路地裏の子犬



** 9


 夕方前、ムジカはクマドの部屋のドアを、音を立てないようにそうっと開けた。ともすれば、昼夜が逆転しているクマドの生活のせいもあるだろうが、イサザもまた寝起きしている時間が不規則で、眠っているのかもしれないと思って。

 首だけ前に突き出しながら、そろそろと入って行って、大きなベッド置かれたリビング兼ベッドルームの中を覗く。イサザは起きていた。ダイニングチェアを窓辺に置いて、そこへ座って片膝を体に引き寄せ、片手で隙間だけを開け、外を見ているようだった。

 マンションの六階。眺めは悪くない。でも、ぴったりと硝子に頬をつけても、眼下の街の様子は見えにくいはずだ。実際イサザの視線は、斜め上へ向いているように見える。

「…イサザ?」

 入って行って声を掛けると、イサザはゆっくりと振り向いて、少しだけ頬笑んだ。

「あ、ムジカ」
「おぅ、腹は減ってるか? そろそろ普通に食べれるからな、握り飯を買ってきとるぞ? いやなに、ただの不精だが。あと、これ、ジュース、こういうの飲むか? 冷蔵庫に入れとくからな。ここにゃ牛乳と酒くらいしか置いてないだろう」
「うん」

 なんとなく元気がない。椅子から立って近付いてくる様子で、それくらいわかった。視線が床に落ちている。

「どうした? なんか気になることがあるか? クマドのことだろうが? んん?」

 クマドのこと以外であるわけがないのに、ムジカは、当たったろう?と得意げな顔になってみせる。

「…あのねぇ、クマドのこと知りたいって思ったけど、何聞いていいかわかんなくて、仕事のこと聞いたんだ」

 その話ならクマドから聞いて知ってた。男を相手に体を売る仕事だなんて、とても言えずに困ったとかなんとか。大方、うまく誤魔化すことも出来ないで、イサザを不安にさせたのだろう。仕事と割り切れば案外器用なくせに、プライベートだとクマドは変に不器用だ。不器用過ぎて、相手をするイサザが気の毒になる。

「ほぉ? そしたらなんて?」
「聞かれたくなかったみたい。…俺、自分のことも話してないのに、クマドに…」
「それは殆ど覚えてないからだろが?」
「ううん、ほんとはね、ちょっとずつ思い出してきてるよ。でもねぇ…」

 イサザが項垂れて言い掛けた言葉を、その顔の前に、にゅ、と手を突き出すことで封じて、ムジカはビニール袋をガサガサ言わせながら、もう一度キッチンに向かう。湯の沸いているポットと、スープカップをテーブルに持っていき、インスタントのコーンスープを取り出した。

「ほれ、俺のも用意してくれ。握り飯はシャケと梅干だぞ。食えるか? 梅干」
「うん」

 温めてある握り飯を二つずつ目の前に置いて、イサザはシャケのから食べる。ムジカは梅のを。そうして湯気の上がるスープカップで手を温めながら、ムジカはにこにこと笑って言った。

「お前がなんにも教えてないからとか、そういうことじゃなくてな。ただ、あいつが阿呆で間抜けなだけだ」
「…そう、なの?」
「そうだともよ。お前さん、あいつが動物園で白熊の飼育係だったら、嫌いになるか?」
「白熊…。え、クマドって動物園の…」

 例え話はこんなにも突拍子ないのに、イサザは本気にしかけたようだ。想像しようとして斜め上の空間を見つめていたが、その口元がやんわりと笑い掛ける。

「あ、違う。違うが、もしそうだったらっていうだけの話でっ」

 慌てて否定したムジカの、焦った顔が可笑しくて、結局イサザは笑っている。

「びっくりしたよ。でも、もしそうだったら、いつかでいいから、連れてって欲しいけど。俺、クマドの仕事はなんでもいいよ。あんまり…家に帰らない仕事だったら、嫌だけど…」
「ふむ。そうだろうなぁ。そしたらもし、もしもだぞ? お前、あいつと仕事場が同じだったら、ずっと一緒にいられていいなとか思うか?」

 イサザはそれを聞いて、しばらくぼんやりしていた。梅の握り飯を食べて、スープを飲んで、飲み終えて二つのカップをキッチンへ運び、洗って伏せてからテーブルへと戻る。もう随分、躾が行き届いてるなぁ、などと、ムジカが感心している前で、イサザは言った。

