路地裏の子犬
** 1
土砂降りの雨に背中を打たれながら、回収車に見落とされた黒い袋みたいに、いつまでもそこに、何かが蹲っている。場所は飲食街にある路地のひとつ。空は真っ黒で、朝など二度と来ないかのよう。もしも世界に朝が来ても、ここにだけはきっと来ない。
「おい」
と、その時、誰かの声がして、その声はトーンを変えずに三度も聞こえて、だからそれはやっと少し動いた。痩せて尖って、汚れにまみれた顔を上げたが、虚ろな目は何も映さずにまた閉じられた。声の主は溜息をついて背を向けて、その背中を、もう一度顔をあげた彼の目が見た。
捨てられて数日たった後の、仔犬のような目。諦めの色の濃い目だ。けれどその目に、ふ、と生気が宿る。
「…あ……」
「そこにいろ」
「…待って」
「いいから、そこにいろ」
そう言われて、仔犬は目を見開いた。その目から涙がぼろぼろと流れた。そう言われてビルとビルの隙間に座って、そのまま数日待ち続けたことを思い出す。
「…うん…わかってる…。言うこと、聞くよ…」
項垂れて、膝の間に顔を埋めた。曲げた腕の隙間に、細い棒が差し込まれたけれど、何もかもどうでもよくて、そのままにしていた。背を打つ雨が感じられなくなって、それで彼は目を閉じた。
そして。
次に彼が目を開けた時、視界は黒い「山」で覆われていた。緩やかな曲線。触れると「山」は温かくて、しっかりと締まっていて、少し固い感触だった。嗚咽を隠して、仔犬は泣いた。それは、似ているけど求めているものとは違う背中だったから。
窓から差し込む街灯の灯りが、「山」の輪郭をそっと縁取っていて、今に向こうから朝日が昇ってくるように思えたけれど、その光は自分を照らしてくれることはないと思っていた。
だって俺は捨て犬だから。路地に捨てられた犬だから。主人に飽きられて、もう生きる意味の無い犬は、まだ仔犬だったとしても、未来は貰えないのだ。もうこの先には何も無いのだ。
やがて「山」が動いて寝返りを打ち、そのまま起き上がって彼をちらりと見た。
「名前は」
「……」
二度聞かれることはなくて、その男はベッドから下りて歩いていく。大きな背中を見て、また彼は泣いた。泣きたくないのに涙が出て、そんな自分が嫌だった。
「仕事に出る。ここにいろ」
今度は「そこにいろ」ではなくて「ここにいろ」と言われた。一文字だけの違いだが、それだけで仔犬は少し気持ちが楽になった。
「……」
「……冷蔵庫の中のものを………」
男が何か言っていたが、途中で聞き取れなくなってしまった。それから何日か、彼の世界は殆ど暗転したままだった。熱を出して、眠っていたからだった。
「捨て犬、拾ったんだって?」
今夜の売り上げを記入した紙を持って、支配人の部屋へ行くと、ドアを一歩入った途端にスグロはそう言った。
三日前は綺麗に剃ってあった髭が、少しだけ伸びてしまっているが、別にだらしなくは見えずに、逆にいい味を出している。さすがは元ホストといったところか。
「犬…。あぁ、捨てられていたから、問題はないと思うが」
「いや、でもそれ犬じゃないんだろう? 向かいのバーの店長が、嬉々として話してきたってことは、つまり女か、それとも…?」
「十七、八くらいの」
「女?」
「いや…」
「ふうん。まぁいいけど。…あぁ、売り上げか、今日もお前がトップなんだろ? お疲れさん。明日は休みだったな。よく休め」
それ以上は聞かずに、スグロはひらひらと手を振った。クマドは部屋の外へ出てドアを閉じ、ロッカールームで着替えて退勤した。深夜の三時を過ぎている。それとも、早朝三時というべきか、よくは判らないが。
雨は上がっていたが、つい少し前まで降っていたのか、道路は水たまりだらけだ。クマドは水たまりをかわしながら道を横切り、店から少し先へ行った向かいのスーパーへ入っていく。こういう街だから、スーパーも深夜営業で、夜十時から朝の三時半まで。
