箱 庭 … 5
重い溜息が出た。なんで忘れていたのかと思う。そのせいで、これほど無神経なことをしでかした。不老不死のギンコは、傷を負ったとしても治りが異常に速い。見ている前で傷口が塞がっていくその様を、はっきりと見せられたこともあるのに。
「俺…は…」
口の中で消えてしまうほどの、小さな呟きが零れかけた時、傍らにいたカズアキが静かに言った。
「もし…悩んでいるのが、わたしに見られた、という事だったら。大丈夫、忘れますよ。こう見えて物覚えは悪いんです」
「あ…。あぁ、あの…どうか誰にも、口外、しないで下さい…」
「えぇ、勿論」
カズアキは仕事の手を止めたまま、ちょっと休む振りをして化野の傍に腰を下ろした。そこらに放ってある鎌を拾って、少し錆びたその刃に触れる。随分古い品だが、手入れがいいのか切れ味は悪くない。つ、と指を滑らせると、血が出るほどではないが、指先の皮膚はうっすらと切れた。
悔やむ目をしながら、化野はぼんやり彼の手元を見ていた。カズアキは鎌の背で、自分の着ている長袖のシャツの、左手首の辺りを撫でる。袖にはほんの少し錆びた色がついて、隠れていた彼の手首が化野の目の前にあらわになった。傷だ…。傷跡が見える。何箇所も。
「………」
「もう随分古いものですが」
そこにある傷は、大抵がある一つの意味を表す。手首の内側を、二度、三度、真っ直ぐに繰り返し切ったような、無残な傷跡。カズアキは、けれど、その傷のことを話そうとはせずに、淡い笑みのままで言ったのだ。
「こういうふうにね…。過去や今を誰でもが背負っています。そしてこの島の人々はみんな、本土から離れ、ここで暮らすこと選ぶほどの過去を持っている。それぞれに何かを特異なものを背負っているから、人の過去や今を、必要以上に知りたがったりしないんです。知ったとしても、ただ…すとん、と『知る』。それだけですよ」
言い終えたカズアキの横顔は、相変わらず穏やかだった。彼の過去には何があったのだろう、と、心の隅で思いながら、化野はギンコの行った方を見やる。どんなに辛い過去を持つ人がいたとしても、化野の心を占めるのは彼だけだ。
立ち上がってあたりを探したが、ギンコの姿は見つからなかった。住まいを直して貰っている最中なのに、自分までがその場を離れるわけには行かず、化野は庭へと戻っていく。
そのあとも作業の手を止めては背を伸ばし、首を伸ばしてギンコの戻るのを待っていた化野だったが、一時間も過ぎた後、思っていたのとは逆の方向から、ギンコは額の汗を拭きつつ戻ってきたのである。傍らには子供を一人くっつけて、腐って折れた板を一抱えずつ持っていた。
「…ギンコ…!」
「おーっ、こっちも結構進んだなぁ。裏も綺麗になったぜ? 井戸のあたりなんか、見違えるほどだ、休んでたんなら見て来いよ」
言いながら板を垣根の外に置き、子供にもそこへ置くよう身振りで示し、そのあとでやっとギンコは化野を見た。
「どうしたよ? なんて顔してんだ、化野」
「え…。だって…」
「お前もすげぇ汗だな、おい。手ぬぐいかなんか」
自分のはもう汗で汚れちまってるし、と呟いている彼の後ろから、カズアキが乾いた手布を差し出してくれて、ギンコはそれを受け取りながら笑って礼を言っていた。
「ほらよ、なに呆けてんだ、お前も礼くらい」
「…あ…うん…」
なんだかぎこちない化野の様子を見て、ギンコは困ったように首を一つ傾げると、わざわざあたりを見回して、
「この熊手って誰のかな。借りていいかい。ちょっと裏の方に持っていきたいんだが」
「あたしんだけど、ちゃんと名前書いてあっから、使うんなら持ってっとくれな」
「おう、悪ぃな。…化野、お前もちゃんと働けよ?」
そんなことを言いながら、ギンコはまた裏の方へ行ってしまうのだった。
日が落ちて暗くなって、作業がちゃんと出来なくなるギリギリまで、皆は化野たちの家の事で奮闘してくれた。
囲炉裏のある居間ともその奥の部屋は、新しくきちんと床板がはめられ、まだ畳は敷かれていないものの、踏み抜く心配もなく歩けるようになっていた。庭の草むしりは表も裏もすっかり終り、もう井戸も使えるし、台所の甕には、たっぷりの水を汲み置いてもらった。
