モノクローム  2




「ちょ…、待っ…、俺、明日バイ、ト…っ」

 焦ったように言ったその声は、軋むベッドの音の合間、吐息と絡みながら、切れ切れに零れた。仰のいて身を開いたイサザの体を、わざわざ逆に向かせて後ろから、最初は焦れるぐらい、ゆっくり始める。

「なんのバイト?」
「え? え、と…。ぁ…あ…」 

 前に回された手で施す愛撫は、優しいぐらい静かだったのに、それでもじわじわと彼を追い上げてきて、イサザが一瞬音を上げた途端、裏切るように荒くなったのだ。聞かれたことに答えようとする意識が、あっと言う間に散らばってく。

「ギンコ、待って、あの…っ」

 でもこれ、凄く変な感じ。アンバランスっていうか。

 あぁ、やっぱり、と心の何処かで思った。やっぱり、なんだろう…? お前の最近のこと、何にも知らないけど、なんか…あった? 聞かないよ。聞かないけど、ギンコ…。

 片頬を埋めた枕の両側に、手をついてそこに爪を立てて、イサザは腰だけ引き寄せられてギンコと繋がっている。注がれるのは熱と体液だけの筈で、他の何も流れ込んでは来ないのに、見せないようにした顔を、彼は小さく顰めていた。

「ん、っ、ふぁ…。ギン…コ…?」

 ずる、とそれが抜き取られ、山ほど引き出したティシュの中に、ギンコがそれを放つのを、イサザは見たのだ。

「…別に、いーのに、中に出しても」

 体を横に倒して背中を丸めながら、イサザは彼の顔を覗き込んだ。ギンコが軽く笑い顔を見せたのが、何だか不思議に思えた。背中向けてて、何も見てやしないけど、さっき、凄く辛そうだ、って、思ったのにな。

「バイトなんだろ?」
「…? あ、何、中に出したら自動的に二回戦ってことかよ。ケダモノか、お前ぇ」

 はぁ、と短く息を付いて、イサザはベッドを下りようとした。身勝手に放り出されたから、こっちの二回目は半端だ。トイレででも出してくるしかないじゃんか。と、思ったら腕を掴まれて、ベッドに引き戻され、強引に脚を広げられ、抗う隙も無く口に。

 えー、ウソだろ。ギンコがこんなのって、初めてだけど!?

「い、いいって、ギンコ、俺、自分…でっ。…あぁ…」

 あぁ、と思ったんだ。なんだか眩暈がするみたいな。浮いて落ちて、また浮いて。目の前に軽く火花。腰が溶けそう。じゃない、溶けるよ、もう。気付いたら放ってた。しかも多分、二回。

「い…今、誰とも付き合ってなくって、正解…」

 ぐったりしてそう言ったら、自分の口の端を舌で舐めながらギンコが言った。

「…今現在の相手が居たら、俺のことなんか誘わないんだろ?」
「そーだけど、そーじゃなくて。…何でもないや」

 こんなの、忘れようったって、簡単にカラダの外へ出てかないじゃないか。気持ち良過ぎた。荒っぽいくせに優しいなんて、ずるいよ。綺麗に色のついた快楽なんて、今まで知らないし。

 なのにそれを寄越したギンコが、淡々と、淡々とした目をして空を見ていて、なんだかこの世でお前だけが白と黒のみ、みたいな。…そうだ、最中に一度もギンコの「声」を聞かなかった。会話する言葉じゃなくて、知らずに零れたような、快楽の「声」を聞いてない。

「あー、なぁ? 俺、役不足?」

 冗談に絡めた口調でそう聞けば、別に、と不良少年みたいな返しが来た。拗ねて口を尖らす振りも付け足して、そっとギンコの反応をみる。

「別に、なに」
「俺の満足できるレベルでやってよかったのか?」
「…う、ダメ。明日バイトなんだって」

 汗ばんだ体に軽くシャワーを浴びて、ベッドへ戻ってきてから、恐る恐るイサザは聞いたのだ。興味本位のつもりはなかった。心配だったんだ、単純に。

「好きな人さぁ、いるの? ギンコ」

 放ったらかしてこれるような相手じゃなくて、本気の、本音のヒトのことだよ。でも、いるとしたら、きっと口には出さないだろうと思ってはいたよ。

 塞ぎ切れないでっかい穴には、視線もやらないようにしてる、そんな感じが。

「…いねぇ」
「そっか。うん、俺もっ」
「で? バイト、何やってんだ?」
「んー? CDショップ。他にもやってっけど。あ? こんな街に?って今思っただろ。あるんだよなーこれが」

 ぼすん、とベッドに体を投げて、昔に戻ったようにイサザはギンコの隣で笑った。なぁんにも気付いてない、なぁんにも見てない。これからだって、気付かない、見ないよ。だからここに居な、ギンコ。楽になるまで、少しでも、ここに。

