白いカナリヤ



** 1


 ギンコはカナリヤだ。
 黒に見える瞳が、本当は深い深い翠なのだと知ったのは、
 飼いはじめてから随分たった頃だった。

 ギンコは美しい白いカナリヤで、
 俺の部屋に住んでいる。


 転勤で知らない土地に来ていたせいか、その頃の俺は随分と人恋しかったのだろう。仕事の行き帰りに、通りがかるペットショップ。生き物を飼う気などなかったのに、時々寄るようになったのは、そこで働いている女性が気になったからだった。
 いつもいつも、店によると彼女は笑顔で迎えてくれた。店の奥のレジの傍に、他の小鳥たちのコーナーとは離して、そのカナリヤの籠がぽつんと置かれていて、話題に困ったときはそのカナリヤのことを聞いていたのだ。綺麗な鳥だとは思っていたが、特別気になっていたわけじゃなかった。

「綺麗ですね。この白い鳥」
「カナリヤなんです。白カナリヤ。黄色をしているのが普通だから、ちょっと珍しいんですよ」
 でも、この子、鳴かなくて。と、彼女は言った。
「カナリヤは声の美しい方が好まれるから、本当に鳴かないのかどうか、こうして他の子たちとは離して置いてあるんです」

 心配そうに言う彼女は、なんて優しいのだろうと、俺はそればかり思っていたっけ。それなのに不思議だな。今はギンコは俺のカナリヤ。彼女が店を辞めた事すら、俺はずっと知らなかったのだ。

「ギンコ…。来るか?」

 カタン、と籠の入り口を開けて、優しい声で俺はカナリヤを呼ぶ。明日は仕事が休みだからな、少しゆっくりしようか。撫でてあげるよ。好きだろう? 俺もお前の綺麗な、綺麗な、白い体を撫でるのが好きなんだ。小さな、小さな声で、吐息零すようにお前が鳴くのを、聞くのが好きだよ。
 白カナリヤのギンコは、少しばかり躊躇うように、止まり木の上を行ったり来たりした後、そっと俺の手のひらに乗る。俺は指先でそっと、ギンコの背中や首を撫でてやる。

 テレビを見ながらなんかじゃなくて、珈琲を飲みながらでもなくて、ただただギンコの綺麗な姿だけを見ながら、小さな声で話しかける。愛しい、可愛い、と、恥ずかしげもなく囁いて、そうやって撫でていてやると、ギンコは鳴くのだ。あんなに鳴かない、と言われたのに、俺の指で鳴くのだ。

 キュル… キュルリ… ルリリ…

 あぁ、吐息を零すようなその微かなさえずりを聞いていると、いつも少しだけ、妙な気分になってしまうよ。目を閉じて、手のひらの上で小さな体を震わせている、俺のカナリヤ。俺のギンコ。
 恋をしちまったのかもな。もう殆ど確信したような気持ちで、俺は思うのだ。ギンコに恋をしたから、ペットショップの彼女のことなど、どうでもよくなった。雌の鳥だと思って、ギンコと名付けたのに、雄だと教えられ、あの時はちょっと笑われたっけ。
 ギンコ。お前は本当は、人の言葉が判っているのだろ? だから、お前の事を雌と思ってた俺に、雄だと知れて、嫌われるかと思ったのだろう。あれから暫く、お前は元気がなくなって、大好きなリンゴの欠片を突付くこともしなくて、随分心配したんだぞ。

 馬鹿だなあ。カナリヤに恋したこの俺が、今更、女だったか男だったかで、お前を嫌がるわけが無いだろう? 「恋」って判るか? なぁ、ギンコ。いっそ、お前が人間だったらな。

 男でも構わないから、俺と同じに人間だったらなぁ。













** 2



 化野の勤め先は、少し大きな医院で、医院長と医院長の一人息子と雇われ医者の化野、そして何人かの女性看護士で成り立っていた。入院患者も通いの患者もいるし、手術なども行っている。
 
 その医院で、医療ミスがあったのだ。化野の担当している患者ではなかったが、投薬の間違いが元で患者は意識白濁。

 死亡するまでのことはないと思われたが、それでも問題は小さくは無い。それでずっと心を傷めていた化野だったが、ある日、いつもと同じに出勤した途端、医院長に呼び出されて愕然とした。

