モノクローム 7
「………ねぇ…。ねぇ、店員さん、起きて。これ幾らかな?」
ぎくん、と背中を跳ねさせて、イサザはカウンターで飛び起きた。勿論横になっていたわけじゃなくて、スツールみたいな回る椅子に腰掛けて、レジ横に突っ伏して寝てしまっていたのだ。
「えっ? えっ!?」
「ごめんねぇ、気持ち良さそうに寝てるとこ。これ幾ら?」
涎でも垂れているんじゃないかと、無意識に口の周りを擦りながら、イサザはCDジャケのバーコードを探した。ピッ、とやろうしたが読み取れなくて、目の前のお客に「中古よ」と指摘される。
「す、すいません…っ」
「焦んなくていいから、いいから。こんな時間に開いててくれただけで、帰りの遅いあたしとしては助かるし?」
ん?と思ってイサザが腕の時計を見ると、閉店時間を随分過ぎた午後九時二十分。確かに、いつもならとうにシャッターを下ろしている時間だ。あちゃー寝過ごし過ぎだよー、などと焦りつつ、改めて目の前のお客さんを眺めると、つい最近見たような女性で。
「あ、れ?」
「ん?」
濃いめの茶髪を、肩の下ぐらいでくるんとさせた…。年は二十八、九ぐらいの。気のせいか、とは一瞬思った。アップにしていた髪を下ろし、褪せたジーンズにメンズのラフなシャツ、ビビッドカラーのショルダー…な恰好は、白一色のさっきの姿とあまりに違っていて。
「あ? 気付いちゃった?」
人違いか、と思い掛けてたイサザに、彼女はてへへと笑って言ったのだ。
「昼間はどうも。ヨウコちゃんには会えたの?」
「い、いえまだ」
「あっ、そーなんだ」
やっぱり、昼間医院で会った、ちょっとそそっかしい看護婦さんだ。よく分かったわねー、と言いながら、彼女はイサザの手元に詰まれている、別の中古CDにも目を留めている。
「わぁ、これ、シィナジィノのファーストじゃないっ。あ、こっちにもある。これも欲しいわー! ジャケ絵もいいのよねぇ。これねぇ、大好きだったのに、一時大嫌いになって処分しちゃって、また最初から集め直してるとこなのよ」
随分嬉しそうな顔をして、彼女はCDケースを撫でている。その二枚はイサザが見ていたモノクロジャケットのヤツで、結構昔のアーティスト。選んだ三枚はケースに擦り傷が入っていて古いから、一枚三百五十円を少し値引きして、三枚千円丁度にして渡した。
「安くしてくれてありがと。また今度レジで寝過ごして、この時間まで開いててくれると嬉しいわー」
「…あ、あの…っ」
彼女が店を出ていく寸前、イサザは無意識に呼び止めていた。あの、ええと、と少し言いよどんだ後、イサザは躊躇いを振り切って聞いたのだ。
「好きだったのを嫌いになって、また好きになるのって、どういう切っ掛けが、とか…。き、聞いてもいい、です、か…?」
帰ろうとしていた彼女は、目を丸くして振り向いて、暫しイサザの顔を眺めていた。カウンターに身を乗り出し、一生懸命な顔をしていたイサザは、自分がたった今口走った言葉を思い返して、狼狽えている。
ほぼ初対面のしかもお客様に、いきなりしていい質問かどうかぐらい、ジョーシキで分かる筈なのに、いったいなんでそんなこと。
「あ、あー。すみま」
すみませんっ、と謝って言葉を引っ込めようとしたイサザの目の前に、ローヒールをカツンと鳴らして彼女は戻ってきた。
「その頃付き合ってた彼氏と、いつも一緒に聞いてたのよね。で、その彼に、しばらく立ち直れないような酷いフラれ方して終わったもんだから、その頃はもう二度と聞きたくないって思った。でも時間を掛けて吹っ切れた後で、やっぱり好きだなって、また聞きたいなぁって思ったのよ。よくある話でしょ?」
彼女はカウンターに肘をついて、イサザの目を覗き込んで、悪戯っぽくこう言った。
「答えてあげた代わりに、またシィナジィノのCDが入ってきたら、教えに来てくれる? 絶対集めたいの」
そんな約束をさせられて、彼女を外へと見送ってから、イサザは店のシャッターを閉める。ガラガラと大きな音が、静まり返った商店街に響いた。暗い夜道を帰りながら、彼女の言葉を頭の中で思い出す。