「仕事でだって、俺きっと…誰かと寝るくらいしか出来ない」

 ここで一人でいる間に、イサザは自分のことを「ちょっとずつ思い出して」、それで自分がどんな生き方をしてきたのか、判ってきたのかもしれなかった。
 今までしてきた生き方は、他の人間達と酷く違う。細かいことはもう殆ど覚えていなかったが、子供のころ親に捨てられて、誰かに買われて、また売られて、買われて…。たぶん、そんな繰り返しだったのだ。

 今更、普通に働いて一人で自立するとか、そんなことが出来るとは思えなかった。だから、守ってくれる人が欲しくて、そんなふうにずっと生きていくだろう自分が、本当は不安だった。だってそれはきっと、いつまでも怖いまま、捨てられたらどうしようって、思い続ける生き方だから。

「…なぁに、それだって立派な仕事だと、俺は思うぞ」

 ムジカは酷く穏やかに笑って、それから、もうとうに食べ終えてしまった握り飯を、テーブルの上に探してきょろきょろした。

「しまったな、もう二個くらい買ってくりゃあよかった。これじゃあ、あとで腹が減る。店はすぐ傍だから、なんか買ってくるとするかな」

 ムジカが出掛けて行って、五分くらいたっていただろうか。玄関の外でビニール袋の音がしたから、イサザは気をきかせて、内側からドアを押し開けた。途端に目の前に見えたのが、クマドの顔で、びっくりして目を丸くする。

「…あ」
「外へ出る気か?」
「え? ち、違うよ。今、ムジカが」
「そうか」

 咎められた…ような気がした。そう思った途端、怯えた色がイサザの目の中に浮かんでいた。クマドの視線が、そんなイサザの顔から逸れる。彼はイサザの肩を押して、ドアの前から退かせると、何も言わずに部屋の奥へと入っていく。
 キッチンへ行き、冷蔵庫を開いたクマドの隣に、イサザは近寄って、ムジカが買ってきて入れたジュースの瓶を指差し…。

「これ、さっきムジカが買ってきて」
「……あぁ、わかった」

 微妙に、クマドの体がイサザから逃げている。それは本当に、ほんの少しだけの違和感だったが、イサザはそのことに敏感に気付いた。嫌われたのかもしれない、と、ひいやりとした思いが、胸を急激に埋めていく。

「…俺」
「ん? どうした?」
「あ…あのねぇ、俺、ねぇ…クマ…」

 怯えた目が揺れて、逸らされて、イサザは震えていた。

「…こんの、馬鹿が…ッ」

 びくん、と体を震わせたのは、イサザとクマドと両方だった。いつの間に入ってきていたのか、ムジカがそこに立っていた。コンビニの袋を両手に提げた仁王立ち。いつも温和な顔なのに、今ばかりは目を吊り上げて、袋を放り出しながら向かってくる。

「こういうときはどうするんだ、クマドっ、お前さん、仕事だったらそんなぼんやり突っ立ってやせんだろうっ、さっさと抱けッ、さっさと…っ!」

 どん、とイサザの背中を突くと、前のめりになった細い体を、クマドは反射的に腕に掴まえる。でも胸と胸が重なる前に、肩を掴んで引き離した。完全に無意識の行動だった。

「朴念仁め。…気を付け…っ」

 それを見たムジカはぼそりと言って、少しは落ち着いた声で言った。怒声じゃなくてもそれは命令で、呆気に取られたクマドの腕が、イサザの肩から外れて宙に浮く。

「…ほれ、大事なんだろう、こいつが」

 ムジカは後ろからイサザの肩を、今度は気を遣ってそうっと押した。押し出されるまま、イサザはクマドの胸に体を預ける。まだ痩せ過ぎていて、あちこち尖った体は、ずっと細かく震えていた。そちらを見ないままで、彼はクマドの反応を気にしている。

「ちゃんと持っとけ。でないと、主治医の権限で、保護者をスグロに挿げ替えるぞ? いいのか? んん?」
「わかった。分かったから…。だが、とにかくシャワーを浴びたいが、いいか」

 イサザの背中に腕も回さずに、クマドはそう言ったのだ。仕事の後だからだ。兎生との行為の後は、ちゃんとシャワーを浴びたが、その後も不安がる少年の体をずっと腕に抱いていて、その名残が肌に残っている気がする。

