モノクローム 12
「……だろなぁ」
ギンコは五日前までちゃんと俺の部屋に居た、でもその五日前に朝からどっか行ってて、その次の朝まで戻らなかった。俺も仕事で部屋戻って無いから、今は分かんないけど、あいつ戻ってない気がして…。
そう言ったイサザの話を聞いて、爺さんは暫し、少し先の地面を見てた。見て、見て、それからやんわり笑って、そう言ったのだ。
「もうちったぁ、時間がかかるんだろなぁ、あのやろうが戻ってくんにゃなぁ。でも、そんでもお前さんとこに、その五日前より先はいたんだなぁ、それが意外なぐらいでな」
アイスを齧り齧り、コーンも齧り齧りしながら、目を細めて爺さんは言った。イサザは自分のアイスを食べるのも止まりがちで、溶けて垂れてきたクリームで指を汚してしまいながら、じっと一生懸命に爺さんの顔を見てる。
「まだ、戻らないって言ったの? 今。あいつが俺んとこ戻るのに、まだ時間が…って?」
「あぁ、いや、そういう意味じゃ、なくてな。いや、まぁ、そういう意味になっちまうかもしれんが」
眉を上げ、コーンを包んであった紙を手の中でくしゃ、と丸めながら、爺さんはベンチから腰を上げる。くず籠までてくてくと歩く背中に、もう行ってしまうのか、話はここまでなのかと、イサザは焦って、本気で焦って、妙なふうに手を宙に浮かせ。
「お前さん、まずはそれ食べちまいなって。勿体ねぇ」
とろとろと溶け掛けたイサザのアイスをちら見して、ベンチにもう一回座りながら、眉を顰めて口をすぼめた爺さんの顔。イサザは慌てて、とにかくアイスを齧り、凄い速さで食べ終えて、水飲み場の水で手を洗って、ハンカチで手を拭きつつ爺さんの座ったベンチへ戻った。
ギンコのことを教えて。頼むからもっと教えてよ。言わずとも、顔にそう描いてあるようなイサザの様子を分かりつつ、爺さんは自分の鞄に手を入れて、変に分厚いA4ファイルを取り出した。
「ちゃんと手ぇ綺麗か? お前。ん、ならいい。ほれ」
渡されたファイルの表紙を開くと、そこには走り書きのような黒ペンの字で、
『亀蘭高校写真同好会』
と。
さっき行ったら、もう扉を閉ざしてたあの雑居ビルの一室で、フォト展をやってた、その。
「見てやってくれや。結局あんまし、人、来なかったんでなぁ」
こんなのが見たいんじゃないのに、と、思ったのは確か。でもギンコの事が知りたいから、こんなの、なんて言えなかったし、さらに捲って次を見た時、その言葉はイサザの中で掻き消えた。言っちゃいけないんだ、こんなの、なんて言っちゃ…。
目に飛び込んできたのは、写真だ。普通のよくあるサイズのが、ファイルのポケットに何枚かずつ差さって、取り出せばまだ何枚もあるのだろう、その表に見えている数枚だけで、十分、それはイサザに刺さった。
確かに、年は高校生くらいなんだろう。でも高校に通えているとは思えない子供たちの、それは、写真だったのだ。
車椅子、義足やら、健常ではなく酷く曲がった、体。歪んでしか動かないような手足。笑ってもちゃんと笑いの形になってくれないのだろう、その表情。その彼らが、セーラー服や学生服を着て、入学式、みたいなことを。みんなして、期末テストを受けてるような一枚や、文化祭、体育祭、のようなことをしたり、それから卒業式らしき写真も。
「良い顔してんだろぉ。今時の高校生じゃあ、たかが文化祭、体育祭、ましてやテスト日なんかに、こんな顔しねぇわなぁ。したくったって出来ないからって、っぽいことだけしよう、やってみるだけ、って。そんできっと高校にゃぁさ、カメラの同好会なんかもあって、こんな写真撮るんだろうって、想像ふくらまして、なぁ」
ま、写真撮るのに無理したってんで、そのあと寝込んだのもいたらしいけど。満足そうだったよ。楽しそうだった。
そう呟く爺さんの声を聞きながら、イサザはなんだか息が詰まって、慌ててファイルを何枚か捲った。そうしたらまた、別の雰囲気を持った写真が出て来た。今度は、綺麗な写真。
生き生きと咲く花、とりどりの色をした風船、駆けまわる子犬と芝生の緑。こちらは普通の、ごく普通の写真で。でもさらに数枚繰ってイサザの手はまた止まる。今度は何を撮ったのか、何故撮ったのか、見ただけでは分からない写真が続いていたのだ。が、この写真には解説があった。解説と言うか、一言ずつの。
日陰の路地に落ちてる、風で膨らんだコンビニ袋の写真に。
『白い猫』と。
道端の隅に、並べて放置されたジュースの空き缶に。
『路端に咲く花』と。
青に白い字が書かれた、大きな道路標示の看板に。
『青空』と。
なんだろう、そう思って不思議そうに首を傾げたイサザに、爺さんは言ったのだ。
「同じ写真家さんだよ、手前のきれいな写真のと。その人はなぁ、病気で目をやられてな。ものがよく見えなくなったんだと。それで、病む前までに撮った写真と、目を病んだあとの写真と、一日ずつだけ飾って欲しいって言ってきてな」
