箱 庭 … 1
小さな島だと思った。そして美しい島だと。
斜面に木々は生い茂り、田畑が生き生きした色合いで作物の葉を風に揺らしている。砂浜は狭くとも、打ち寄せる波の青と白が綺麗だ。しばし見惚れたあと、化野はこの島での暮らしを思った。田舎だ、不便だ、不自由だと、散々繰り返された言葉を思い出す。
家々は疎らでどれも木造の古びた様相。目を凝らしてみると、トタン屋根も瓦屋根もあったが、錆びていたり苔が付いていたりして、どれだけ古い家なのかと思う。電信柱だの電線だのは勿論なくて、人家の屋根にアンテナも無い。化野の耳には、一晩泊まったあの家の老人の言葉が聞こえてくる。
難儀だろうが、励みなされよ…。
あぁ、こりゃ難儀だろうよ。「文明のリキ」というものが何処にも無さそうだ。都会育ち都会育ちと、ギンコにもイサにも言われたが、そんなことはない!などと、胸をそびやかしたりしなくてよかったと思った。
気付けばギンコが、間近に来て彼の顔を覗き込んでいた。思わず化野は彼の顔色を読もうとする。すぐでも音を上げると思ってるか? こんなの冗談じゃない、などと言って逃げると思ってるか? あぁ、自信なんかこれっぽっちもないよ。だって、本当に都会しか知らないんだから。
「なんか言えよ、化野」
焦れたように言ったギンコに、化野は一言だけ返した。
「…綺麗な、島だな」
ギンコは何も言わなかったが、その代わり白也が穏やかに笑みを浮かべ、まるで自分のことでも褒められたように礼を言った。
「ありがとうございます」
そしてそのあと、ほんの一瞬だったが、砂浜に寄せる波が消えた。風の無い日の湖面を見るように、空と島の姿がそこに映った。白い海鳥が、鏡のような水面を滑って飛んでいく。
「行きましょう」
消えていた波がもう一度緩く寄せ始め、小舟はゆっくりと浜に入っていくのだった。
「あい、ってッ!」
浜について舟から降り、出迎えてくれた人々に囲まれた途端、化野はそんな声を上げてギンコを睨んだ。ギンコか、もしくは白也が、自分のことを皆に紹介してくれるのかと思って黙っていたら、いきなり横から脇腹をどつかれたのだ。
「何す…っ」
「ガキじゃねぇだろう、挨拶くらい自分でしろよ」
「あ、あぁあ、そ、そうか…。あの…」
「よぉ、しっかりしてくんなぁ、お医者先生っ」
口篭っているうちに、集まった人々の中からからかうような声が上がり、思わず化野は軽く頭を下げた。
「その、あ、化野と言います…! い、医者の仕事をさせて貰えると聞いてきました。これからよろしくおねが」
どぉ、と人々の声が幾つも幾つも重なって、化野の声は誰にも聞こえなくなった。四方から先を争うように手を差し出され、その一つと握手するともう止まらない。皆の手を握り、一言ずつ会話して、相手の名前を聞いたが覚えられそうもなかった。でもみんな、自分の名を名乗る時、同じ言い方をしていた。
「セイゴって呼んでください。青に漢数字の五ですよ」
「俺ぁ、大工のマサシ! シは紫って字ぃ書く」
「セキです。赤って書いてセキっ」
「トウジロウだよ、先生っ。モモって呼ばないでくれよな」
そして暫くあと、自己紹介と握手が一時は止んだ。ここにきた全員と言葉を交わし終えたかと思って、息を付いていたら、後ろの方から二、三人が進み出てくる。
「トクジってんだ。俺ん名に色の字はねぇ。漁師だよ。さっきは野次って悪かったなぁ、先生」
「アタシはイクエだよ。色は無し。先生の住む家の近所だからね。よかったら、ちょくちょく差し入れしたげる」
「わたしも先生って呼ばれてるんですよ。同じ先生のよしみでよろしく。カズアキです。平和のワに明るいという字で」
その三人とも一言ずつ言葉を交わして握手して、気付いたらさっきいた沢山の人々は、少し離れたとこにいてこちらを見ていた。なんとなく不思議な空気を感じた。不快感というのじゃなかったが。
「行こうか」
ギンコがそう言って、化野の腕を引っ張る。
「住む家は決まってるんだよ、あそこだ」
「…あ…あそこ? そうか。景色が、よさそうだ…」
指を差して教えられた家は、山へと続く斜面の途中にあった。見るからに眺めが良さそうだったから化野はそう言ったが、何気なくそう言った言葉が、喉奥で変に突っ掛かる気がした。
でもそれは、今言ったことに対する違和感なんかじゃなくて、胸に何かが迫るような気がしたからだ。島へ入る直前にも感じた、これは、懐かしさ、じゃないのか…? 初めて来るのにどうしてこんなふうに切なくなるのか。