「相変わらず潔癖だな、お前は。それでいてその仕事が似合っとるんだから、不思議なもんだが」

 全部分かっていてムジカは、苦笑いした。イサザの顔をひょい、と覗き込むと、彼はうっすらと頬を染めて、じっとクマドの胸に寄り掛かっているばかりだ。

 大事なんだろう、こいつが。

 そう言われて、クマドは否定したりしなかった。そんなのは、ただの勘違いかもしれなかったが、今は嬉しさに酔っていたいと、そう思うイサザなのだった。















** 10



 放り出したコンビニのビニール袋を拾いながら、ムジカは言った。

「言ったろう、阿呆で間抜けなんだ、ってな」

 結局はクマドに体を引き離され、置き去りにされたイサザは、そんなムジカの言葉を聞いても不安そうで、ただ、クマドの立てているシャワーの音を聞いていた。

「ま、阿呆だが、クマドは考えなしじゃぁないからな、俺はここらで退散だ。二人でよく話せよ?」

 買ってきたものの中から、この家では見たこともない煙草の箱を一つ、それから百円のライターを一つ、ぽん、とテーブルに置いて、ムジカは部屋を出て行った。ダイニングテーブルの椅子に座らされ、目の前に置かれた煙草の箱を、イサザは黙って眺めている。
 痩せ過ぎなほど痩せた腕が、やがては伸ばされてそれを手にとった。

「吸いたいのか」

 そう聞いたのは、シャワーを浴び終えて戻ってきたクマドだ。髪はまだ濡れていたが、ちゃんと部屋着を着て、いつもどおりの淡々とした姿だった。返事をしないイサザの目の前の椅子に、クマドはゆっくりと腰を下ろして、彼の手にした煙草を静かに取り上げる。

「吸いたいなら吸えばいいが、体をすっかり治してからだな」
「別に、吸いたくないけど…。クマドは? 吸ってるとこ、俺、見たことないよ」
「あぁ…極、たまにだけ」

 イラついたときや、悩みのあるとき、戸惑いが頭から去らないときに何本か吸うだけだから、吸い終えるまでにはいつも湿気てしまう。買い置いてないのはそのせいなのだが、今のタイミングで、わざわざクマドの吸う銘柄の煙草を買ってきて、置いていくムジカには脱帽だった。

 雨に散々濡れて薄汚れた仔犬を、あの日、路地から拾って帰ってきてから、急に煙草が欲しくなっていた。動揺している自分に気付きたくなくて、意地のように買わずにいた。イラついてなんかない。悩みなんかない。でもこれ以上ないほど、本当は戸惑っていた。

 クマドは煙草を包んだフィルムを剥がし、慣れた仕草でパッケージの一部を開くと、一本取り出して唇に挟んだ。ライターで火を灯し、すぅ、と吸いながら一度立ち上がり、棚の引出の奥から白い灰皿を出してテーブルに置いた。

「昔、ある国の軍隊にいたことがある。その国の人間じゃないから、まぁ、傭兵っていうやつだ。そこを辞めた後、初めて煙草吸い始めたんだ。隊では暗黙の了解みたいに誰も吸っていなかった。喫煙は『もう軍を辞めたんだ』ってことを、自分自身に宣言するみたいなものだったのかもな」
「軍…隊…」
「今のこの国では、耳慣れない言葉だろう。…ある理由で軍を抜けて帰国して、定職にもつかずにふらふらしていたら、今の職場のオーナーに、自分のところで働かないかと言われたんだ。向いている仕事とも思えなかったが、何もかもどうでもいいと思っていたから勤めることにした」

 ふー、と、誰もいない方向に煙を吐いて、クマドはイサザの様子を窺った。イサザはクマドの昔のことも、今のことも、自分から聞こうとしない。

「だから…『気を付け!』とか少し強めに言われると、今でも体が反応しようとする…」

 今朝、仕事のことを聞かれた時、クマドは誤魔化すような答え方しかできなかったから、そのせいで多分、イサザを不安にさせてしまった。今度はちゃんと話そうと思って帰ってきたのに、結局ストレートには言えなくて、遠回りしているというわけなのだった。

「クマド…俺…」

 イサザが宙に漂う煙草の煙を見ながら言った。

「俺ね、本当はクマドがどんな仕事でも、いい、って思ったんだ。でも、さっきムジカがいってたでしょ?『仕事だったら』『さっさと抱け』って。俺、凄く知りたくなった、あんたがどんな仕事してるのか」

