モノクローム 9
単両の電車はレールの上をいく。ガタゴトと揺すられる振動は大人しく、以前乗ったことのある古い古い貨物車両に比べたら、揺れていないようなものだと思った。
ギンコの記憶は、ゆらゆらと歪んだように揺れながら、彼の心の底から、ゆっくりと浮いてくる。
汚くて、今にも壊れてしまいそうで、あちこちに生々しい「跡」のある車両。人々は物資を届けるために、身内を探しにいくために、見つけた身内を逃がすために…つまりは誰かのためにそれへと乗り込んでいた。
爆撃に会うリスクなんか、誰だって分かっている。生きて戻れないかもしれないが、壊された家の瓦礫の影で、震えて蹲っている誰かのために、その誰かを愛する自分のために、そのリスクを侵す。
ギンコは汚れた服をわざと着て、目立たないように隅の方で四肢を縮め、自分の体と「機材一式」を、また一層汚い布で隠した。そのギンコと機材へ、さらに上から被さるように「仲間」が体を寄せている。
耳朶の後ろに寄せられる唇は、ガサガサと乾いていて、声は殆ど音が無く、息だけで言葉が綴られた。
(……報道、って何だと思う? ギンコ)
「…は? 何、今更」
本当に今更な問い掛けに、ギンコの返事は僅かばかり「声」になった。
(もっと…小せぇ声で喋りな…)
(あ、あぁ。…それは、見えていない真実を、在りのまま世界へ)
(…まぁ、そうだな。でもここに居る誰も、そんなもの求めちゃいねぇのさ。だから、何しにきたのかってことは、今は隠せ。もっと必死で隠せよ)
言いながら、腕を伸ばして男はギンコの荷物を掴み、ほんの数センチばかり開いていた袋の口を閉めた。中に見えていた小綺麗な私物が、カモフラージュの汚い砂色で覆われる。
伸べた手を引っ込めたあと、男はもう一度、ギンコの体を後ろから包む様に抱いた。可笑しいぐらいに静かな心臓の鼓動が、背中を通って胸へと響いてくる。男はそのまま寝入ったようだった。
胸へと回された腕に、軽く触れながら、ギンコは思っていたのだ。こんなふうに、抱かれたことは無かった。記憶にある限り、子供の頃にだって無い。
その腕を手放したくなかった。その為に、こんなところへまで来てしまったのだと、段々に気付いた。どうかしてる、と、そう思うよりなかった。
でも、そんなことも、もう。
「……遠い。遠い…」
奇妙な独り言を呟いて、ギンコの心が現実へと戻ってくる。かたん、かたたん、穏やかな振動を身に刻みながら、すいた車両の座席で、体を斜めに少し微睡んでいたらしい。相変わらずすいたまま、ギンコの他に客はたった一人。それが何故か彼の席の一つ前に。
その客が、ふと手に何か持って席を立って、ひょい、と彼の顔を覗き込んだ。初老の男だった。山菜採りか何かの帰りだろうか。座席には大きな重たげなリュックがある。
「ようやっと起きた。さっきっから覗いてたんだけど。蜜柑食べる? 駅で買った冷凍蜜柑。冷てぇから、美味いよ。ん? ほれ」
渡された蜜柑の、ひいやりと、手に沁みる冷たさ。男は了承も得ず、ギンコの正面に浅く座って話し掛けてくる。