 いつの間にかあのミスが、化野の指示ミスのせいということにされていたのだった。本当は医院長の息子のミスなのだということは、化野も、看護士たちも薄々判っていたが、医院長だけはそのことを知らず、偽りを語った息子の弁を信じてしまった。

 未だ意識のはっきりしない患者の親族達に責められ、仲間と思っていた看護士たちも、化野に余所余所しくなり、彼は酷く苦しんだ。もう誰のことも信じたくないと思い、街を当ても無くふらついて、毎日の帰宅も遅くなっていたのだ。

 ポケットから鍵を出すのももどかしく、その日も深夜過ぎに、化野は帰宅した。待つものは居ないと同じで、そのままベッドに倒れ込み、偶然に視線を向けた窓辺に、いつもはあるものがないと気付いた。

「…ギンコ…?」
 ギンコ…。化野が可愛がっている白いカナリヤ。

 そのカナリヤの籠が無い。どこかへ移したろうかとそう思って、緩慢な動作で身を起こす。そんな彼の目に、床に転がった鳥籠が映った。

「…あ!」

 横倒しになった籠の周りには、水や鳥の餌が散乱している。籠の入り口は開いていて、中にギンコはいなかった。

「ギンコ…! ギンコ、どこだ?」

 深夜だということも忘れて、大きな声で呼んだ。時々は部屋に話して遊ばせていたから、どこかに隠れているのだろうと思い、彼は家中を探したのだ。その探し方が段々と必死になった。

 どこかに入り込んでしまって、出られないのかと思った。何かの下敷きになったり、しているかもしれないと思った。籠が落ちた時に、羽根や足を怪我したかもれしない。大切な、大切なカナリヤなのだ。

 そうして暫く探してから、化野はやっと気付いた。リビングのカーテンが少し揺れている。窓が少しだけ開いていた。丁度、小さなカナリヤが、抜け出ていけるくらいの隙間だけ…。

「外へ…? う、嘘だろう…。ギンコ…」

 化野は今度は外へと駆け出した。マンションの五階の部屋の窓から、小鳥がもしも飛び立ったのなら、どこへ飛んだのかなど判らない。それより、ずっと籠で暮らしていたカナリヤは、羽ばたいても飛べずに落ちたかもしれないのだ。

 最初に窓の真下に行って、敷地をぐるりと取り巻く垣根の中を探し、垣根そのもの下を探し、夜目にもきっと目立つだろう、あの白い綺麗な姿を探し続けた。それでも見つからないと、敷地の外も探した。深夜の道を歩いている、何人かの人を捕まえて、見なかったかと聞いた。

 それらすべてが無駄に終わり、今、化野は部屋の中で、転がったままの籠の傍、項垂れて涙を零していたのだ。

「…悪かった…ギンコ」

 医療ミスのことがあってから、ちゃんと構ってやれてなかった。あらぬ罪を着せられてからは、毎日の餌や水を取り替えてやっていたかも覚えていない。籠の掃除だって…たぶんずっと…。

 お腹を空かせて、汚れた籠の中で、ずっと俺が自分を見てくれるのを、ギンコはずっと待っていたんだ。それなのに。

「どこにいるんだ…。お前、もう死んで…」

 ぽろぽろと零れる涙は止め処が無い。医院でのことでは、あんなに悔しくても辛くても、一粒も流さなかった涙だった。自分にとって、一番大切なものが何だったのか、こんなことになってから気付いても、ただ愚かなだけだ。

「生きてるなら、戻ってきてくれ…ギン…」

 その時、誰かが玄関のドアを小さくノックした。今はまだ早朝。誰かが訪ねてくるような時間じゃない。暫し空白があって、今度はチャイムが二回鳴る。

 気付いていたけれど、出る気になれなくて、化野は倒れたままの鳥籠に手を伸ばした。引き寄せて目の前に置いて、手でそっと撫でた。ギンコの体を、心を込めて撫でているような気持ちになって、酷く切ない。