ひとっ風呂、とまではいかなかったが、沸した湯ですっかり体を拭き清めて、二人はやっと部屋で落ち着いたところだった。
布団と座布団は、近くの家から二人分差し入れられ、それならと別の家のもの達が、茶碗やお椀や何枚かの皿など、当座必要な食器を持ち寄って置いて行ってくれた。鍋とやかんも一応、一つずつあり、サイズの合いそうな服もひと揃えずつ、借りてあった。本当に至れり尽くせりで、ありがたい。
「…お疲れさん。本当に疲れただろ?」
「うん、まぁな、正直こうやって座っているのもしんどいよ」
言いながら、化野は既にしかれてある布団に、背中を乗せて転がった。ギンコもその隣で横になり、片方の肘を立てて頬杖にして、化野の顔を覗き込んだ。
「昼間のこと、いつまでも気にしてんなよ…?」
「あぁ…。でも謝るくらいさせてくれるだろう、ギンコ」
「…いいって。んなこと言ってんだったら、俺はあっちの部屋で寝るぜ?」
謝られたって、どうにもならないのは分かる。済んだことだし、ギンコは本当に気にしていないのだ。だから化野は心の中だけで沢山謝って、口を開いた時は別のことを言った。
「カズアキさんに聞いたんだ。この島に来てここに住んでいる人たちは、みんなそれぞれ何かを背負ってるんだって。だからこそ、人の過去なんか気にしないんだそうだよ」
彼の手首の傷の事は、言わずに置いた。聞いたからと言って本人に問い質すような真似、ギンコはしないだろうけど、やっぱり気軽く言葉にするようなことじゃないと思える。
「……まぁ、その通りだなんだろうな。前に言っただろう? ここはヌシが治める土地だから、住まう人々は一人残らず、そのヌシが受け入れた人間なんだ。ここではみんな、そのヌシを神として信仰し、心の底から信じていているのさ。そしてそれはけして間違ったことじゃない。確かにヌシは、ここでは神に等しいんだ…」
「神…。よく…わからないな…」
眉と眉の間に皺を寄せて、それでも分からないと言った化野を、うっすら笑ってギンコは見た。彼は一度身を起こし、自分の布団にもぐりこむと、その中で服を脱いでしまう。それから右手の手首から先だけを布団から出して、ひょいひょい、と化野を手招きした。
「こっち、来いよ」
「あ…あぁ、うん、ギンコ」
化野は引き寄せられるようにギンコの隣へ、身を滑り込ませる。この島へ来てから、ギンコは随分変わった。それがこの島の人々や、島のヌシのせいならば、化野はそれに感謝をしていたい。常に人目を避けて過ごしているようなギンコの姿を、もう見ないで済むだけで、この島は化野にとってもいい島だった。
「その神様とやらは、俺たちのことも受け入れてくれたってことだよな?」
「あぁ、そうだ。だからこそみんなああして協力的なんだぜ? ずっとここで共に暮らす仲間なんだと、もう全員が分かってるからだ。俺に詫びてる暇なんかあったら、お前もヌシに感謝の言葉くらい言っといてもいいぜ?」
「言いたいが、どこへ言ったら礼を聞いてもらえるんだ?」
半ば冗談のつもりで言ったのだろう。化野は、神様にお礼を言うなら、神社か祠か何かだろうと思っていたのだ。
「直に言いたいってか? なら、お前もヌシに会えるもんなのか、今夜聞いといてやるよ。明け方前にくるように言われている」
「……か、神様に? 呼び出されたってことか?!」
「違う。白也にだ。神官だと言っただろう…?」
ギンコは少し笑って、それから猫のように化野の胸に額を擦り付けた。
「もう寝ようぜ。明日も今日の続きだからな」
続
12/06/18
6話へ ↓
箱 庭 … 6
「動じない方ですね」
器用な足取りで岩場を歩きながら、白也はそう言った。波音は今は静かで、白也を前に、ギンコが後ろを歩いているままでも、互いの声はよく聞こえる。ざ、と砂を僅かに散らして白い浜へと下り、遠く遠くまで続いている波の弧を白也は見つめた。ギンコも隣へ来てその風景を見る。夜明け前で、まだ少し薄暗い。
蟲が二人の周りを常に、数種、横切ったり、現れて消えたりして、その上をギンコの視線がゆっくりとなぞっていた。白也の言うのは、多分そのとこだろう。
