路地裏の子犬
** 5
エレベーターを出て廊下をどんどん歩いていき、部屋のドアを開けようとして、クマドは思わずキーを持つ手を止めた。たった今ムジカから聞かされた話は、正直少し気に障った。
自分とはまだ会話すら少ないというのに、イサザは彼とはもう、笑い合って寛いでいるのかと思って、がっかりすると同時に、彼は今までの自分を振り返ってもみるのだ。
まぁ、威圧感…が、あるのは認める。この体格だし、無口で無表情。優しくしたとはお世辞にも言い難い。その上、オフの日なのにわざわざ仕事に出かけたりして、そうなれば帰宅は深夜。実際クマドの方が逃げているともいえる。
かと言って、今更のように豹変して親しげな態度になろうなどと、そんな天変地異が起こりそうな真似は、とても出来そうになかった。溜息を吐きながら、彼は鍵穴に鍵を差し込んで…。
「こらこらこら…っ」
ムジカが凄い勢いで、エレベーターホールから走ってきて、クマドを引き止めた。どうやら彼とは別のエレベーターで、必死になって追ってきたらしい。
「話の途中でいっちまうんじゃない、ったく…!」
よく追いついたものだ、とムジカは思っていたのだが、多分それは、クマドが部屋に入っていくのを、少なからず躊躇ったからだ。それを知ってか知らずか、ムジカはドアの前からクマドを引きずり離して、声が室内に聞こえないように、顔を寄せてこう言った。
「今日、ちょっと色々話させようとしてみたんだが、察してたとおりというか、やっぱりあいつは元の主人に捨てられたらしいぞ。随分酷いことも言われたようでな。それがあいつの心に傷をつけちまってる。…結構、長く掛かるかもしれん…」
「酷いこととは…?」
「……それは、まぁ、今は聞かん方がよさそうだ。その様子だと、お前、冷静にゃ聞けんだろ」
「…あぁ……」
臓腑の底から吐き出すように、クマドは深いため息をついた。壁に背中を預けて、彼は黙ってムジカの顔を見る。
「それで…体の方は…?」
「前にも言ったが、薬はもう殆ど抜けとるようだ。最初からそれほど強いものじゃなかったようだし『御主人様』とやらの言いつけを守って、一箇所から動かなかったのもよかったんだろう」
これはムジカの想像だったが、きっとどんなに寒くとも淋しくとも、イサザは自分の御主人様に命じられた場所を動かなかったのだ。薬が切れて苦しくなっても、そのままそこに蹲ってやり過ごしたのだろう。そこで彼がもしも夜の街を徘徊し、誰かから薬を与えられていたら、今、イサザはここにはいないかもしれなかった。
それを聞いたクマドは、おのれの胸に渦を巻くような、黒い感情に顔をしかめた。
確かに、それがイサザを薬物中毒から救ったのかもしれないが、そんなものはただの「結果」に過ぎない。その「御主人様」とやらは、彼があんなに溺れるほど、長い間可愛がって、心の底から信じさせておいて、モノのように捨てたのだ。
「そう怖い顔をするな」
ムジカはまるで宥めるように、クマドの肩を軽く叩いて、とっておきのことを彼に教えてやった。
「出掛けんでもいい日に出掛けたりせんで、今度の休みは傍にいてやれ。あいつが笑ったのは、お前のことを教えてやってたからだ。聞きたそうな顔してたんで、ちょいと聞かせたら、にこにこ、っとな」
「そうか、イサザが…」
それを聞いて、ひょい、とムジカは眉を上げた。名前はまだ聞いてないんじゃなかったのか? この嘘つきめ。
「じゃあな。明日も午後から様子を見といてやるよ。とにかく、焦らずゆっくりだぞ、クマド」
よろしく頼む、との言葉も言い忘れ、クマドは今度こそ急いで部屋のドアを開けた。眠っているかもしれないから、極力そうっと入って行ったが、それでもイサザには気付かれてしまった。
なんだか薄っぺらに盛り上がった布団が、もそ、と小さく動いたと思ったら、毛布の中にもぐっていた顔が外へ出て、半分寝ぼけたような目がクマドの姿を見る。