イサザは顔を上げて、爺さんを見た。爺さんはイサザの目を見て、また笑った。今度は深く満足そうに。
「ワケアリのな、写真の展示をなぁ。請け負うのが俺の娯楽よ。他じゃぁ、断られるようなのをな」
仕事、と言わずに娯楽、と言った。費用なんか、必要経費しかとってはいなさそうで、でもそんなこと、きっと関係ないんだろう。かくんと項垂れるように、イサザは頷いた。まだ手の中にあるファイルに視線を落とし『満月』と言葉の添えられた、眩しい街灯の写真を見つめる。
「この人…写真撮るの、好きだったんだろうな…」
イサザが言うと、爺さんはすぐに答えた。
「いんや、好きだったんじゃなくて、好きなんだわな。もっと病気が進んで、ますます見えなくなった今も、色々撮ってるそうだ」
「凄い、ね。また写真展やるかなぁ、なんか、見たいなぁ」
「きっとそのうち、また声がかかるんじゃないかなぁ、楽しみに待ってるとこだ」
にんまり、と、爺さんは笑い、手をちょい、ちょいと動かして、また次のページを繰るように示した。イサザはその時の爺さんの、真摯な目には気付かずに、示された通りにファイルを捲り。そこでようやっと「会いたかった」ものを見た。モノクロ写真だった。10数枚の、白と黒と灰色だけの。
「あぁ…ギンコ」
言葉が零れた。なんだか平らに見えるその写真を、瞬きもせず貪るように、夢中で見つめながら、息だけを零すように、もう一度。
ギンコだよ、これ。
零れた言葉に、爺さんが目を細めて、少し困ったような顔をした。こんな薄っぺらく見える、心の映ってなく見える写真がギンコだと。今の、ギンコだと、イサザが言ったように思えたからだ。
命のあるものは一切撮らず、コンクリにビル壁、鉄塔の一部、閉じたままの車庫のシャッターを、映した写真。よくぞここまで、と思うような「生」を感じない空間を、さらにもっと、強調するようなモノクロ撮影。
「爺さんが展示すんのって、ワケアリのばっかり、なんだね? じゃあさ、ギンコの写真もさ…。ギンコも、やっぱり…」
「まぁ、な、ギンコはな。他に声掛けさえすりゃ、俺のとこじゃなくても、もっと立派な展示が出来たろうよ。あいつの『ワケ』は、ちょっと…
ショウゲキテキ
とも、言えるからなぁ…」
ひそめた声の、そのかすれた響きは、イサザの耳にちゃんと届いた。でもその中身を、聞きたい知りたい、などと、すぐに飛び付く気にはなれなかった。イサザはギンコの映した写真をじっと見つめながら、ぽつんとひとつだけを聞いた。
「ギンコの写真、前からこんな…?」
「違ってたなぁ。あいつが惚れ込んだぐらいだったしな、いい目をしてたのさ」
「…あいつ、って、もしかしてギンコが付き合ってた人のこと?」
そう聞くと、爺さんはまた笑う。笑みながら、イサザの手からファイルを取り返した。そしてそれを大事そうに鞄に仕舞い込み、ベンチからひょい、と立ち上がる。
「お前さん、何も知らないんだろうがなぁ。そのこと、あいつに聞かないでやんな。悪いけど、俺にも聞かないで欲しいしな。…なんにも知らんでも、お前さんギンコが大事なんだろ? 知ったってな、誰もなんにも、してやれん…」
イサザは黙って、ベンチに座ったままだった。両膝の間に両腕を垂らして、ぼんやり爺さんの顔を眺めて、やがてはこくり、と頷いた。
「うん、分かった、ありがとう。俺、ギンコが戻るの黙って待つよ」
イサザは手帳のページを1枚破り、そこに自分のケータイの番号を書いた。
「俺、イサザ。んでこれ、俺のケータイの。さっきの、目がよく見えなくなっちゃった人の写真展、見たいから」
「あぁ、覚えといてちゃんと連絡する」
ベンチから勢いよく立ち上がり、イサザは横にとめてたチャリに乗って、爺さんに手を振りながらどんどん遠ざかった。その背中が見えなくなるまで眺めて、爺さんの方がもう一度ベンチに腰を下ろす。
「はは、なんだかな、ギンコ。お前さん色々失くしたろうが、まだあんなイイもん、持っとったんかい。…心配して損したわ」
なぁ、スグロ、と、ぶつぶつ呟いた。
「余計に心配かけるとこまで、受け継がせてくなんてなぁ、この阿呆が」
続
すみません、ものの見事にイサザと爺さんの回っ。この頃ギンコはまだ自然の中に居ると思います。
ええと…。この作中に、体の不自由な方の事を書きましたが、あの書き方がよくない書き方でないように、祈るばかり。
ずっと昔、惑の今は亡き父が、光と色しか見えない人たちのグループを、山に案内したことがありました。自分たちが見ているのは、まったくの闇ではない。だから案内して下さい、と、その方々はおっしゃったそうです。その事を思い出して書いたのでしたよ。
13/10/20

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