モノクローム 11
ホテルは勿論、旅館もないし民宿もない。電車で会った男にそれは聞いていたし、聞いていなかったとしても、この死に掛けたような町に一歩踏み入れば、そんなことは誰でも分かる。そして多分、もう今日中にくる電車はない。
別に焦りはしなかった。真冬じゃあるまいし、外で寝たって死ぬわけじゃない。山中と大差ない分、熊や蛇に遭遇する可能性はあるかもしれないが、人為的な危険がないだけで屋内と変わらず不安など感じなかった。
人間による悪意がないというだけで、大地はこんなにも柔らかで優しい。ギンコにとって、ここは安全そのものに思えた。もしも空模様があやしくなって、屋根や壁が欲しくなったら、空家だらけの町まで戻れば済むこと。
夕暮れ時だった。見上げれば葉の疎らな枝々に、淡く紅い空は縁どられ、ゆっくりゆっくりとその色を濃くしていく。そして闇色へと傾き、夜が近付いてくる。野宿は久しぶりだな、と、思いながら真上へとカメラを向けて、シャッターを切った。液晶は見ない。どう撮れたかは、後で楽しみに。
ふ、と笑って、ギンコは下草へと体を乱暴に伸べた。ぱき、と背中で小枝が折れて痛くて、一度飛び起きてまた別のところへ背を伸べる。
なぁにやってんだ、お前はっ。
別にこんな枝ぐらいで。
誰がお前の背中心配したよ、
虫とか、いたかもしんねぇだろが。
そんな会話を、いつだかしただろうか? 虫やら雑草の花ひとつに、心を砕くあの男が、よくあんな…と、スグロの仕事のことを思う。ギンコはどこへでもついて行って、助手として手伝っていた。それは、ただ離れ難いという生半可な思いだけで、だった。
さぞや足手纏いだったろう。どれほど邪魔だったろう。いつもいつも後で気付いたけれど、スグロは常に行動の端々で、ギンコを庇っていた。お前は向こうに座れ、お前はそっちにいろ、こっちへ顔出すな。
そして記憶にずっと、深く刻まれたままのあの言葉。
こっから先、
俺はお前の師匠じゃいられねぇ。
守れねぇし、庇えねぇよ、
上も下もねぇから、
ただの友だと思っておけ。
それから、程無く訪れたあの日のことは、焼き切れたように、ところどころ記憶が抜けている。覚えているのは爆音と、目の前にだけ散ってた、刺さるような、色。
視野の何処にも他に、色は、無く。
「…ふ……」
だんだんと喉が引き攣れて、息がうまくつけなくなる。左胸を下にしてそこを締め付けるように体を丸める。苦しさは倍増しになった。それでいい、わざとだから。
きりきりと歯を食い縛って、二度と何も見たくない様に目をきつく閉じて、浅く、殆ど空気を吸えないような、苦しい呼吸を。すぐに頭ががんがんと痛み出して、脳が酸素を欲して緊急信号を発する、それでも息を詰めて詰めて、四肢のすべてで鼓動を感じ、ぎりぎりの、その先を越えてから息を吸った。
柔らかく温い甘露のように、四肢に生きる糧が満ちていく。遣りたきゃほどほどに自分をいたぶってみろ、とスグロは言ってたことがある。そうやって自分の体が、生きたい生きたいっていう声を聞け。そして気が済んだんなら、ぼちぼち自分のことを、ちゃんと大事にしてやんな。
自分で自分を、粗末にしてるなんて意識はなかった。ちょっとばかり生い立ちが暗いだけで、それはただの過去。案外楽しく今を生きられているつもりだった。
でもなぁ、でも。
あんたに会ったらさ。
懐ん中に包み込まれるように、
大事に、大事にされたらさ。
ずっとこうしていて欲しいなんて、
一度思ったら、もう。
ギンコは、傍らに投げ出していたデジカメを引き寄せた。枯れ葉や小枝がくっ付いて汚れていた。こんなしてたらスグロに蹴られてるな、って、そう思ったら視野が揺らいだ。
木々の枝に縁どられているのは、今やもう星空。こんなちゃちなデジカメじゃ、遠くの星の輝きなんかは撮れない。仰のいていた首を寝かせて、カメラと同様に投げ出してある鞄を見た。
「………スグロ」
あぁっ? スグロ、じゃねぇよ!
空、撮りてぇんだろ。さっさと撮れよ!