「動じない、って? んー、まぁ、見慣れてるからな。それに、イサにこの島のことを少し聞いてたからだろう」
「蟲がヌシをしている、と? 知っていてくれるのは正直助かります。蟲もヌシも、知らぬものに最初から教えるのは骨が折れる。蟲の見えぬものにも、ヌシ様は一度は姿を見せますから、その途端にびっくりして気を失われたりすると、傍についている俺は大変です」
「あーーー、そりゃ、難儀だろうな、さぞかし」
村からここまで歩いてきた道のりを思って、ギンコは白也の苦労を察した。村を出て砂浜を歩き、岩のごろごろしたところをずっと抜けて、また広々とこの砂浜。そのさらに向こうに行かねば「ヌシ様」には会えないそうだ。
つまり、ヌシを見た「新入り」にぶっ倒れたりされるってことは、背負うなりなんなりして村まで運ぶのは、この、大して大柄でもない細身の白也ということになるんだろう。
「今まで、そんなことがしょっちゅう?」
「いえ、しゅっちょうなんてことはないですが。そもそも、新しく住まう方は三年に一度も来ませんし。…ここで生まれたものは、皆、生まれたときから蟲が見え、ヌシのことも分かっていますから」
「……へぇ…」
生まれつき蟲が見える見えないは分かるとして、教えずともヌシのことを知っているという話には、多少なりと興味が湧く。生きていくための本能のように、備わっているということだろうか。
「色の文字のついた名前を、不思議だとは思いませんでしたか?」
「ここで生まれたものには、そういう名をつけるんだってな」
「…ヌシ様がお示し下さるのです」
「ヌシが?」
白也はまた歩き始めていた脚を止めて、真っ白い服を風に揺らしながら振り向いた。ただの長袖のシャツとズボンだが、履いている靴の紐までが白。
「そうです。ヌシ様がそのものの名につける色を下さる。私の時は『白』を下さいました。そして、外からここへ来たものへは、ヌシさまはこの先の『未来』を」
「未、来…」
ギンコは僅かに目を見開いた。足元に波が寄せて、靴の底を濡らしたが、気付いた様子は無かった。
「えぇ、未来です。これからどのように生き、そして…」
「聞いてない」
遮るような言葉を聞き、白也は少し意外そうに、ギンコを振り向いた。
「恐ろしいですか…?」
「……」
まるで、何か酷い事を言われたみたいに、ギンコは白也を見ていた。その口元に自嘲するような笑みが小さく浮かぶ。
「怖いのは分かります。ですが、来ていただかないわけにいかない。行ってヌシ様に会わなければ、この島で暮らしていく事を、貴方が拒否したことになってしまいます。ヌシ様は…」
「怖いとか、そういうんじゃない」
「……いらしてください。未来を見せると言っても、多分貴方の思うようなものとは違う筈です。占ってもらったものを聞くような、そういうのとはね」
いつ頃結婚し、何人の子をもうけ、どんな病に罹り、いつ死ぬか。そういう詳しいものが見えるわけじゃない、と白也は安心させるように言ってくれたが、そのくらいギンコにも分かる。ヌシは花の姿をした蟲だと言うから。
「あんたも、一緒に見るのかい…」
「…どうしてもお嫌でしたら、目を閉じていますが」
「そう願いたいね」
ギンコはやっと歩き出した。それからはずっと無口だった。やがて二人は浜辺から離れ、広い場所へと出る。人の手でわざわざ均したように、平らな石がずっと敷き詰められたように見えるところだ。そんな平坦な地面が、見渡すかぎりを埋めていて、誰でもここを最初に見ると何か一言感想を言う。
でもギンコは閉ざした口を開かなかった。白也はその様子を気にしながら、身振りを交えてギンコをその石畳の上に導いた。履いているもの越しでも、そこがほんのり温かいのが分かって、そこら中に蟲の気配が漂っている。
「私が今からすることを、あとで同じようになさって下さい」
「……あぁ、わかったよ」
ギンコがやっとそう言って、白也は安堵したように地面に膝をつく。どこを、というわけでは無いのだろう。無造作に伸ばした右の手で彼は足元の石に触れ、そうして跪くよにうして、自らの手の甲に額を押し当てた。