買ったものはウイスキーのボトルが一つ。2リットルのミネラルウォーターと、5キロの米と牛乳と食パン。それから男物の下着を数枚。他に何かいるか、と少し思案し、結局はそれだけを購入して帰路につく。
彼の住むマンションは歩いて行ける距離にあって、交通機関を使わずに済むようになっている。今の勤めについた時に、店の方針で彼もここへ越してきた口だった。同じマンションにスグロも住んでいるし、他にも同僚がいる。
そして、医者も一人住んでいる。もっとも、その医者は無免許だそうだが。
「おぉ、代金か? 悪いな」
に、と笑って剥げた頭を自分で撫でて、医者はウイスキーのボトルを嬉しそうに受け取った。
「容態は」
「容態、なんていうほど大袈裟なものでもないがな。まずまずいい方向だ。熱は下がってきたし、粥も昨日よりは食べたし、今日は声を聞かせてくれたぞ」
「喋ったのか?」
「『熱…っ』て言ったな。粥が熱かったんだろう」
がっかりするべきなのか、喜ぶべきなのかわからずに、クマドは医者から鍵を返してもらい自分の部屋へ行く。眠っているかもしれないと思い、そっと入っていくと、ベッドに横になったままで、あの「仔犬」は彼の方を見ていた。
「……名前は…?」
ただいまも何もなく、クマドはそれだけを聞いた。
「……い…」
「い?」
「………」
まただんまりだ。カップに牛乳を注いでレンジで温め、それを差し出すと、数秒間たっぷりクマドの手を見た後、やっと手を伸ばして受け取った。
「零すぞ。飲むなら起きろ」
「…ん…」
この部屋に連れてきてから初めて聞いた言葉が「い」。その次は「ん」か。長く掛かりそうだ、とクマドは思っている。だが、それでもまったく構わない。どうせ家に帰れば一人だし、他にすることも大してないから。
彼はベッドの脇に座って、大人しくホットミルクを飲んでいる「拾い物」の様子を見ていた。背中を向けているといつも視線を感じるのに、そちらを向けば俯いてしまうことが多い。だから顔をよく見られるのは、眠っているときくらい。
今も項垂れている顔へ、クマドは何の気なしに手を伸ばした。顎に指をかけて、ひょい、と顔を上げさせ、どこかぼんやりとしている彼の顔を見た。
「いくつだ? お前」
「……」
「名を知りたいが」
「……」
「行くところが無いのなら、暫くここに」
「あの…」
唐突に口を開いて、彼はクマドをそっと見つめた。クマドは言葉を切って、彼が何かを言うのを待つ。
「俺を、あんたのものに、して」
「……あぁ、お前が、そうして欲しいのなら」
クマドは言った。何故だか、すとん、とその言葉が出た。それとも、最初からそのつもりだったのかもしれない。クマドの返事を聞くと、仔犬ははっきりと頷いた。仔犬からやっと、人になろうとしているみたいに見えた。
「イ サ ザ …」
名前であるらしい言葉を呟いて、イサザはゆっくりと笑う。笑ったその顔を見て、本当は仔犬呼ばわりなど似合わないのだと、クマドは思った。
それは、ほんの少し陰のある、不思議な笑みだった。
続
** 2
「なんて呼んだらいい? あんたのこと」
薄っすらと頬笑み、そう言いながらイサザは両手を差し伸べた。その腕に、クマドを抱き締めたがっているように見えた。伸べられた手を淡々と見て、クマドは溜息を一つ、落とす。
「呼ばなくていい。ここにはお前と俺しかいないから、話しかければ振り向く」
そう言って、クマドは彼に背中を向ける。そんなものを身に着けるようにはとても見えないのに、腰から下だけの黒いソムリエエプロンを、慣れた仕草でつけて、冷蔵庫から様々な食材を取り出す。ジャガイモにキャベツにタマネギ、ニンジン、など、など。
「え、……ねぇ、抱いてよ。ねぇ…っ」
