モノクローム 5
「そのうち借りるぜ、あれ」
ギンコがそう言ったのは、夜遅くなってからだった。今日案内したあちこちを他愛なく話題にして、夕飯と、その後のビールとツマミ。交代でシャワーを浴びて、それからまた他愛ない話の続き。喋っているのはイサザが殆どで、ギンコはやんわり相槌を打っている。
虫食いキャベツの八百屋と、その隣の前にビールを買った商店。向かいのコインランドリーの真ん中の脱水機は壊れてる。一本向こうのおもちゃ屋は昔ながらの雰囲気で、何か買うとオマケで貰えるのが、その家のばあちゃん手作りのお手玉。
病院は歯医者と内科小児科が、イサザのバイト先の傍にあるけど、駅の向こう側に少しいくと、だいたい何でも見てくれるいい病院が一件あるんだ、とか。
ともかくそんな話を楽に話して、そろそろビールも飲み尽くして眠くなってきて、イサザが先にもそもそとベッドに足を突っ込んだ頃。
ギンコが視線をやっていたのは、部屋の隅の机だった。物を置く台になってるだけで、そこに何が埋もれているのか、イサザはすぐに思い出せなかった。
「ん、んんー? あれってぇ?」
イサザはもう頭を枕に付けながら生返事。
「パソコン。生きてんだろ? 一応」
「…そう言や、あったっけ。いいけど、何に…。あ、写真っ?」
用途を察してイサザが身を起こす。でもギンコはまだテーブルのとこに座ったまま、片膝立てして残ったツマミを片してるだけだった。
「今じゃないぜ? そのうち」
「あ、もっといっぱい撮ってからってこと? うん、いいよ。使って使って」
見せて貰うのを楽しみに、イサザはにこにこしながら枕を胸に抱き寄せた。
「ギンコ、撮ったヤツちっとも見せてくんないんだもん、早く見せてよー」
別に面白いもんじゃないぜ、と、素っ気ないギンコに、イサザはまだ笑ってる。ごろりごろりと寝返りを打って、最後には壁の方を向いて丸くなり、ちょっと照れ臭そうに呟く。
「俺、別に写真とかキョーミないけど、お前の撮ったやつだもん。…見たいよ、そりゃさ。お前がカメラとかって…」
くすくす笑う、機嫌の良いイサザ。布団の中で、ぱた、と足を遊ばせている。
「最初はすっげ意外だったけど。駅で見た時、様んなってたよ? あー。……んでさ、お前さー、結構前カメラマンと付き合ってたんじゃなかったっけ。その頃俺の部屋にぜぇんぜん来なくなっちゃって…。」
照れ草そうだった声の響きが、途中から微妙に愚痴混じりになる。酔ってるせいだろう。素面ならきっと言わない。少なくとも、考えもせずにただ洩れのこんな言い方じゃ。
「今だから言うけど、やだったんだよね、俺。さびしーって言うか…。なぁんだ、ギンコは俺じゃなくても…みたいな…だからさぁ、お前が誰んとこでもなく、今こーして、俺の部屋にいるのって、すっげ…うれ…し……」
言葉の途中で、イサザは寝入った。規則的な寝息が聞こえてきて、それが暫し続いてから、部屋に響き始める、鋭いような、音。
カチン、カチン…。
ジッポのライターの音。中々火が点かない。オイル切れしかかってるのは分かっていて、でも、ギンコは淡々と、動作を繰り返す。
カチ…っ カチン… カチン… カチン…っ。
知ってるさ。時々、イサザは間違える。それはもうずっと昔からだ。ガキの頃から。人の気持ちを受け取り損ねてたり、勘に触ることを言ってしまってて気付かなかったり。それは育ちのせいもあるのだろうが、人を傷つける種になってしまう事も、仕方なく。
でもギンコは、イサザがそういうヤツと分かっててここに来た。そういうヤツだけど、そうやって「触る」ことをした以上に、人を「安らげる」ところがあると分かってた。自分とはえらい違いだと思う。…ここに来た最初の朝、イサザは言ったんだ。