 多分、ムジカも故意ではないだろうが、言ってしまったあとで、きっと思っただろう。

 まぁいい、これでクマドも、
 下手に隠そうなんてできなくなった。
 隠し事や偽りのない形で、
 ちゃんとイサザに向き合えばいい。
 うまいこといったな。

 とでも。ムジカの意地の悪そうな笑いを思い浮かべて、クマドは煙草のフィルターを噛んでいた。でも、イサザはこの、クマドの部屋で、今だけの客人ではないのだ。そして、クマドは静かな予感を感じてもいた。
 きっと俺は、イサザには何を話してもいいと思うようになるだろう。路地裏でこいつを拾ったとき、既に何かの予感があったのも、本当は自分で分かっている。

 軍にいた時のことを、クマドは淡々と思い出す。その頃、彼は仕事と割り切って何人も人を殺したのだ。人を殺すことに「仕事をしている」という自覚以外の、どんな心も動かなかった。そうして傭兵仲間と共に行動するうちに、そんな自分が他とは違うことに気付いた。
 
 みんな同じに、兵士の仕事をしているが
 こんなに、心が動いていないのは俺だけだ
 見せていなくても、皆は少なからず傷んでいる。
 生きているものの命を奪う、という行為に、
 こんなに無感動なのは、俺だけ…。

 本当に、向いている仕事だったのだと思った。だからこそ傭兵を辞めた。怖いと思ったのだ。自分のことを、怖い…と。
 そして顔も覚えていない両親の国に来て、クマドはこの国で国籍を変えた。やがてスグロと知り合って、絶対に向いていない思う仕事に誘われて、だからこそ彼は頷いたのだった。

 この仕事は嫌いじゃない。相変わらず向いているとは思えなかったが、向いているとよく言われる。常連客も沢山いて、指名されると、その相手に必要とされているようで、そこが気に入っていた。

 クマドはイサザを真っ直ぐに見た。イサザが無意識に視線を逸らすと、こちらを向かせるように彼の手に触れた。昔の仕事は「人殺し」だった。今の仕事は、たまにだけれど「人助け」…になることもある。

「男と、寝る仕事だ…」

 驚くほどにすんなりと、その言葉が声になった。イサザは黙ってそれを聞いて、何も言わず、けれども酷く戸惑ったような顔をした。クマドは吸い終えた最初の煙草を灰皿で消して、すぐに次の一本に火を寄せる。
 二本目の煙草が半分灰になった頃、イサザはテーブルの上に両肘をついて、自分の顔を手のひらで覆いながら項垂れた。痩せた肩が震えていた。

「そ…っかぁ、だから…クマドは…」

 ぽたぽたと零れる涙が、テーブルを次々に濡らしていく。

「抱いてよ、って言った俺のこと、抱きたいと思った時に抱く、って、言ってくれたんだねぇ…」

 自分が嬉しいんだか、切ないんだかイサザには分からなかった。ただ、こんな自分とクマドが、実は少しだけ近い世界の人間だったことを、イサザは知ったのだ。そういう意味では、負い目に思わなくていいのだと、胸の強張りが解けていく。

「…いつかお前を抱くようになっても、この仕事をする限り、俺が抱くのはお前だけじゃない。それでもいいか?」

 クマドがそう言って、イサザは頷いた。頷く以外、することはなかった。















** 11


 クマドが言葉を止めてから、イサザはひとつ頷いただけで、暫くの間、何も言わなかった。煙草と灰皿とライターと、自然に置かれたクマドの腕を眺めながら、自分が本当は何が欲しいのか、彼は考えていた。今の自分のことと、少し前までの自分のこと。

 オモチャみたいに思われていても、それでもいいと思ってたんだ。親のこととかなんにも覚えていないけど、きっと元々、望まれて生まれたわけじゃない。多分、生きてて欲しいとか思われてるわけでもない。だからいいんだ、ただ俺は…

 誰かにいつも、相手をしてもらえるモノでいられれば。
 どこかに捨てようなんて、思われたりせずいられれば。
 処理とか処分とか、言われる対象にならずいられれば。

 イサザは実はもう、前の御主人様の顔をよく覚えていなかった。自分を抱く体や、自分に届く声の方が、いっそまだ記憶に残っている。そうしてその理由も、心のどこかで分かってた。

「…クマド……」

 小さな、震える声で彼は言った。

「クマドは、あんまり喋んないから…。クマドはまだ、俺にあんまり触ってくれないから…。けどさ、きっと、沢山声を聞いて、沢山触ってもらって、抱いてもらったら、俺の体ん中、すぐにあんたでいっぱいになって、その時にさ、俺、全部忘れるんだよ…。ずっと何年も、俺を自分のものにしてた、前の…御主じ…」
「俺のせいなのか」