想像していた通りのことを口走りながら、イサザはベッドから乗り出し、そこから一歩を踏み出そうとして床に座り込む。急いで動こうとすればするほど、膝が萎えて立てない。何度か薄い粥を啜ったくらいでは、まだ力が出なくとも仕方なかった。
座り込んでいるイサザの方を、キッチンから、ちら、と振り向くだけで、クマドは黙々と野菜の皮を剥く。大きな手に包丁が握られ、キャベツはなんだか少し小さく見えた。
「食べるもの、なんかよりも…。あ…っ…」
いきなり、ぐい、と着ている服の胸を左腕で掴まれ、そのまま膝が床から浮くほど持ち上げられる。乱暴されるとでも思うのか、イサザは顔を庇うような仕草をした。きつく閉じた目、そして噛んだ唇は震えている。クマドの右の手には、握られたままの包丁。
「いいから、待っていろ」
突き放すようにベッドへ放られ、もう一度イサザが身を起こした時には、クマドはもう、今、皮を剥いているニンジンしか見ていない。ニンジンが終わったらジャガイモ、タマネギ…。それから大きな鍋を出して、勢いよく水を注ぐ。
料理を終えて振り向いた時には、イサザは睨むような目をして、ベッドの端に座っていた。それでいて目が少し潤んでいる。
「食べられないものは?」
「……知らない」
「じゃあ、出されたものはとりあえず食べてみろ。どうしても駄目ならそう言え。少し多めに作ったが、無理に全部食べろとは言わん。…が、半分以上残すな。それで最低限だと思え」
言い終えて、クマドはスプーンとフォークを差し出す。スープの皿がのせられているのは大きなトレイの上で、そのトレイはベッドに座らされたイサザの膝の上。
「あんた、俺を自分のものにするって言ったのに…」
「俺のものにしたから、お前の意思を無視して命じているんだ。まず食べるべきものを食べろ」
「…俺のこと、抱いていい、のに…っ」
ベッドの横に椅子を引き寄せて、そこに座っていたクマドが一度立ち上がる。イサザの膝からトレイを退け、彼の着ている服の襟を、クマドは強引に開いた。ボタンが一つ外れそうになる。
「どこもかしこも骨の浮き出た、そんな体を抱く趣味はない。大体、俺のこの体格が見えてるのか? 壊さないで抱くように気を遣えと?」
「壊したっていいよ…っ! あんたの体、あの人に似てるんだ、俺の前の…ご主人様に。だから、あんたが抱いても平気っ、今はあんたが俺のごしゅじ…っ」
「そういう呼び方をされる趣味はない」
イサザの尖った顎を掴んで、彼は言った。壊していいと言いながら、少しでも乱暴に振舞えばイサザは怯える。体の芯まで染み付いたその恐怖感が、はっきりと目に見えるほど生々しい。
「…呼びたければクマド、と呼べ。とにかく食べろ。食べたら皿を洗っておけ。鍋に残っているスープを温めて、朝も食べろ。俺は隣の部屋にいる」
「クマド…っ」
「何だ」
「い…いつ抱いてくれるの、俺のこと…っ」
僅かに眉をしかめたクマドの顔から、イサザは視線を逸らした。愛されないでいるのが不安だった。いつ捨てられるかって、思ってしまうから。利用されるんでも、何でもいいから、何かで必要とされなきゃ、出ていかなくちゃならなくなる。一人はもう、嫌だ。
「…抱い…てよ…」
「あぁ、俺がお前を、抱きたいと思った時に」
「…わかった」
そう言って、イサザは横によけられたトレイの上から、皿を取ってスプーンを手にした。薄味に作られたスープが美味しいのかどうか、イサザには分からなかった。食事を美味しいと思ったことがなくて、食べなきゃならないことにも、本当は納得はしていない。
スプーンでスープを何度か啜って、柔らかく煮た野菜も食べているのを見て、クマドは彼に背中を向け、部屋を出て行ってしまった。そうして隣室から物音が少しして、そのすぐ後に静かになる。きっと眠ってしまったのだろう。もうすぐ朝になると言うのに。
