Far far away  8







「あの、ギンコ君」

 言われていた通り中々に厳しい行程を経て、目的の渓谷にようやっと辿り着いた。転ばず怪我もせず、不慣れな化野にしては上出来と言えよう。けれども目の前の光景に、彼は思わず聞いてしまった。

「奥谷渓谷線、を撮りに来たんだよね?」

 視野の右も左も、濃い緑の苔や低木に覆われた崖だ。刃物を差し込んで切ったような、深く鋭角な谷の底を、速い流れで川が走っている。川の幅は広くても四ートルほどか。斜めになった岩盤、或いはその岩盤が割れて崩れた岩が、広くはない両側の川岸を、遠く視野の果てまで埋めている。

「線路は、どこに…」

 ギンコは化野の問いにすぐには答えず、岩盤の上で脚を開いて立ち、カメラを両手で構えていた。ファインダー越しの風景じっと眺め、しばし後、その格好のままでこう答える。

「なにせもう、25年も経っているから。場所によっては原型をとどめてない、何も残っていないってことも、あるかもな」
「何もなくても、撮るの?」

 再度の問いかけに、ギンコはカメラを胸まで下ろし、化野の方を振り向く。

「仮に、何ひとつ残っていないとして、その『消失』が、奥谷渓谷線の『今』の姿、ってことになるな」
「そう…」

 また少し化野は、自分が恥ずかしくなった。そんなことも分かっていて、彼はここに居るのだ。カメラに望遠レンズを付けて、倍率を上げて谷の上の方をずっと見ているギンコは、きっと願いを込めて線路のあった痕跡を、探しているのだろう。

 在ってくれ。
 ほんの少しの痕跡でもいい。
 まだ、在ってくれ。

 だから化野も、手をかざして光を遮りながら、何か見えないものかと目を凝らすのだが、肉眼ではあまりに分が悪い。そういえば、と思い立ち、自分のリュックの中からコンパクトカメラを取り出した。

 ギンコの使っているカメラに比べたら、こんなのは玩具みたいなものだろうけど、それでも望遠機能はついているし、確か買った時に、倍率はかなりいいものだ、と店員に言われた覚えがある。

 ケースから取り出し、なるべく足場のいいところを探して、ギンコを真似るようにファインダーを覗いてみた。最初真っ暗しか見えなくて。首を傾げる。何しろずっと使っていなかったから、どこをどうすればいいのかも忘れている。

 オンオフを何度もいじったり、フラッシュ機能を無意味にいじったりして、迷いに迷っていたら、いつの間にかギンコが目の前に立っていた。

「まずキャップを取りなよ。kanon製か、随分古い型だな」
「あっ、そ、そうだよねっ、ありがとう」

 自分のカメラでもないのに、手際よく一通り教えてくれて、鳥を撮るときのコツ、草花を撮るときの設定なども言い添えてくれる。試しに、足元の野草を撮って見せてもくれ、そのあと化野の手の中にカメラを返した。

「俺は多少場所を移動しながら撮っていくけど、あんたはついてこようとしなくていい。危ないから。そう遠くまで行かずに戻るし。ただ、足元が悪いからな、写真をとる時は特に、転ばないように気を付けなよ」

 背からリュックを下ろし、川から遠く、かつ日陰になるところにそれを置くと、ギンコは言葉通り、歩いては写真を撮り始めた。撮りながら、撮るべきものを探しているのだろう。結局化野は、朽ちたレールの痕跡を探す助けにはなれなかった。

 少しがっかりしながらも、彼の姿を自分のカメラのファインダー越しに、眺めてみる。撮っていいかも聞かずに撮るつもりはないけれど、そのうち、彼の写真が欲しいと思った。

あぁ。そういえば、いつぞや駅の救護室で、とんでもない姿を彼に撮られたなぁ。あの写真って、まだ彼の手元にあったりするんだろうか。なんだか随分前のような気がするけれど。

 化野の心の中を、いろんな記憶が流れていく。過去のあの頃から、今日へ、今へ。こんなふうになれるなんて、本当に想いもよらなかったけれど、もう何があったって、あの頃に戻ることはない。彼みたいな人と出会い、知り合えたこと、どうしようもなく惹かれ、その気持ちを伝えて、拒絶されたも同然のこともあったのに。

 今はこんなふうに、彼の仕事を見せてもらえたり、二人でキャンプまでしたりしている。自分って、びっくりするほど幸せじゃないか。でも、自分が幸せになったと同じだけ、彼を幸せにできているなんて思えない。どうしたらいいのかも、わからない。

 その時、灰色の見たこともない鳥の影が、鋭い声で鳴きながら、谷の高くを渡っていった。

 化野は首をひとつ横に振ると、撮りたい被写体を探し始める。せっかく教えてくれたのだから、何か自分なりのいい写真がとりたい。下手くそで、あれだけ教えたのにな、と彼に苦笑されてもいい。まずは簡単そうな、小さな花なんかどうだろう。出来れば彼が撮って見せてくれたのとは別の。

 ギンコに言われた通り、特に足元に気を付けながら川縁を歩いた。自分の荷もギンコのリュックの傍に置いたから、その荷物が見える範囲だけと決めた。

 ギンコもあちこち移動しながら、主に崖の上の方を撮っているように見える。見上げては撮り、撮った画像を画面で確かめ、また少し場所を変え。

 化野が写真を撮るのに夢中になり始めたころ、それは起こった。


 ばっしゃ…ッ!


