Far far away 7
目が覚めた時、テントの外がほんの少し明るくなっているのを、化野は感じた。もうじき夜が明けるのだ。
首だけを動かし静かに横を向くと、こちらを向いて眠っているギンコの顔が見えた。そんなに近くはない。ほの明るい中に閉じた瞼。その左の瞼を、ついじっと見つめてしまう。この、薄い皮膚の下に、血の通う目玉は無いのだ。
その時、ギンコの瞼が微かに震え、彼は化野の見ている視線の先で右目だけを開き、身を起こす。
「お…っおはよう」
「…あぁ。何時だ?」
「え、と、まだ五時を少し過ぎたところだね。もう少し寝ておく?」
「いや」
言葉少なにやりとりしていて、つい、ほろりと言った。
「…目、開けてても、じろじろ見たりしないよ…」
「こうして、閉じているのが癖になってるんだ。それに、義眼は動かないからな。うっかり見えた時なんか、気味のいいもんじゃないぜ」
「そんな」
薄手のシュラフを手早く片付けていくギンコを、真似るようにして化野も同じことをする。狭い場所を譲り合いながらの最中、それ以上を言うことは出来なかった。そしてギンコはわずかに乱れていた髪を軽く撫でつけると、手拭いひとつと、カメラを持って外へと出ていく。
「川で顔洗いついでに、少し撮ってくる。腹が減ってたら、適当に何かつまんでてくれ。食べものはそこに。そういや、昨日とったウワバミソウがあるから、朝はそれと…。そうだな、戻ってから俺がなんか適当に食えるようにする」
ばさり、とテント入り口が塞がって、一人残された化野は目をぱちくりと瞬いた。ウワバミソウ、って、何。いや、待て。読んだ気がする。持ってきた図鑑に確か。ギンコが指さしたあたりへ這って近付くと、ビニール袋にかなりの量、青々とした草が詰めてあった。
「へぇ、これが」
持参の図鑑を捲ると、ウワバミソウもちゃんと載っていて、親切に調理法までざっと書いてある。図鑑とその山菜を見比べた化野は、ギンコを待ちながら朝食を作ってみることに決めた。
「この山菜はミズナとかミズとも呼ぶのか。煮てよし、蒸してよし、炒めてよし。ふむふむ」
思案しているうちに、外は随分明るくなった。テントから這い出し、まずは顔を洗ってから見回すと、昨日の竈の傍には、何やら見たことのある金属製の入れ物。楕円を潰した形のそれの蓋を開けると、既に研がれた米と水が入っていた。昨日の内から用意してあったなんて、ちっとも知らなかった。
化野は火を起こす。そして、テレビで見た知識を脳内に総動員。火加減を気にしながら飯盒を火の上に固定し、初めは強火、だんだん弱く。火力調整は自信が無いながらも、湿気た薪を少し火の上に乗せるなどして工夫した。
そして合間合間に、山菜を洗ったり刻んだり。栄養が足りないかもと首を傾げ、ハムを見つけて薄切りしたり。そうしているうち、飯盒の中で飯が焚けてきたらしい。いい匂いがしてきた。少し焦げた匂いもして、慌てて火からおろす。焦れるような気持ちで、蒸らし時間を待って、それから手拭い越しに外蓋だけを外す。
その外蓋で今度は炒め物だ。フライパンのように大きくはないので難しいが、ナイフでざく切りにしたウワバミソウとシーチキンを、一本だけ見つけたスプーンを使い、シーチキン缶の油で、さっと炒め。
その途中で、ギンコが戻ってきた。何やら随分びっくりしたような顔をして、目を丸くしている。
「いい匂いがしてると思ったら」
「ごめん、勝手に。でも、飯盒でご飯を炊くのだって初めてなんだよ。匂いからしてちょっと焦げたかもっ、あとこっちは、ツナと山菜を炒めただけなんだけど…」
ごめん、と言いながら、少々胸を張り気味に見えたのは、それでもなんとかできたことが嬉しいのか。それとも単純に、作業が楽しかったからか。
「いや、飯盒の飯は、ちょっと焦げたぐらいの方が美味いから」