「スグロ…」
あぁ伸べた手がもどかしく鞄を引き寄せる。身を起こしてカメラを取り出す。傷だらけの古びた一眼。とうに時代遅れのデカくて重たい機種だよ。持ち運びにも不便で、ずっとファインダー覗いてたらすぐ腕が怠くなる。
でもその重みが、あんた自身に思えてたから、貸してもらうのはいつも嬉しかったよ…。
考える必要なんかない。指が馴染んだ操作を勝手にやってくれる。撮りたいものを、撮りたいように、そのままをここへ取り込むように。震えてた指の、その震えも、止まる。澄んだ水のように。
カ シ ャ 。
おーしっ、いいのが撮れたな!
見もしねぇで、何。
見てたって。お前の目をな。
もっと撮れ撮れ。
暫く貸しといてやる。
いい仕事するぜ、
そいつは 俺の 分身さ。
零れて落ちた雫が、酷く不思議で、いつの間に泣くことを許されたのかと、思った。
たった一時間足らず。間に合わないなんて思ってもみなかった。絶対いると思ったのに、写真展をしてたあの部屋も、その隣にあった控室みたいなドアも、ぴったり閉ざされて鍵がかかっていたのだ。ドアに貼ってた紙も剥がされて跡形もない。
イサザが受け取ったポストカードにも手がかりはなく、同じビルに入ってる別のテナントの、あちらこちらへと聞きまわっても、うるさそうにされるだけだった。
「亀蘭高校ぉ〜、そんな学校ここいらにないよ。写真だからカメランって、それふざけて付けた名前じゃないのかい? 管理してた爺さんなんて、見たかなぁ」
言われて、そういえば変な名前だと思ったりもした。そうか、あれ、シャレだったんだ。おっかしいの。実在しない学校の、ありもしない同好会を装った、つまりは連絡の取りようもない相手だ。その展示の留守番をしてたおじいさん、だなんて、余計につかみどころがない。学校の関係者かもしれないし、生徒たちの父兄の誰かかも。
こんなのすぐ探すのなんて無理だよ。やめやめ、疲れてるんだしさ、今日は帰ろ。なんだったら明日、もう一回来てみればいいじゃん。片付けるのに現れるかもしれないんだし。
本音では、後ろ髪を引かれまくっていたけれど、イサザはそれ以上調べまわろうとはせずに、そのビルを出た。駅に行って駐輪場からチャリを引っ張り出し、籠にバックを放り込む。乗って、ひと漕ぎ、する前に、目の前を過った、あの…。
「じいさんっ!」
こんなもんなのかもしれない、今日はいいや、って思った途端に、会いたかった相手が現れる。ギンコのことも、今か今かと帰りを待ってないで、呑気に構えていりゃ、戻ってきてくれるのかな。
「うっをぁ、なんだなんだっ。…あ…っ」
割に至近距離で、じいさんっ、なんて声を張り上げられ、爺さんは随分びっくりしたようだった。片手にコーンアイスを持ったまま、びくり体を撥ねさせたものだから、ダブルの上のひとつが落ちた。
「あーーっ、俺のミントチョコっ」
「すっ、すいません、べっ、弁償、するからっ」
するから消えないで。ちょっとでいいから話聞かせて。俺は元々ギンコのダチだから、今だって部屋をシェアしててっ。
まくしたてた必死の顔に、何かを感じ取ったのだろうか。コーンの上に残ったバニラを、舐めずに大口で齧りつつ、爺さんはベンチに座ってイサザを手招きした。
「何聞きたいかによるけどよ。先に教えてくれや。お前さんとシェアーしてるその部屋に、ギンコはちゃんと帰ってきてるかい?」
いい年の爺さんとコーンアイス。似合わなそうなのにどこか似合っていた。そうすれば、って言われたから、イサザは自転車を爺さんの傍に置いて、自分もアイスを買ってきた。ストロベリーとミントチョコで、上のミントチョコを、残ってた爺さんのコーンの上にのっける。
「おや、真面目だねぇ」
爺さんは笑んで、そう言った。
続
正直、爺さんにどこまで喋らせるか、悩んでまして。ここで留めておきました。次までに決めておかなきゃさー。あと、ダム計画がぽしゃった町のことに、少し触れるかどうか悩んでいます。
悩み多き連載ですな、っはっは。頑張りますっ。
13/09/29

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