緩い風を、感じる。どこから吹いてくるのかは分からない。冷たいのか温いのかも分からない。ただ、はっきりと濃い蟲の気を含んだ風が、あたりを凪ぐように遥かまで吹き渡っていた。
「これが、ヌシの気配…」
白也は手の甲から顔を上げ、そのまま立ち上がって真っ直ぐ前を向いている。何が起こるかと見ていると、最初ぽつり、と足元に一輪の花が咲いたのだ。形はどこか芥子に似ていて、その花をよく見れば翅の大きな蝶のようにも見える。色は白だ。白也が触れたからだろう。
そして白也とギンコの足元は、次の刹那に「花」で埋め尽くされていった。真っ白な花だが、一つ一つは半ば透けている。それが飽くほどゆっくりと、左右に揺れては揺らいで、まるで波紋を見るようだ。花の埋める地面は、どんどん広がって行って、平たい石で覆われた場所の端までを、埋め尽くすのかと思った。
「…終わりです」
ふと、白也が言って、その言葉の通り、今度は彼の足元から花が消えていく。広がるのより消えていくのが遥かに早い。まだゆっくりと現れ続けている花の波を「消失」が飲むように超えて…。
やがてはすべてが消えた。何も無かったように。生まれて生きた一人の人間が、その命の終わった後には、肉体も心も消えて失せて、何ひとつ残さないかのように。
「これだけですから、そう恐ろしいことはないでしょう? 次は貴方が、足元にこう、右手を…」
「分かったから、目ぇ閉じててくれ」
また遮るように、ギンコは言ったのだ。
「では、さっきのように、終わったら声を掛けて頂ければ」
「目ぇ閉じなよ」
「………」
二度目に言った言葉は、どこか声が優しかった。そのせいだろうか、白也はひいやりと、肌が冷えるのを感じる。一歩だけ身を後ろに下げて、約束通りに彼が目を閉じると、ギンコは地面に膝をついて、自分の足元に片手を伸べた。
指先が、ちらりと石に触れた途端、白也の時と同じように「それ」が始まる。ギンコは手の甲に額をつけることなく、そっと立ち上がった。
現れる花は濃い青だ。濃いが、水に垂らしたインクのように澄んだ色。けれどその色がすぐに次の色に変じた。藍。藍色を経て、次はゆっくりと淡い薄水へ、灰色になり白へと、そしてまた薄水。灰。白。
緩やかに移り変わりながら、それは続いている。平らかな地面を多い尽くし、その向こうに見えていた草地へも届き、そこを埋めてさらに遠くへ、遠くへ。薄水の色は光るように見えて綺麗だ。灰の色は淡々と静かで、白の色はいっそ濃い。時々、はっきりと別の色がちらちらと混じるように見えたが、錯覚だと思ってギンコは見ていた。
いつだろうと、黒の蝶はギンコの視野を過ぎる。運命を見せつけるように、飛来して飛び去る。
白也に、終わったら声を掛けろと言われていたが、それが終わることはなかった。ただただ繰り返されて、視野が花で埋まるだけ。
ギンコには、分かっていたことだった。これが未来を示すものだとしたら、ギンコのそれには終わりが無い。花が足元から消えて行き、すべてを飲んで見えなくなった時が、きっとその人の「死」を表すのだろう。不死のギンコには、その時は永遠に訪れないのだから。
不意に、傍らで息を飲む気配がした。静かに振り向くと、白也が凍り付いたように顔をして、風景を見ていた。幾らなんでももう終わっている筈だと思って、目を開いてしまったのだと分かる。今や何もかもが、花で覆われていた。他のものは何も見えず、白也はギンコの言葉を聞いた。
「未来なんか、もう知ってんのさ…。だから…」
だから、わざわざ突き付けられるようなこと、したいとは思わなかった。それだけのこと。
「日が出たら終わるんだろう? もうじきか? 白也」
日の出前の時間を指定したのがその為と、予想するくらいギンコにもできる。
「悪いね。もういっぺん、目ぇ閉じててくれよ。日が差したら…言うからさ」
「…わかり、ました」
白也は言われた通りに目を閉じた。ぼんやりと立っていたギンコが、その場にいるまま体を屈めたのが、気配で分かる。そうして蹲ったのも分かった。
聞こえたのは、嗚咽だろうか。ギンコが、己を嘆く声だろうか。掻き消すように風の音がした。せめても温もりをくれるように、日の光がやがては差してくる。
