? どういう」
「ここ、だ」
着ているシャツの上から、腹の傷の上をやんわりとなぞられて、ギンコの腰が思わず引ける。そういう意味じゃないとわかっていても、いきなりその触れ方はない。動揺したギンコに気付いているだろうに、化野は止まらなかった。
「見せろ。暫くちゃんと診ていない。医者の不養生とは言うが、医者の傍らにいるものも同様だからな」
「もう、どうともない」
「それを判断するのはお前じゃないよ」
はっきりとそう釘を刺され、ギンコは仕方なくシャツを脱いだ。化野は畳に膝をついて、その傷跡に顔を寄せる。半端にだが、雨戸が開いているから、体をそちらへ向けさせて、指で傷跡をなぞりながら、ゆっくり、綿密に。
「もう、いい、って…っ」
「動くな。ちゃんと診終えるまで、医者の言うことを聞け」
ズボンを少し下へとずらされ、傷の端から端までを、なぞられ診られる。ぞくぞくしてくるようで、ギンコは無意識に化野の首筋あたりに手を触れた。切なげな顔をしているギンコを、化野が下から、ちら、と見る。
「…目に毒だ。この場合、俺が悪いんだか、な」
すい、と化野の顔が寄せられた。脇腹に残る、薄赤い跡の、もっとも色の濃いところへと、彼は軽く唇をつける。
ちゅ。
微かな音が鳴って、それへと返事するように、ギンコが食い縛った歯を、きり、と小さく鳴らす。喘ぎの代わりだ。診察からすっかり逸脱した触れ方に、ギンコの声が…。
「あだ…し…」
「…っ、す…っ、すみません…っ」
勿論、これは化野の声でもないし、ギンコの声でもなかった。弾かれたように二人が声の方向を見れば、人が楽に通れるほど、しっかりと開いた雨戸のすぐ外に、セキが顔を赤くして立っていて、その斜め後ろには、完全に声を失ってしまっているサナミが。
「…あ…っ」
化野も、あ、とだけ言って、あとは声もない。たくし上げられたシャツと、十センチばかり引き下ろされていたズボンを整えながら、ちゃんと受け答えできたのはギンコの方だった。
「いや、すまん、は、こっちの言うべきことかな。びっくりさせて」
「あの…っ、いえ、なんとなく、分かってたんで…っ、そ…そんなには」
「………わ、わたし」
何か言いかけたまま、すっかり止まってしまっているのは、なんとなくも何も、さっぱり分かっていなかったらしいサナミ。母親が、サナミの再婚相手にどうか、などと、化野のことを気に入ったりしたことまで、多分、瞬時に思い出しているのだろう。男の恋人がいる人に、母は何を、と。
腕に抱えていた野菜がぽろぽろと足元に零れ、先に驚愕から立ち直ったセキがそれを拾い集めてやっている。
「あのぅ、今さっき、そこでサナミさんと会って、野菜あげに行くっていうから、私も、昨日もらったお魚の焼いたのを」
「そりゃあ悪いな、それこそ、こっちはそうと望んで男所帯だもんでな、助かる」
ガタガタと雨戸を開き切って、ついでに開き直ったように、ギンコは魚と野菜を受け取った。化野はといえばセキの言った「なんとなく分かってた」に、地味に焦って、困っている。
「そ、そんなに、雰囲気出てる、のか?」
「まぁ、あの…なんとなく」
「いや、そりゃ、後ろめたくは思ってないから、知られてもいいんたが。サナミさんは…その、随分驚かせて。このこと、ミツさんには…」
「い、っ言えません」
だよねぇ、あはは、とセキが笑う。つられて笑うサナミの笑顔に、ほんの少しのぎこちなさが、そのまま、ふ、と消えていった。年も幾らか離れているし、今まであまり交流の無かったらしい、サナミとセキが、このきっかけで仲良くなるのなら、見られたのも益があったというものだ。
「あ、そうだ、先生。夕べ聞いたんだけど、あたしんとこの隣の旦那さん、リョクヤさんていうんだけど、なんか風邪気味で咳が止まらないってよ?」
