Far far away 6
実は化野は、キャンプの経験などほとんどない。中学だったかの頃に、学校の行事でやったことがあったが、多分それ以来だ。火を起こしたりなんだり出来るのは、そういったテレビの番組が好きだからで、本当に見様見真似。それでもうまくやれるのは、手先が器用だからなのだろう。
ギンコはそんな彼とは違う。ひとりで魚を獲ったこと、石組みの竈を作ったことや火の扱い、野に宿る際の荷物の扱いから何から、本当に手慣れて見える。
小ぶりのカンテラに火を入れて、その火に顔を寄せて煙草に火をつけ、それからカンテラを、テントを張った紐の途中に作った結び目に、ひょいと引っ掛ける仕草など、様になっていて思わず化野は見惚れてしまった。
「なんだ?」
「…えっ、いや、その、か、カッコいいなぁ、って思って」
「惚れ直す、かい?」
笑って軽口を叩くギンコ。夜よりはまだ薄明るい空の下、テントの外に並んで座って、微かな潮風と海の音を感じている二人。いたずらっぽいような一瞬の顔が、すぐに薄闇の下に隠れて、ドキドキした。
「こ、これ以上好きになっりしたら、きっと、仕事にまで手につかなくなって、大変だよ」
「そんなことも、ないだろ?」
ギンコは煙草を一本吸い終えると、荷物の中から件の本を取り出す。丁寧に、二重に袋に入れてあったそれを出して、立てた片膝の上で押さえて開いた。彼が開いて見ているページには、モノクロの写真が載っている。一ページに二枚、その隣のページにも二枚。何枚か捲っても写真、写真。
まだ化野の見ていないページだ。見たいと思ったが、この薄暗がりの中一緒に覗き込もうとしたら、それはぴったりと体を触れ合わせてのことになる。したいけれど出来なくて、だから化野は自分のリュックの中から、持ってきた本を取り出した。
野鳥の図鑑と、野草の図鑑。そして、熱心に見ているうちに、此処に来るまでに幾つか見た花を見つけた。ハマヒルガオ、カワラナデシコ、ハマダイコン、カンゾウ。必ずしも浜辺の花ではないが、潮風にも負けない強さがあって、海辺にも見られる花なのだと。
残念ながら鳥は見ていないが、ぱらぱらと捲っている横から、ひょいと指が差し入れられて、尾の長い小さな鳥の写真を指差した。
「こいつはそこら辺の浜で見たな。決まって番で来てる」
「へぇ。セグロセキレイ? 明日見られるかなぁ?」
「運が良ければな。あと」
ギンコは化野から野鳥図鑑を受け取って捲り、ニ、三を次々と指差して見せる。
「こいつとか、こいつは見られるかもな。海辺をもう少し行ったあと、渓谷の方へ進むつもりだ。今日よりもかなりきつい行程になるから、早めに横になっといた方がいいぜ」
「え、このトラツグミと、オオルリと、カワセミまでいるの? うわ、綺麗な羽の色だ。見たいなぁ」
化野は興奮して、ギンコの言葉の後半をロクに聞いていない。怒るでもなく、けれど先に立ち上がって、テントの入り口を捲って留めて、ギンコは先に荷の中の幾つかを中へと運び入れた。食べ物類とカメラの色々、湿らせたくない本も。他はテントの外の、二重の覆いの下に入れて、地面に刺したピンに簡単に固定する。
化野は焦って彼を手伝って、それからテントの中にもそもそと入って行くと、二畳程度の奥行きと、それにいくらか足りない幅のスペースがあって、中はとても快適そうだった。
「頭はこっち、カンテラはこのフックに掛ける。手の届くとこに飲み物ぐらいは置いて、まだ眠くなけりゃ、図鑑でもなんでも見てていい。眠くなったら寝ろ」
枕は今まで自分が着ていた上着を、内側を外にして丸めたので代用するらしい。ギンコがそうしたのを見て真似て、化野も彼の隣に横になる。既に入り口も閉じてしまったから、狭い空間の中をたった二人で共有していることを、化野はどうしたって意識した。