 水の音。何か大きなものを水の中に落としたみたいな。反射的にそちらを向いて、化野は危うくカメラを岩の上に取り落とすところだった。

「ギっ、ギン…っ?!」

 速い流れの川の中、尻もちをついて、腰上までを流れに浸し、ギンコはカメラと替えレンズをそれぞれの手に持ったまま、万歳するみたいに、その腕を高く上げていたのだ。

「化野、転ぶから走るな。……焦らなくていい。怪我は多分、してないから」

 焦って駆け寄ろうとした化野を、ギンコはその一言で押し留め、それから、言葉を選ぶようにこう言った。

「…細くて曲がった木の枝が、川ん中を流れてきてな。足に軽く当たったんだ。何かと思って下を向いて、木漏れ日でまだらになったその枝が、一瞬、マムシに見えた。…びっくりして、この通り、さ。笑っていいぜ? けっこうコミカルな恰好だろ?」

 やれやれ、と言った感じに深い溜息をついて、ギンコは上に掲げた腕を、もっと、なるべく高く上げようと肘を伸ばす。川の流れは強くて、岩やギンコの体にぶつかった水は、白く飛沫を跳ね上げていた。下手するとカメラが…。

「笑ったあとでいいから、助けてくれるか? 悪いけど。たまたま、カメラも替えレンズも、交換しようとして手に持ってたタイミンクでよかった。濡らしたくないんだ」

「う、うん、勿論だよっ。言って。どうしたらいい?」
「悪いな。濡れちまうけど、靴のままでここにきてくれ」

 靴のまま、と言った意味を、ギンコは急かさず丁寧に教えてくれる。笑っていい、と言ったのも、こうしてゆっくり教えてくれるのも、真っ青になってギンコを案じている化野を、少しでも安心させるためだった。 

「裸足じゃ踏ん張りがきかないし、川底の石で滑る。で、ここへ来たらさ、一瞬でいいから、このカメラとレンズを持ってて欲しい。案外流れが速いから、両手が塞がったままだと立てないんだ」

 分かった。と、化野は言って、落ち着けるようにと深呼吸をした。そうして言われたとおりに靴のまま、ズボンを捲ることもせずに川の中へ入って行く。流れの下には丸く角の無い岩や石が、不規則にごろごろと重なっていて、気を抜いたら自分まで転びそうだ。こんなに緊張したことは、ここ数年間なかったかもしれない。

 化野は転ばずにギンコの傍まで近付いた。そうしてまずはしっかりと、彼のカメラのストラップを掴み、片手でそれを首にかけ、カメラ本体を肩ぐらいの高さで、しっかりと持つ。そうしてもう片方の手で、これ以上はないぐらいに丁寧に、替えレンズを受け取った。

「お、落としたら…終わり、だよね」
「大丈夫だ、化野。あんたは俺のカメラを、水に落としたりなんて、絶対しないから」

 言い聞かせるように言ってすぐ、ギンコは空いた両手を水の中に没し、ようやっと立ち上がる。そうして、濡れてしまった両手を、自分自身の服の、濡れていない箇所でごしごしと拭いてから、化野に預けたカメラとレンズを受け取ったのだった。

「あんたが居てくれてよかった」

そう言われて、化野は嬉しくて堪らなかった、のだけれど。




 川の流れる音も、鳥の声も、何もなかったように変わらずに聞こえる。それらの音を無意識に聞きながら、化野は川から少し離れて、体育座りで蹲っていた。

「やっちゃった、なぁ…」
「まぁ、お蔭さんで、カメラは濡れずに済んだんだ、そう凹むなよ。…寒くないか?」

 日の当たる岩の上で、頭から肩、背中にかけて大きなタオルを被って縮こまって、まだ水を滴らせているのはギンコではなくて、化野である。服の着替えは無かったから、大判タオルの下、下着一枚以外は何も着ておらず。

「寒くは、ないよ」

 ついさっきのことだ。ギンコが岸まで辿り着き、カメラが本当に濡れていないか確かめている後ろ。あと数歩で彼も川から上がるというその時になって、化野は足を滑らせ、ものの見事に全身ずぶ濡れになってしまったのだ。