 寝たふりをして薄目を開けてたら、意外にもギンコの方が先に眠りに落ちて行った。それだけでも嬉しいと思った。そんなに疲れてるのかもしれないけど、今もそうやって目の前で無防備にしてくれたことが、随分イサザの心を軽くした。

 あぁ、よかったぁ。
 俺でも出来ることありそうで。




 目を覚ましたのは、ギンコの方が遥かに先だった。フローリングのとこに足を投げ出して座って、その恰好はまるで人形かなんかみたい。そんでそこに広げられてるものは、ギンコの体の中に詰まってた部品みたい。白い布の上に、いろんな形の黒い金属の、大きいのやら細かいの。

「…なに、それ」
「カメラだ」
「えー? あ、ほんとだ」

 あんまりばらばら過ぎて、わかんなかった。分解掃除ってやつらしい。ギンコがそれで食ってるのは知ってたけど、専門的なことしてるのは初めて見た。というか、本当を言えは写真撮ってるのも、駅で初めて見たんだけど。

「もう10時前だぜ? いいのかバイトは」
「……よ、よくないよっ、ちっともっ」

 焦って飛び起きるのと同時に、ギンコが床に広げてたものを少し小さく狭めて、並べ直した。蹴飛ばしたりしないっての。信用ないな、俺。
 
 飛び起きて服を脱ぎながらバスルーム行って、片手で髪を溶かしながら、顔にバッシャバシャお湯浴びて拭いて出てきたら、テーブルに用意されてたトーストとコーヒー。

「うわぁ、ギンコ好きっ。ありがと!」

 食べるのと出掛ける服に着替えるのとが、殆ど同時とか、好きな相手には見せられないってヤツだ。時計とにらめっこしつつ、物凄い速さで食べ終えて、最後にコーヒー流し込んでたら、ギンコがこちらを見もせず。

 …言ったんだ。

「戻った時いなくても、気にすんなよ」
「………」

 一瞬で分かった。多分昨日、俺は何かを間違えた。それもとても大事なことを。それで言った。どれを間違えたか分かってなくても、心だけはありったけ込めて、本気で言った。

「ごめん、ギンコ。俺、もう言わない。聞かないから」
「…意味分かんねぇよ。さっさと行け。戻るのは夜か?」
「うん、六時ぐらい。行ってくるよ、勝手やってていいからさ」

 空気が変わったのが分かったんだ。昔からお前のこと、よく知ってる俺じゃなきゃ、分からないだろうけれど。あぁ、何とか許された、とそう思った。

 でも、間違えたのはどこだろう。俺は昨日何を言っただろ。駅で会ったところから、順番に考えて順番に思い出して、頭の中でひとつひとつチェックマークをつけていく。お前、無造作な癖にデリケートなとこあんだもん。俺、よく間違えたもんな、昔も。
 
 帽子を押さえながら、考え事もしながら、赤信号に捕まる。信号を渡った向こうがバイト先。もう遅刻ギリギリなのにと焦って、無意味に足踏みしてたら、なんか柔らかいものを踏んだ。

「君、ごめん」

 真横からそう言われる。その真横から来てた声が、今度はイサザの腰より低い位置に下りて、続けられた。

「ごめん、足を」

 見下ろしたところに顔があった。眼鏡を掛けた穏やかな顔だ。そしてイサザの足の下には小さな小さな編みぐるみ。クマ? イヌ? よく分からない。見るからに手作りっぽい拙い感じで、綿も足りなくって平べったい、クリーム色の。

「えっ、俺、ごめんなさいっ」

 慌てて足を退け、拾い上げて埃を払って、眼鏡の男に差し出したら、しゃがんでいるそのままで、後ろの小さな女の子に渡していた。もう「泣き」寸前の子供の頭を撫でて、あれだ、誰でも知ってるあの。

「いたいのいたいの飛んでけー。ほらもう大丈夫。その子、もしもまだ痛いって言ったら先生んとこ連れといで、ね?」

 もう一言くらいお詫びを言おうと思ったけど、信号がいつの間にか青になった上に、もう点滅。店の前には怒り顔の店長が。

「うっわっ。すっ、すみませんほんとっ」

 イサザは駆け出しながら、一回くるっと回ってお詫びを叫んだ。こけそうになったが、すんでて堪えて走っていく。勿論店では怒られたが、馴染みのお客さんが助けてくれて、雷は一度きりで済んだ。

 編みぐるみ事件は、数日の間、イサザの記憶に残っていたが、覚えている顔は、クマかイヌか分からなかったそっちだけだった。

「ん〜クマだな、多分」

 その夜、家に帰って晩飯を食べ、安いビールを飲みながら、思い出してそう言ったんだ。消えずにそこに居てくれたギンコが、酷く怪訝な顔をした。







13/04/21







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