かちゃ、とスプーンを一度皿に置いたが、イサザはそれでも皿が綺麗になるまで、時間をかけて食べた。視線が恨めしそうに、隣の部屋のドアを見る。
「痩せてるのが…嫌だ、ってこと…? 分かんない、ちゃんと言ってよ、…ごしゅじ…。…クマド」
イサザの手が自分の着ている部屋着の襟元に触れる。取れかけたボタンを見下ろして、クマドの腕を思い出した。名前を教えてくれた時の唇を、思い出した。
何とかキッチンまで立って行って、言われた通りに皿を洗い、鍋に残ったスープを確かめてから、イサザはベッドに突っ伏した。そのまま目を閉じて、彼はどことなく嬉しそうに呟く。
「クマド、早く俺のこと抱いて、ちゃんとあんたのものにしてね」
続
** 3
いつの間にか、イサザは眠っていたらしかった。すぐ傍で聞こえる物音で目を覚まして、瞼を開いたその目に、クマドの姿が見える。上着を着てキーを持って、今にも出掛けてしまいそうに見える姿へ、無意識に声が出た。
「クマド…」
「……」
返事もせずに振り向く顔。その顔がちらりとサイドテーブルの方へ向いて、彼は言った。
「スープを温めてある。レンジの中の粥も食べろ。シャワーも使いたければ使え。そのドアだ。俺は仕事に出る。帰りは深夜に近い」
箇条書きのような言い方で、矢継ぎ早にそう言って、クマドは出掛けて行ってしまった。話しかける隙もない。そもそも、イサザの言いたいことはたった一つで、「抱いて」と、またしつこく言ったって、振り向いてももらえないことくらい分かる。
イサザは唇を噛んで項垂れたが、スープの香りが部屋の中に漂っていることに気付いた。昨日はなんとも思わなかったのに、その匂いを嗅いだら急に空腹を感じ出す。
スープを皿に注いで、粥をレンジから取り出し、食べようと思ったらスプーンもフォークもなくて、あちこち引出を開いて見つけた。棚の上にトレイもあった。
昨日と同じように、トレイの上にスープの皿とスプーンとフォーク、そして粥の器をのせ、ベッドには戻らず、テーブルの上にそれを置いて食べ始める。少し時間を掛けて食べ終えて、イサザは昨夜と同じように食器を洗う。
自分がそうやってしていることが、なんだか自分らしくない気がして、酷く不思議だった。食べないで生きてこれた筈はないのに、こんなふうに食事を取った記憶が酷く遠い。あれは一体、何年くらい前のことだろう。捨てられる前、自分はどんな暮らしをしてきたのだろうか。
考えても記憶は曖昧で、覚えているのは「ご主人様」の体と、言葉と、愛撫。そして、強烈なまでの快楽。そして、捨てられたという事実だけだ。
そう、捨てられた。薄暗くて湿ったビルとビルの隙間。日の当たらないそんなところへ、この先、ずうっとずうっと、座っていろと言われて…。
「……ぁ…」
イサザは、ぶる、と、体を震わせた。恐怖感の発作のようなものが起こりそうになる。心の中で、クマドの名前を呼んで、自分の体を抱き締めて蹲っていると、だんだんと気持ちが楽になる。
大丈夫。
ちゃんと拾って貰えたんだ。
俺は「いらない」ものじゃない。
あの人が…クマドが、
これからの、俺の…。
いつ抱いてもらえるか分からないけど、いつでもいいように、ちゃんとしておこう。そうだ、シャワーも浴びて、いつも綺麗にして待っていれば、きっとすぐに。前のご主人様みたいに、毎晩、沢山可愛がってくれる。
まだ足元が覚束なかったが、教えられたバスルームに行って、彼はシャワーを浴びようとした。体に合わない大きな服を脱いだ姿が、等身大の鏡に映って、それを見た彼はぎくり、と、肌を強張らせたのだ。
一瞬、それを自分の姿だとは思わなかった。みっともないくらい酷く痩せて、胸などは骨の一本一本を数えられるくらいで、脚も腕も、変に細く、その不自然さに息が止まる。
「え…。これ…って、俺の…カラダ…?」
いつの間にこんなに、と、そう思う。こんなに痩せていた記憶がない。髪もぱさついてて、不潔じゃなくてもどこか汚く見える。
