Far far away  10





「ほいよ、先生っ。煮付用にカレイ一尾500円ねっ。こいつは美味ぇよ。…って、五千円に釣り、でいいのかい?」

 見るからにぼうっとした様子で、五千円札を差し出している化野の顔を、さかな屋のおやじさんは下から、じろん、と眺めまわした。

 昨日も今日も買い物に来た化野だが、どうもおかしい。昨日なんか、買ったスルメの入った袋をぶらぶらと下げて、家と逆方向に歩いて行った。そうして数分後には赤い顔をして、行った道から戻ってきたのだ。

「えっっ、五千円っ? あ、ああ本当だ。あるよ、500円。ちょ、ちょっと待ってて」

 財布の中を散々覗いて、500円玉をようやく出してくる。おやじさんは代金を受け取り、ご丁寧に化野の体の向きを、彼の家の方角に向けてやって背を押した。

「迷わず帰んなよ、せんせ。そんでちゃんと食べて風呂入って、布団かけて、風邪ひかないように寝なぁ」
「こっ、子供じゃないんですからっ」

 と、言っている傍から、電信柱に激突しそうになっている。照れ笑いで首の後ろを掻いて見せた化野は、本当は自分でもおかしい自覚があるのだ。

 あれからもう十日にもなるというのに、浮かれた頭は中々もとに戻ってくれない。仕事中は平素の自分に戻れているからいいが…。ああ、もう一週間か会いたいなぁ、などと、言っている傍から声に出して呟いて、化野は顔を赤らめるのだった。




 さかな屋からの帰りに化野が顔を赤らめた。その数時間前のことである。

「おっ、イサザんとこのにいちゃん、なんだかここんとこ見なかったけど、元気かいっ」

 さかな屋のおやじさんの気安い声かけに、ギンコは軽く手を上げて応じて見せた。何も入って無さげなショルダーバックを肩に、ゆっくりと街を横切り、アパートの階段を上がる。イサザは居ない。チラシ配りのバイトで朝早くから出掛け、戻りは明日になる予定を、前にカレンダーの印で見た。

 ギンコはいつも鍵を置いてある場所から、合鍵を引っ張り出してドアを開け、また同じ場所に鍵を戻す。不用心なんだからギンコが持っててくれたらいいのに、と、イサザに何度言われたろう。聞く耳を持たなかった回数は、ぴったりそれと同じだ。

 ギンコは部屋へと入って行き、持ってきたバックに幾つものカメラレンズを入れる。替えバッテリーや、メモリーも詰め込んで、それだけで部屋を出ようとして、やっと気付いた。テレビの前に無造作に置いてあるDVD。イサザの字で書いてあるのは。

『旧奥浦渓谷線、他』

 視線を流してそれを見つめること、数秒。ベッドヘッドに置いてある目覚まし時計で時間を確かめてから、ギンコはべたりとその場に床座りする。デッキにDVDを突っ込んで、15分弱、それを二度繰り返し、真剣な顔で見入っていた。

 見終えたあとは元の通りにDVDをケースに居れ、テレビの前の同じ位置に置き。

「…ドラ爺、か」

 ぽつりと呟いたのは、このDVDがわざわざ此処に置かれていた理由を思ってのことだろう。ドラ爺が教えたのでなくば、イサザがこれをわざわざ録画して残す理由が無い。

「相変わらず、要らないお節介が好きだな」

 そう言いながら、脳裏に焼き付けた映像を、ギンコは数度反芻し、今度こそ部屋を出る。そのまま駅へと戻ると、次の電車が来るまでまだ三時間近くもあった。彼は仕方なく、ホームの端のベンチに座ると、バッグの中からメモ帳を引っ張り出して、シャープペンでさらさらと何かを書き始めた。

 書いているのは、大雑把な地図。其処に幾つか印を付け、さっきDVDで得た情報を、簡易的に書き足していく。実際に歩いても見つけられなかった廃線レールを、見つけ出す手掛かりになるだろう。

 それと言うのも、部屋にあったあのDVDには、奥浦渓谷線に活気があった頃の、資料フィルムも入っていたからだ。録られていたのは、汽車の中からの映像も多かった。特に風景の良いところを選んで、数回に分け、そのフィルムは回されていて、当時の沿線の活気がよく分かった。

 また、人家の傍を走り抜ける汽車の姿もあった。高架を下から見上げ、其処へと滑り込んでくる汽車。海を背に緩いカーブを曲がってゆく汽車の姿も。資料としても、随分古いものだ、映像は酷く劣化して、モノクロと言うより濃淡の淡いセピア。それでも十分雄々しく、美しい。

 DVDの中の、その古い映像。それを元にメモを取っていて、ギンコは気付いたことがある。

 番組に使われた、このフィルム。
 これをきっと、彼も観たのだ。
 旧奥浦渓谷線を、撮りに行く前に。 

「要らないお節介、ってことはなかったな。正直、助かる」

 取り終えたメモを閉じて、ギンコは軽くそのメモを額へと押し当てた。どこか祈るような彼の仕草を、駅舎の中から見ていたものがある。閉じていた戸をがらりと開けて、人懐っこい笑顔で出てきたのは若い駅員だった。

「えっと、ギンコさん、でしたよね。コーヒーなんか、どうです? 今オレ自分の入れてたんで」

 誰から名前を聞いたやら、遠慮がちにそう言いながら、既にコーヒーの注がれた白いマグを、彼は持っている。要らないと言える状況でもなく、入れ立てのいい香りに鼻をくすぐられながら、ギンコはカップに手を伸ばす。