風が吹いてこようと、日差しが差してこようと、幻の蝶は墨の色をして、いつまでも一羽だけギンコの視野にいた。幻だと分かっていても、その姿が胸に痛かった。あの蝶さえいなければ、あの日さえ来なければ。
けれど、あぁ…。
すべてはもう、
変えようも無い過去のこと。
そしてその過去が、
手出しの出来ぬギンコの「永遠」を決めた。
分かってるさ。
逃げられねぇってことくらい。
「永遠」だということくらい。
続
12/06/24
7話へ ↓
箱 庭 … 7
「…頼む」
そう言って頭を下げたギンコの願いに、白也はすぐには返事をしなかった。困ったように視線を彷徨わせ、唇をひき結んで黙っている。ギンコはもう一度言った。どうしても、わかった、と言って欲しくて。約束して欲しくて。
「口外しちゃ駄目な決まりだと、そう言ってくれ。誰にも言ってはならないことだと、あんたの口から言って欲しいんだ。そしたらあいつも、見た事を俺に話そうとはしないだろう」
「それは、ヌシ様のお心として、ということですか」
「……そういうことに…なるのかもしれん。…駄目なのか」
ギンコの必死の目に、白也は切なそうに言い澱んだ。
「人に言うなとも、言えとも、ヌシ様がお示しになられたことはないですが、言ってもいないものを『ヌシ様のお心』として島の民に伝えることは、罪なように思います」
「…そう…か…」
ギンコは今一度、平たく石の敷き詰められたその空間を眺めた。花は一輪も残っておらず、あれほど濃厚だった蟲の気配も消え失せ、ヌシがどこにいるのかも分からない。
「わかった…。出来ねぇことなら、しょうがねぇよなぁ」
項垂れて、顔を見せないようにしているギンコの声が重い。それから二人は元来た道を、行きと同じようにゆっくりと戻り、そろそろ村というころで白也は呟いた。そこまでの間に迷って迷って、困り果てて、だからなんとか自分なりに考えて、やってみるとギンコに言ったのだ。
「…すまんな、恩に着る。本当に…」
そう言ってうっすらと笑って、ギンコは自分の家への道を戻って行く。白也は彼の後姿をずっと眺めて、それから軽くよろめいて、傍らの立ち木の幹に体を寄りかけた。
白也はまだ若い。その上この島で生まれてこの島で育って、ここにある以外の苦労や悩みを味わったこともなければ、見たことすらもない。だから彼には、ギンコの痛みを慮ることも、うまく出来なかった。頼む、と、苦しそうに懇願されてやっと少し分かったに過ぎない。
いつまでも死なぬ存在であろうギンコにとって、愛する人の寿命がどこで尽きるか知ることは、身を切るよりも堪え難い苦痛。先に死なれて一人になる。その後も尽きぬ命をずっと辿っていく。それはいったい、どんな苦しみだろう。どれほどの孤独だろう。
辛いことも少しずつ忘れていけること。そしていつかは死んで体も心も消え去ること。この二つは人間にとって、確かに「救い」でもあるのだ。それに思い至って、白也は遠くヌシのいる方角を振り返り、己の生を示す白い花が、ふ、と尽きる光景を思い出す。
この島にこうして暮らせることは幸いだ。ここで生まれ、ここから出ることも無く、ここで死にゆくことは幸せなことだ。忘却も死も、願わずにいられる安寧を、何より幸福なことだと、彼は初めて深く感じていたのだった。
ギンコが戻ると、家にはすでに沢山の人がきていた。昨日と同じ顔もあれば、違う顔もあり、その中で化野は皆に礼を言いながらもよく働いていた。
使われていない空き家から、まあまあマシな畳を運んできて、男衆の一人と一緒にそれを床へとはめている。
「おぉーっと、もうちょいっ、もうちょい左だ先生っ」
「こ、こうか? うぉっ、はまった…っ」
奥の間の隅々までに、古畳がきっちりと敷き詰められ、日焼けして色の変わっているところもあるそれが、かえっていい味を出している。化野は満足そうにそれを見て、一人で、うんうん、と頷いていた。
ギンコはそっと化野の姿を見て、声をかけることなく裏庭の方へと回っていく。井戸のまわりに石を敷き詰め、水を零してもぬかるまないようにと、手を加えてくれていた男らが、自分達の仕事の出来栄えを、口々にギンコに自慢した。
あぁ、それも。