 ぽろぽろと零れてくるイサザの言葉を、途中で無理に千切るように、クマドは強い声でそう言った。

「お前がいつもどこか、怯えているのも、不安そうにしてるのも」
「…違うよ、あんたのせいじゃない」

 ガタ、と椅子を鳴らして、イサザは俯いたまま立ち上がった。テーブルに手を付き、自分の体を支えるようにして、言葉を探しながら、言い訳するようなことを、彼はクマドに言った。

「俺が、どうかしてるんだよ。俺が…外の世界のことも、自分のことだってさ、何にも、ちっとも知らなくって。そんな元々の俺がさ、まるで空っぽの箱みたいだから、前のあの人のこと忘れてくだけだと、どんどん中身がなくなってって…。それで、何にもない俺は、もう生きてる価値も、なんにもないみたいな…」

 ごめん、変なことばっかり言って、と、イサザは最後にそう言った。逃げるようにしてバスルームの方へ行ってしまい、今度はクマドがそこに残された。

 解き方の分からない難問をぶつけられたみたいに、クマドは眉間に皺を寄せて、新しい煙草に火を点けた。一口吸ってから、椅子を鳴らして立ち上がり、掛けてある上着の胸ポケットから、ケータイを取り出してアドレスを開いた。

 スグロ。それから、一緒に仕事をしている他の店員の名前を幾つか、最後にムジカ。順に表示させてから、苛立ったようにケータイを閉じて、それをソファに放り出す。こんな時に相談しようと思う相手がいないことや、どう相談していいのか思い付かないことが、あまりに情けなくてさらに苛立つ。

 もう既に火の付いた煙草が灰皿にあるのに、また一本を箱から取り出し掛けて、彼は深く溜息を付いた。

「違う…。相談したくないんだ。話したくない、これ以上他のヤツに、イサザのことを…」

 ムジカにでさえ嫉妬した自分を、彼はやっと自覚する。独り占めしたいと思っていることも、今になって分かった。なら、抱けばいいんだ。イサザの中を自分で埋めて、前の主人どころか、他の誰かのことも、ほんの一ミリだって入り込めなくしてしまえばいい。

 こんな仕事をしているうえ、それを仕事と割り切った考えで、随分色々巧くなっている。だから、昼夜問わずで空いた時間に、いつもいつもイサザを抱いて、溺れさせてしまえばいいのだ。そうすればイサザはもう淋しくなくなるのだし、自分以外の他の誰の目にも見せずに済んで…。

 キィ、と小さな音を立てて、バスルーム続くドアが、少しだけ開いた。イサザは不安そうな顔で、そっとクマドを見ている。拾った時のことを思い出す。ずぶ濡れで、酷く汚れていて、痩せっぽちの怯えた仔犬。

 でも本当は、仔犬なんて呼べるような年じゃない。本来、もっと色々なことを知っていて、自分の世界も持っている筈で、ただそれが、今までの特異な境遇で、そうなれなかっただけのこと。

「イサザ。これから…」

 クマドはそう言いながら、壁を埋めるように作られた棚の傍に行って屈んだ。滅多に開けることのない、一番下の扉を開けて、奥へと腕を入れ、指に触れたものを彼は取り出した。幾つも幾つも取り出した。

「これから、色々なことをお前に教えよう。お前の中が空っぽなら、俺のことばかりで埋めるんじゃなくて、もっと他のものも、そこへ入れればいい。俺はこの通りで、教えるのはきっと上手くはないが、きっと、今までの倍も、いいや三倍も、お前と話をすることになるだろう」

 引き込まれたように、イサザは部屋に入ってきた。そのままクマドの傍に来ると、棚の奥から取り出されて、床に詰まれた本を見る。料理の本、ワインやカクテルの本。何故だか知らないが旅行雑誌、小説やエッセイ、更には動物の本や、心理学の本までも。

「これ、クマドが全部読んだの?」
「俺も何も知らなかったからな。いや、知っていたが、どれにも興味が無かったんだ。空っぽだった。とにかく何かに興味を持てと言われて、仕事に関係のありそうなところから始めて、これが面白い、と、勧められたものも読んで、客がつけば、その客の好みも聞いて読んだりもした」