ギンコに聞きたいことは沢山あった。それはもう、有り過ぎて頭が混乱して、いったんすべてを棚上げしたくなるほどだ。
「聞きたいことが山盛りか? 化野」
その混乱している頭の中を、直接覗き見たようにギンコがそう聞いた。
「まぁ、そうだけどな。何から聞こうかと」
「島民の名前、変わってると思ったろ。名乗り方もあんなだし」
「うん。あそこにいた若い人は、みんな名前に色の字がついてるんだな。最後の三人だけは三十より上だろうけど、色の字はないって、わざわざ分かるように」
「この島で生まれ育った人間は、みんな色の字を一つは持つように名付ける習慣なんだとさ。浜に来てなかった島民も勿論いるぜ、住人はだいたい全部で四十人ってとこかな」
四十人、と化野は口の中で呟く。今現在、この島に医者はいないのだろうが、前にいた医者がカルテを作っているだろう。その内容と、実際の本人をまず突き合せて覚えないことには、治療や薬の出し方が…。
「……医者の顔になってるな、化野」
「え?」
「そういうこと考えるのはあとにしねぇか? 見てると惚れ直しそうだから」
何言ってんだよ、と化野は照れてギンコから目を逸らした。そういうこと言われたら、思い出しちまうじゃないか。早く二人きりになって、抱き締めたりキスしたりしたい、と思っていた激しい気持ちを…。
気分がふわふわしてきたところで、化野の目に一軒の家が映った。家は家だが、あれは。
「も、もしかして、住む家って、あれか?」
「あれ以外ねぇだろ」
「いや、あれ、廃屋って言うんじゃ…」
「…それか、あばら屋、とも言えるかもな」
俺とギンコがあそこに住むと決めたのは誰なんだ。前の医者があそこに住んでたのか? それっていったいどのくらい前だよ。
きっと古い家だろうとは思っていたが、想像以上に酷い。雨戸は腐りかけだし、瓦屋根からは雑草が生え放題、庭も草ぼうぼうで、木で出来た家の門は片方斜めに傾いでいる。ついつい思った通りに言葉にした。
「ここに住むって誰が決めたんだ?」
「俺だけど」
「えっ? じゃあ…他にマシな空き家は、どこもないっていう」
「いや…」
他にもあるけど、と、ギンコは小さな声で言った。でもここがいいんだ、とも。
「ここがいいのか」
「…うん」
「どうしても」
「どうしてもだよ…」
来たことも無いのに、懐かしさを感じた島の姿。見たことも無いのに、切ない気持ちにさせた家の外観、その周りの風景。
「…わかったよ、ギンコ。ここに住もうな」
そう言ってやると、ギンコはいきなり真下を向くように俯いた。それから少し化野から離れて歩こうとした。そのことに気付いたけど、化野は何も言わなかった。例え涙を零していなくても、ギンコは今、泣いているんだ。そう思った。
抱き締めたくてたまらなかったけど、家には行ってからにしなくちゃならなくて、化野はたった今がもどかしくて大変だった。その気持ちを抑えながら、自分にも言い聞かせるように化野は心の中でもう一度言う。
そうだよ、俺もここがいい。海の見える高台のこの家で、懐かしい波の音を聞きながら。
お前と、二人でここに住もう…
続
12/04/14
2へ ↓
箱 庭 … 2
おんぼろだろうが、何だろうが、ここに住むのだ。
これからは、ここが俺たちの家だ。
そう思った自分を、案外図太くて順応性があるんじゃないか、と化野は思ったのだ。さて住めるように何からしようかと、庭に入り靴を脱いで、縁側から中へ上がりかけたのだが、すぐ傍にいたギンコが、変な声で呻いたので、それを振り向こうとし…。
「うぁ、そ…っ」
バキ…っ
「わ、あぁ…ッ!」
縁側の板が見事に割れて、化野の右足は脹脛までずっぽりと、そこにはまってしまったのだ。驚くやら痛いやらで、慌てて引き抜こうとするが、割れて尖った板が皮膚に刺さりそうになって、簡単には抜けそうに無かった。
「馬鹿っ。そんな無造作に足ぃ乗せんなよ。床板やらなんやら弱ってることくらい、分かりそうなもんだ!」
「す…すまん…」
なんてことだ。大事な家をもっと壊してしまった。しかもどうやって足を抜いたらいいか分からない。道具かなんかあるだろうか。何箇所か尖った部分が肌に押し付けられているらしく、ずきりずきりと何処かが痛み出していた。
「…いて……」
「待ってろ」
小声で言うと、ギンコは背中の荷物を下ろした。背負う形の大きなバックを、床に寝かせてファスナーを開けば、中には一回り小さな木の箱が入っている。そこに収まっている抽斗の一つを開いて、細いロープを取り出した。
