Far far away 9
「乾いてるかい?」
「え…と、これは大丈夫。でもこっちはまだちょっと。でも着て歩いていれば、すぐ」
岩の上に広げていた服を、ひとつひとつ手に取って確かめて、半乾きを気にしながらも、化野はそれらを身に付けた。今までほぼ全裸でいたから、湿ってはいても着れば暖かい。日の当たる、なるべく風の通らない場所で、二人は朝の残りを食べた。
ギンコの握ったおにぎりは化野が、化野が握ったのはギンコが食べて、その歪さに二人して苦笑いする。山菜とハムまで混ぜ込んだそれは、塩気が効いていてびっくりするぐらい美味しかった。
これって、同じ具でチャーハンしてもイケるかも、などと感心しながら、化野は谷の向こうに太陽が隠れていくのを見ていた。山の日が暮れるのは早いから、きっと移動しているうちに、すぐに夕方になるのだろう。
万が一にも忘れものの無いように、持ち物を確かめ、きょろきょろとあたりを見回した後、二人はここに来たのと同じ道を通って元の海辺を目指した。
急な斜面を登る時、下りる時、また前後しながら手を取ってもらい、支えて貰い、気遣ってもらう。静かなギンコのその所作を、つい頬が熱くなるほど喜んでしまいながら、化野はぽつん、と、短い言葉で聞くのだ。
「あとは、ギンコ君一人で…?」
その時は平坦で安全なところを歩いていたから、ギンコは前へと進みながら、化野の顔を振り向いた。
「……あぁ、まだ、撮りたいものは撮れてないからな」
「何日も、かかるの?」
「いつまでにって期限は切られてないけど、撮りたい絵は夏か初秋だから、紅葉が始まるまでには終わらせたいと思ってる」
ギンコがそういうと、化野は思わず足を止め、そんなに? と言ってしまった。
「そんなにずっと、此処に居るの? え、じゃあ、その間って」
会えないのかと、そう、思って。
ギンコも足を止めた。そして体ごと振り向いて、手を差し伸べ、その両手で化野の両頬を包み、そのまま…。
「ん…。ギ、ギン…。んぅ、ふ…っ」
口を吸われている合間に、薄く開けた目に映る、ギンコの表情。少し笑っていて、少し困ったようで、少し嬉しそうな。キスに酔いながら、化野は思っていた。
あぁ…
いつの間に
こんなに
愛されたろう
恋愛経験なんかそんなにはなくて、否、本当に人を愛したのはこれが初めてに違いなくて、それなのにそう思うことの、ふわふわと気持ちの浮くような。けれど、思い違いだとか。自信過剰だとかは、どうしても思えなくて。
それほど、与えられる眼差しが、口づけが、甘くて。
「ん…っ。だ、だめ…だよ…。ギンコ…」
「…何が…?」
「し…っ…して欲しく、なるから」
息だけの声でそう言えば、なお一層激しくキスされて、吸われた舌が、溶けそうだ。
「ふ。此処でしてもいいけどな、バスが、行っちまう」
ギンコの胸を押して、一度体を離してから、今度は化野から、強く彼の首を抱いた。バスが行ってしまったら、明日の朝まで一緒に居られる。そんなことを思ってしまうぐらいには、理性がもう脆くなっていて。
「好きだよ。好きだ。ずっと傍に居たい。ずっと」
「でもダメだろ? 院長せんせ」
「……うん…。そうだよ、駄目だ」
ギンコの目が、深く笑っている。彼は変に楽しそうだ。ギンコは化野の耳朶を噛んで、極小さな声でこう言った。
「俺も…」
ふい、と体を離して、ギンコはまた化野の前を歩き始めた。
「戻ったら連絡する」
「待ってるから。無茶をしないで、怪我とか、無いように。本当に、本当に、気を付けて」
テントを張った海辺を通り、化野の私物を持ち忘れていないかざっと確かめ。更に歩いて、歩いて、バス停に着いた時、空にはもう紅色が微かに滲んでいた。バスの時間までもうぎりぎり、と思ったら、遠くから砂埃を舞い上げながら、古びたバスがゆらゆらと近付いてくる。
「送ってくれて、ありがとう」
「いや。あんたも、慣れないことばかりで疲れたろう」
「俺は大丈夫だよ、ギンコ君。何度も言うけど、本当に」
バスが化野の後ろに停まった。ベンチに置いていたリュックを背負い、運転手のみのバスに彼は乗り込む。するとギンコは外からバスの前の方へと回り、何やら上着の胸ポケットから、小さな袋を取り出して運転者に差し出したのだ。
一歩分だけバスに乗って、腕を伸ばすギンコへ向かい、運転手も何やら白いビニール袋を持った手を彼へと伸ばしている。
「今度もまた適当でいいのかい? つーか、まだこないだの金が随分残ってるって」
がさがさと鳴りつつ揺れる袋の中身が、いくつかだけ透けて見える。パンと、パックの飲み物と、野菜らしきものと。別の小さくて透明な袋は、米。
「あと、こっちは米な。四合入れた」
「助かる。あぁ、適当でいいんだ。食えりゃあいいから」
受け渡しが済むと、ギンコは化野の方を見て、じゃあな、と、あまりにいつも通りの言葉を放った。
そうしてバスは、じわじわと動き出し、走り出す。首が痛くなるほど後ろを向いて、見えなくなるまでずっとギンコを見ていてから、力の抜けたように、化野は座席に座り込む。
ほんの、丸一日と少しの時間で、急に、彼との触れ合い方が変わっていったことを、傍から離れた今になって、やっと化野ははっきりと意識する。キスとか、抱擁とか、言葉や声や眼差しも、今までとは違っていった。