ギンコはテントの中にカメラを置き、手を洗うと、さっそく紙皿を用意して、飯盒の飯を二人分取り分けた。炒めたばかりの炒め物を、飯の上に豪快にのせ、空いた飯盒の蓋で、今度はハムを焼き始める。じゅうじゅうと焼き音を立てているそれを裏返し、頃合いを見て二枚ずつ紙皿の脇に取る。
簡単だが、スタミナのありそうな朝食の出来上がりだった。
「ど、どう、かな?」
自分が食べる前に心配そうに聞いてくる化野へスプーンを譲ると、ギンコは手掴みで器用に、飯と山菜炒めをまとめて頬張って、咀嚼しつつ親指を無言で立てた。
「うわ、よかったぁ…っ」
むぐむぐと忙しなく口を動かし、そうしながら次の一口。三分の二ほどを食べ終えたら、アルミの大きなマグに、ポットからコーヒーを注ぐ。ほんの少しだけ揺らぐ湯気。
「冷めてるけどな。コーヒー」
「んう、うん」
今度は化野が自分の分の飯を咀嚼中だ。そんな彼を、ギンコが静かな眼差しで、ただ見ている。
「ん、なに。どうしたの?」
「…何でもない。飯も炒め物もけっこう残るな。ハムも少し残る」
「あー、本当だ」
「混ぜて握り飯にしちまおう」
言うなりギンコは手を伸べて、飯盒の中で山菜と飯を混ぜ、ラップをのせた手で握り始めた。それも器用にやるのかと思ったら、酷く不格好な、丸とも四角とも言えない形。強いて言えば石ころ型か。でもそう思った化野作のおにぎりも、似たり寄ったりの歪な形で、思わず笑いが込み上げる。
一方ギンコは薄切りの焼いたハムも、刻んでおにぎりの具にしてしまう適当さだった。野外で過ごすのなら、こういう大雑把ができることも、きっと才能のひとつなのだろう。食後のコーヒーは、たったひとつのアルミマグで、交互に飲んで。
「さっき、そこの浜で」
ふと思い出した顔をして、ギンコはスマホを使って動画で撮った、番の野鳥を見せてくれ、遠くて小さくしか見えないその鳥の姿を、望遠レンズ装着のカメラで撮ったものまで見せてくれた。
「セグロセキレイ…っ! 可愛い。夫婦仲のいい鳥なんだねぇ」
「野鳥なら、多分まだいろいろ見られる。昨日話していた通りに、これから渓谷の方を目指そう。おかげでいい朝飯が喰えたしな。喰って少し休んだら、此処は撤収する」
キャンプ一日目の、順調なスタートだった。
海を右に見ながら、二人は徐々に海辺を離れた。いったんはレールからも遠ざかる。ギンコは古い地図と地形図を見ながら、常に化野の前を歩いた。
「大丈夫じゃない時は、言いな」
小一時間歩いた頃、ギンコがそう言った。化野は既に額に汗を滲ませ、言葉も少ない。かなり頑固に言い張って、ギンコの荷を少しは自分の荷物に入れたのだ。とは言っても、後でまた此処にくるから、と、荷の半分はさっきの場所に置いてきているのだが。
「手を」
「う…っ、うん」
前を行くギンコが、化野が追いついてくるのを待って、彼へと手を差し出してくれる。気負いのないその仕草に、かえってドキドキしてしまいながら、その手に手を重ねた。
「こっちが転びそうなときは、すぐ手を離せよ?」
海から離れるごとに、生えている草の葉は徐々に広くなり、周囲を木々に囲まれる。そんな中をギンコは、使い込まれたトレッキングシューズで、危なげなく進んでいく。
不規則に岩が突き出す緩い傾斜を暫し行き、今度は太い根が剥き出しの場所を登る。左右から草が被さりつつも、どこか細い道に見える個所を、人の通ったあとだと思っていたら、それは猪や鹿の通り道だと言われた。化野はうまく言葉が出ない。やはり少しは怖い。
「ま、迷子になったり、しない?」
「遭難、てことかい?」
聞き返されて恥ずかしくなった。言葉選びの余裕がない。それにしたって、迷子だなんて、子供じゃないんだから。
「そ、そう。その、遭難」
「一応コンパスはあるし、時計もあるから、太陽の位置と時間と、地形図と地図とで位置は掴める。……見せるか?」