どうしよう、ドキドキしてる。
恥ずかしいなぁ。
中学生とかみたいだな、俺。
することだって、もう、
何回かしているっていうのに、
そういうこともまだの、
ほんとうにウブな子みたいじゃないか。
仰向けに横になって、ギンコの方を見れずにいたら、化野とは逆にうつ伏せになったギンコが、丸めた上着を胸の下に抱き込んで肘を立て、身脇に置いていたカメラを引き寄せた。
「…見るかい…?」
何の気なし、と言った態で囁かれた言葉に、化野はガバリと起き上がり、じたばたと暴れるようにして自分もうつ伏せになった。
「いっ、いいのっ?」
「いいさ。落ち着きなよ。俺が見るついでだけどな」
「う、うん…っ」
外はもう随分暗いから、カンテラの橙の灯りだけが光源だ。カメラの小さなウィンドウに、一枚ずつ、映し出される切り取られた風景。化野も共に居たからこそわかる。それは「過去を内在した現在」だった。
波打ち際と砂浜、極似た曲線で草の原が続いている。その草の原のさらに向こうは、そう大きくはない立木が並んで陽の光を浴びている。ただの草の原に見える、その幅の広くない空間は、草の下になり見えなくとも、そこにずっと続くレールを二本、横たわらせているのだ。
帯のように続く草の波の中に、唐突にぽっかりと浮かぶ、細長い灰色の長方形は、元の駅のホーム。そのホームに寄り添うように崩れているのは、駅舎だった残骸。よくよく見れば、付近にぽつぽつと建物が見えて、それは置き捨てられて崩れるのを待つばかりの、学校や、役所などの建物だ。
遠景ばかりではなく「個」をとったものもあった。レールの切り替え部分や、切り替えをする錆びた装置。黄色と黒が色褪せた踏切表示も。一面錆色で、殆ど読めなくなった駅名のプレートが、折れた柱の途中に引っかかっていて、化野はそれを指さしてこう聞いた。
「あ、これ、本に書いてあった『ナガレオオハシ』駅……の……」
いや、聞きながらギンコの顔を覗き込んだ時に、化野の声は止まってしまったのだ。言い止める気などなかった。でも…。心臓が胸の奥で跳ねて、どうしても言葉が途切れてしまったのだ。「それ」を見たから。
ギンコはカメラではなく、化野を見ていた。三十センチ程度しか離れない、本当の間近からだ。ギンコは右目を開け、左目をひたりと閉じていた。テントの中、風も何もない場所だ。何故? と、どうしても思った。どうして? と、思いながら化野はギンコのその瞼から、視線を逸らせなくなっていた。
「…ギ……」
閉じている目はそのままに、開いていた方をゆっくり閉じて、もう一度開けて、ギンコは言ったのだ。
「その目は? って、あんた、ずっと聞かないな…」
「…ギ、ギンコ…く…」
「気付いてたろ? おかしい、って。これだけずっと一緒に居れば、視線を避けるのも難しいし、無理だからな。今日会った時から、ずっと、隠すのはやめてた」
ギンコはカメラを置いて、その片手で前髪を掻き上げる。そうしてずっと閉じていた方の瞼を、少しだけ開けた。それだけで化野には分かった。専門じゃなくとも医療従事者だ。知識はあるし、見たことだって何回もある。
それに、彼の言う通り本当は気付いていた。でも気付かないふりをずっとしてた。だから、ポツリ、と言ったんだ。
「……義眼、なの…?」
「あぁ…」
「いつ、から?」
「記憶にないな。物心ついた頃から、片方の目玉が無くて。俺には小さなガキの頃の記憶が無いから、どうしてどういう理由でなのか知らない。生れ付きなのか、事故か何かでなのか」