 イサザはクマドの隣に座って、何冊かをぱらぱらと捲った。クマドも別のを手に取る。

「とにかく色々読んで、今、ここに残っているのは、俺が好きだと思ったものだな」
「そうなんだ」

 分厚くて重たい動物図鑑は、専門的なものなのか、文字が細かくて難しそうだったが、開き癖が付いていて自然に開いたページには、モノクロの写真が。

「クマ…」
「あぁ、名前が似ているし…雰囲気がそんなだと言われて」
「…ぷ…っ」

 似ていると言われたからって、こんなに開き癖がつくほど見るなんて。笑い出したイサザに、クマドはにこりともせずに言った。

「今度、書店に行って、犬の図鑑を買ってこよう」
「犬? どうして?」
「どの犬がお前に似ているか見るんだ」

 無表情のままで言ったのに、イサザはもっと笑った。

 そして暫く日が経ってから、クマドは本当に犬の本を買ってきた。しかも図鑑一冊じゃなくて、飼い方の本と、犬の写真集まで選んできた。クマドが留守の間に、その日はイサザは旅行雑誌をずいぶん見たらしいが、今広げていたのは、動物図鑑の例のクマのページだった。ツキノワグマが立ち上がっている写真。

「おかえりなさい…!」

 黙って入ってきて、テーブルに犬の本を置いたクマドに、イサザは笑顔でそう言った。クマドは本を置いた手をそのままに止めて、驚いたようにイサザを見る。

「あ、おかしいかな? ムジカが、言ってみろ、って」
「いや…」
「あのねぇ、今日はムジカがねぇ、この図鑑…、っ」

 たまたま、顔が近かった。たまたま、その言葉を止めたいと思った。本当に触れるだけのそれは、キスと呼ぶのもおかしいほどの、ささやかなものだったけれど。

「……嬉しいなぁ…」

 イサザはそれだけを言った。でもその先を求めることはしなかった。そうして彼は、クマドが買ってきた本に手を伸ばす。

「ねぇ、どの犬が俺に似てる?」
「…この犬種だ」

 クマドは、大きな写真集の最初の一ページを広げた。そこには日の光を浴びた柴犬が、まるで笑ったような顔をして写っている。イサザは、その写真の犬みたいな明るい顔で笑った。

「ツキノワグマと柴犬かぁ」

 そうして全部のページを二人で見たあと、クマドは最初のページを開いたままで、それを棚に飾ったのだった。




 それから一年としないうち、イサザはクマドと同じ店で働くようになった。当然、クマドは反対したが、それがただの嫉妬への怖れと、独占欲から来る感情だと自分ですぐに気付いて、結局はイサザの好きにさせた。

 仕事が性に合っていたのか、それともクマドと居られる時間が長くなったからなのか、イサザはいつも生き生きしていて明るくて、店に馴染むのもすぐだった。そうしてイサザも「新人」という自己紹介を、そろそろしなくなった頃のこと。

「ね、来週から新しい人来るんだってね」
「あぁ、今まで国外にいたらしい」
「俺、スグロにここいらのこととか、店のこととか教えるように言われたよ。どんな人かな」

 これから仕事という時間、偶然ロッカールームで二人になって、イサザが楽しそうにそう言ったのだ。クマドは幾分心配そうに、けれどそれを殆ど顔に見せずに淡々としている。その淡々としている様に、感情の変化を見るのは、店ではイサザくらいのものだ。

「確か、白い髪で目が緑だと。少し変わった男らしい」
「…そうなんだ」

 外国人なのかな、イサザはそう思って首を傾げた。不安や心配を顔に出さないままで、クマドはイサザの体を引き寄せて唇を塞ぐ。仕事前にするのに適さないような、長い深いキスだった。

「もう…。クマド、仕事前にこういうのって」
「……嫌か」
「違うけど。なんか、『お持ち帰り』申し入れられる率が、上がるから…っ…」

 イサザはクマドを押し退けて店に出て行った。顔をそむける寸前の潤んだような目、その表情の色っぽさに、客も気付くということだろう。クマドは壁のローテーション表を見る。イサザは早番だから、もう数時間で終わりだ。こんな時間からテイクアウトしたがる客は、そうはいない。
 
 分かっててキスをした。そうじゃなきゃしなかった。

 クマドはもう一度、鏡で軽く自分の姿をチェックして、閉じていたドアを押し開け、自分も店へと出て行くのだった。









シロオオカミシリーズと同一世界
「路地裏の子犬」
1話から11話 13/03/24転載


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