どこもかしこも骨の浮き出た、
そんな体を抱く趣味はない。
クマドの言葉が耳に蘇って、恥ずかしさと悲しさがどこからか込み上げた。そして、イサザは自分で気付かなかったが、左腕の肘の内側には、何箇所か、あざになった注射針の跡…。
「嘘だ。違うよ…。こんなの…俺じゃ、ない」
打ち消そうとするみたいに、それでなんとかなると信じるみたいに、イサザは骨ばった自分の腕や脚を、手のひらで乱暴に撫でた。もちろん、そんなことで痩せた体がなんとかなるわけもない。
「違う…。俺、こんな…。こんなんじゃ、また…捨てられ…」
イサザは裸のまま、バスルームの床に蹲った。為す術もなく震えていたら、部屋の外でドアの鍵の開く音がする。クマドだと思って、こんな体を見られたくなくて、声も立てられずにいた。
「ありゃ、何、してんだ? お前さん。せっかく良くなってきてるのに、こんなとこでそんな格好で」
入ってきたのは、年老いた男だった。クマドの留守の時、この部屋で粥を作り、イサザに何度か薬を飲ませた。イサザは顔だけを上げて彼を見る。けれどすぐに項垂れて、ぎゅ、と自分の腕で自分を抱いて、体を隠そうとするみたいに小さくなって。
「ほ…ほっといて…」
「そういうわけにいかん。風邪なんぞ引かせたら、俺がクマドに怒られるんでな」
老人の癖に凄い力で、彼はイサザを立たせた。そうしてベッドまで引きずっていき、無理やりそこに押し込むと、幾つかの錠剤をイサザの手に握らせて、コップにぬるま湯を注いで差し出した。
「ほれ、さっさと飲め。俺はあいつみたいにする趣味はないから、自分でな。言っとくが、その痩せっぽちな体をまともにしたいんなら、飲まんといかんぞ…!」
気持ちを言い当てられ、イサザは大人しく薬を飲んだ。考えてみたら、クマドの用意してくれた食べ物も、こんな見っとも無い体をなんとかしたいのなら大事だ。
「お、教えて」
「んん? 何をだ?」
「クマドは、いつ戻るの…?」
続
** 4
「いつ…、と尋ねられてもなぁ…」
髪のない頭を掻きながら、老人は曖昧に笑った。
「仕事柄、はっきりせんのじゃないか? 夕方のうちに出かけたんなら、夜中前に戻るかもしれんが、客が付いたら明け方、なんてことにも」
「…客…って?」
「あ? や、いやいや…っ、その、きっと夜中前には戻るだろ」
夜中、そういえばそう言っていた。まだまだ何時間も戻らないことを、淋しいと思うと同時に、少しだけほっとした。こんな見っとも無い体をしている自分を、もうクマドは知っているだろうけれど、見られるのが悲しい。
「教えてよ」
イサザはもう一度言った。老人は何故か身構えるように目を逸らしたが、他愛のない問いかけを聞いて安堵したらしい。
「クマドって、俺のこと嫌いじゃ、ないよね?」
「うーん、嫌っとるようには見えんが…? そうだなぁ、じゃあ、俺の知っているあいつのことを教えてやるから、お前も俺の聞くことに答える、ってのはどうだ?」
「…何聞くの?」
「それを先に聞くのは『ズル』ってもんだぞ」
ぐしゃ、と髪を撫でられて、イサザは困ったような顔をした。たまに態度が子供じみているくせに、ガキ扱いは気に入らないのだろう。
「じゃ、クマドのどんなこと教えてくれるの?」
「それも『ズル』だ! お前さん、クマドに拾われた路地に、いったいどれくらい座ってたんだ?」
「……覚えてない」
「少しくらい覚えてるだろう。一日か? 三日か? 飢え死にしとらんのだから、一週間てこともないだろうが」
「最初からあそこにいたわけじゃ、ないから…」
問われることを厭うだろうか。本当は、そう案じながらの問いかけだった。イサザが思いのほか簡単に答えたので、老人は様子を気にしながらも重ねて聞いてみる。
「じゃあ、その前にいた場所にはどのくらいいたんだ? 食べ物とか、誰かくれてたのか?」