「少しきつく縛るぞ。痛いかもしれんが」
「あ、あぁ…」
もしものための止血だ。なんて手際のいい。膝より上で太腿を縛り、強くそのロープを引き絞る。それからギンコは、化野の足に食い込んでいる板の切っ先を、よくよく見てから立ち上がった。
「待っててくれ、動くなよ!」
「…あぁ」
もう、あぁ、としか言えない。本当に待つばかりだ。任せ切って、ただただ待って、ずっとギンコに頼ってばっかりじゃないか。情け無い。
ギンコは庭から外へ飛び出して行って、すぐに姿が見えなくなった。傍らにはギンコが開けたバックと、その中に入った木の箱。抽斗の一つは取り出されたままで、中に何か入っているのが見えた。
古文書みたいな、糸で綴じられた書物。布に包まれた四角い何か。少し内側の汚れた瓶。筒型をした小さな木の入れ物。なんだろう、と思わせるものばかりだ。化野は、ギンコのことをまだまだ何も知らないし、頼れるような存在になるにも、程遠い気がした。
「はぁ…」
足は多分、大して深い傷じゃないだろうし、血が出ているかどうかも分からなかったが、そこに小さな心臓でもあるように、どくん、どくんと鼓動している。このくらい、自分ひとりでなんとか出来ないもんだろうか。こう、足をもう少し深く入れれば、木の隙間が緩んだりは…。
「うっ。い…って…」
「あー、りゃりゃ、こりゃあ大変だぁ」
呻いた途端、頭の上からいきなり声が降ってくる。びっくりして見上げると、そこにはついさっき浜で会った…ええと、マサ、シ? そのマサシは遠慮もへちまもなく化野の格好を笑った。
「はっは、さっそく都会育ちっぽいことしてくれてんなぁ。今にも壊れっちまいそうな家に入るのに、わざわざ靴脱いで、腐った板ぁ踏み抜いて、かい?」
見ればマサシは靴のままだ。ギンコもその通りで、裸足になってるのは化野一人。情けなさに拍車を掛けられるようで、それが顔にも出ていたらしい。
「悪ぃ悪ぃ。すぐなんとかしてやっから、勘弁しといてくれよ。さて、ちったぁ痛ぇけど我慢しててくれ、先生」
腰のベルトに差してる工具を、二、三種類床に放り出し、マサシはどかりとそこに腰を下ろした。気持ちいいほど手際よく、金槌とノミで床板の何箇所かを割り、釘抜きを隙間にひっかけて、メリメリとそこを剥がしていく。
その間、化野の足には一、二度軽い痛みが走ったが、呻いたりしなくて済んだくらいで、大したことはなかった。
「よ、っと! おら、一丁上がり、っとね。平気かい、先生」
「化野、痛むか? 血はあんまり…」
「…いや、まぁ、多分平気だ」
青い顔をしたギンコにそう返事をしてから、縁側の板に拵えた穴から足を抜いて、化野はマサシに向き直った。
「世話をかけてすまなかった。助かったよ。ちゃんと謝礼をしたいが、大工仕事を頼んだっていうことで、相応な代金を支払えばいいだろうか…?」
そう言って早速、荷物の中から財布を取り出そうとするのへ、マサシはガリガリと頭を掻いて。
「あぁ? いやぁ、金なんか貰ったってなぁ。つけといてくれよ、先生、今度俺が風邪ひいた時とかあったら、その薬代と相殺、ってな感じでいいや」
「…え…っ?」
本気で戸惑って聞き返したが、マサシはどかどかと部屋の中を横切り、途中で床を叩いたり、天井の梁を見上げたりしている。無造作に歩いているように見えるが、多分、大工じゃなきゃ分からない、壊れ家の歩き方でもあるのだろう。家は、みしり、とも言わずに大工の「診断」を受けている。
床の間の立派な柱を撫でながら、マサシは化野と、その傍に寄り添うギンコを振り返って、にぃ、と笑ってこう聞いた。
「な、聞きたいんだけどな」
「何をだ?」
平気で聞き返した化野だったが、ギンコはマサシの顔を見て、なんとなく何を聞かれるのかが分かっていて、返事を拒むように横を向く。
「あんたらって、ひょっとして、デキてんのかい?」
ごほ…ッ
「………なっ、な…っ、なんでっ?」
何か飲み食いしていたわけでもないのに、派手に咽て内心を吐露してしまってから、さらに噛みつつ化野が切り返した。こんなに動揺しては、何か言う前にばらしているようなものだった。
「なんでって、そりゃ、カマぁ掛けただけだけどよ。でもまぁ、わざわざ聞かないでも、雰囲気出てるしさ、あんたら、最初っからね」
にやにやと笑いっぱなしでマサシは楽しそうだ。ひょいと身軽く庭へ下り、苔の生えかけた庭石を踏みながら飄々とそんなことを言うが、からかうでも嫌がるでもない口調なのだ。結局返事も催促されない。