「何、風邪? そりゃ大変だ。あー、今、風邪の薬が無くなりかけてて。とにかく、ギンコ、ちょっと診てくるよ…!」
「あぁ、いってこい」
セキは化野のあとを追いかけるように、自分も朝餉を作りに家へ戻って行った。その場に残ったのはギンコとサナミ。サナミはまだ少し居心地が悪そうだったが、それでもちゃんとギンコに頭を下げて、昨日の診察の礼を言った。
「いや、俺のは診察っていうほどの」
「あの、何も、なかったですか、本当に」
「…無いよ。どうしてだ?」
意味ありげなその言い方で、サナミが何かを感じているのが分かる。けれどもギンコが言う気のないのを分かると、彼女は潔いほどすっきりと笑って、いいえ、と言った。
「いえ、いいんです。何もないのじゃなくても、ギンコさんが、言う必要がないと思われたなら、それできっと、いいんだと思って」
「何も、無いよ。言ってなんとかしなきゃならんようなことは、何もな」
「はい」
女という生き物は、大抵男よりも敏い。そして男よりも潔い。何かがあることにも、それを問いただす意味がないことにも、彼女は気付いているのかもしれない。サナミはその会話を終わらせるためにか、急に別の事を言った。
「そうそう、次の『わたせもり』は、ギンコさんがして下さるんじゃないかって、潮次叔父様から聞いたんですけど」
「…何か、特に要り様のものでも?」
『わたせもり』は『渡守り』と書く。その言葉を知っているように、ギンコは何も聞き返さず、そうだ、とも言わなかった。サナミも無理に確めようとしなかったが、世間話染みて続きを言った。
「さっきセキさんも言ってたし、母とも前々から話してたんですが、そろそろ、布の類が足りなくて…。布がなければ古着でも。仕立て直せば使えるので」
「あぁ、布は着る物とかその他にも、いろいろ使うだろうからなぁ。他にも何か思いつくものがあれば、書き止めといて貰えるかい? 神官と兼任で、ずっと『渡守り』までやってた白也とも、相談するよ。それを手伝ってた男ともね」
サナミも帰って行って、ギンコは一人になる。ひらひらと、揺らめくような薄青い蟲が、一瞬蝶のように見えてギンコは息を止める。四枚羽のその蝶は、四つに千切れて四匹の蟲になり、縁の下へ逃げていってしまう。
「…行かなくちゃぁな」
ぽつりと呟く声は、淡々と。けれどもここへと戻ってくる化野の姿を映す目は、辛そうに揺れて。
「でも、医者の欲しがるもんは、少しは聞き出さねぇと」
未練が言わせる言葉じゃない。それが本当にするべきことだからだ。だけど結局ギンコは、化野を騙すことになるのだ。いつでも抱かれると言った。傍を離れないとも、言っただろうか。繰り返し繰り返し、嘘をついていたことになる。繰り返し繰り返し、言ったその言葉はギンコの願望に過ぎなかった。
「待っててくれるだろ? 化野。昔のように。あの頃のように」
終
終、なんですよ。すいません、特に変化がないし、どこか結末に到着したわけでもなく、ただ、ミツとサナミの話が前回で決着ついて、今回の話は、ここから続く別の話(であって、そのまま続きの話)の序章となりますっ。
次からのタイトルは、これまたずばり『記憶』。過去に記憶喪失だった化野先生の過去の事も出るでしょうし、もっとさらに過去、つまり彼の前世の…。いや、これ以上言うとネタバレ過ぎるので、沈黙…。すいませんですー。
しかも、その『記憶』を書き始めると、また長いと思うんで、少し休止いたしますっ。こんな長い分かりにくいものを、ここまで読んでくれた数少ない皆様、呆れずに待って下さるでしょうかっ。多分ですが『記憶』を書き始めるのは来年に入ってからになると思うのですよ。とほほ。
いや、ただ単に、別の話もいろいろ書きたいのでっっっ。我儘でごめんなさい。というわけで、箱庭「終」ですっ。本当にありがとうございましたー。
12/10/06