「…覚えてないよ。俺、クマドの来てくれた場所に、たぶん、三日くらい、いたけど…その前のことは、殆ど、なんにも」
「殆ど…。じゃぁ、その少しだけ覚えてることは、ど…」
どんな?と、問おうとした老人の言葉が止まった。目の前で、膝を抱えた格好をして、座っているイサザの手が、カタカタと細かく震えているのに気付いたからだった。
「座ってろ、…て」
「…無理には、言わんでいいぞ…?」
「うん…。あのねぇ、座ってろって、言われたんだよ。ずっと、ずっと、ずぅ…っと、消えてなくなるまで、座ってろって。そこにいろ…って、俺…御主じ…、さまに、言わ…」
「言わんでいいっ」
「、俺、ねぇ…、おれ」
唐突に抱き締められて、イサザの言葉は止まった。それこそ小さな子供があやされるように、老人に背中を撫でられ、髪をくしゃくしゃにされ、その勢いで仰向けにベッドに倒れ込んでしまう。
しばしそのまま腕で包んでいて、はっ、と我に返って身を起こせば、イサザは目を見開いて、びっくりしているようだった。
「………俺と、寝たい…の?」
「えぇ…っ!?」
「ごめんね。俺、もう、クマドのものだから、おじいさんとは…」
「いやいや、いやいやいや! そうゆう、そうゆーことじゃなくて、だな! それに、おじいさんん? ムジカっていう立派な名前があるんだ、お、俺にだって! そうだ、クマドのことだったな! あいつは料理が案外上手いぞ?」
上手いかどうか知らないけど、作れるのは知ってる。野菜の皮を剥く仕草が、器用そうに見えた。
「それからな! 無口なんだ、あいつは!」
それも分かってる。
「あーーー、それから、結構いい体しとってな。なんかトレーニングしとるのかと思ったが、なんにもしなくてもあの体らしいぞ。そうそう、この部屋のドアの高さより背があるんで、いつも少し屈んで廊下に出るんだ。一度は頭をぶつけたんだろうな、あれは」
いつの間にか、イサザは笑ってた。体を起こして、さっきと同じように膝を抱えていたが、その膝の上に自分の片頬を乗せて、楽しそうに嬉しそうに笑っていた。
「お前、笑うと…」
可愛いもんだな、と言おうとした言葉を、思わず止めたのは、また「もう、クマドのものだから」とか何とか言われそうだったからだった。
マンションのエントランスを通り抜けようとしたら、柱に寄り掛かって、ムジカがにこにこと笑っていた。酔っているのかと思ったが、そうでもないらしい。
イサザの治療代金の酒のボトルを、クマドが無言で前に突き出したら、それをしっかり受け取りながら、彼はこう言った。
「毎日買ってこんでもいいぞ、案外俺も楽しくなってきた」
「今日は、何か変わったことがあったのか?」
「あぁ、大有りだな。聞きたいか?」
「……」
「なんと笑ったぞ、あの子は」
「あの子…」
笑ったと聞いて、喜ぶべきはずだった。怯えた顔とか、泣きそうな顔とか、不安げなのとかばかりしか見てなかったから、笑ったのなら、相当な進歩だ。なのに、良かった、と思うより先に、腹の底の方がもやもやしてきた。
あの子、という呼び方も、どうなのかと思う。痩せ過ぎてて年齢も分かりにくいが、どうみても二十歳過ぎか、若くとも十九かそこらだろう。そんなクマドの「もやもや」を、気付いているのかいないのか、ムジカは機嫌よく聞いてくる。
「そういや、あの子の名前はわかってるのか?」
「イ…」
尋ねられてすぐに答えそうになり、クマドはムジカから視線を逸らす。すたすたと歩き去りながら、彼は言ったのだ。
「いや、俺もまだ聞いてない」
大きなガタイで、長い足で、クマドは走るような速さになりながら部屋へと戻った。エレベーターの中でも足踏みそしうな勢いだった。
続

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