「そんじゃあ、島に来た最初の夜なんだし、あんたらは二人でいたいよな。家がこんなで、ちょっと過ごし難いだろうから、寝らんなかったら、今夜だけでも隣家に泊まらしてもらうといいよ。ちらっと寄って言っといてやるからさ」
直しは明日から、と、片手を振ってそう言い置いて、マサシは坂を下りて行ってしまった。
「足、ほんとに平気か?」
「ん? 大丈夫だろう。ちょっとは切れたかも知れんが、消毒しとくくらいで」
「けど、消毒液とか、ないぜ?」
「…あぁ…、まぁ、そうだったよなぁ」
今なら消毒液くらい、どこの家にもありそうなもんだが、ここにはあるはずがなかったし、隣家に置いてあるとも思えなかった。しかも薬局、なんてものも存在していないとくる。水洗いだけでも、と思ったが、それを言葉にする前に、水道があるのかどうか心配になる。
「な、なぁ、ここ、水道…って…」
「裏に井戸があったが、今すぐは使えねぇだろ」
「…井戸…ね……」
はぁ、と溜息をついて、化野は仕草に気をつけながら仰向けになった。前途多難、とはこういうのを言うのだろう。
「まだ、血が出てる」
「あ、そうか…? いや、大したことないから今に止ま…」
化野の言葉は途中で切れた。ギンコが身を屈めて、化野の足の傷に唇を被せていたからだ。悪い菌が入らないように、軽く吸って、吸い上げた血を、口から手布に染ませて、もう一度化野の足に吸い付く。
「あ…っ、も、もういいよ…」
「こんな原始的なこと、おかしいって笑うか?」
「そ、そうじゃなくてさ。変な気分に、なっちまうだろ?」
「…なりたくないか?」
もうそろそろ夕暮れだ。淡い橙の光が家の中に差して、ギンコの白い髪をうっすらと染めていた。
「あの雨戸…」
「あぁ、なんとか…閉じれるだろ、閉じるか?」
そう言いながら、閉じに行こうともせずに、ギンコは化野の唇を塞ぐ。雰囲気出てる、なんてマサシに言われたが、それはギンコが化野を見る姿にだろうか。それとも化野がギンコを意識する様子にだろうか。
化野は、その想いを隠せている自信なんかなかった。ギンコはそもそもこの島で、そのことを周囲に隠す気がなかった。
ここは、蟲がヌシをしている不思議な離れ島。余所で隠さねばならないようなことも、ここではそうする必要が無い。ギンコはそれを、最初から分かっているのだった。
続
12/05/03
3 へ ↓
箱 庭 … 3
いつからか随分と波音が耳につく。それと同時に、何度でも繰り返されるギンコの声が、化野の頭の中で木霊しはじめた。ギンコは言うのだ。繰り返し言うのだ。
苦しくないか?
頭が痛くならないか。
吐き気はしないか?
なんともないか。
身を繋げた辺りから、喘ぎながらもギンコは言い続けている。今夜はあんなふうに、はっきりと自分から誘ったくせに、その言葉だけは忘れたりしない。
平気だって、なんともない。
痛くない苦しくない大丈夫だ。
ゆっくりと、或いは激しく突き上げながら、返事する言葉にはまるで心が篭っていない。だってお前をもっと、縋らせたいと思っていたのだ。この島で、この家で、こうして腕の中で、こんなときくらい頼って縋って欲しいと。
一度、二度と、化野はギンコの中に放って、ギンコもやはり、二度追い詰められては弛緩して、随分疲れて、二人して大人しく横になったとき、ギンコはじっと化野の顔を覗きこんで、ぽつりと短く、何かを言った。
「……せ、だよ」
「ん、今…なんて?」
「………」
聞き取れずに尋ねながら、ギンコの口元がうっすらと笑っているのに、化野は気付く。
「なんて…?」
「…いいんだ、お休み、化野」
重ねて聞いても答えてくれない、その言葉が分かった気がして、化野もこう言った。
「あぁ、俺もだから…」
顔を寄せて、そっと額をつけてそう言えば、聞こえてくるのは静かな寝息だけ。なんでそんなに逃げるのが上手いんだ。俺にばかり本音を言わせて、お前はいつも俺の手から逃げている気がする。腕の中にいるのに、だからいつも、少しだけ切ないんだ。
焦らなくてもいい、ここで、この島でこの家で、ずっと二人で暮らすのだから。死ぬまでだって、離さないのだから。
「………」
一瞬、何か針のようなものが、胸に刺さった気がした。でも化野は、それに気付かない振りをし、無理にでも目を閉じる。寄せる波のように、ひたひたと睡魔が訪れて、夢も見ない眠りの中に、彼をいざなって行った。
翌朝、化野の目覚めを促したのは、鳥の声だった。