「兄さんどこ行くの? こっちゃ次の次で終点だし、なんもねぇよ。一つ前なら温泉とか民宿とかあったけど、こっから向こうは山、川、滝、あとはダムの跡とか、そんぐらい。あと電車も少ねぇから、気ぃつけんと駅で夜明かしんなるよ」
まだ半分寝ているような振りで、ギンコが返事をせずにいると、男は一度彼に渡した蜜柑を取り、ハンカチで濡れたのを拭いて、二つに割ってくれた。
「何、もしかして初めてかい、凍ったミカン」
「いや」
問われて、ギンコは少し笑った。あまりの屈託なさに妙な気分になる。暫し都会に住んでいると、こういうのにどう対処していいか、正直、迷うのだ。その笑った顔を見て、男は何故か大仰な溜息をついた。
「あー、なんだ笑えんだねぇ。なんかあんたの寝顔、真っ白くて強張ったみたいで、ちょっとおっかなかったんだわ。なんもねぇ山の方を目指して、帰りの心配もねぇで一人で来たってなると、もしかして…とかさ」
それに、と男は頭を掻いた。
「なんかさ、人の名前呼んでたみてぇだったし、わけありってぇ感じの」
「…わけありって?」
ギンコはまた笑った。今度は笑いが苦笑の形になる。深く項垂れて、途中から顔は隠した。自分がどんな顔をしているのか、自分で分からなかった。
「ありゃ、名前じゃなかったかい。えーっと、す…す…」
「…スグロ」
息だけで、告げられた、名前。
そう、それそれ。言いながら、男はもう一つ冷凍蜜柑を出す。二つに割って、半分寄越そうとして、まだギンコが最初のを食べてないと気付き、あれ嫌いかい? などと、短絡を。答える代わりに、ギンコは蜜柑の房を口に含んだ。かなり溶けてはいたが、歯で噛むと、きん、と染みる冷たさと甘さ。
小房を何度かに分けて、すっかり食べ終えたころ、電車は終点へと着いた。男は重たげな自分の荷物を背負い、日に焼けた顔で笑ってギンコに手を振る。
「じゃあなぁ、いろいろ聞いてすまんかったよ。帰りの電車のことは駅で聞きなよ。駅で夜明かしになっちまうんなら、そのこともなぁ」
男の中から「もしかして」の不安は、消えたらしい。ギンコが笑った顔を見せたからだろうか。勿論最初からそんなつもりはなかったし、電車に乗ったことも、ここに来た事にも、特に意味はない。ただ、どこかへ、と思っただけだ。イサザのいる町ではなく、知り人も無いどこかへ。
都会から離れたのは、あのことを知っていて、それを目の奥に浮かべた知人と会うのが嫌だったからだろろうか。今更のように、そう思う。それでイサザの誘いを受けたのかもしれない。でもそのイサザが口を滑らせ、うっかり言葉にする過去のことも胸に刺さる。何かを悟られ、気遣われるなら更に堪え難い。それで優しくされれば、きっと益々胸がざわつく。
イサザも知り人もいなければ、誰かに気遣われることもないだろう。優しくされることもないだろう。そう思う気持ちがあったのかどうか、自分で知らない。分かるのは、逃げている、ということだけだ。
過去からも今からも、自身の想いからも。そして、撮りたいという、気持ちからさえ。
なら、置いてくりゃよかったろうよ
どうして持ち歩いてんだかな
お前は矛盾だらけだ、なぁ、ギンコ?