不安なのが、伝わりすぎるほど伝わってしまったらしい。ギンコは化野の手を離し、尻ポケットから小さくたたんだ地図を二種類だし、胸のポケットからは方位磁針を取り出した。アナログの時計で時刻を確かめ、ちらりと太陽を見る。
「八時半。太陽は向こうだからあっちが北。だから地図はこう見て、あそこに見える尖った山が、これってことになるな。ここから左右を見て、地形を確認すると、今居る場所はだいたいここらへん。…少しは安心したか?」
「ご、ごめん。信用してないわけじゃないんだけど」
しゃがんでいたのを立ち上がり様、ギンコは化野の頭を軽く撫でた。こつりと額同士がぶつかる。
「そんな怖気るなよ。…それなり守る自信がなけりゃ、こんなところに連れてこない」
「…っっ」
一瞬で、化野の顔が真っ赤になった。視線を外す前の、ギンコのその、甘いような目の奥の表情。
「ほら、立って。案外早く進めてるから、一度休憩を取ったとしても、あと二時間はかからない筈だ」
足を止めたついでに水分を補給し、また歩き出す。正直、化野が思っていたよりもずっとハードな行程だったが、想像を遥かに超えて楽しいのだ。こんなに楽しくていいのだろうかとさえ思う。ギンコと一緒に居る、ということが、彼は心底嬉しい。
そして彼らは、予定通りに目的の渓谷に辿り着く。深い深い谷の底に、細いけれども荒い渓流。左右の岩肌には、しがみ付くようにして草や木が生え、濃い緑が滴るように、その岩肌の上に零れていた。其処此処から鳥の声がして、川へと傾く倒木の枝の上に、今まさに美しい一羽の野鳥が。
「カ…っ! んぐっっ」
「しっ、逃げちまう…っ」
口を塞がれて、それでも小声で言ってしまう化野の、興奮が凄かった。
「……カワセミ…っ、カワセミだろう、あれ。うわ、き、綺麗なんだねぇ…っ。もっと近くで見たいけど、む、無理だよねぇ…」
「近付けるはずないけど、見せてやるよ」
ギンコは音を殆ど立てずに、腰のバッグから器用にカメラを取り出す。ウエストバッグにカメラを入れているのは、こういう理由なのかと化野は今更のように思った。そうして望遠のカメラを構えて、化野にファインダーを覗くように言う。
腕を三脚代わりに岩に上についているだけだから、二人ぴったりと体を付けて、交代で見つめたそのカワセミの、美しいことと言ったら。
「………」
「…きれいで…言葉を、失くすよな…?」
「………うん」
「…あの鳥だけじゃなくてさ。この世、っていうのは本当に」
美しい、んだ。
最後まで声にしない言葉はきっと、誰かがギンコに教えた言葉なのだろう。傍らで共にそれを感じて、確信できる。どうしようもない嫉妬と、溢れるような感謝と、それを聞けた喜びとで、化野は泣きたいように、思った。
ずっとそうやって、傍で、教えて、見守って、いきたかっただろうに。
「…あ…っ…」
カワセミは、川辺で餌をとるでもなく、あっという間に飛び去って行ってしまった。
続
あーーーのーーーーっ。もう7話目なんだから、もうちょっとサクサクとお話進めて、って思うのにっ、思っていたのにっ、進みませんでした。あぁぁ、なんか今回、先生が朝ご飯作るの書いてて楽しくってね。私が楽しくても読む方は楽しいとは限らな…。少しは縮めようとしたんですけど、そんな縮まないっていう…ね。
カワセミ、一度は直接見てみたい鳥さんナンバーワンかもしれない。(や、ダチョウとかも見たいけど) カワセミは自然の中に居るのを是非見たいんですっ。私って、けっこう、自分がしたい体験を作中で二人にさせるの好きな!
そして話は進まな…。いや、ほんの少しずつは進んでいるんですよぉぉ、これでもぉぉぉぉ。次回あたりでキャンプ辺は終わりへ向かう(終わる、と言い切れないこの感じ)るのかな、と、思っておりますっっっ。
ではではーーっ。
2019.05.19