モノクローム 10
走り込んだのは、硝子のドアが開いてた雑居ビル。中に管理人室なんかは見えなくて、一番適当にしてそうに見えた。誰とも擦れ違わず二階に駆け上がると、廊下の真ん中あたりに、素っ気ないトイレの表示板。
俺、冴えてるかも。これきっと、どの建物に入ってくより、多分早くに目的地に着けてるよなっ。
「だいじょうぶ? 一人で入れる?」
「入れるもんっ。もう四つだもん…っ」
少し悔しげに言う女の子は、見た目より少し年が下だった。
「じゃ、俺ここで待ってるからね。急がなくていいから、えと…いや、急がなきゃなのかな?」
もう返事をしてる間も我慢できないように、女の子はトイレに走って行った。どうやら間に合ったみたいだ、と、壁に寄っ掛かって安堵して、窓から空を見上げ、ビルとビルに切り抜かれた青に目を細める。ぼんやりしてたら、横の階段を誰かが下りてきて、ちら、と不審そうな眼差しをイサザに寄越した。
一人が見ると、他の二、三人も見る。こんなところで部外者が、所在無げにしてると目立つ。今日はただでも賑やかなイベント用にと、明るい色の服を着てるし。壁から背を離して、イサザはトイレのドアの前まで歩いた。そうしたら廊下の突き当たりに貼ってある紙が見えた。ポスターでもなきゃチラシでもない、なんだか手作りっぽい。大判画用紙に写真を貼り付け、手書きのマジックの文字の。
『亀蘭高校写真同好会フォト展』
へぇ、写真展、って思った。興味を惹かれた。トイレからまだ出てこない女の子を気にしながら、ほんの数歩をイサザは歩いて。でもその部屋を覗く前に、通り過ぎかけた手前のドアも、猫が通るぐらいの隙間だけ、開いていたのだ。細い視野に見えたのは色の無い、色。あぁ、違う、色が無いわけじゃない、白と黒、灰色。
床置きされて、その向こうに詰まれた段ボールに、寄り掛からせてある、それはパネル写真だった。見回すと壁のあちこちに立てかけられてもいて、全部で十何枚か。
みんな同じサイズで、似たようにしか見えないような、ビルと地面と、空と、電線。横断歩道。全部モノクロだ。信号。どっちが点いてるか分からない。人の姿は無い、いや、もしかして、このぶれてるのが人なのか? よく見たら車らしきもののぶれてるのもある。ギリギリ見えない残像みたいにだ。
これ、これ何。
俺知ってる、多分知ってる。
この写真と同じ撮り方のを知ってるんだ。
だってこれって、この、息の出来てないような、写真って。
知らないうちに、イサザはその部屋のドアを押してた。ドアは内開きで、押しながら一歩入ってしまってた。視野に入る写真は、全部が本当に似たような。
「ギンコ、の、みたい…」
ここに駅があることは、何の意味があるのだろうと思った。
廃村に近い。家は九割空き家に見えた。途中まで作られたけれど、今は放置されたダムのせいなのだろうと思う。利用価値がなくなった途端去っていった沢山のもの。去ったものの隙間で、それでも暮らしていこうとして、でも出来なかったものたちの、跡。
淋しいけれど、でも何かを感じて、無意識にギンコの手が、ポケットの小さなカメラを探る。データが満杯のカメラだ。撮れないと解ってる。不要のデータを消して、容量をあける操作から、指と心が逃げていた。
そこまで? そこまで撮りてぇのか? お前が今更?
立ったまま朽ちてるくせに、ずっと枯れていてぇくせに。
あぁ、女々しいな。あんたに執着してるそのことを、
カメラに執着してないフリの、この無意味な虚勢で知る。
諦めるのは慣れてるんだろ?、って、笑って俺に言ったのはあんただったな。
お前の嫌いと好きは裏表さ。だからお前、俺を嫌いになれよ、嫌いで嫌いで、避けるのもムカついてるうち、ひっくり返って逆になるだろ。だからさ、お前は暫くそうやって、俺の傍にいろや。
いつまで諦めてられるか、俺が見ててやるからよ。
ガキの頭を撫でるような、でも強すぎる撫で方が、癇に障って。その癇に障った顔する自分がガキなんだなと自覚させられ、罠みてぇな男だったよ、あんた。目ぇ逸らしてたいろんなものを、見ろ、見ろって言うみたいに、あんたは俺にカメラを。
立ち止まってた廃屋の前から、ざ、と靴音鳴らして歩み去る。次の家に、その次の家にも目もくれないつもりで、見てしまう。
外れた木の扉、下から腐って土に還って、その生まれたばかりの土に、雑草の芽。その芽の下に一年前の同じ雑草の枯れて腐れた葉が這って。割れたガラス窓の中の、子供の絵本の蝶の絵の上に、死んだ蛾の崩れた翅。同じ種類の蛾が二匹、壊れた窓から外へと飛び立つ。
面白いな、お前。そういうの好きか?
終わりと始まり。終焉と再生って?