「…帰ってきたんだね、クマド」
「あぁ、すまんな、起こしたか」
「うん。でも俺、昼間も結構寝てるし」
そう言いつつイサザは身を起こして、ベッドの脇から床へと足を下ろした。でもどうしてか、彼はクマドをあまり見ない。
不自然に毛布を引き寄せて、寝巻き代わりのシャツの胸の辺りまで引き上げているのは、寒いのか…それとも? クマドは何の気なし部屋を見回して、バスルームへのドアが開きっぱなしなのに気付いた。浴室の扉も開いている。なのに使った様子はない。置いてあるタオルも着替えもそのままだった。
「シャワーを使いたかったのか?」
「あ…明日、借りるよ…」
「目が覚めてしまったのなら、今入ればいい」
そう言いながら、クマドはベッドに近付いた。イサザは目を見開いたが、反応を返す前に、あっというまに毛布ごと抱き上げられて運ばれる。浴室の前に下ろされた途端に、彼は酷く怯えた顔をした。
「あ、明日でいいよ…っ、今、だなんてっ」
「遠慮はいらん。足がまだ少し萎えてるだろう。支えているから、服を…」
「…やめて、嫌だ。嫌だよ…っ、クマド…! み、見ないで…」
毛布の端を軽く引っ張られ、イサザは悲鳴のような声を上げた。クマドは驚いて、一度は手を離そうとしたが、思い直してさらに強く支えた。
イサザは首が折れてしまいそうなくらい深く項垂れて、毛布にに包んだ自分の体を抱いたまま、ガクガク震え続けている。
あぁ、こんなに痩せて、気味の悪いほど細くて尖ってて、ゴツゴツと硬い体なんて、誰が欲しいと思うだろう。こんな醜い体を見られて、御主人様に捨てられた時みたいに、またクマドにも嫌われたら、もう、どうして生きていったらいいか、分からない。
イサザの顔は真っ青で、唇の色さえ褪せていた。それは「恐怖」という名の発作だ。例え誰かが今、どんなに優しい声で彼を慰めたとしても、そんな言葉一つすら届かないほどに、この瞬間の彼は、臆病で脆い。
「イサ…」
「お願い…。お願いだから、俺を見ないで…。見ないでよ…こんな、みっともな…」
「みっともないなどと思ってない」
「嘘だ…誰だってこんな…っ」
「……思ってない。いいから、脱げ…」
クマドの声が、殊更に低い。びくり、とイサザの体が震えて、そうして彼は、か細い声でこう言った。
「うん、分かった。言うこと…聞くよ……」
続
** 6
「うん、分かった。言うこと…聞くよ……」
聞き覚えのある言葉だった。見覚えのある姿でもあった。イサザはどこか空虚な顔をして、その両の目を涙でいっぱいにして、すぐにぼろぼろと泣きながら、命じられた通りに服に手を掛ける。クマドの貸した寝巻き代わりの服を、イサザがたどたどしい手付きで脱ぐと、ぞっとするほど痩せた体が現れるのだ。
震える息遣いで、イサザは言った。
「醜い…でしょ…? みっともなくって、気持ち悪くって…。ねぇ、この前、あんたも言ったよ。…ど、どこもかしこも…骨の浮き出た、そんな体…っ、て…」
クマドはやっと理解した。どうして風呂を嫌がったのか。どうしてこんなに怯えているのか。それは、ただ、見られたくないというだけじゃない。痩せて醜くなった体を見られて、愛想をつかされ、「こんなものいらない」と言われるのが怖いのだ。
いつでも、持ち主の心ひとつで、ぽい、と簡単に捨てられてしまう、使い捨ての何かみたいに、また投げ捨てられるかもしれないと思っているのだ。
「あぁ…そうだな。どうせ抱くんなら、抱き心地のいい体の方がいいに決まってるが…」
「……ひ…っ、ぅ…、うぅ、ぅ…」
クマドの言葉を聞いて、イサザは床に座り込んだ。小さく体を丸めて、しっかりと自分の体を抱いて震えた。怖いほど痩せてはいても、彼の背中は真っ白くて、元はさぞ綺麗だっただろうと思う。そうして、その「御主人様」とやらに、ずっと愛玩されてきたのだろう。捨てられてしまう、その瞬間までは。
