モノクローム   6





「あー。うーんん」

 小児科内科の医院を出てから、イサザはもどかしげに袖を捲り上げた。視線は腕時計の針を見ている。バイト先の遅番は十一時から。でも、十分前には入ってなきゃ叱られるし、行きたい場所は町の端っこだ。行って帰って…。到底間に合わない。

「しゃぁないっ、また今度っ」

 手がかりはあったし、別に今すぐでなくとも大丈夫。そうと決めると、イサザは少し早めにCDショップに出勤した。幾つか年上の、やっぱりバイトの兄さんと入れ替わりの遅番。イサザはロッカールームに鞄だけ放り込み、渋い色の店のエプロンをつけてレジ前に寄って行く。

「はい、おつかれ」
「おうっ」

 デートの約束でもあるのか、バタバタと走りつつバイトを上がる同僚の後ろ姿に、春だよねぇなどとジジくさく言って、イサザは客の一人もいない店内をぐるりと見回した。中古の売り買いもしていて、そのコーナーに少しばかり商品が増えている。

 レトロな雰囲気の、かなり古そうなCDのジャケ絵が中々いい感じの白黒だったりしたので、無意識に手を伸べる。素朴な感じの花が、ひび割れた道路の手前にちらほら写っていて、後ろには広々と空。たぶん、目に痛いほどの真っ青な空だ。浮かんでいる雲の目映い白まで見えてくるような。

イサザはギンコの撮った白黒写真を思い浮かべた。花と空を映した写真はあったけど、でもあの写真とこのCDの写真は、随分違うように思えた。つい昨日一緒に出かけた公園で撮ったものの筈なのに、ギンコの写真は青かった筈の空の色も、生き生きした花の元気さも、何も、伝わってこないような…。

 そういうの、撮り方で変わるもんなのかな。
 ピントだとか、なんとか、俺よく知らないけど。
 でも、そんなに? こんなにも?
 だって、あの簡単そうなカメラで?

バイトにきたばかりだというのに、イサザはすでに心ここにあらずだった。幸いにして客は少なかったし、来店があっても馴染みの顔ばかり。イサザがぼんやりしているのを見て、からかったり、あるいは悩みでも、と心配してくれたりしながら、一つ二つの商品を買って帰っていく。

 夜になって、客が途切れっぱなしになって、長々と一人でいたイサザは、なんとなく店内の商品を見て回った。どの商品のジャケットもそれぞれ凝っていて、斬新なイラストだったり、目立つロゴだったり。それへアーティストの写真を組み合わせて、ファンの目を惹くように作られてる。

 風景とか小物だけで、人が写ってないのもいろいろあって、イサザはその中から色のないのを目で追っていた。

花、空、道路、外国っぽい建物の外観や、洒落た家具のある室内。沢山あるのに、ギンコの映した写真とは、どれもが違う雰囲気なのだ。被写体が違うとか、写し方が違うとか、勿論あるけど、でもそういうことじゃなくて、なんだか…。

 ギンコのだけが何も伝えてこないような、そんな感じが。

「ほんとは…写真撮るの詰まんない、のかな」

 ふ、っとそんなふうに思ってしまって、イサザは大急ぎで首を横に振った。そんなわけない。嫌いじゃないって言ってたし。

 それに、ずうっと前、カメラマンしてるってやつと付き合い始めたとき、ギンコはどこか楽しそうに見えた。イサザが淋しく思ってしまうくらい、そいつのことを気に入って、そうして段々、イサザの部屋にこなくなった。

 カメラになんか興味なさそうだったギンコが、今、それを仕事にするほどの腕になっているのだって、たぶん、そいつが教えてくれたからだ。好きな男に教えてもらって、そんなに上手くなるぐらいなのに、嫌いとか、そんなの。そんなの、あるわけが。

 イサザの心は、ふと別のことを思う。

 …ギ、ギン、コ…?

 数週間前、長い長い、長い沈黙の後で聞いた、電話越しのギンコの声を、イサザは思い出していたのだ。コールも長く鳴っていた。あの時、留守電に切り替わることもなく、何度呼び出し音が続いていただろう。

 その時電話したのは、たまたまケータイのアドレスの名前が目にとまったから。ぎんこ、と平仮名の登録を選んでコールしつつ、けど繋がるかなぁ、出るのかなぁ、などと、そんなことをイサザは思っていた。
 
 元からギンコは気まぐれで、鳴っている電話に出ないこともあるし、履歴を見て折り返したりしないことの方が多い。そうやって何度放っておかれたか、数えられないぐらい。悪気が無いのも分かっていたし、ギンコは割に「相手」をとっかえひっかえする性質なので、面倒だから着信は放置、の癖があった。

 続くコール音を聞きながら、そういやどれだけぶりで電話しただろう、とイサザは指を折っていた。何か月? もしかしたら一年ぶりぐらい。だってギンコ出ないし、ずっと電源入って無いことあったし。

 そして声を前に聞いてからなら、下手をすると二年にもなるのかもしれなかった。

『…………もしもし…』

 いい加減しつこく鳴らし過ぎていると思って、切ろうとした瞬間、聞こえてきた声を、一瞬イサザは、別の人の声かと思ったのだ。擦れていて、小さくて、誰かに喉を押さえつけられてでもいるような、どこか苦しげな声だった。