それもあの家とよく似てる。
俺の記憶をなぞるように、
皆がそれを分かってそうしてくれるように。
ただの偶然だろうとも、嬉しい。
ここでの暮らしが、永遠でなくとも。
泣きたいくらい嬉しくて。
何かを言うかわりに、ギンコが黙って笑うと、作業の手を止めて騒いでいた男たちは、一瞬静かになって、みんなしてギンコから目をそらした。なにやら驚いたらしい。何にかは分からないが。
その男らに混じって、汗を流しながら働いて、その後は台所の女たちのところへ行って、竈の煤を綺麗に落とした。梁にかかった蜘蛛の巣も払った。大人数でやっているから、一昨日はあばら屋でしかなかった家が、もう見違えるようになっている。
「せんせいっ、せんせいも見てくれよ、これどうだい?」
男たちは化野を井戸端に呼び寄せて、石を敷き詰めてとうとう完成した井戸回りを見せている。化野は大袈裟なくらい驚いて喜んで、それから離れて自分を見ているギンコの姿に気付いた。
「なんだよ、戻ってたのか、ギンコ」
「あぁ、うん、さっきな」
「どうだった? その…ヌシは?」
ぎくん、とギンコの心臓が跳ねた。化野の生の行く末も知りたくない。そして自分の生の行く末も、化野には語りたくない。不死だと告げてはあるが、それをさらに語るのはごめんだ。そんなギンコの様子には気付かなかったのだろう、返事が返らないのを気にせずに、化野はギンコの近くまでやってきてこう言った。
「ついさっき、白也がきてな。明日の朝、夜が明ける前に、浜にひとりで来てくれ、と言われたんだよ。ヌシに会うということらしい。なぁ、ギンコ、いったいどんな」
「行きゃわかるだろ。ただ…さ。白也は神官だからな、何でも彼の言うとおりにしといた方がいいと思うぜ」
そう言って誤魔化す。誤魔化すしかなかった。話したくないし、聞きたくもないのだと、心の中でだけ思考がくるくると回っている。胸の奥を棘で引っかくように「痛い」思いがただただ旋回した。
そして翌朝。起きられないようなら起こしてくれ、などと甘えたことを言っていた化野を、ギンコが夜明け前に起こしてやる。考えてみたらこの島に慣れぬ化野には、時計すらない今、指定の時刻に一人で目を覚ますのは難しい。
暗いうちの星を読み、東の空のほのかな明るみを見て、ギンコは化野の体を強く揺する。身を起こしたのを確認すると、いかにも眠いのだ、と言わんばかりの態度をして、横になって目を閉じた。多少わざとらしくてもいいから、寝た振りをする。寝息らしい息遣いまで立てて、ギンコは化野が出かけていく気配を感じていた。
そして、足音が遠ざかってから身を起こし、縁側に立ってヌシのいる方向を見る。祈るような気持ちで、彼は目を閉じた。ギンコは思っていたのだ。どうか、一日でも長く、一時間でも一分でも長く、お前が生きててくれますように。
続
12/07/01
8話へ ↓
箱 庭 … 8
教えられていた浜に行くと、随分前から来ていた様子で白也が待っていた。岩に腰を下ろして両脚を投げ出した格好が、どうしてか実際より五つ六つも若いように見える。前と印象が違うのはどうしてなのだろう。
彼が着ているのは白い着物。まだ暗くてよく見えないが、おそらくどこにも柄のない白。
夜明け前、墨を広げたような空が背景にあるのに、白也の着物の白が溶け出して、そこから夜が明けるのではないかと、なんとなく思った。振り向いた途端に、彼は子供には見えなくなる。当然だ、もう子供と呼ぶような年ではない。
「大変でしたでしょう、こんな早朝に」
「あぁ、はは…。まぁ少し」
幾らか固くなってしまっている化野に、白也は白い袖を海風に揺らしつつこう言った。
「どうぞお楽になさって下さい、化野先生。神官だなんて言われていますが、俺はただの人なんですよ。実は昨日ね、今まで以上にそれを自覚しました。なんの力もない自分を」
白也はくすりと笑って、岩の上に立ち上がった。
「只人だと思ったら、少し肩の力が抜けました。気が抜けすぎてはいけないと思って、今日は一番神官らしく見える、この着物を着てきたんです。ヌシ様のところまで随分歩きますから、差し支えなければ話をしながら行きませんか?」