うずくまって泣いているイサザの傍で、クマドはバサバサと自分の服を脱ぎ捨てた。上着もシャツもズボンも下着も、全部脱いでは放り出して、真っ裸になってから、身を屈めてイサザの腕を掴んだ。服を脱ぎ捨てていた仕草の乱暴さに、たっぷり滲んだ苛立ちは、見も知らぬイサザの「元飼い主」に向けられていたのだろう。
「来い。風呂へ入れてやる」
「…俺のこと、…す、捨てるんじゃ、ないの…?」
「誰がそんなことを言った? 俺のものになったのなら、お前をどうするか、それは俺が決めていいんだろう」
「クマド…」
「なんだ」
無理に立ち上がらされて、イサザはクマドの力強い両腕に、自分で縋りついて聞いた。
「俺、ここにいて、いいの…?」
「あぁ、ここにいろ。お前は…俺のものだからな」
「うん…。クマド…うん、ここに…いる、あんたの言うこと、俺、何でも聞くよ」
従順過ぎて、見ている方が胸が痛くなるくらいだった。バスルームへ連れて入り、普段は使わない椅子に座らせ、ごつごつと痩せた背中を、クマドは洗ってやった。
温めの湯をためたバスタブにつからせれば、体を洗っているクマドの立派な体を、イサザは見惚れるような目で見ている。さすがに辟易して「少し向こうを向いてろ」と、一こと言えば、ちゃんと下を向いて見ないようにするし、髪を洗うのも、他に何をするのも、イサザはちゃんと言うとおりにするのだった。
そうして、言われた通りに髪を乾かした後で、イサザはいつものベッドに入った。
自分より後で風呂から出てきて、タオルドライしただけのクマドは、キッチンのテーブルで、何かほんのちょっと、書き物らしきことをしてから、自分の髪が殆ど乾いているのを確かめ、肩に引っ掛けていたタオルを洗濯物の中に放り入れる。
「…詰めろ」
「あ、うん…」
「さすがにこうも連日、ソファで寝起きするのは疲れる」
「え…?」
イサザが聞き返しているうちに、クマドは布団を大きく捲り上げ、ベッドの片側半分以上を、見事に占拠して横になった。セミダブルにしても大きめのベッドだから、二人で寝ても肌が触れるわけじゃない。それでも温もりが伝わって、すぐに睡魔が訪れた。
「…クマド……」
「何だ」
「…何でもない。おやすみなさい」
「あぁ…ちゃんと毎日、眠れてるのか?」
「うん」
それだけ言って、イサザはそのまま口を閉じたが、互いの鼓動まで届きそうなきの距離で、クマドの息遣いを聞きながら、今夜ばかりはそんなに眠れないかもしれない、と、そう思っていたのだった。
そうして朝、クマドは肩先に、小さな温もりを感じながら目を覚ました。その温もりの他にも、あたたかな息遣いを背中に感じている。顎を少し以外、なるべく動かずにそっと窺えば、イサザがぐっすり眠りながら、後ろからクマドの肩に額をつけているのだった。
「……」
仕事は夕方に出れば充分間に合うから、急いで起きる必要もなかったが、目覚めた後、いつまでもだらだらとベッドに居座る習慣がなく、クマドはほんの少し、体を捩じるようにして脱出を試みる。
「ん…」
「…」
起こすのも忍びない。あと少し横になっているか、と、諦めて目を閉じるが、はっきりと覚醒してきた体で、イサザの息遣いを数えていると、少々困った現象が身に訪れる。
「…面倒な……」
ぼそり、と呟くクマドの体が、性的な訴えを微かに起こしていたのだ。彼も成人した男だ。こういう状況もそれほど珍しくはない。隣に誰かがいようといまいと、ありうることではあるのだが。
もう一度顎を上げて、クマドはイサザの寝顔を見た。痩せて頬がこけているが、整った顔をしている。もう四、五年も若ければ、美少年、と言われても納得しただろうと思う。いや、美形というのとも少し違うが、そう言いたくなるような雰囲気がある、と言えばいいのか。
スグロには、見せない方がいいな…。
うちの店で働かないかと、困った勧誘をしそうな気がする。いや、するだろう。十中八九、するに決まっていた。ああ見えて、商売には抜けめがない男だから。