「化野」

 外から、今度は声がした。聞いたことの無い声だった。だけど酷く、耳に響いてくるような声で、化野はとうとう顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭いて、それでも見られたら、ドアの向こうの誰かに、泣いていたのが判るだろうと思ったが、そんなのはどうでもいい。

「化野、俺だよ」

 今度はそう聞こえた。知らない声なのに、誰だろう、と、そう思いながらノブの鍵を開ける。昨今は物騒だからと、掛けてあるチェーンはそのままだから、開いたのはほんの隙間だけだ。

「泣いてたのか…?」

 ドアの向こうにいる男は、化野の顔を見るなり、うっすらと笑ってそう言って、隙間から手を入れて、いきなり化野の頬に触れたのだ。人差し指の背で、する、と涙の跡を拭いてくれ、彼は言った。

「入れてくれよ。この姿じゃあ、もう、窓の隙間は通れないからさ」

 化野の視線は、最初からその男の姿に釘付けだった。白い髪と白い肌と、翡翠のように美しい、濃い緑の色をした瞳が、彼の愛するカナリヤを思わせる。

「誰…。誰なんだ…」

 化野が言った。

「…俺だよ。判るだろ?」

 その男はそう言って、隙間から入れた手で、ゆっくりとドアのチェーンを外した。














** 3


「え…。知らな…」
「知ってるさ」

 俺のことが判るだろう?
 俺を知っているだろう?
 判るのはあんただけ。
 知っているのもあんただけだよ。

 かすれたような声が、化野の耳元に。開いたドアの内側で、男は化野の髪に触れた。止めようとした彼の右手を、男の手のひらがゆっくりと覆って、その甲に軽く唇をつける。

「なに…。何、す…」
「……・・・」

 ひゅ、りり …。
 
 小さな音が聞こえた。男が化野の目の前で、唇をかすかに開いて鳴らした音だった。あぁ、白い髪、白い肌に、この、翡翠の色の瞳は…。

「…あぁ、この唇じゃぁ、もう、あんたのためにさえずることも出来ないけどな」
「ギ…ギン…コ……」
「…ほら、な? 知っていただろう…?」

 あ だ し の …

 かすれたような、少し辛いように聞こえる声が、化野の名前をゆっくりと呼ぶ。見開いた瞳を、新たに溢れた涙で濡らして、化野は壁に寄り掛かっていた。

 彼の顔に「ギンコ」は顔を寄せた。唇が唇に近付いて…。だけれど触れる前に逸れて、唇の斜め下、顎を唇で挟むようにキスをした。ちろり、と舌先で舐められて目が眩む。ちゃんと閉じていなかったドアが、ガチャ、と大きな音を響かせて閉じて、化野は震え上がった。

「ど…どうして…。どう、し…」
「どうして? それは、あんたがあんなに望んだから」

 壁に寄り掛かったままで、化野は震える。夢なのだろうと、心のどこかで思っていた。

 彼の見ている前で、ギンコは革靴を脱いで、それをちゃんと並べて置いて、勝手に部屋の奥まで入っていってしまう。よろめきながら化野が追いかけると、ついさっきまで、彼が座り込んでいた場所で、ひょい、とギンコは身を屈めた。

「それと…カナリヤのままの姿じゃあ、あんたを慰めることも、支えることも出来ないから」

 床に置かれていた籠を、ひょい、と片手で持ち上げて、いつもどおりの場所に置いた。餌の器と水の容器も拾い、小さな籠の入り口から手を入れると、ギンコはそれらを籠の内側に引っ掛ける。

 入り口の右に餌の器、そのさらに右隣、少しだけ上の位置に水の容器。外れていた止まり木も、ほんのわずか斜めにして、きちんと籠の中におさめる。何もかも、いつもどおりに、だ。カナリヤのギンコと、化野以外には知らないはずのこと。

 籠の傍に立って、ギンコは改めて化野の方を見た。立ち尽くしている彼を、顔を少し斜めにして見つめている。

「…自分の方こそ、ろくに飯も喰ってなくて、夜だって毎晩悪夢にうなされて、ぼろぼろになってく癖に、俺の餌も水も、あんたは一度だって忘れなかった」

 それを聞いて、化野は何かを言い掛ける。自分では覚えていない。何もかもがどうでもよくなっていて、だからきっと、ギンコのことも放ったらかしにしていたと思っていたのだ。彼の言葉を遮るように、ギンコの声は続いていた。