「じゃあ、遠慮なく。…それと、不躾ついでにコンセント、借りられたら嬉しいんだが、電車が来るまで、出来れば…二つ」

 ギンコが鞄から取り出したのは、充電器に繋げられたスマホと、もうひとつは、カメラのバッテリーがセットされた充電器。駅員は躊躇も驚きもせずに、笑顔でそれを受け取ると、改札口横の小窓を開けて、差し込み口が六つも連なった分岐タップを取り出した。

「いいですよ。実はたまに頼まれるんで、こうやって用意してあるんですよね。って言ってもただのコンセント。都会にあるような、鍵の付いた専用の充電器なんか置けないけど、でもこんなことでお客さんの役に立てるなら嬉しいかな、って」

 屈託のないその姿を、コーヒーを飲みながらギンコは黙って見ていた。この街の人間はみんな無邪気で、こんな風なところがある気がする。化野もそうだ。彼はおそらく、この土地の生まれではないだろうに。

 此処で長く暮らすと、
 誰でもそんなふうになるのかい?
 例えば、俺でも…?

 そうやって考えながら、ギンコは駅員に礼を言い、空になったカップを返す。まだ十五分程度しか経っていない。あとまだ電車が来るまで二時間半以上。ギンコは軽く首を傾げるようにして、もうひとつ駅員に我儘を言った。

「凄く眠いんだ。此処で少し寝てていいか?」
「んー、いいですよ。この時間帯ほぼ誰も来ませんからね。あ、それじゃコーヒー飲んで貰っちゃって、ダメだったかな。…おやすみなさい。ベンチから転げ落ちないでくださいね」

 眠いのは本当だった。だからだろうか、若い駅員の顔が化野の顔と重なって見えた。平日の昼間だから、きっと化野は仕事をしているんだろう。そういえば、仕事をしている姿を見たことがなかったんだ。見られるだろうか、いつか。

 ギンコは眠る。夢で電車の音を聞きながら。このホームに毎日入ってくる電車の音を。七夕町へ、そして鳥渡里へと。そうして遠い昔の、奥浦渓谷線の電車の音も。異国を走る今にも壊れそうな、あれも電車だったから、その音さえ。

 あぁ、懐かしい。
 こんなものまで覚えていたのか。
 覚えていても、
 何もならない過去の音。
 
 けれど、過去は今へと、
 必ず繋がって。
 未来、とさえも繋がって。

 その時、充電中のギンコのスマホは着信のバイブで震えていた。マナーモードにしてあったし、駅員は改札から離れて近くに居なくて、だから誰も気付かないうちに切れた。それはもしかすると、何かの始まりだったかもしれない。




 随分古い時代の曲が、ラジオから流れていた。ドラ爺はいつもの作業室で、片目に精密作業用のレンズを嵌め、カメラの手入れをしている。

 取り寄せ不可だった古い部品、その代わりになりそうなものがやっと見つかって、ついさっき届いたのだ。それは小さな小さなネジだ。老眼の年寄りにゃ泣きたくなるほどとても小さい。そのネジをマグネット式の細いドライバーの先で拾って、目の前のカメラの開口部へと持って行く。

「落っこちてくれるなよぉ、頼むぜーおいー」

 息さえ止めた小声で、祈るように言う。不安がれば手が震えると分かっていて、ついそれだけ言ってしまった。覿面に手は震え出し、ドラ爺は右手にドライバーを、左手ではカメラを押さえたまま天を仰いだ。

「…治さなねぇ方がいいってことかよぉ」
 
 ふーーーーー。饒舌な溜息で、肺の空気を一度吐き切って、それから彼は、あえて目に嵌めたレンズを外した。途端にぼやりとぼやける視界。細いドライバーの先端の、極小ネジなど見える筈もない。勿論カメラの開口部の奥も。

 でも震えは止まった。

「ドライバ一本、カメラだったら何だって持って来い! の、ドラ爺ってのは、昔も今も俺だけだからなぁ」

 見えないままで差し込むドライバーの先、しっかりとしがみ付いてるネジが、待ち受けるネジ穴へと、ぴたり、はまった。

「よぉ、っと。おっし、これで治る。よかったなぁ。明日天気が良かったら、試し撮りもしてやっか? お前さん、久しぶりだろ、なんもない長閑な空とか、草木とかよ?」

 くるくるとドライバーを回しながら、満面の笑みでドラ爺は言うのだ。

「…まぁ、あとはな、お前さんの持ち主が、遠いとこから戻るのを待つだけだよ」

 歌でも歌い出しそうに上機嫌だったのに、ドラ爺の声は急に沈んだ響きになった。丁寧に、丁寧に、カメラを元通り組み直して、小さな箱にしっかり収め、それを棚の定位置に置く。

 そうして作業室の灯りを消して、ドラ爺は部屋を出ていくのだった。













 なんか、ほぼほぼ動きのない、のぺーーっとした回になってしまいました。でもこういう、一見何もない話の時って、この先の新しい展開への、小さな階段の登り口だったりするんだよなぁ。その階段ってのは、ただ元々そこにあるものじゃなくて、今作ってる筆者の手作りだったりするから。

 って何言ってんでしょうねぇ。ともあれ、10話をお届けしますね。のぺっとでも、無事に書けて良かったです^^






19.08.04