はぁ、と色んな意味で溜息が出て、クマドは居心地悪そうに片足の位置をずらした。存在を主張する部位が窮屈だったからだった。
「厄介な…」
さっきと似たようなことを言って、クマドは為す術もなく、じっと顔を顰めているのだった。
続
** 7
目を開けたら、すぐ傍に「山」が見えた。前に見たときと違って、山の向こうから日が上りきっているらしい。「山」の輪郭は光を帯びてはいなかった。ぼんやりとしながら顔を離すと「山」は山らしい低い声を出した。
「起きたか、イサザ」
「あ、うん…」
「そうか」
クマドという名の山が動き出す。顔をざっと洗って、手早く部屋着に着替えると、冷蔵庫の中からパンやら野菜やら玉子やらを取り出している。
「お前も起きろ。もう普通のものも食べられる頃だろう。顔を洗ったらそっちの棚からカップを二つと、皿を二枚出してくれ。白い大きい皿だ」
「カップ…。皿…。う、うん、分かった」
いきなり命じられ、イサザは何故だかうろたえた。慣れないことだったからだ。朧になっている記憶の中で、彼が「御主人様」に命じられたことといえば、服を脱ぐように、だとか、四つん這いになっていろ、だとか、動くな、だとかばかりだったから。
棚の中の食器は整然と並んでいる。カップも皿も同じものが綺麗に二つずつあって、イサザは命じられた通りのものを取り出し、それをクマドの方へ持っていった。
「足はもうふらつかないか…?」
振り向きもせずにクマドは言って、イサザがクマドの背中を眺めるばかりで、返事をし忘れていても気にかけていないようだった。
「あ…、今、なんて?」
「…いや、いい。見れば分かることだった」
大きなフライパンの中身は、二つ一緒に作っている目玉焼きだった。冷蔵庫からパックの牛乳を取り出して、それをイサザに言ってカップに注がせ、レンジで温めさせている間に、クマドは皿に目玉焼きを移す。皿の端に切ったトマトとレタスをのせ終えると、丁度トースターでパンが焼けていた。
簡単なものとは言え、手馴れた様子はイサザにもわかって、自然と彼は笑っていた。似合うような、似合わないような姿がおかしくて。クマドは椅子を引いてテーブルにつき、イサザにも向かいに座るように言って、パンにバターを塗りながら独り言のように言った。
「初めて見た」
「……え?」
「そういう顔だ。笑っている」
イサザはまるで、顔に何かついてる、とでも言われたように、自分で顔に触れて頬を撫でた。表情が戸惑うものに変わっていって、笑顔が消えてしまうと、クマドはそんなイサザを正面からじっと見つめた。
「ムジカから聞いた。俺のことを話せば笑うのか?」
「…え、わかん…ないよ。でも…」
「俺の何が知りたい?」
いきなりそう問われても、何を聞いたらいいのか分からない。
「あの、じゃあ…いつも出掛けてるのは、仕事なんでしょう? クマドの仕事って、どんな?」
聞いてもクマドの表情は変わらなかった。彼は返事もしなかった。…が、返事もしないままで、パンを持った手も宙に浮いたままで、十数秒も動かなかった。
「ク、クマド…?」
「あぁ…。仕事か…」
パンに齧りついて、その一口を咀嚼して飲み込んでしまってから、クマドはやっと答えたが、答えないのと同じような返事だ。
「接客業だ。…お前も食べろ。冷めるぞ」
その後は、いっさい噛んでいないのじゃないかと思う勢いで、クマドは自分の分を食べ終えた。牛乳を飲み干し、そのカップをテーブルに置きもせずに、皿をもって立ち上がる。キッチンで自分の食器を洗ってしまうと、彼は、仕事に出る、とだけ言い置いて、すぐに部屋を出てしまった。
「ほぅ、なるほど、そりゃいいんじゃないか?」
聞かされた言葉に返事をした途端、ムジカはクマドに睨まれた。朝っぱらからいきなり押しかけてきて、唐突に切り出された話はこうだった。