記憶がないなんて、そんな話をされるなんて、思いもよらない。どうして、も、なんで、も、そのたった一言で封じる言葉だ。ギンコはずっと、片方きりの目で写真を撮っていたのだ。一つしかない目で、化野を見ていた。残りの片方の目が、酷い程大切に思えて、思わず化野は手を伸べる。
伸べられた化野の手が、指が、ギンコの頬に触れて、その右目を労わるように、半分伏せている瞼を撫でた。
「無理を、しないで…」
「何が」
「だっ、て、片方しかないんだろう? 何かあったらと、思うよ。片方しかないのに、あんな何時間もずっとカメラのファインダーを覗いてて、しかもこんな潮風の吹くところで。それに、こんな薄暗いところで物を見てるのだって、目に良くない…よ…」
そんな風に言えば、ギンコは嘲るように少し笑ったのだ。
「あんたは、片脚を失くした患者に、残る一方の脚で歩くのをとんでもないって言うのか? 片脚でなら歩けるのに、それを禁じるのかい?」
言われて、化野はショックを受ける。医者として、人として、あまりに愚かなことを言ったと、心底恥じた。
「………言わない…」
言えるはずがない。だって、それは「生きるな」というのに等しい。恥じて、恥じて、そして化野は唐突に涙を零した。何のための涙か分からない。何故泣くのかも分からないが、泣けてしまって仕方なかった。仰向けに寝転がって、両手で顔を覆っていたら、その手を両方剥がされて、ギンコに唇を吸われた。
彼は化野の口を吸うだけでなく、閉じた右の瞼で、そして左の瞼でも、静かに化野の頬に触れ、彼の瞼に触れたのだ。ギンコは化野の胸の上に頭を乗せて、暫しじっとしていた。化野はそんな彼の髪に触れて、小さな子の頭を撫でるように、撫でて、撫でて、涙がやっと止まった頃、言った。
「写真を撮ることを、君に教えた人に、お礼を言いたかったな…」
びくり、と、その時、ギンコの体が震えた。震えを一瞬で止めて、ギンコは吐息のような微かな声で聞いた。
「…なんで…?」
「君のことを、本当に想って、そうしたんだと思うからだよ。君がいろんなことを、本当に上手にやれるのも、いろんなことを知っているのも、その人に教わったからなんだろう? なくとなく分る…」
でもきっと、
その人は、もう、
…居ない。
残酷なことを言っただろうか。酷いことだったろうか。もう言ってしまったことを、無かったことには出来ないけれど、二度と言わない方がいいことだろうか。
イサザは多分ドラ爺に、知らないままでいてやってくれ、と言われた。だから知らないふりをしなければいけなかったのかもしれない。もうきっと「気付いた」ことも、ギンコに伝わってしまっただろうけれど。
長く黙っていたあとで、ギンコは唐突にこう言った。
「仰向けやめて、体ごとでこっち向いてくれ」
「…こう?」
「あぁ」
言われた通りにすると、ギンコは猫のように背中を丸めて化野と向かい合い、彼の胸に額を押し付けるようにしてきて、そのまま眠ってしまったのだ。化野はギンコの願い通りにしたままで、自身も黙って目を閉じた。そして、彼に聞こえる自分の鼓動が、なるべく静かで、でも力強くあるように、と、そう願いながら、眠った。
波の音と、風の音が、ずっと彼らを包んで響いていた。
続
ねぇ、珍しく、書きたいと思っていた予定通りにお話が書けた。すごーーーいっ(オイ)。でもなんか落とし穴がありそうな気がしてドキドキっ。でもすぐアップしちゃうー(エエー)。これでも昨日の夜から、今までの五話分を読みながら、熟考したんだよ? こういう部分をクリアしつつ書きましょう的なメモもしました。偉いぞ私っ。って、自賛してしまいます。
化野が言った言葉を聞いて、ギンコもまた、気付いていたことを再確認したのかなって思う。愛されていたんだよ、あなたは。愛されているんだよ、今も。
2019.04.28