涼やかな笑顔が、小さく仄かな行灯の火に、下から照らされている。なんとなく引き込まれるように化野は言った。
「話、って、なんの?」
「できれば…。そうですね、あなた方のこととか。これは別にヌシ様に関わることではないので、お嫌でしたら言わなくてもいいですから」
砂浜の、白い砂を踏んで歩きながら、化野は暫し黙っていた。「あなた方の」と、言われるほど長い時間を、ギンコと過ごしてきたわけじゃないと、改めて思ってしまっていた。確かに、同じ病院に勤めていた期間は、半年ほどあったけれど、そんなのは数に入らないと思っている。
気持ちが通じてからを二人の歩みと考えるなら、ほんの僅かだ。瞬きする間のような、ほんの一瞬のような日々。だけれどその一瞬の記憶よりも、ずっとずっと深く、記憶の底に沈んだ別の記憶が、沢山の記憶が、時々揺り起こされてくるだけ。
そうして揺らいでいるものが、自分の記憶なのかどうか、化野はいつまでも確信が持てない。その記憶の重なりの中にギンコが住んでいるから、それを自分の記憶なのだと思いたい。そう切実に思うだけ。
「やっぱり、お話になりたくはないですか」
黙り込んでいる化野を振り向き、砂を軽く蹴って、白也がそう言った。その時、神官の白也はまた子供のように見える。知らない事を知りたいと、甘えた顔をする子供。それでも別に不快な気がするわけではない。この島の人々には「悪意」はないのだ。
「いや…。俺は人に話が出来るほど、ギンコのことを知らないんだよ。じゃあ、俺のことだけでよければ」
そう言い置いてから、化野は少しばかりの話をした。記憶をなくしていた時期があること。そんな自分を、大病院の医者の職につけてくれた人がいたこと。そうやって幸運に恵まれながらも、何に対しても意欲が持てず、淡々とただ生きていたこと。何もかもどうでもよくて、会ったこともない女性と、結婚までしようとしていた。
けれど、本当に好きな人と出会って、すべてを投げ打って、今、ここにこうしていること。それがギンコのことだと、きっと白也には分かっただろう。
「そうやっていっぺんに投げ捨てたせいで、厄介な相手に恨まれて、どこ行っても医者の職につけそうになくなってな。それでここを勧められた。俺はこれしか出来ないから、また医者の仕事が続けられて、本当にありがたい。そうだ…ギンコに言われたんだ、ヌシに礼を言っておけって」
聞いてもらえるのかな? とでも言うように、化野は白也の顔を覗き見る。その目を見ながら白也は思っていた。この人の「花」はどんな花なのだろう。そして、どこで途切れて消えるのだろう。
見るのが怖いと、初めて思った。
「そう…ですね、ヌシ様のお姿は『人』ではありませんから、お返事が頂けたりはしませんが、それでいいのでしたら、どうぞ心の中でお礼を」
「あ、そうなのか?」
神様のような姿をしたのが下りてきて、島に住むことを許してくれたり、とか、ぼんやりとそんなことを考えていた化野の想像は、大いに外れていたらしい。確かにヌシは蟲だとギンコに聞いていたし、蟲とは見えぬものだとも教わっていたのだ。
「蟲…って、どんな姿をしているものなんだろう…」
独り言のようにぽつりと呟いて、そうして言葉にしてしまってから、化野は慌てて白也に言った。
「あ…! いや、すまん。答えようのないことを聞いた。蟲は実に様々な姿や生き方をしているんだろう? 一言で言えるようなものじゃないのは分かってるんだ。ただ、見れないと思うと、余計見たくなってしまってな」
この好奇心にも困ったものだ。ギンコはそれを常に見ているのだと、そう思えば思うほど気になって仕方なくなる。同じものが見れれば、もっとギンコが分かるだろうかと、つい…。
「ご覧になれますよ」
「えっ?」
「ヌシ様が、貴方の前に姿をお見せになりますから。ただ…、神聖なものなので、そのことを人に話してはならないと、されていますが」
「み、見れるのか…!」
嬉しそうに化野は言って、確かめるように白也の顔を覗き見ようとした。けれど白也は何故だか急に足を早めて、化野はついていくのが精一杯になってしまう。どんどん先へと進みながら、白也は軽く唇を噛んでいた。