「少し汚れただけで、ちゃんと籠の中も綺麗にしていてくれた。そうしてくれるのは有り難いけどな。でも、なんの助けにもなれなくて、あんたがやつれてくのを、ただ見てるだけなのが、俺には辛過ぎたんだよ」

 だから、あんたの願いの通り、こうして人間になった。
 だから、あんたはもう一人で蹲ってなくていい。
 だから、だから、これからは…。

 眩暈がしていた。淡々と告げられる言葉の意味は、ちゃんと判っている筈なのに、どうしていいか判らない。呆然として、反応一つまともには返せない化野に気付いて、ギンコは小さく肩をすくめた。彼は鳥籠をするりと撫で、黙って化野に近付いた。

「ふらついてる。…座って」
「あ、あぁ…」

 ギシ、と一度ベッドが軋む。それからもう一度、同じ音が鳴る。化野の隣にギンコは座って、ほんの少し、右目にかかっている前髪を掻き上げた。息のかかるほど近付くと、本当に綺麗な翡翠色をしているのが判る。濃い色だ。漠然と見るだけなら、黒だと思ってしまうような色。カナリヤのギンコと同じ色。

「もっとよく俺の目を見てくれ。判るだろ…? 俺はあんたの『カナリヤ』だよ。信じてくれなきゃ、俺は」

 え、と問うような目をする化野。彼の目が、もう一度しっかりとギンコを見て、その瞳を、白い髪と肌を見て、頭の先から足の先まで見て、戸惑うように唇を震わせた。

「ギンコ…。でも、ギンコは、カナリ、ヤ……」
 
 どさ、と、何かがベッドの上に落ちた。ベッドは大きく、ぎしりと軋んだ。何が落ちたんだろう、と脳裏の隅で思うと同時に、化野の目は部屋の天井を見ていた。その視野がさらに覆われる。何かを言おうとしても、唇は塞がれていて声が出なかった。

「ん…んん… ッ」

 

 隙間が空いたままの窓から、朝の日差しが部屋へと射していた。入り込む微かな風に、白いカーテンが、ゆら、と揺れる。何も解決などしていないというのに、今は何も考えられなかった。化野の心の中は、カナリヤで、人間の、ギンコでいっぱいだった。














** 4



 唇に自由が戻っても、化野は呆けたようにギンコを見ていた。手のひらで髪を撫でられ、頬をなぞられ、その手が次には胸へと下りていく。着ているシャツの上から、ギンコは化野の胸を繰り返し撫でるのだ。

 上から下へ、今度は下から上へ。人差し指と中指の背で、ほんの微かに、かすめるように…。その手が、シャツのボタンの一つを外そうとしていて、化野は急に我に返って慌てた。

「な…っ、なッ、何…」
「…何って。いつもお前が、俺にしてくれてたことをしてるだけだよ。指の背で、俺の胸や首筋を、こうやって…」
「………お、俺が…っ?」
 
 つい聞き返すが、確かにしていたのを覚えている。カナリヤのギンコの柔らかい羽根を、いつも撫でていた。でも、それは小鳥にそうしていただけだから…。

「や…やめ…っ、ギンコ…っ!」
「俺をちゃんとギンコと呼んでくれるんだな。嬉しいよ、化野」

 言いながら、ギンコは化野のシャツのボタンを、もう二つ外している。狼狽して、止めさせようとギンコの手を掴んだら、そんな化野の手が逆に掴まえられ、口元へと運ばれてキスをされた。キスだけでなく、ちらり、と舐められてくらくらする。

「俺を好きだと、何度もそう言ってくれたろ? 俺もお前のことを…」
「あ…、ちょ…っ、待っ…」

 その時だ、玄関のチャイムがなった。びく、とベッドの上で震え上がり、殆ど転げ落ちるような格好で、化野は逃げた。ギンコはそれを引き止めようともせず、玄関へと向かう化野の背中を見送った。

