Far far away  5
  




 気付いたら、ギンコの姿は見渡せる視野になかった。風が少し出て、肌に感じないほど細かな波しぶきが、本に掛かってしまう気がして、いつからか海の方へは背を向けていた化野だった。何度かはギンコのことを気にして、立ち上がって見回したりもしながら、いつしか本に没頭していた。

 元々本を読むのは好きだから、一息に半分ほどはもう読んだだろうか。はたと我に返り振り向いて見た風景に、陽は随分傾いて、淡い淡い青色の空には、同じくらい淡い紅色が滲んで見える。美しい。思わず見入った。海辺に面した街で育ったから、懐かしくもあり、嬉しくもあり。

「あぁ、なんて…」

 と、言い掛けた化野の腹が、唐突に、ぐぅ、となった。そういえば昼も食べていないのではなかったか。え、それじゃ彼も空腹なんじゃ、と焦って立ち上がったその足元に、ビニールシートの畳まれたものと、その上に乗せられたコンビニのおにぎり。パウチの野菜ジュースまでも。

 鳥渡里では菓子パンだったな、と、くすり笑いが零れた。パウチの傍には小さなビニール袋が、小石の重しを乗せられて置いてあり、その中に透けて見えるのは、食べ終えたおにぎりの包みではなかろうか。

「彼は、何処に…?」

 立ち上がり数歩だけ動いて、もっとよくあたりを見回す。でもギンコの姿はやはり見当たらない。移動して探していいのかどうか迷った。こんなろくに目印も無いところで、もしもはぐれたら、と不安が浮かぶ。スマホは当然のように圏外だ。

 どうしようかと少し逡巡し、やがて化野は、すう、と息を吸い込んだ。そして。

「ギンコ君っ、どこに居るんだ!」

 少しばかり大きめの声を出し、彼を呼んだ。波の音ぐらいしかしないから、きっと声が届いたのだろう。ほんの数秒の間の後に、草の原の遠くにギンコの姿が見えてくる。

「ここだ」

 かなり近付いてきてから、ギンコはそう言って、何も持たないその片手をあげて見せた。

「ご、ごめん。撮影の邪魔をしたかい? 気付いたら居なくて、その…お腹も、空いたし」

 言いながら恥ずかしくなってきて、化野は下を向いた。腹が減ったのなら用意されているおにぎりを有難く頂けばいい、丁寧にジュースまで添えられているというのに、それでも仕事中のギンコを呼ぶなんて、まるで子供だ。

「いや。ちょうど呼びに来ようとしてたところだった。向こうで魚を焼くから、来い」
「…えっ、魚? 釣るのっ?」
「釣ったわけじゃないが、小川に簡単な罠を作っておいて獲った」
「ええっ?」

 びっくりして、気恥ずかしいような申し訳ない気持ちがいくらか吹き飛んだ。山でも、海や川でも、ギンコはなんでも器用にやってしまうんじゃないだろうか。荷物を持って移動すると、既にテントまで張ってあって、その横には石を組んで作った竈らしいものさえも。

 そして、平らな石の上に並んでいるのは、獲れたばかりの新鮮な川魚四匹である。

「ごめん。全部やらせてしまって。声をかけてくれれぱ」

 一度は吹き飛んだ申し訳なさが、倍にもなって戻ってきて謝れば、ギンコはそんな化野の言葉など聞こえて居ない風に、彼へとライターを放った。

「火、頼む。焚きつけはそこらへんにある枯れた草とか、あとこの小さい流木とか、そんなので」
「あっ、うん」

 よかった。自分にも出来ることがある、と化野は心底喜んだ。ナイフを借りて枯草を切り取り積み上げ、その上には乾いた流木を小さいものから、だんだんと太いものを重ねていき、最後に下から火をつけた。

 その間、ギンコは小枝の先を尖らせて魚の口から尾の方へと刺し、化野がうまく点けた竈の火の傍に刺していく。

「味付けはないから、少し物足りないかもしれないけどな」
「獲り立てなんだろう。美味しいに決まってるよ」

 化野は心の底からわくわくと、魚が焼けていく様子を見つめている。ぱち、ぱち、と火が爆ぜる音も心地いい。火から少し離れた場所に立ったまま、ギンコは化野から返されたばかりのさっきの本をぱらぱらと捲っている。

「半分、ぐらい読んだのか? あんた、ずっと本に没頭していて、ちらともこっちを見なかった」

 その声に滲む、どこか拗ねたような響きに気付いてしまって、寧ろ化野が狼狽した。

「え…っ、や、そんな。君の姿が見えないかと何度も見回したんだよ。写真撮ってるとこ、見られるなら見たかったしっ。ほ、本当だよ?」
「面白かったかい?」

 でもギンコは平坦な声に戻って、本を丁寧に袋に入れ、それをまた丁寧に荷物へとしまっている。それから彼は魚を刺してある枝をひとつずつ回していくのだ。均等に焼けるようにと、火加減も少し調整し、そうしながら静かに投げるように話し掛ける。

「物語やエッセイじゃないからな。淡々とした記録書で、数字の入った表や箇条書が多いし、正直、飽きるかと思ってた」
「そう、だね。だけど、書いた人は沿線に住んでいた人なんじゃないかな。確かに文章は淡々としていたけど、想いを感じる、ような気がして、読みながら当時の人々の生活が見えてきて、こう…耳の後ろをこっちからこっちへ、古い電車の音が…」