あぁ、目逸らすな。撮れ撮れ、さっさと。
目を閉じて歩きたい気がしてくる。ずっとこんなじゃなかったのに、なんだ、ここは。いや、違うだろう。イサザに呼ばれてあの町に入ってからずっとだ。後悔が、胸の奥で心臓を掴まえて揺さ振ってる。何もない町だなんて、酷い偽りだった。溢れ返った様々が、閉じてるところを抉じ開けようとする。
たった二週間、足らず。今までずっと止まってたものを。これじゃあ俺が、動きたがってたみたいじゃないか。あんたの抜けた穴に、何かが流れ込んでこようとしてる。穴の空いたまま蓋をして、すかすかな自分で居続けようとしてるのを、嘲うみたいに。
ギンコはポケットからカメラを取り出し、データを消した。カラっぽに戻したカメラを、何もない土に向けてシャッターを切った。芽吹いたばかりの雑草の芽が映っていた。いつついたか知らないタイヤの跡の、浅い凹凸を、小さな蟻が夢中で這ってた。
ほらなぁ、ギンコ、
お前が何もないところを見てようとしたって、
なんにもないところなんて、
この世の何処にも、ありゃしねぇのさ。
閉鎖されたダム跡を探して、ギンコは歩いた。人と会わないではなかったが、声は掛けなかった。どこ行くのかと二度ほど問われた。返事をせずにいても、気をつけて、と言われた。背中を暫く見ている視線を感じ、苦笑する。やっぱりそんなふうに、見えるのか。
そんなことはしねぇさ。
消えてなくなったら、
あんたの居た穴も消えるだろ。
ダムの跡地には、荒んだ過去が見えた。ここで大勢が、何かを争ったのだろうと思った。撤廃だ撤去だ。反対だ抗議だ。裏切りだ偽りだ。ペイントされた灰色壁の、重機で半分崩されたプレハブ。放られたヘルメット。破れたセメント袋。
でも、そこかしこの雑草には、葉と茎と、蕾と花と。ちらり、野鼠らしき小さな生き物が、木々の隙間に過った。蝶も居た。これじゃどこを撮っても、生き物が写る。手遊びのように、ぶらり片手を下げたまま、歩きつつシャッターを切った。何が映ったか、後で見る。
少し、少しだけそれが楽しみに思えて、スグロがにやにや、笑った気がした。
「なんだぁ、お前さん、あいつの知り合…。あ、あーぁ、そりゃ不意打ちだろって。言っちまったわ」
突然に、斜めうしろから話し掛けられて、自分がすっかり部屋の中に、入ってしまってることに気付いた。なんだか少し風変わりな老人の、どこが風変りなのかよく分からない姿を、イサザが焦った顔で振り向く。
「すっ、すいません、俺勝手にっ」
「別に。鍵かけてないんだし、無人にしてもないんだから、それはいいけどもな。寝てた俺も、まぁ、悪い」
隣でやってるフォト展の、一応留守番してんだけどな、と。兄ちゃん見てくかい、結構面白いよ、はっちゃけてさ、と。さっさと部屋を出ようとしたそれが、話逸らしだなどと、イサザは気付いていなかったけれど。
「俺、それよりこの写真の」
「あー、なんでこの写真、そうモテるかねぇ」
前もあったな、こういうこと。老人はぶつぶつと言った。見知らぬ男がいきなりきて、あいつが今どこにいるだの連絡先はだの、答えようもないことを聞かれたわ。
そして残りは心の中で。
まぁ、一応は名の知れたカメラマン、そうしてその名がもっと知れちまうような、そんな消え方をした男の、助手をしていたのが、このモノクロの撮影者で。あいつはちょっと人の記憶に残りそうな、目立つ姿をしてたしなぁ。
老人は、何故かぺらり一枚ポストカードを差し出し、ちょっと端が折れたそれを、イサザはまじまじと見て。その写真を、やっぱりギンコのみたいだ、と、そう思った。
「あの、これ撮った人ってっ」
「だから知らねぇってよ。今の何処にいるとか電話番号とか」
「や、そうじゃな…」
イサザはポストカードをじっと見て、言うべき言葉を考えて。
「で? そっからこっち見てる可愛い嬢ちゃんは、お前さんの彼女かい、ほったらかしで良くねぇ彼氏だな、まったくなぁ」
言われてイサザは飛び上がった。トイレからとっくに出て来た女の子は、泣きもせず、勝手に何処かに行きもせずに、廊下からイサザのいるこの部屋の中を覗き込んでいたのだ。
「うわっ、ごめんごめんっ。ママんとこ戻らなくちゃねっ」
でないと人さらいだとか、騒がれてしまう可能性もあるんだった。慌ててイサザは女の子を抱き上げ、老人にぺこり頭を下げた。
「これ、貰っていいんですか?」
「あ? いい、いい。もういらねぇもんだし」
ありがとうございますっ。そう言って、イサザは振り返る余裕も無く女の子を抱っこしてまた走った。広場に戻ると、まだ女の子の母親は戻ってなくて、何事も起らないで済みそうだ。
「いい子だったねぇ」
そう言って、小さなクレープをその子に、それからイサザにもくれて、クレープ屋さんのお姉さんが、彼を労ってくれる。その子がクレープを食べ終える直前、若いママが戻ってきて、子供にクレープを御馳走してくれたお礼を言って、女の子の手を引いて帰っていく。
「なんも言わなくていいのぉ?」
と、クレープ屋のお姉さん。
「えー、別に、なんもなくてよかったじゃん」
手を振るその子にイサザも手を振り返し、にこにこと。
「思ったより、ちゃんといいママだったしさ」
どうやら強気のママ友に、引きずっていかれてのショッピングだったらしい。買い物が長引いたのも友達の方、気の弱そうなママが、ずっと可愛い我が子を心配していたのは、半泣きの目で分かる。いいなぁ、なんて今更思ったのは、誰にも内緒だ。言えるとしたらギンコにぐらい。
ギンコ、俺、夜には家帰るよ。
戻ってる? 戻っててよ、頼むから。
でもその前に、イサザはさっきのビルに、もう一度いくつもりだった。行ってどうするかは決めてないけど、でも行くんだ。もう少し、あの写真たちを見て居たい。
続
そろそろ話すすめなきゃっていう。ね。なのでイサザにはあと少しギンコを知って貰わないと、と思うのです、ギンコ言わないだろ、自分からはさ。
13/09/08

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