傍らにギンコの姿が見えなくて、反射的に飛び起きると、肌を覆っていた昨日の服が、素っ裸の体の上からずり落ちた。一つの鍵すらないあばら屋で、しかも確か昨夜は、雨戸を少し開けたままだった筈なのに、こんな無防備な格好で朝まで眠っていたとは、自分のことながら少し呆れてしまう。
手早く服を身につけて、化野はあたりを見回した。雨戸をガタガタ言わせながらも、壊さないように気を使って開け、丁度今、草ぼうぼうの庭に入ってくるギンコの姿に気付く。ギンコはその左の腕で、細かい枝の束を脇に抱え、もう一方の手はアルミのバケツをぶら下げていた。
「ギンコ…!」
慌てて駆け寄ろうとするが、昨夜縁側の外に脱いだはずの靴が、履きにくい場所に引っ込んでいる。ぎしぎしと脆そうな音を立てながら、板の間で足踏みする化野を、呆れたようにギンコは咎めた。
「来ねぇでいいから、そこ、また踏み抜いてくれんなよ?」
「あ、あぁ、うん。どうしたんだ? それ」
「隣家にバケツを借りに行ったんだが、火くらい焚くだろうってんで、焚き付け用の木っ端を分けてくれたんだ。握り飯もあるぜ。有り難いもんだ」
バケツの中身は、水筒と小さな布包み。布を開くと、海苔を巻いた握り飯と漬物が出てくる。隣家。思わず首を伸ばして庭の外の斜面を見下した。遥か彼方に錆色をしたトタンの屋根が見えたが、あんな遠くの家のひとが、そんなに親切にしてくれたのか? 来たばかりの余所者に…。
「あ、金を払って…?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど」
ふ、と笑いながら、ギンコは薪とバケツを足元に置いて、縁側の大丈夫そうなところに食べ物と水筒を並べた。こんな大きな握り飯を六つもだなんて、昼の分でも余りそうだ。思った通りにそう言えば、ギンコは何故か首の後ろを掻いて、荒れ放題の庭を見渡している。
「そうかね、足りねぇくらいだと思うけどな」
ギンコの言ったその意味を、一時間もしないうちに化野は思い知ることになった。朝飯として一つずつ握り飯を食べたあと、先に借りてきていたらしい鍬や鎌を、ギンコが化野に差し出したのである。
「さて、足の怪我が痛まねぇようなら、さっそく庭からやろうぜ。化野。まずこの草をなんとかしねぇとな。雑草取りだ」
化野は指図された通りに地面に膝をつき、庭の隅であろう場所から草を刈り取っていく。その後でギンコが鍬を古い、土の中に張った草の根を土ごと一度掘り起こしていく。鎌など持ったことも無かった化野だったが、そろそろコツがつかめて手際よくなって来た頃、ふぅ、とギンコが息をついた。
「案外、音ぇあげねぇな、化野先生」
「いやぁ、なに、これくら…い…ってて…!」
「腰か? 肩か?」
「こ、腰…ぃ…」
いきなり響いた化野の悲鳴に、ギンコは驚いたように眉を上げる。
「あぁ…! いきなり背中反らしたりするからだっ。ったく医者とは思えねぇな。少し休もう」
草刈りを始めてから、気付けばもう三時間も経っていたが、表側の庭がようやっと半分かそこら綺麗になったところで、まだまだ先は長そうだ。これで庭が綺麗になっても、ここを快適に住めるようにするには、あとどれだけの時間と労力がかかるものだろう。
音をあげねぇ、と見直して貰えたばかりだというのに、それを思うと早くも凹んでしまいそうだ。そんなわけで、差し出された水を受け取る化野の顔は、やや曇り勝ちになっている。
「ほれ」
「ん」
小さなマメが出来かかって、じんわりと痛い手のひらで、化野は握り飯を受け取って。
「ぅお…!」
「…どうした?」
「美味いな! 凄く美味い! さっき食べたのよりずっとっ」
「そうか? 同じもんだぜ?」
分かっていたが、別物としか思えないくらい美味しく感じた。しょっぱめの塩加減も、中に入れてある種を抜いた梅も。ただの水さえもが、少し甘みを伴って身に沁みる。
「美味いなぁ」
「そうだろう。そういうもんだよ」
「よぉし、残り一個も食べたいが、それを褒美にして草むしりの続きを…!」
「…お前って」
白いワイシャツの袖をまたまくって、放り出してあった鎌を拾う化野。その背中にギンコは何かを言い掛けた。
「あ?」
「……いや、気のせいかな。それともそれが元々なのかもな」
「何のことだ?」
「いや」
もう庭の隅へ行って屈んでいる化野の姿を、ギンコの目が嬉しそうに眺めている。この島へ来てからの化野は、まるで昔のあの『化野』そのままのような…。そっと目を細めて見たギンコの視野には、様々なものが、黄昏に褪せた色で映っていた。