ごめん、俺、もう言わない。聞かないから…っ
笑えるぜ? イサザ。お前、何が悪かったか分かってなくてそう言っただろ? そんで今もまだ、ちっとも分かってないんだな。別にお前が悪いんじゃない。俺が教える気が無いから、だからだ。しょうがないんだよ。そのせいでそのうちここに居られなくなっても、しょうがないんだ。
ギンコはライターをテーブルの上に放った。空のアルミ缶にぶつかって、かなり派手な音がしたけど、それでもイサザは目を覚まさない。転げた缶を手に取って、それの形を歪める、ぱきり、という音にも起きない。
「…ゆっくり寝てな」
酷く優しい声で、ギンコはそう言った。結局ライターの火は付かない。今までこの部屋で吸ったことはなかったが、仕方ないからガス台へ行って煙草に火を灯す。窓に隙間を開けて煙を逃がすには、丁度いい場所にあるパソコン。
随分古そうな機種だったが、起動してカメラのドライバをなんとか読み込ませ、データを入れて。ギンコはディスプレイに並ぶ数十枚の写真を、沈んだ眼差しで眺めていた。
ほぉらな、何も面白くなんかない。
何かがごっそり削げ落ちた、写真ばかりだ。
イサザが起きた時、部屋にギンコは居なかった。ぎくりと心が震えた。昨日喋ったことを思い出したわけじゃないけど、それでも心臓が竦み上がって、視線で慌ただしく部屋の中を見渡した。ギンコの服とか鞄とかが、いろいろと目に入って、竦んだ心臓がやっと楽になる。
カメラを入れてる、でっかいバック。あれがあるなら、ギンコは戻る。根拠も理由も無いのに、無意識の確信。
「あー。び…っくり…。心臓に…わる…」
そうやって、過剰に心配してしまう思いが、どこから来ているのかイサザは知らない。自分は知らないんだと分かっていても、知りたいと思えない。だって、それは多分、俺が癒せるようなものじゃないから、話させて放置するぐらいなら、そのままで、と思う。
「…どこ行ったんだろ。俺、今日仕事、午後からなんだけどな。また写真、撮りに行ったのかなぁ?」
昨日、色々教えたから。時間が足りなくて一緒に行けなかった場所へ、一人で行ったのかもしれない。この街で、一番景色の綺麗な高台とか。
「あ、そだ。写真、一枚早く欲しいのあったんだっけ」
呟いてからやっと気付く。パソコンの乗っている机の上が妙に整理整頓されてて綺麗で、奥から引っ張り出されてたキーボードの上に、写真が数枚、無造作に。
「…あ…っ」
何故だか焦って。毛布を足に引っかけたりして、床に片足がついた途端になんとなく気付いた。ギンコ、昨日、ベッドに入ってない…? だから今朝は、俺一人が真ん中を占領出来てて。
そうして手に取った写真は、変に灰色で、白っぽくって、あぁ、色が…ないんだ。モノクロの。
「なん、で?」
視線がもう一度最初から追う。公園のが四枚、あった。ブランコ、と、その手前にある花壇。花が咲いてる。滑り台を下から見上げた、向こうの高い空。ふわふわ、丸い雲が浮かんでて。ジャングルジムは、赤と黄色と緑と、三色に色分けされてた。けれど、そのどれもが全部、濃淡のあるただの白黒。
おもちゃ屋のレトロな看板も、真っ赤で丸い形のポストも、みんな、色が無い。全部。いや、一枚だけ、最後のだけがカラーで、急に目に入った色が眩しいような。刺さるような。
「あ、これ、俺が撮ってって、言ったヤツ。これだけちゃんとカラーで撮ってくれたんだ、ギンコ」
イサザは少し考えて、お湯を二人分沸かした。お湯が沸くまでにギンコは帰ってこなかったから、一人分だけコーヒーを入れて、二枚出したパンの一枚だけを焼いた。パンを食べ終えても帰らなかったから、そのトーストはもう一回袋に入れた。そこまでやって、流石に呆れて。