嘘を吐いたことよりも、こんなことを言っても何にもならないような気がして、鼓動が知らずに速くなる。人に言うな、など、他の島民には一度も言ったことがない。だから親しい間柄ならば、自分の見たものはこのようであったと、伝え合うのが普通だ。
自分だけが「言うな」と言われたことを、化野はやがて知るだろう。話して構わないのだと知った途端に、彼はもっとも大切な相手に、それを告げてしまうのではないだろうか。
無力だと、白也は自分の事を思った。誰かが傷つかないように手を貸すことも、結局は出来ない。
「いいですか。ここに膝をついて、地面に手を触れて頭を下げるだけです。そうすれば貴方にも見える姿で、ヌシ様が姿をお見せになる。怖いことなどありませんから、落ち着いてそのようになさって下さい」
白也は昨日ギンコと訪れた同じ場所で、平らな地面に膝をついて、化野にそう教えていた。
自分がして見せることはしなかった。見えたものがヌシなのだと、きっと化野はそれだけを思うだろう。これからの自分の「生」を見せられていることにも気付かない。そうでなければならなかった。
緊張した面持ちで、化野は言われたように膝を付く。深呼吸してそっと地面に手を触れ、ギンコの時と同じように、花が彼の足元から広がった。
化野の「花」も白だった。うっすらと温かみのある、花弁の内側がほんの僅かに黄みがかった白。言葉を失い、瞬きすらも出来ずに、化野はそれを見つめていた。花はどこか蝶のようだ。今にも空へ向けて飛び立って、足元どころか空をも覆うのではないかと思える。
この美しいものが蟲なのか、そしてこれがこの島の神なのかと、息をつくのも忘れそうな心地で見て、ただただ感嘆していた。
「凄い…。綺麗だなぁ。こんな」
呟いて、さらに何かを言い掛けた言葉が唐突に切れた。花の色が唐突に変容したからだ。淡い黄みが一瞬で消え、その代りにきらきらと輝くような薄碧の色が、花弁の縁だけを見事に染めていく。
そうして今度は、その縁取りの色だけを残して、花弁たちは、悉く色を落としていったのだ。
見事な光景に、化野は言葉がなかった。白也も、こんな花を見たのは初めてだった。花は透き通って、ただただ色づいた縁だけが、月明かりを弾くように仄かに光る。化野は微かに顔を歪めた。あぁ、これはまるで…
「…ギ……」
ギンコ…。と、声無き声で化野は言う。この碧の色はギンコのものとしか思えない。ならばこれは、自分がギンコと出会った事を示しているのだろう。薄っすらと黄みがかっていただけの単調な白。それはきっとそれまでの人生。
だから化野は、気付いてしまった。
これは、俺の命の軌跡であり、
これから歩む「生」を表しているのだと。
透き通っていて、何の色も見せないのに、
それでも碧の一色だけは、ずっと纏って。
あぁ、そうか、ずっと一緒にいけるのだ。
離れずにずっと、添うていくのだ。
寿命が…尽きる、その時までは…
「俺は、誰にも言わないよ…。とりわけあいつにはな、この口が裂けようと言えない。泣かれるのは、困るしなぁ…」
化野がそう呟いている間に、彼の足元から花々が消えていく。消え始めるとあっという間だ。潔いほどに。どさりとその場に腰を下ろして、化野は暫し思っていた。ギンコの「花」はどんなに美しかっただろう。そしてそれはどこまで消えずに、不死を表して続いて行ったのだろうか。
分かっていたことでも、きっとギンコは酷く傷ついただろう。だって、それを慰めることの出来ない痛みだけでも、こんなにも酷く苦しい。
気付けば傍らで呆然と立ち尽くしたまま、白也が幾粒かの涙を零している。着物の袖でそれを拭いながら、小さな声で、何か詫びているようだった。自分には辛いことなどないのに、ヒトのこんな生き様を「知った」だけで、涙してしまっていることを、白也は詫びたのだ。
愛する人に置いていかれる悲しみ。
愛する人を置き去りに死ぬ悲しみ。
それを先に知らされている残酷さ。
「…大変だなぁ、神官っていう役目も。人の人生、見るだけでも難儀だよなぁ」
化野は苦笑しながら、穏やかにそう言って、やがては登ってくる日の光に目を細めていた。
続
12/07/11