たった今、化野が屈んでいるところには、紫陽花が一株あった。その奥には、春竜胆が咲くんだ。こっちの日当たりのいいとこには、薬草を栽培する小さな畑。向こうには、確か洗濯物を干す竿を立ててたよな。
敷布なんぞをそこに干すと、道からすぐは家が見えなくなって、知っててわざとみたいに、お前は俺に手を伸ばしたりしたんだ。まるで昨日のことのようで、切ないよ、化野。
「おーい、まだ休んでんのか、ギンコ。次はここらへんからやってくれ!」
そう言って指差すより少し奥には、小さな蕾をつけた花。刈り取らずに残したその花は、化野の優しさを受けて、きっと立派に咲くだろう。
「なぁ、その花、なんていうか知ってるか…?」
分からないだろうと思ってギンコが問うと、化野は鎌の手を止めて言った。
「……ミヤコワスレ…。前にどこかの庭で見たんだが、結構増えるんだよ、これは。ここら辺に沢山咲くと、きっと綺麗だろうと思ったんだ」
心配しなくても、都会のことなどもう忘れた。
どんなに不便だって、生活の何もかもが手間だって、
ここが俺の終の住処さ。
ゆっくりと振り向いた目がそう告げているようだった。ギンコはそっと目を逸らして、ざくり、と鍬を振り下ろした。鍬の刃は深く刺さる。刺さっては、その奥に隠れていたものが掘り返されてくる。
あぁ、幸せだよ
まるで夢のようなんだ、化野
夢はいつか
覚めてしまうけれど
続
12/05/20
4 へ ↓
箱 庭 … 4
「残りは、一個だったな」
化野が草を刈りながらそう言った。何の事を言ってるのかすぐに分かって、ギンコは笑いながら、そうだ、と言った。
「一人に付きな。だから言ったろ? 足りねぇって。なんなら俺のも喰うか?」
「うぅ…。認めたくはないが」
注意しながら腰を伸ばして、化野は目の前に積みあがった草の山を見やる。随分頑張っているつもりだが、裏庭も含めたら進み具合はまだ半分以下だろう。手の豆をさすりながら、化野の後姿までがしょんぼりしていた。
「…ほんとに俺は『都会育ち』だったよ、こんな程度で疲れきって。今まで大して金に困ったこともなかったし、金なんかあっても買い求める食べ物や、店が無い、なんて、そんなのは想像もしてなかったんだよ」
草を刈る鎌の手を止めたまま、重たい口調でそう言った化野に、ギンコは、ぷ、と軽く吹き出した。
「何を言うかと思えば。買って手に入れる以外の方法が、全然思い浮かばねぇってとこが、何より一番『都会育ち』だぜ? 化野。ほら、見なよ」
「ん?」
言われて顔を上げれば、坂の下の方から、こちらへ向かって登ってくる一団が。五人、六人。ひょっとしたら十人もいるだろうか。男は手に手に鍬やら持って、女も頭に布など被り、湧き合い合いと近付いてきた。
「…? なんだ?」
「何って、そりゃ手伝いに」
「おっ、やってるねぇっ、二人とも」
ノコギリを振り上げて、遠くからそう叫んだのは大工のマサシだ。時代物の映画でしか見ないような道具箱に、金槌だのなんだのを詰め込んで、ガッシャガッシャと言わせながら、彼は真っ先に坂を駆け上って来る。競うようにその後ろについてくるのは子供らで、さらにその後ろは老若男女、いろいろ。
「手伝い…。いや、子供まで、なんで…?」
「さてな。昨夜会った先生もいる」
子供らを一まとめにするよう、大変そうなのは自分を先生なのだと言ったカズアキだった。頓着なく庭に入ってきたマサシは、二人がしていることを見て、感心したように頷く。
「ほぉ、草むしりから入ったか。悪かねぇなぁ。この人数だし、作業の場所は広い方がいい。よぉしっ、みんな! まずは床板引っぺがすから、畳剥ぐとっからやってくれ。南側とか、風通し良さそうな場所から順にな、じめじめしてるとこは、十中八九腐ってっから踏み抜くなよーっ」
掛け声一つ。男たちは軍手をはめた手で、一斉に床に取り掛かる。その一方で女は障子を取り外し、すだれになった紙を濡らして剥がす作業を始めた。皆慣れたように手際がいい。子供は子供で、先生の言う事を聞いて、刈り終わった草を退かすやら、大人の傍で手元を手伝うやらで中々の働き手だった。
「あ、あ、え? あの…」
「手ぇ止めんなって。…礼は後でまとめて言やぁいいよ」
「で、でも、これって」
みんな仕事でしているんじゃないだろう? 金を払わせる気の人間なんか、きっと一人もいなくて、みんな好意で来てくれているんだろう?