「…ギ、ギン、コ…?」
『……誰に掛けてんだ? お前』

 責めるような声が聞こえて、やっぱり別の人だと思う気持ちが半分。やっぱりギンコだったと思った気持ちが、残りの半分。焦って、久しぶり、も、元気?も、何もかも飛んでしまってた。

「あ、ギンコだよね? ギンコに掛けたんだよ。あのさ、今、よかった? 何してた?」
『別に…? 何も……してねぇよ』

 怠惰な感じの低い声も、お世辞にも人当たりの良くないその響きも、ギンコでしかなくて、イサザはその時どうしてか、別の人ならよかったと思ったのだ。何があったか知らないけど、なんだか酷く荒んでいることが、二、三言のそれだけで分かったからだ。

「…今、どこ居るの? ギンコ」
『なんで』
「な…なんでって。何してんのかな、って思っただけだよ」

 聞いてどうすんだ、と責められた気がした。関係ない、とか、放っとけよ、とか、そういう響きだった。でもここで「忙しいならまた今度」などと言って、電話を切ることだけは考えられなかったんだ。それはしちゃ駄目だ、と、そう思った。ただの直感で。

『……を、とってる』
「とって? えと…?」

 意味が分からず、電話を耳に押し当てたまま、首を傾げたイサザの耳に、カシャ、と、それ独特な、音が。

「あ、写真? もしかして写真で食ってんのギンコ。それすっげぇじゃん、そういや助手やってるとか前にそんな話。じゃあさ、ギンコ、今、忙しんだ?」
「…別に…何も。俺は何も、してねぇ…」

 また同じ響きで、同じ言葉。怠惰っていうより、どこかが苦しそうな。どうしてかイサザは怖くなった。電話の向こうのギンコが、今にも消えそうだ。何があったの? どうしたの? 今聞いちゃいけないとだけ在り在り分かって、イサザは殆ど無意識に、こう口走っていた。

「…あの、さぁ? ただぼうっ、としてるんならさ、来てみれば、こっち」
『………こっちって…?』

 返事はまた、沈黙の後の問い返し。でも、こんなふうに問い返すのは脈のある証拠だと、長い付き合いのイサザは知ってる。

「ほら、俺の生まれた町にさ。ガキの時から何度も話して聞かせたろ? なんもねぇけど、そのなんもなさが結構悪くないよ。さびれてんだよね、いい感じに」

 何も、無い。何も。

 その言葉に、心の何処かを触れられて、足を向ける気になった。ギンコのその時の思いを、イサザは勿論知る由もない。でも、無意識に口走ったけど、ただの思い付きで、別にそれでどうなるってわけでもなくても、イサザがギンコをこの町に呼びたかったのは、心からの本音だ。

 あの公園で、ふたりいつまでも暗い中で、ブランコを漕いでた。何にもないけど、自由で、気楽で、疲れた心がどんどん透き通っていく。

 この町でイサザはあの公園でのことを思い出したんだ。というより、寧ろ、田舎のこの町を恋しがって、あの公園が好きだったんだ、ずっと…。だからギンコも。

「なぁ? 来る? いつ来る? 俺一人暮らししてっから、ギンコいつでも転がり込めるよ? 高校ん時みたいにさ、大学の途中までみたいにさぁ。な、来るよなっ?」




 つい、数週間前のことだ。まだ一か月と過ぎてはいない。

『いつ来る?』

 もう決まったことみたいに、嬉しげに、イサザはそう話してきた。その声の中に、こちらを気遣う響きが強かったら、ギンコは多分、曖昧なことを言って電話を切って、多分、それきり。

 でもイサザの声は変に明るくて、本心からギンコを呼びたがっているように聞こえた。

 いい町なんだ、何もないけど、
 その何にもないところがいいんだ。
 寂れてるのが、また良くて。

 そういやガキの頃から、この町がいいんだ、って、耳にタコが出来るほど聞かされてた。大学の時も、来ないかと何度誘われたか思い出せないぐらい。そんなにいいなら、とあの時ギンコはぼんやり思った。

 そんなにいいなら、
 そんなに、いいんなら…。

 何かが変わるとでも? ふ、とギンコは笑う。一人でいるから、その笑みを見ているものなど誰もいない。町で一番の高台、緩やかな坂を上り切ったこの町の外れ。景色が凄くいいんだ、と、嬉しげに昨日、イサザが話をしていた場所である。

 確かに見晴らしはいい。町の殆ど全部が見渡せて、どこにどの建物があるか、スーパーマーケットだの、銭湯の煙突だの、町に一軒の映画館だのが、本当によく見えて。でも、それだけ。「それだけ」を、景色がいいと思うのは、イサザがこの町を好きだからだ。

 デジカメのファインダーを覗いて、シャッターに指を掛けて、でもギンコは写真を撮らずに、その腕を下ろした。

「確かに、いい景色だな、イサザ…」

 だから、撮らない。だから、撮れない。この町には何もないとイサザは言ったが…。

「何もねぇ、どころか」

 ギンコは足元に置かれた重たげな鞄を持つと、黙って風景に背を向けた。そうして何も映さないような目をして、ゆっくりと坂を下りていくのだった。






 
 



 

 
 
 傾いでるよなぁ、と思う。生き生きとしたものも、あたたかなものも、撮りたくないのかもしれない。今のギンコは。ヒビの入った器のように、自分の中に何も留めない。それでも留まるようなものに、触れたくない、というのでしょうか。

 正直、書くの難しいですっ。ばったり。でも続きも頑張りますっ。


13/06/22






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