イサザに仕事は何をしてるのかと聞かれた。答えるのに躊躇して言えなかった。そもそもイサザを拾ってきたことは、既にスグロに知れているし、今に興味津々で押しかけてくる。そうしたらきっと、スグロはイサザを店で働かせろというだろう。
と、そう言ったクマドの言葉に、ムジカが答えたのがさっきのセリフだ。
「正気か? ムジカ」
「朝っぱらから酔ってなんぞいやせん。今日はな」
「そういう意味で言ったんじゃない。あんたはイサザを可愛いと思っているんだろう。どういう暮らしをしてたかも察しがついてて、どう傷ついてるかも知ってて、それでもあんた、イサザをスグロに差し出すのか?!」
溜息をついて、首をひょいと傾げると、ムジカは部屋の奥へと入って行った。窓のところまでいって、そこから見下ろせる飲食街を眺めながら、彼は目を細めて笑っている。
「そう悪い仕事じゃあないだろう。悩める人間の気持ちを、一時でも楽にしてやれるいい商売だ。スグロが作った店のお前の仕事は、確かに胸張って誰にでも言えるもんじゃないが、それでもお前さんや他の男らが、やりがいもって好きでやっとるのは、俺も知ってるんでなぁ」
無表情のまま苛々をたっぷり滲ませているクマドに、ムジカは酷く面白そうに、笑ってこう言った。
「お前、今、娘を思う過保護な父親みたいな顔をしてるぞ、クマド」
「もういい、仕事にいく。後であいつの様子を見てやってくれ」
「今からか? 随分早いが? あぁ、同伴? それにしたって早すぎると思うがな。ま、頑張って稼いでくりゃあいい。今やお前にゃ、可愛い娘がい…」
バンっ、と激しくドアが閉められ、ムジカは堪えられずに笑い出すのだった。
マンションの外へ出ると、クマドは仕事のために無理にでも気持ちを切り換えた。時間は確かに早いが、ムジカの言い当てた今日の「同伴」は、かなり他の客相手と勝手が違っているのだ。郊外へ向かう電車に乗ると、家の近くの駅から、軽く二時間近く離れた町で、クマドは下車する。
ホームに電車が滑り込むとき、端の方の古びたベンチに彼の「客」が座っているのが見えていた。
「兎生」
名を呼ぶと、その子供は顔を上げる。トキ、と言う不思議な響きの名だが、兎という文字を使う名が、色白の彼には変に似合っていた。まだ寒い季節でもないのに、薄手のマフラーで首と顔の下半分を覆っているのは、理由のあること。
少年に見えるが、兎生は高校生で、兄の辰生は大学生。そして二人の父親は、酒びたりの酒乱な上に酷い暴力をふるうのだ。顔にまで巻いたマフラーの下には、一週間も前から行方知れずの父親が、最後に彼を殴った跡がある。そして母親はもう、半年も前に出て行ったきり。
「ごめんなさい、いつもこんな遠くまで…」
「いや、仕事だ」
「…忘れていたくて…」
「あぁ、分かってる」
年の離れた兄弟か、下手をすると親子みたいに見える二人で、人目を避けながらホテルに入る。狭いビジネスホテルでいい、その方が安いから。
ただ、クマドは不幸なこの子供に、ほんのひと時だけ何も考えないでいられる時間をやり、怖い夢を見ずに眠れるように、添い寝してやるだけのことだった。
彼は何も聞かない。興味の有る無しなど、思いつきもしないほどの無関心な顔をして。それでも兎生の体に触れるときは、痣の跡を避けて腕や脚を掴んだ。なでる時には逆に、痛そうな場所にわざと触れる。もちろん、かすめるように優しく…静かに…。
「僕のお父さんや辰兄さんも…クマドさんみたいに、優しかったらよかったのにな…」
最初に抱いて寝たときにそう言われた。酒乱だった父親は当然のことながら、彼は兄のことも怖いのだという。一度きり、酷く殴られて、それから怖くて堪らないのだと。
「こんなことをする父親や兄がいたら、余計に逃げた方がいい」
「嫌だなぁ、そういう意味じゃないよ」
クマドさんておかしい。そう言って笑われた。そんなふうにもっと笑えるように、傍にいる間だけでも楽にしてやる。それが彼と会うときの、クマドの仕事だった。
続