「なんか、ほっとして。足から力が、抜けちゃって。情けないなぁ」

 大きな一枚岩の上のすぐ傍に、ついさっきまで着ていた化野の服が、絞って広げて干してある。その隣にはギンコの服と、中味がカラのカメラ用のウエストポーチも。こういう時用なのか、ギンコは膝上までのスウェットを穿いて、上半身は裸だ。

 炎天下、とまで言わないが、日差しはほどほど強く、乾いた風も通っており、小一時間もあれば二人の服は余裕で乾くだろう。

「そう凹むなよ」

 ぐしゃ。とギンコが化野の髪を掻き混ぜる。子供にそうするみたいに。

「そ、そんなに凹んでるってわけじゃなくて、その…。は、恥ずかしい、んだよ。こんなところで殆ど全裸、なんて」
「俺以外居ないし、来ないぜ? 脱ぎついでに、なんなら…?」
「ちょ、馬鹿なこと…っ、い、言わな…っっ」

 焦って顔を上げた化野へと、差し出されているのは手拭いだった。ギンコは面白そうに笑っている。

「残念ながら温泉じゃないが、流れの緩いところで、体漱いで、汗を流すとか?」

 言いながらギンコが笑っているのは、化野が何を想像したのか、分かっているからだろう。というよりも、そう仕向けてからかったのか。

 笑んだ目元をそのままに、ギンコは化野の隣に座って、すうっと吹いてきた風に目を細める。

「あんな狭い空間で一緒に寝たんだもんな。そりゃ、したかったかもしれないけど。連れてきといて、悪い…。俺にとってこれは、大切な仕事だったから、あんたとの行為に浸る気にはなれなかった」

 でも…。居て欲しかった、から。

 小声で言った言葉が、確かに化野に届く。そうしてギンコは右腕を伸ばして、高い高い崖の上を指さした。彼の示す方向を見上げ、化野は一生懸命に見て、そして気付くのだ。

 まるで保護色のように、枝や幹の色、岩肌の色とも同化しているあれは。大きく抉れるように崩れた崖の上、辛うじてしがみ付いている錆びて歪んだ二本のレール。

「たった今、見つけた。面白いもんだ、やっきになって探している時は、全然見えなかったのに。…あれを探してたんだ。なんとかして、もっと近くまで行きたい」
「………」

 危険だと思った。化野はそれをそのままに言いたかった。でも喉の奥から、その言葉はけして出てこなかった。大きな岩が今にも落ちてきそうに、脆く見える岩盤。真下に行くだけでも、さっきより流れの速い川に、身を浸すことにもなるのだろう。

 あんなところに行こうとするなんて。せめて別の経路はないのか? もっと安全に撮れる場所とか。無理に近付かなくとも、ここから望遠レンズで撮ることだって出来るだろう? 危ないことは、しないで欲しい。

 そんなふうに、喉奥に膨れ上がった言葉を全部、宥めて宥めて、飲み込んで、化野は言った。

「手伝うよ、俺の出来ること、なんだって」
「…もうそろそろあんたは帰らないと。バスの時間に遅れちまう。まだ服は生乾きかもしれないけど、停留所までは送ってく」
「…そう言うんじゃないかと、思ってた」

 少し怒ったように、化野はギンコを睨んで、彼から軽くキスをした。ちゅ、と音を立てる悪戯のようなそれを、驚きもせず受け止めて、ギンコは視線を軽く下へと逸らし、化野の肩のあたりを見ながら言った。

「右足のくるぶしのところ、青あざになってる。それから、左腕の肘の外側、草か何かで切ってるから。どっちも大したことはないと思うが、一応、教えておく。…俺の言うことじゃないが、大事にしてくれ」

「よく、見てるね、あ、ありがとう」
「…ん? そりゃ、な」

 その時、やんわりと笑ったギンコの顔。そんな彼の顔も、今日初めて見たように、化野は思ったのだ。その思考を遮るように、見たこともない鳥の群が、また谷の上を横切った。

 軽い羽音に耳傾けて、ギンコはぽつり、言ったのだ。

「まだ先だが、冬になる前に一斉に南へ旅立つ鳥達だ。…渡り鳥だよ」












 
なんか難産でしたぁぁぁ。お話はクライマックスに近付いていくので、難しいのは当たり前だ、ともいえるけれど、ここはこれ!って、しっくりこれなくて、何度も打ち直しましたですよ。なんとか自分なりぎりぎり合格点、みたいな。あう…。
 
 それはそうと、なんだか二人がどんどん恋人同士になっていって、書いてて照れまする。その姿、イサとかドラ爺に見せたいな、って思うし、そのうちイサには教えたいwww

 あぁ、でもその時って、ほっこりって展開じゃないのかもなぁ。などともそもそ言いながら、8話目のお届けでしたっ。


2019.05.28