「は…っ、はいッ、誰っ?」
「先生、あたしです…っ…」

 声を聞いてすぐに誰だかわかった。医院の看護士の一人で、あの患者の担当だった娘だった。涙声なのを聞いて、あの患者の容態が悪化したのかと、化野は動悸を速めてドアを開ける。

「どうしたんだ…ッ」
「すみません、こんな遅くにっ、せ、先生のケータイ繋がらなくて…っ」

 あぁ、充電が切れているのだ。残量を見て充電するような余裕もなくしていたから。殆ど泣きじゃくっているような看護士の肩に手を置いて、化野は言う。

「すまなかった、すぐにいく。急患なのか?! も、もしかしたらあの患者…が?」

 最悪の事態も考えて、早口で問い質す。取り乱している看護士は、首を必死に横に振って、こう言ったのだ。

「違うんです。さっき患者さんの意識が戻って…っ、医院長に…」
「意識が…戻った…。よ、よかった。じゃあもう大丈夫なんだな? とにかくすぐに俺も行く。タクシーを呼ぶから…っ」
「患者さんは大丈夫です。意識は本当にはっきりしてて、それで先生…っ。その患者さんの言葉から、ミスしたのは先生じゃないって、やっと分かってっ。い、医院長も…」
「……あ…。…あぁ…!」

 がくん、と、いきなり化野の膝から力が抜けた。座り込みそうなって、後ろから伸びた手に支えられ、無意識にその腕に掴まりながら、化野は言ったのだ。

「そ、そうか…。よか…っ…」

 その後も、看護士は必死で言葉を続けていた。化野のミスじゃないのだろうと、薄々分かっていたのに、何も言えずにいたことへの詫び、医院長の息子の怒りが怖くて、自分以外の皆と一緒に、化野を避けていたことへの詫びも。

「そんなのは…いいんだ、患者がよくなって、それでこれからも医者の仕事があの医院で出来るのなら、いいんだ…。ありがとう…わざわざ…ここまで…」
「…い、いいえ……わたし…あの…。すみません、あの…非常時だからと思って、こっ、こんな時間に…」

 看護士は何故だか、戸惑うような言い方をして、化野の顔から微妙に目を逸らした。不思議に思いながら化野は言う。

「君はこれから医院に戻るんだろう? 俺も行くから、今、タクシーを…」
「いいえ…っ、先生、明日非番じゃないですか…っ。私、伝えたくて来ただけなので、来るんだとしても、先生は朝になってからでッ。あの、し、失礼しました…っ」
「あ、君ッ」

 バタン、と化野の鼻先でドアが閉まった。なんであんなにうろたえるんだろう、と、そう思っていたら、耳元に囁くような声が聞こえる。

「もう…自分で立っていられるか? 化野。別にずっとこうしててもいいけどな」
「え?」

 気付けば化野の体はギンコの両腕に、しっかりと支えられていたのだ。後ろから抱き締めるように腰に回された手が、半分脱がされかけたままの、化野のシャツの布地を掴んでいる。化野はその腕を頼るように掴まっていたのだった。

「…あっ、いやっ、も、もう立てるよ。わ、悪かった。あの、離し…っ」
「無理すんなよ。…よかったな。俺も安心したから、もう…」

 其処まで言って、ギンコは化野の体から手を離す。そのまま背中を向けて部屋の奥へと戻っていき、いつもの場所に置かれた鳥籠に手を添えた。

「ま…まさか…ギンコ…」
「ん?」
「もう、戻ってしまうのか? カ、カナリヤの姿に…。折角…っ」
「折角?」
「は、話が出来るようになったのに…っ。こうして、同じ人間になったのに…?」

 化野の言葉を聞いて、それから彼の悲しそうな目を見て、ギンコはゆっくりと笑ったのだ。眩しい笑みだった。静かに頬笑むだけで、寧ろ少し皮肉っぽく見えるくらいなのに、化野にとっては眩しくて、泣きたいような気持ちになった。

「俺に人間でいて欲しいか? 化野。元のカナリヤの方が、世話も楽だと思うぜ?」
「に、人間でいてくれ、ギンコ…っ、俺は…」

 お前を好きなんだ…。

 最後まで言葉にならなかった化野の想いを、すべて判っているかのように、ギンコは微かに笑みを深めたのだった。



 頭が重い。なんだか酷い寝不足のようで、化野はだるそうに寝返りを打った。窓から差し込む日差しがとても明るくて、今まで随分長い間、雨や、重たそうな雲が立ち込める曇りの日が、続いていたように思う。久々に朝を迎えた。そんな感じがした。