** 8
クマドには、そういう客が少なくない。中にはクマドの体つきを見て、それならさぞかし、などと下世話な理由で寝たがる相手もいるのだが、常連になってくれる客となれば、人に言えぬような悩みを抱えた人間が多いのだ。
そういう客と共にいる時も、クマドは変わらずいつものままだ。華やかさの一つもなく、酷く無口で静かで、大きな岩か、もしくは山のような、穏やかな存在感をまとってそこに居る。
中には自分の身の上を話す客もいるが、一言も言わない客も居て、どちらにしてもクマドは、何も聞かなかったような顔をして、買われた時間だけ彼らの傍にいるだけなのだ。もちろん、相手が望めばすることはするのだが。
「僕、最初はクマドさんに守ってもらいたくて声を掛けたんです。僕はこんなに小さくって、お父さんも兄さんも僕から見たら大きいから、手を上げられたら凄く怖くって…。でもクマドさんなら、こんなに大きくて立派な体してるでしょう? だから、僕を隠して守ってくれたらな…って」
「………そうか…」
「辰兄さんに、殴られたのは一回だけだけど…その一回で、お父さんに沢山殴られてたのと重なって…凄く怖くて、息が止まるくらい怖くって…。でもほんとは分かってるんだ、兄さんは違うって。…だから、怖がらないで、前みたいに、兄さんと話をしたりしたい…って僕…」
「あぁ」
思い出すと、怖くなりもするのだろう。兎生の体が震え出している。スプリングがぎしぎし言う安っぽいベッドで、クマドが寝返りを打った。彼は腕を伸ばして、兎生の小さな体を抱き寄せ、片手をその脚の間へと這わせていく。
「クマド…さん…、…ッ…」
ほんの少し嫌がるように身じろいだだけで、兎生はクマドにされるままに息を乱した。少しの間だけ、何も考えられないように。そうしてもう、すぐに眠れるくらい疲れさせて、夢も見られないくらい溺れさせてやる。
くれぐれも、情を移さないように。そう言ったスグロの言葉を、クマドは守らなければならない。受け取った金の分だけの快楽を、安らぎを、ひと時を…。
夜、クマドはまた電車に揺られながら、今度は店に向かっていた。いわゆる同伴ではないが、店に出る前に一仕事終えて、今度は店で客の相手をする。駅に下りたところでケータイが鳴った。
「はい」
「スグロだ。今、駅か?」
「あぁ、店にいくところだが」
「そうか、お疲れさん。お前の客の兄貴が、また追加の金を払いに来てたぞ。今、あと二回分くらいあるな」
兎生の兄、辰生は実は、クマドと兎生のことを知っている。知っていて、可哀想な弟のために、週に一度は店に金を払いに来ているのだ。生活のために大学をやめて、バイトで稼いだ金の一部だろう。
「……蒸発してしまった父親が、元々うちと同系列の店の常連で、先払いしてた金の残りがあるから、その金で俺があの子の相手をしている…。なんて、ツギハギだらけの嘘はそろそろ無理があると思うが」
「まぁ、そりゃそうだわなぁ…。お前の見た感じ、まだ怖がってんのか? そのガキは。そろそろ平気そうなら、会わしてみるって手もあるが」
これはまるでカウンセリングだ。受け取った金の分だけの快楽を、とかなんとか散々言っていた癖に、聞いて笑わせる。クマドが小さく鼻で笑った気配が、電話の向こうにも伝わったらしい。
「あ、お前、今笑っただろう。糞ぅ、今すぐ店に来い、お前、すぐだぞ!」
ブツ…っ。
いきなり電話を切られてしまった。言われなくとも店に行くところだと言っただろうに、と一人ごちながら改札を抜ける。体が大きいから人ごみは少々苦手だった。人がぶつかってくるのは構わないが、ぶつかった人が跳ね返って転んで、それで睨まれてもどうしたらいいか分からない。
幸い今日はぶつかられることもなく、駅前を過ぎて飲食街へと向かい、路地を通って店の裏から中へ入っていく。
「おー、こっちだ、こっち」
ドアの一つが開いて、何となく感じた不吉な予感は、当たらなくともいいのに当たってしまった。
