モノクローム   13





『おはようございます、七夕町医院です。今日のワンポイント健康アドバイス、お仕事や家事をなさる片手間でも、どうぞ聞いて下さい』

 高くもなく低くもなく、程よく響くいい声をイサザは聞いていた。ほんの微かなメロディが、丁度よく声と重なっている。焼き上がったばかりのトーストを咥えたまま、噛み千切るのをイサザはちょっと待つ。

 ラジオから流れてくるのは、この町にだけ届く超ローカル放送で、今聞こえているのは、町一番の総合病院の、医院長を務めるお医者の声である。声だけ聞くと、俺やギンコと変わんなく聞こえるけど、実際もあんまし変わんなかったっけ。いくらこんな田舎町だってったって、考えてみたらすっごいの。

 一度目は街角でちらっとだけ会って、二度目はわざわざお礼を言いに来た姿を、イサザは脳裏に思い浮かべる。けっこ、イイ男だったかも。もてるんだろーなー。偉ぶったとことかなくてちいちゃい子にも優しくて、あんなひとっているんだ、ほんとに。

 トーストを食べ終えた指に、少しだけマーガリンがついてた。その指を口元に近付けて、ちろりと舌先を覗かせるまでしたのに、イサザは唇を尖らせて舐めるのはやめた。

「…移っちゃったじゃないか、お前のわっるい癖」

 本当は、そこまでするほどお行儀よくなんかなかったけど、ちゃんと立って手を洗って、たった二枚になったトーストと、中身の少なくなったインスタントコーヒーの瓶を眺める。

「買わないよーだ、どうせ俺だけだもん」

 ベットの向こうで閉じていたカーテンを開くと、朝の光がまぶしいぐらいに降り注いでいた。窓のすぐ横、ベッドヘッドの上の壁に、ピンで止めたポストカードが一枚、斜めになってる。どれだけ部屋が明るくなっても、そのポストカードの写真の中だけは、ひと欠けの色も無い、薄暗がり。

 ぴん、とそれを指ではじいて、イサザは上着を羽織り、キーと鞄を持って部屋を飛び出す。

「…いってーきまっ」

 小声で言うと、イサザの頭の中だけで、ルームメイトの悪友が視線で返事をした。





「くまちゃん、くまちゃん、くまちゃん」

「くまちゃん、くまちゃん、くまちゃん、くまちゃん」

 壊れたオルゴールみたいに、女の子がずっとそう呟いている。抑揚は殆どない。心も何も籠っていない声なのに、どことなく淋しくて、可哀想な、繰り返される「呼び声」。ここは小さな、小児科内科の待合室。

「橋立さんちのヨーコちゃーん、お母さんと二人で、中待合室に入ってもうちょっと待っててねぇ」
「あ、ハイ。ヨウコ、呼ばれたからね、行こうね」
「くまちゃんくまちゃん、くまちゃん、くまちゃ…」

 ずっとずっと、まだ続いているその繰り返しを、他の患者が少し気にして視線をくれる。視線が集まると、女の子は項垂れて、ますます言葉を繰り返した。

「ヨウコ…。すみません、看護婦さん、こんなで」
「いいんですよー。でも診察の時は、ちょっとセンセイ困っちゃうかもなー。センセイの前に座った時だけ、ほんのちょっとでいいから黙っててくれるかな、ヨーコちゃん?」

 話し掛ける看護婦の声は、女の子の耳に入っていない。ただひたすら、呪文か、おまじないのように、同じ言葉を繰り返すだけだ。

「バスの中で、いつものヌイグルミの頭が取れちゃって、イタイイタイしちゃったって、この子、ひきつけ起こしそうなぐらい、すごく泣いて、それで…」
 
 今、わたしのバックの中に隠してあるんです。と、母親は小声で言う。

「あぁ…」

 そんなに泣くよりはこの方が、この子の為にも、周りの人の為にもまだ…。と、すまなげに弱く笑って母親はヨウコちゃんの頭を撫でる。心の病を抱える子。母親の素朴な手作りのヌイグルミは、彼女の唯一の友達で、心のよりどころだから。

 裁縫セットぐらい、どこかにあったかしら。診察の間にちゃちゃっと、私が直して上げられたら…。看護婦は一瞬考えた。でもあるかどうかも分からないし、あったとしても縫物は苦手中の苦手、下手くそなジグザグ縫いで繕ったって、失敗した手術痕みたいになって、余計に悲しませそうな気がする。

「もうちょっと我慢できるよね、ヨウコ」

 今日は予防接種だから、注射で泣いちゃうと思うし、そしたらますます、泣き止ませるのにはくまちゃんが無いと、本当は凄く困る。

「くまちゃんのハンカチ、どっかに落としちゃったしねー。おかあさんまた頑張って、そっくりに作ってあげるから、待っててね」

 ひとつしかないヌイグルミを、洗って干す間ぐらいなら、同じくまを刺繍したハンカチで、なんとかなっていたのに、それを失くしてしまったから。でも本当に前の刺繍とそっくりじゃないと、このくまちゃんじゃない、と言われるから困りもので。

「ハンカチ…。あっ!」

 看護婦は急に大きな声を出した。

「ちょっと、すみません、先生、一瞬だけ出て来ますっ」

 サンダルをつっかけて、彼女は医院の外に飛び出した。点滅していた青信号で横断歩道を渡り切り、斜め向かいのCDショップに飛び込む。レジカウンタから出てこようとしていた店員が、いらっしゃーい、と声を掛けるのへ、詰め寄るように彼女は言った。