「ん…んー…っ」

 起き上がり、ベッドの上で大きく伸びをしていたら、キッチンの方からギンコが歩いてくる。

「冷蔵庫の中、何もないな。大したもの作れなかったぞ、化野」
「…………」
「…どうした? 朝はトーストだろ?」
「え、あぁ、そ…そうだけど、あの」

 ベットから片足を下ろしかけた格好で、化野はギンコの姿を見ていた。呆けたように、少し口を開けて。

「なんだその顔。夕べのことは夢だとでも思ったか? 食費なら心配ないぞ、大して食べないから」
「…食費…って、いや、そ、そういうことじゃなくて」

 トレイにのせたトーストにコーヒー、ハムエッグに、千切ったレタスが数枚。それを化野の前に運んで、彼の見ている前でスティックのシュガーを半分カップに注ぐ。

「甘めにするか? 疲れている時はそうだったよな?」
「…なんで、そんなに色々知ってるんだ」
「そりゃぁ…何年も一緒に住んでたら分かるさ」

 ベッドの端に座ったギンコは、ハムエッグの横にのせてあるレタスを、一枚だけ摘んで口に運んだ。

「…そ、それだけ?」
「そりゃあ、鳥なんだしな」

 化野は朝食を取るのをそっちのけで、ギンコの姿ばかりを見ていた。夕べは…何もなかった。あの後朝まではほんの数時間で、ギンコは化野が寝入るまで、窓辺に立って外へと視線を流しながら、傍にある鳥籠に手を触れていたのだ。

 寝ないのか?と、そう問えば、煽るなよ、と返された。
 そんな微妙な会話だけしか、化野は覚えてない。

「えと…あの、本当に…?」
「何が」
「えっ? いや、カ、カナリヤ…」

 本当にカナリヤのギンコなのか、と一度は納得したはずのことを確かめたくなる。問いかけようとすれば、ギンコは夕べと同じ窓辺へ行って、鳥籠の上に手をのせながら、静かに笑った。

「信じられないなら、もっと言ってやろうか? この家で一緒に暮らしていなきゃ、判りようのないことを色々。たとえぱ…そうだな、トイレットペーパーの芯に、カナリヤの俺がもぐって遊ぶんじゃないかと、三度も籠にペーパーの芯を入れた」
「だ…っ、だってそれは、ハムスターなら遊ぶと聞いたんでっ」
「ネズミと一緒にすんなよ。アルミホイルの芯だって、結果は同じだったろ?」

 バツが悪いような顔をして、化野はトーストに噛み付いた。カップがカラになると、ギンコはコーヒーメーカーのコーヒーを注いで持ってくる。二杯目はブラック。いつものとおりに。

「まだ信じないのか? 夕べは俺をギンコと呼んでくれたのに」
「…だ…って…」

 言い訳しかかりながら、化野は二杯目のコーヒーの最後の一口を飲む。口にコーヒーを含んだ途端、いつの間にか傍にきていたギンコの手が伸びて、強引に上を向かせられた。

「ん…っ、ぅ…っ」

 塞がれる唇。舌で口内をなぞられて、体が強張る。反射的にでも何でも、抵抗しない自分にドキドキする。

「苦…っ。よくこんなの飲むな」

 笑ってる顔が、化野にはまぶしく見えた。白い髪は、光があたると銀色に見えて綺麗で、瞳の色も…。無意識に化野がギンコの髪に手を伸ばす。ギンコは何故かベットからするりと離れて、軽く項垂れた。

「俺はギンコだよ。信じてくれなきゃ、ここにはいられない」
「しっ、信じるよ…っ。すまない。でも、あんまりいきなりで、戸惑うだけなんだ。ここにいてくれ、その姿で。いなくなられたら、辛いよ、ギンコ」

「淋しがりだからな、化野は」

 そう言って、ギンコは化野の手からトレイを受け取ってキッチンへ行ってしまうのだった。













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