「あの…っ」
ギンコが作業を黙々と続ける横で、化野はすっくと立ち上がって声を張り上げた。
「いっ、いいんだろうかっ。みんな自分のこととか仕事とかあるだろうに…っ。俺はまだこの島で、何にも役に立ってもいなくてっ」
皆は驚いたように、顔を上げて手を止めた。そして一人一人がそれぞれの反応をして、けれど何も言わずに作業に戻って行った。あるものは頭を掻き、あるものは照れたように赤くなり、眉を上げただけのものもいたし、にっこりと笑って見せたものもいた。
化野は感極まったような顔をして、さらに礼を言おうと息を吸い込み…。その途端にゴツンとうしろから背中を蹴られて、彼は草の中にのめった。
「ごちゃごちゃ言わねぇでいいんだよ。みんなセンセの言いてぇことは分かってんだから」
草に突っ伏したままで後ろを見れば、立派な角材を肩に担いだ漁師のトクジが、太い笑い顔で右足をぷらぷらとさせている。どうやらその足で蹴ったらしい。
トクジは化野の返事など待つ気もないようで、角材を抱えて庭を横切っていく。ひょいひょいと人を避けるのが見事だと思った。漁師のはずが、大工にもなれそうな。それへ手伝いに書けつける人数も、多くも無く少なくも無く。
「さすが、息が合ってんなぁ」
「…本当だな。俺も頑張らないとっ」
ぐぅぅ。
張り切った途端の化野の腹の音を聞いて、ギンコとその近くにいた子供が同時に吹き出した。そういえば、さっきから腹が減ってはいた。だが、こうして島の人々が来てくれているのに、自分が休んで食事をするわけにもいかないだろう。切なく腹を撫でながら、草取りを再開しようとした化野の目の前に、にゅ、と小さな手が出て、茶を差し出している。
「疲れたら一休み、だよ? その方が、コーリツがいいって!」
「あ、あぁ、でも」
にこにこと笑う子供を前にして、躊躇している化野の前に、今度は握り飯が運ばれてきた。子供たちの作業を上手く統率していたカズアキだ。
「どうぞ。朝からずっと働き通しでしょう。なら休んでおかないと。これだけの人が来て動いてるんだから、その間ずっと休まず喰わずってわけに行かないですよ」
「いや、でも…」
「そうですか? 仕方ないな。なら一緒にだったらどうです? わたしも疲れたから失礼して」
どっこらしょ、とその場に腰を下ろし、水筒の蓋に茶を注ぐと、カズアキは早速握り飯にかじりついた。ゴマ塩握りがこれまた美味そうで、化野の腹がまた、ぐぅ、と鳴る。今にも涎を垂らしそうな目で見て、とうとう化野は降参した。
残してあったおにぎりを取り出し、幸せそうに頬張る傍で、子供が数人と、ギンコも同じように一休みして腹ごしらえを。大事そうにご飯粒の最後の一つまで口に運んで、茶を啜りながら、化野は心底驚いたような顔で皆の働き振りを見つめている。
「…まぁ、ここではこうして、皆がそれぞれに出来る事をして、助け合ってゆくしか方法はないですから」
「え…?」
何も言葉にしていないことを言い当てられた気がして、化野はカズアキを振り向いた。
「島の暮らしのことです。ここじゃぁ、金を払って業者を呼ぶことも出来ないし、ホームセンターに行って使い易い道具や材料を選ぶこともできません。だから自然と互いに支え合う体裁になる。まったく、いい暮らしだと思いますね。来たばかりの化野さんには、まだそうは思えないかもしれないですが」
言い終えると、彼は満足そうに笑って自分の作業に戻って行った。その背中をなんとなくぼんやりと見送っていると、いつの間にか傍から消えていたギンコが、茶碗を一つ持って戻ってくるところだった。中身はただの水のように見える。
「? なんだ、その茶碗」
「裏の井戸、もう使えるようにしてくれてたぞ。ちゃんと枯れずに水が来てたみたいだ。ほら、冷たくて美味いぜ」
「井戸水か。初めてだ」
化野は万が一にも零さないように、大事に両手で茶碗を受け取り、勿体無そうに一口だけ飲んだ。そしてそのあまりの美味しさに、さらにもう一口。もう一口と。
「…あ、飲んでしまった」
もっと欲しい、と喉が欲している。今まで蛇口をひねっただけで、簡単に飲めた水とこの水とが、同じ「水」という名だなどと、まるで冗談のようだと思った。それほど美味い。
「待てよ? 井戸って…、どうやって水を汲むんだ…?」