「う…わ…。なん…っ」
つい、小さな声でそう言った。ひとつひとつ思い出すと、顔が火照る。体の力が抜ける。二人きりだったから…? でも今まで部屋の中やホテルで、二人でいた時もあって、こんなふうじゃなかった。
どうしよう、と化野は思った。これからずっとこうなんだろうか。もしかして、仕事の昼休憩にちょっと会う時も、人目を盗んで、あんな甘い眼差しや声をされたりしたら、幸せだけどきっと、とても平静じゃいられない。
「こ、困る…」
ぼそぼそと呟く声は、砂利道をゆく音で、運転席には届いていないようだ。ゴマ塩で灰色に見える髪に帽子を被って、皴のある手でハンドルを握った運転手が、ひょい、と化野を振り向いた。
「あんたぁ、あん人とは親しいのかい?」
「えっ、いえ、あの…、と、ともだち、です」
「ふぅーん」
前置き無しの問いかけに、うっかりあたふたとしてしまいながら、化野はそう答えた。運転手は上機嫌な風に、バスの動きに合わせ体を揺らしつつ、世間話の態になる。
「なぁ、あの人さ、カメラマンなんだろ? 奥谷線を撮りに来たんじゃないのかい? 前も居たんだ。随分前のことだし、別の人だけどよ。そんでその頃もバス転がしてた俺に、おんなじように『なんかてきとうに、パンとか飲み物とか、あと米とか用意してくれ、金は先払いするから』って言ってきて。前の人はけっこうよく喋る人でねぇ、なんか面白い人だったっけ。今度の人はあんまりしゃべんないけど。どっちにしても、俺らにしちゃあ、もうとうに無くなった奥谷線のこと気にかけてくれて、嬉しい限りでな。なんでも前の時の人はね、撮った写真を」
「あっ、あのっ、その話っっ」
化野は、席から腰を浮かせてその話を遮った。もっと聞きたいと思ったからだった。きっと「その人」はギンコの知っている人だ。殆ど確信するように化野は思った。その人の関わることだから、だからギンコはあんなにまでして、奥谷線の古い線路を撮ろうとしていて。
「…あ、の…」
けれど、もっと聞かせて欲しい。詳しく知りたいと言いかけた言葉は、化野の喉の奥に留まって、出てくることはなかった。
「…い、いえ、すみません。何でもないんです。そ、そろそろ街へ出ますか?」
「んん? そういやあんたどこで降りるんだっけ? 昨日乗ってきたとこかい? なら終点だからね、まだけっこうあるよ」
「そうですか。ちょっと、あの夕べあんまり寝てなくて、今凄く眠くて…。それまで、寝てても構わないですか?」
化野がそう言うと、運転手は頷いて、着いたら声をかけると言ってくれた。座席にもう一度腰を下ろし、窓に頭をよりかけて、化野は目をぎゅっ、と強く閉じた。
知りたい。
本当は、知りたい。
でも知らない方がいいのかもしれない。
彼の、ために。
バスはガタガタと、砂利道を行き、ついで荒れた舗装の道路を行き、やがては揺れの少ない道へと抜けた。
眠ってなどいない化野は、ずっとギンコのことばかりを思い出していた。今日のこと、昨日のこと、それよりも前のこと。出会ってからの、沢山の。そうやって自分の知るギンコのことだけを思って、自分の知らない彼のことを、考えないようにしていたのだ。
でも。
でも、やっぱりそうだったんだ、と思ってしまった。ギンコの大切な人は、彼と同じくカメラマンだった。そうしてギンコに写真を撮ることを教えて、そして、今は、居ない。何処にも、居ないのだろう。どうして? 何があって? 居ない、のか。
「お客さん、着いたよ終点。奥谷駅」
眠れもせずにずっと目を閉じていただけだったが、なんとか寝ていた風を装って、目など擦りながら化野は運転手に礼を言う。
ギンコに頼まれて、また食料などの色々を彼の為に用意するのだろう老人に、何か言いたいと思ったけれど、何て言っていいか分からず、化野は普通にもう一度、ありがとうございました、とだけ言ってバスを降りる。
まる一日以上を一緒に居て、今、たった一時間過ぎただけなのに、もうギンコに会いたくて、化野は元来た道へと戻るバスをじっと見送った。
「せめて電話が出来ればのいいになぁ…」
声だけでも、聞きたいよ。
ふらりと歩く化野は、ローカル駅の商店街で、電気屋の前を通り過ぎる。ウィンドウから外へと向いたテレビ画面の中では、殺伐としたニュースが流れていた。それは、遠い国でずっと続いている、内乱の近況を知らせるニュースだった。
続
まだもうちょっと、先になると思うんですけどね。タイトルにもなっているそのシーンって。でも着々とそこに近付いてはいると思う。具体的にそれにかかわることは、まだ動きが見えていないけど、きっと見えた時には、グァッ、と物語が動くんですよね。大変そうです、書くの。
そしてバスの運ちゃんから急にもたらされた「前にも同じような」ことをしていたカメラマンは、えぇ、言わずと知れた、ってことになります。過去にそう言う仕事をしていた、ということが、あの人の個性でもあり、あの人のその個性と心と、願っていたこと、が、この先ギンコを…。
みたいな?
やっとこんな感じになってきたffwですが、もう9話だってことに愕然。ぁぁあ、やれやれ。短く出来ないもんですねー。ではまた次回っ。
2019.06.23