そうだよ。好きでも、嫌いだって思っちゃうことって、あるよな。でも本当に好きだったら、ちゃんとまた好きになれるんだ。本当に好きことなら、ギンコも…多分、前みたいに写真を撮るのが好きになる。
前、みたいに、の「前」をイサザは見たことがないけれど、好きだったんじゃないかと思えて仕方ない。好きなのに、それをどこかで堪えているような、そんな気がしてたまらない。
イサザに見えないギンコの数年間に、何があったのか。無理に聞き出そうとしてはいけないのだと、それだけは直感で分かった、その「何」か。聞けないけれど、もやもやと何かが心に引っ掛かる。
付き合ってた筈のカメラマンとは、今は続いてないみたいだけど、切れた後もこんなに尾を引くぐらい、本気だった、ってことなのかな。
ギンコ、俺、お前の撮った写真が見たいよ。何かを抑え付けて、押し殺したみたいな淋しい写真じゃなくってさ。もっと、お前が自分で撮りたいって思って撮った写真が、見たいよ。
すぐじゃなくていいから。あのおねえさんが言ってたみたいに、すっかり吹っ切れた後でいいから。
「にいさん、イサザとはトモダチなのかい?」
ホームで時刻表を眺めていたら、唐突にそう話し掛けられた。老いてしわがれたその声の通り、白髪頭の駅員が、にこにこと笑って立っていた。振り向いただけで返事をせずにいたが、それを気にした様子も無く、駅員はそのままギンコに話し掛けてくる。
「また電車の写真撮ってくれんのかい? 今日はこないだのでっかいカメラじゃないんだねぇ。ああいう本格的なので、うちの車両を撮ってくれる人なんかそうはいないから、あすこの窓から見て喜んでたんだけどね、実は」
腰の後ろで手を組んだまま、駅員はひょい、と駅舎の上の方を見上げる。二階、と言うのではないだろうが、確かに小さな窓が一つ、建物の上に方に見えた。
あんなに小さくては、窓は嵌め殺しになりそうなものを、ちゃんと左右に開けられる作りになっていて、今もパカリと開いている。そうしてこの前はホームに居た駅員が、その窓から首を出し、こちらへ軽く会釈をしてきたりする。まるで鳩時計の小窓から首を出す鳩の如くな風情。
へぇ…。
ギンコの手は自然に動いて、そこへ向けてカメラを構える。けれど何故かシャッターは押し切れず、カシャリという音もしなかった。覗き込んだ狭いファインダーの中に、FULLの赤い文字が点滅していて、データ容量の限度オーバーだと分かる。
そんなに撮ったか、とは思ったが、容量オーバーなら、入っているデータを幾らか消さなければもう撮れない。別に今直ぐそこまでするほどの、とカメラを下ろした一瞬に…。
いいか、ギンコ。撮りたいって一瞬でも思ったんなら、
シャッターはきっちり切っとけ。
結果、心に響くものが撮れなかったとしたら、
それは単に、腕が追い付いてねぇだけだ。
下手クソだろうと、失敗作になるんだろうと、
見た一瞬で、あ、っと思った場所では、
何はさておきワンシャッター、だぜ。覚えておけよ。
耳に、淡々と響いたのだ。あの声が、酷くらしいあの言い方で、あの頃のように、聞こえてきたのだ。小窓を見上げたままで、じっと身じろぎしないギンコの鞄の中、パチ、と小さな音がした。小さな小さな音だったが、ギンコにとっては耳馴染んだ音。
彼はホームのベンチまで歩いて行って、そこに鞄を下ろし、ファスナーを開き、その奥の黒いケースの蓋を開ける。外から見ても、それが何なのか分かる形状のケースだった。ケースの中から「それ」を取り出すと、外れていたレンズキャップだけが、ケースの中に残った。
仕舞い込むなよ。
写真を撮れよ。
撮りたいんだよ。
お前と同じだ。
…そうだろ?
取り出した「それ」が、彼の声でギンコに語り掛けてくる、気がした…。
続
書き上げましたが時間無いので、アップのみして寝ますー。すみませんーー。
13/07/14

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