「はは。知らないのか? なら教えて貰えってくればいい」
「そうしよう! 無知は恥じゃあないからな」
そう言って、化野は鎌をそこらに放り出し、さっさと裏へ行ってしまった。まるでガキのようだ。まわりで何人か手伝ってくれている子供らよりも、まだガキなんじゃないだろうか。あの生き生きした目ときたら。
近くにいた人に手伝って貰いつつ、垣根の壊れたところを直し始めたギンコだったが、やがて裏の方から歓声が聞こえてきて顔を上げる。化野が生まれて初めて、釣る瓶で井戸水を汲み上げて喜んで、その無邪気な様子を皆で囃し立てているらしい。
声が聞こえるばかりでここから姿は見えないが、きっとおかしいくらいのはしゃぎぶりなのだろう。見に行こうかと腰を浮かせかけた時に、家の中で、ぎゃ、という短い悲鳴が聞こえた。どうやら誰かが怪我をしたらしい。
痛ぇよぉ、とかなんとか聞こえたとほぼ同時にに、化野の穏やかな声が聞こえてきた。安心させるような医者の声。
「どこをどうした。何、金槌で指を? どれ」
井戸端の賑やかさに気を散らして、エセ大工のトクジが釘ではなしに指を打ったらしい。
「あぁ、人差し指の爪が少し浮いてしまってるな。幸い剥れても割れてもいないが。誰か! すまないが清潔な布があったらここへくれ! それからさっきの水っ。…ええと、あとは裁縫の糸が欲しいんだが」
「あ、あたし裁縫セット、持ってます!」
遠くから若い娘の手が上がる。化野はトクジの片手を強引に掴んで、浮いてしまった爪を押さえ、ぎゃあぎゃあと悲鳴が上がるのも構わず、傷を真水ですすぎ、きれいな布で指先を覆って、その上から糸をきつめに巻いて、余った糸を歯で切った。
「よし。これで大丈夫だ。血も止まるし、爪もちゃんとくっ付く。数日片手が使えないが、それくらいは我慢して」
「あー、既に少し痛みが引いてきたよ、先生。ありがとうなぁ。患者第一号は、なんと俺だったかぁ!」
「おいおい、嬉しそうに言うことじゃないぞ」
「わっはっは、違いねぇっ」
呆れた声の化野のまわりには、なにやら人だかりが出来ているようで、ギンコのところまで、あまり声が届かない。お前、既に人気者だな、と、遠い過去を思って彼は笑った。こういうところで嫉妬はしない。昔のあいつがそこにいるようで、ギンコには嬉しいばかりだ。
「…痛…っ…」
その時、細い荒縄できりきりと垣根の竹を縛っていた手の甲に、赤く一すじ色が走った。尖った枝で切ったのだ。傷は深くて、血が手首までも流れていこうとする。ぱた、ぱた、と膝に雫が滴り落ちて、ギンコは咄嗟にそれを服の袖で隠した。
痛みはある。だがそれはあっと言う間に薄れて消えていく。この程度の傷なら、ほんの数分で跡も残らず消えて…。ほら、もう殆ど痛くなくなった。不老不死のこの体の、なんと便利な…。
「ギンコ…!」
「…あ? どうした、そんな顔して?」
いつの間にか目の前に来ていた化野の顔が、酷く怒っていた。目を吊り上げてギンコを見て、そのシャツの裾やズボンについた血の跡を、彼は見下ろしている。
「怪我したのか…っ、どうして言わない!? なんで隠したり…っ。診せろっ」
「…ッ、大したことねぇって。やめ…っ」
怪我人にする事か、それが。その乱暴な手が。分かっている、案じるが故だと。でも…。
腕を捕まれ、引き寄せられ、息を吐く間もなく袖をまくられた。化野の剣幕に驚いて、その時も一番近くで仕事をしていたカズアキが、顔をこちらへ向けて見ている。その目が一瞬で見開かれ「それ」を見たのがはっきり分かった。
血の跡も生々しい深い傷が乾いていき、その裂けた皮膚が見る間に塞がっていく様を。そして勿論、化野も見ていた。完全に失念していたのだろう、ギンコの体のその、特異な治癒能力をだ。
「…あ…」
腕を掴んでいた化野の手が離れた。彼はギンコの顔を見て、声にならぬ唇で、すまん、と呟いたようだった。
「だから…。言ったろ。大したことねぇ、って…」
ギンコは袖を元に戻して、静かにそこから離れた。直し掛けの垣根の切れ目から庭の外へ出て、少し歩いて海風の駆け上がってくる斜面で身を屈めた。袖の上から触れた傷には、もう痛みのカケラもない。痛みもしない傷のことで、大事な人が痛むのは辛かった。
「馬鹿…。そんな顔すんなよ。おかしいのは俺なんだから」
12/06/01