あーぁ、何やってんだろうなぁ、俺。
昼までの時間が妙に長い。昼番が出勤するには、まだまだ早かったけど、支度をしてイサザは家を出ることにした。テーブルの上にメモで手紙。
『写真、ありがと。バイト早めに出るけど、
今日は夜のシフトだから、帰りは九時過ぎるよ。
先に夕飯、食べちゃっていいからね。イサザ』
一枚だけのカラー写真を、そっと鞄に入れて部屋を出て、バイト先に直行はせず、イサザは近くの病院に入っていった。半分擦り硝子の古そうなドアを押すと、ぎゃー、と小さな子供の泣いている声。さすがは小児科内科、奥の方から女の子と男の子の二重奏で聞こえてきた。
暫し待って、子供の泣き声がおさまると、受付に戻ってきた白衣のおねぇさんが。
「いらっしゃいませー。お待たせし…」
と、そこまで笑顔で言ってから、あ、と口を手で押さえているのは、昼時間だけ、隣の喫茶店のウェイトレスを手伝っている看護士だ。すみませーん、と憎めない笑顔で言って、イサザに問う顔を向けてくる。
「あ、俺、別に具合悪いとかじゃなくて、あの…これ…」
差し出した写真に、若い看護士は首を傾げる。
「公園の落し物なんですけど。ここに来てる子のじゃないかと思って…っ。えっとあの…っ」
今更だけれど、考えてみたらイサザのしていることは少し奇妙だ。落し物といってもこの近くじゃないし、しかも持ってきているのはハンカチそのものじゃなくて写真だし、この医院へきたのも、多分とか、きっととか、曖昧な…。
「こっ、この前そこの信号んとこで、このハンカチのクマと、同じ顔のクマを持ってた子と会ったんでっ、それでっ、そのっ」
「あー、なるほどね、わかった」
そんな説明でも、看護士にはイサザの言いたいことが分かったらしい。こういう狭い町だから、手製のクマのヌイグルミとか、特徴のあるハンカチの刺繍が手がかりでも、それほど難しい「捜索」でもない。実際、看護士には何か思い当たることがあったようで。
「せぇんせーっ? なに子ちゃんでしたっけ、黄色のクマをいつも持ってきてた子って」
「うーん? クマぁ…。あー確か…、ヨウコちゃんだろのぉぅ」
ビンゴ、だと思った。刺繍にも確かにヨウコ、と。けれど奥から聞こえる老齢の医者の声は、その後をこう続けた。
「けどのぅ、もうここには来ておらんよ? 微熱は風邪じゃなかったしな。まだ駅向こうには通うとるだろうがの」
「駅向こう、って、それ」
何でも診てくれて、助かると有名な、あの。
「うん、そうそう、駅向こうの。この先生のとこじゃな」
奥から出て来た白髪頭の医者が、白衣のポケットから何故か小さなラジオを取り出す。ボリュームが上げられ、ほんの少しの雑音と共に聞こえてきた。少し低くて少し甘くて、穏やかな声の。
『シチユウ町医院です。おはようございます。今日は午前十一時から往診なので、合間でのラジオ放送になります。健康アドバイス、十分間だけ、お付き合い下さい。七夕町の皆さん、今日も健康にお過ごしですか?』
聞き覚えのある、声だと思った。いや、思い出したのだ。この前この近くで、イサザはこの声を確かに聞いた。声はイサザに向かって、こう言ったのである。
君、ごめん。
ごめん、足を。
その声と、黄色のクマと、泣きそうになっていた「ヨウコちゃん」の顔が、イサザの頭の中でぴたりと重なった。
続
早く確信に迫りたぁ〜いっ。ってすみません、ふざけていて。でもみんなみんな作中の人々も、とても不器用なんですもん、私が不器用でもしかたな…、げふんげふんっ。頑張りますっ!
それにしても、酔うと口が滑るのかイサザは…。
13/06/08

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