 ごーーーーー

 がたんがたん 
 ごとんごとん
   
 ととんととん

「焼けた。ほら」
「あ、ありがとう」

 魚の刺さった枝をギンコが化野へと差し出す。化野はそれを受け取って、そのまま身へと噛り付いた。焼き立ても焼き立て、熱いに決まっているのに。案の定唇をやけどして焦って、ギンコに水筒を手渡される。

「わ、美味しいよ、凄…」
「聞こえたかい」
「え?」
「汽車の音。遠い過去を走っていた、その音が」
「うん、聞こえたよ」

 さっきから会話が成り立っていない気がして。けれどそれがちっとも居心地悪くなくて、化野は魚を咀嚼しながら頷いた。

「聞こえた。君にも聞こえたんだね」

 返事をせず、ギンコは魚を二尾食べ、水筒の水を飲み。まだ二尾目を食べている化野をそのままに、カメラを手に取った。置いていかれるのかと思って、化野は途端に焦り、魚を大きく齧る。

「そう焦るな」
「でもっ、今度こそ君が写真撮ってるところを」
「別に面白くないだろ?」
「そんなことないよ。待って、すぐ、すぐ食べ終える」
「いいから、もっと味わえ。…まだ此処に、居るから」
「ギン…」

 まだ
 此処に
 居るから

 その声が変に沁みて聞こえて、化野はギンコの顔を見た。風が一迅、急に強く吹いて、彼の髪を吹き乱し、静かに火を見ている目と、ひたりと閉じたままの瞼が見えた。風を避けるために閉じたのだろうか。心臓が騒ぐ。何かが気になって。

 自分を見ている化野の前で、ギンコは炎に砂をかけ、丁寧にその火を消した。あたりは急に暗くなる。けれども夜空の色は、火を消したことで明るさが戻ったようだった。まだ色の淡い夜空に、明るい星がいくつかだけ、見えた。

「何を、撮るの?」

 もうこんなに暗いのに。

 興味よりも、自分の掛けた言葉に返事が欲しいだけで聞いた。ギンコは何か答えたが、向こうを向いているせいか、草を分ける音のせいか、よく聞こえなかった。でも、

 過去だ。

 と言った気がした。どういう意味なのかを聞き返せなかったけれど。もう、彼の切るシャッター音が聞こえ始めていた。 

 ギンコは写真を撮る。三脚を立て、或いは草や砂の上に膝をついて、時には腹ばいになったりしながら。撮っているのは何もない場所に思える。見えるのは草の原や海岸線や、空や、立木。時々移動するギンコに、黙ってついて歩いて、化野はどこまでものびている線路以外に、いくつかの「過去」を見た。

 ポイントを切り替えるのだろう機械の、ぼろぼろに錆びたものと、それが固定されていただろう折れた鉄の柱。あと遠くに見える小さなホームらしきもの。井戸や、朽ちた古い小屋の後。もう土に還ろうとしている荷車。その錆びた鉄の枠。

 ギンコから借りて読んだあの本のおかげで、そのひとつひとつに人の息吹を感じた。淡々としたあの記録書のどこにそんなと思うほど、あそこには過去の時間と、過去の人々の生活が現れていた。

 時代背景と乗客数の推移、貨物車両積み荷の変化、沿線に出来たら学校や公共施設。やがてその施設が閉鎖され消えて、また乗客や積み荷が動く。

 客と荷が増えれば、利益が生まれ、利益が生まれれば人が増え、子供も増え。通りに並ぶ人家、田畑。商店や、集会所や、学校。ざわざわと人の声までする気がして。

 あぁ、此処はどこだった? 
 今はいつだった。
 俺は小さな町の診療所に、
 医者として呼ばれたのだったか?

 
 カシャ。

 
 耳の傍で音がして、化野はびくりと震えた。間近にギンコの顔が見えて、その顔はあからさまに拗ねていて、言われる前につい詫びた。

「あ、み、見てなかった、かも。ごめ…ん…ッ」

 最後の言葉の最後の一音が、キスに飲まれた。びっくりして飛びのいて、今度は踵でレールに躓き、ひっくり返りそうになる。両腕で支えられ、気を付けな、とギンコに言われてしまった。

「あの本を読ませたのは俺だし、いいさ。さすがに暗くなったからもう今日は終わりだ。テントに戻る」
「う、うん」

 キスは一瞬だけれど深かった。先を歩いて行くギンコの背中を見ながら、化野はつい思う。

 する、のかな。テントで…。

 そんなことを考えていると、また転びそうだと思った。だから頭を左右に振って、ギンコが片手に下げているカメラを眺めていた。どんな写真を撮ったんだろう。見せてもらえたら、嬉しい。









 中々進まないファーファラウェイでございます。もう五話なんだ…と驚いていた筆者です。そして、何の憂いも無い筈なのに、時々化野の中に過る名前の無い「怖さ」のようなもの。ギンコは目の前にいるのに、手を伸ばせば届くのに…。もしかしたらそういう不安を、ギンコも昔、感じていたのかもしれません。

 進んでないように見えるほど進展してませんが、それでも時間はだんだんとその日へと。難しいシリーズですが、ただただ頑張ります(とは言え相変わらずプロットもどきは裏切られ続けていますっ(汗)。頑張れワタシっ。

 読んで下さりありがとうございますっっ。


2019.04.13