聞こえてくる声に、深く嘲笑を、一つ浮かべる。取り出したカメラ。キャップを付けたまま電源を入れて、シャッターを切った。撮れたのは闇。
あんたはさぁ、
欲しいもんがあったら欲しがれっ、て言ったよな。
諦め切れねぇ癖に、要らねぇ振りなんかすんな、って。
だったら言ってやるさ。
欲しいよ。
あんたが欲しいんだ、スグロ。
その声が、腕が…。
けれど、欲しいものすべてが与えられるわけじゃない、と、そう言ったのもスグロなのだ。失われ、損なわれていくものばかりの、あの国で、あの戦場で。
「おかぁさぁぁぁぁん…っ」
いきなり目の前で泣き出されて、イサザは思わずチラシの残り一枚を風に飛ばしかけた。
バイト最終日の今日は、ショッピングモールで開催される、楽しげなイベントのチラシ配り。イサザが立っているのは真逆の出入り口近くで、別の目的できた客や、催しを知らずに帰ろうとする家族連れを、会場まで誘導しちまおう、っていう狙い。
チラシはラスト一枚、これでバイト終了、と汗を拭き掛けたイサザの耳に、刺さるように子供の鳴き声が上がったのである。
「えっ、えっ…! なに、お嬢ちゃん、どったのっ」
どうしたもこうしたも、見るからに迷子。母親の姿を目で探しながら、イサザはチラシを胸に抱えながら子供の前に膝をついた。女の子は五歳ぐらいか、大人の言葉もちゃんと分かる年で、イサザの問うのへも、泣きながら返事をする。
「おっ、おかっ、おかぁさん、あっちの、こすもすのお店見てくるってっ。向こう危ないから、ここで待ってなさいってっ、道路渡っちゃ駄目だってぇぇ…っ」
「…こ、こすもす? あー、コスメかなぁ…?」
首を伸ばして見てみれば、びゅんびゅんと車が行き来している、大きな道路の向かいっ側に、若い母親の好きそうな化粧品の店がセールをしてる。確かに道路は子供だけで渡っちゃ危ないし、さっきそこで風船を配って子供を集めていたから、この子はそれが欲しくて列に並びたがっただろうと分かる。
それにしても、こんな街中で、色んな人が歩いてる中で、あまりの放置っぷりに眩暈がした。何かあったら、と思わないのが現代の若いお母さんって感じで。
女の子はウサギの形のピンクの風船を、片手でしっかり握り、もう一方の手でぽろぽろ零れる涙を拭っては、ひっくひっくとしゃくり上げてる。
「じゃ、じゃあここに座って、もうちょっと待ってれば、君のお母さんちゃんと戻ってくるからさー」
「でもっ、おしっこ、行きたくなったら言うのよ、って、いつも、おっ、おかぁさ…っ」
「あーーー、そういうことか…」
額を片手で覆って、イサザは軽く天を仰いだ。モールのトイレはあちこちにあるけど、どこも少しは並んでいる時間帯。たぶんこの子はギリギリまで我慢して、それで泣き出したって感じだし、そういう意味では猶予もなさそうだ。
これは抱っこしてちょっと走ってでも、モールの外のどこかの店のが、早く行って戻って来られる。何にしても、誘拐だなんだ、騒がれる危険がなくはないが。
「ちょっと待ってね!」
イサザはチラシの隅に、小さくケータイの番号を書いて、それをすぐ傍のクレープショップの店員に渡した。こういう事情で、あの女の子をトイレに連れて行くから、もしも母親が来て探してたら、騒ぎ出す前に、このケータイにコールするように言って欲しい、と。
これは好意であって、誘拐とかじゃないからね! そう念を押すと、半日イサザの仕事ぶりを見ていたお姉さんは、にこにこ笑って請け負ってくれた。
「さぁ、おいでっ。お兄ちゃんとトイレ行こっ!」
「でもっ、おかぁさっ…」
「大丈夫だよ、お嬢ちゃんはお母さんの言い付け守ってるもの。『おしっこ行きたいって言った』だろ、俺にっ」
「うんっ、言ったよ!」
よーし、いい子だっ。そう言いながら、イサザは女の子を胸に抱っこして、閑散としてそうなビルの一つを目指し走った。この際、飲食店なんかじゃない方がいい、普通の事務所だってなんだって、事情を言えばトイレぐらい貸してくれる。
ダッシュの速さはかなりのもので、見ていたクレープ屋の客が、ひゅうー、と一つ、口笛を吹いた。
続
まるで途中からカラーに変わった何かのようだ。いや、初めの方の、ギンコのターンと、その後のイサザのターンの、雰囲気の違いですけども。ちょっとさー、何書いてるんだろう、って我ながら思ったわ。だって、おしっこって…www
それにしても冷凍蜜柑、たまには食べたいです。懐かしくないかい? そしてギンコ、悪く言えば他人にまで馴れ馴れしく、良く言えば誰にでも優しいのは、この沿線の特徴らしいから、放っといてもらいたかったら、都会の方がマシかもですよ〜。
続きも頑張ります。その為には、残暑もういらないからっ。
13/08/15

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