「いたいた! 君よっ! 前に持ってたハンカチの写真、もしかしてまだ持ってるっ?!」
「えっ! あ、おねぇさん、シィナジィノのっ。は、はんかち、ってなんでしたっけっ?」

 突然そう言われて泡を喰うのは、丁度仕事上がりで帰ろうとしていたイサザで。

「そうこの鞄よ、確かここにっ」

 彼女はもどかしげにイサザの鞄の、一番大きなポケットを指差す。

「あの写真、入れたまんまにしててくれたら、すっごい助かるんだけどっ、あったらすぐ貸してっ。ハンカチの持ち主の子が今、医院に来ててねっ、困ってるからー」

 漸く思い当たったイサザが、鞄の中を探りながら、彼女と一緒に医院へと小走りになる。

「ど? あったっ?」
「ん、んー、あるある、あります。出した覚えないしっ。皺になんないように、こっちの奥のポケットに移したけど、そのあと忘れて入れっぱんなって」

 ごそごそと取り出している間に、医院へとついてしまい、なんとなくイサザも中へ。

「お待たせ〜。ヨーコちゃんが困ってるから、このお兄さんが、くまちゃんをつれて来てくれたんだよ? ほーらっ」

 鞄から取り出すタイミングで、そんなふうに言われてしまい、行き掛かり上、イサザは女の子の前で身を屈めた。

「ヨーコちゃん、会いたかったよーっ」

 口から飛び出した可愛らしい声に、言ったイサザが自分で動揺する。かぁ、と顔が熱くなって、多分、今、耳まで真っ赤だ。でも一瞬で気持ちが切り替わった。チラシ配りでリスだのウサギだのの着ぐるみ着ることあるじゃんか、今も着てると思えば恥ずかしくないっ。

「僕が居ない間も、ちゃんといい子にしてた? ヨーコちゃんがいい子にしてたら、僕また一緒にいられるよ」
「ヨーコね、いい子してたよ。おかえりなさい、くまちゃんっ」

 その時の、女の子の笑顔は、もしかしてずっと忘れないかもしれない。無表情な人形みたいな顔だったのに、急に心が宿ったように、目がキラキラして、顔全部でくしゃりと笑って。イサザはくまのつもりの作り声を出しながら、ヨーコちゃんと指切りまでしたのだった。

 そしてその次の日だ。七夕町医院の医院長先生が、イサザを訪ねて、いきなりCDショップに来たのである。

 丁度バックヤードで休憩をしてたイサザは、同僚に名前を呼ばれたので、在庫のことでも聞かれるのかと思って、パックのジュースを片手に何気なくカウンターに出てきてびっくりした。スーツをきっちりと着込んだ場違いな男が、店先で自分に頭を下げてくるとか、意味がさっぱり分からなくて。

「ヨーコちゃんのことで、昨日は本当に助かりました。これから出張なんですが、御礼だけでも一言、と思って。僕は彼女の主治医です」

 聞けば例の小児科内科で、あの時の看護婦から詳しく話を聞いたのだと言う。

「遊びに行った次の日に、ヨーコちゃんのお母さんが公園を探した時、もうハンカチは見当たらなかったそうですから。でもこれで、あの写真を見て、またおんなじ刺繍をしてやれるとおっしゃってましたよ。本当にありがたかった、と」
「や、あの…っ。俺、大したことしてないから…っ」

 重ねて頭を下げられて、イサザはおろおろするばかりだ。こんな立派な格好した人に、こんなにぺこぺこされるなんて、今までもこれからも無いに違いない。困り果てているイサザに気付いて、その医者はイサザの為に態度を「馴れ馴れしく」してくれた。

「心の病の子供にとっては、本当に大したことだったんだよ。あの子もあの子の母親も救われたし、俺も助かった。ありがとう」
「ど、どーいたしまして…っ」

 そうして医者はちらちらと店内を見て、本当に欲しかったのかどうなのか、随分古い洋楽のCDを一枚買って帰って行った。ラジオのBGМに掛けたいそうだ。ローカル放送で、毎朝ほんの十五分の。




おはようございます、
七夕町医院です。
今日のワンポイント健康アドバイス。

 聞こえてきた柔らかな美声の後ろで低く、音楽。イサザの店で買った洋楽だ。毎日毎日、違う曲。15曲入ってたから、そろそろ一回りだなぁ。と、思って聞いて、イサザは少し遠い目をした。

 なぁんか、お前がどっか行ってから、もう一か月がくるじゃんか。黙って待つよ? 待つけどさぁ。ギンコ、そろそろ電話の一つくらいくれよ、馬鹿やろっ。

 抱えていた枕を振り上げて、ベッドの上に放ると、風圧で壁のポストカードが揺れた。

 カードをとめてるピンの頭は、あざやかに青く丸くって、モノクロの風景写真の中からふわりと飛び立った、青い風船のようだと、イサザは思った。 

 
 









 ぎゃー。難航したので今夜中回って一時半ですっ。読み返す時間がありませんごめんなさい。誤字あったら後でなおしますね。すんまっせーんっ。

 そしてやっと先生が少しはちゃんと?出ましたーっ♪


13/11/04
 





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