「初対面だな。お前のお客様の兎生さんの、お兄さんの辰生さんだ。辰生さん、これがさっき話したクマド」
「こ…っ…」
ソファを立ってクマドと向き合うなり、辰生は愕然とした顔で凍りついた。クマドはと言えば、予告無しの引き合わせに、思わず眉間に目立たない皺が。
「こっ、こんなデカイ男が、兎生と…っ!?」
「…店長……」
思わずクマドは困ったようにスグロを見た。会わせるなら会わせると、一言だけでも言っておいてくれたら、せいぜい縮こまって部屋に入ってきたものを。スグロは平気な顔をして、言いにくいはずのことをぽろりと言った。
「大事な弟さんがたまたま頼りにしたのが、同性を相手にする商売の男だったってことで、この弟思いのお兄さん、わざわざ自分で経験してみたらしくって。ま、うちじゃない別の店で、ネコの方の子とね。それでちょこっと焦って、お前と会ってみたいとか、そういう話に」
「け、怪我とかさせてないだろうな! 兎生は体も小さくてっ」
「…知っている。今も会ってきたところだ」
盛大な溜息をなんとか隠して、クマドは辰生に説明した。
「いつも怪我のないように、もちろん怪我の跡にも負担のないように、兎生くんの方だけ、ヨくさせるように相手を」
ショックな聞こえ方をしないように、苦手の言い回しも考えたというのに、クマドが避けた部分を、わざわざスグロが言葉にして言ってしまう。
「そうそう、このガタイで突っ込むなんてしたら、そりゃ怪我どころじゃないんで、そこはちゃんと考えています、うちの店の方でも。でもやっぱり心配なんでしょう。そろそろ弟さんと、ちゃんと話をしてみては…?」
「スグ… 店長、ちょっと出ててくれ」
クマドはそう言った。そうしてスグロが何でか満面の笑みで、部屋の外へと出て行ったあと、失礼、と一言言い置いて、クマドはその部屋のソファに腰掛けた。視線を軽く流す仕草だけで、座って下さい、と辰生にもすすめ、それから五分も経つ間、何も言わずにじっとしていた。
クマドが座ったのは、辰生が座るのと同じソファの逆端だ。耳をすませると互いの息遣いが、微かに聞こえてくる。
「こういう、感じで」
「は?」
「ただ、傍に居て、何か話すわけでもなくて。怖い夢を見るから、夢も見ないくらい疲れて眠りたいとか、今だけ、何も考えられなくして欲しいと、そう言われたときだけ『する』ことにしている。添って横になって、ただ、手だけ使って、こう…」
何かを擦るような仕草を、片手で一瞬して見せて、すぐにそれをやめて、クマドは言葉を続けた。面食らいながらも辰生は真剣に聞いている。その姿からも弟を大事に思っているのが分かった。
「弟さんは、守ってくれる人と、安らげる場所が欲しいだけだ。あんたのことは、たった一度殴られた時に、父親と重なって怯えただけで、本当は優しい兄だと分かってる。だから…」
「そうか…。うん、よく、分かった…」
辰生は項垂れて、それからそう言った。部屋を出るとき、小さくクマドに向けて頭を下げるような仕草をしたのが見えた。どっぷりと疲れて、ソファの背もたれに寄りかかっていたら、ドアを開けてスグロが顔を見せた。満面の笑みが、なんでか腹立たしい。
「さすが、売上ナンバーワンだけあるな。兄弟仲がよくなっても、今度はあの兄の方が、なんかあったらお前を指名するんじゃないのか? 常連が増えるじゃないか、クマド」
「あんたには負ける」
「現役のときの俺の売上の話なんて、したことあったか?」
「…そうじゃない」
頭を抱えたいような気分で、やっとクマドはソファを立ち上がる。
「退いてくれ、急いで着替えないと」
「あ、お前、今日もういいぞ。充分働いたし、実はシフト間違って指示しててな。一人多いんだ。なんで帰ってよし。部屋で待ってる仔犬はどうなんだ? 噂だと、結構可愛い顔とか」
「上がります」
スグロを突き飛ばすようにして部屋を出て、クマドはそのまま店を後にするのだった。
終

.