Far far away 4
「……ッふーーーーーーーーーっう…っ」
大袈裟なぐらい長くて大きな溜息をひとつ。
ドラ爺はいつもの作業机から、数時間ぶりに顔を上げた。あまりにもずっと同じ姿勢でいたものだから、肩も首も背中も二の腕も、腰までも固まって、ぎしぎし言う音が聞こえそうなぐらいだ。
彼は右手ではまだそいつを掴み。左手に持っていたドライバーをころんと机に転がすと、開いたその手で目と目の間を揉んだ。
「やれまぁ、こんな爺さんに、まだこんな面倒な仕事を寄越すヤツがいるたぁ、よっ。ありがたいが、もうちぃっとだけでも、大事にしてやれねぇもんかな、って」
そう言って、やっと右手をその、古くて傷だらけのカメラから離す。酷いありさまだった。あらゆる隙間に砂と埃が噛んで、レンズもいろんな角度から傷が入り、効かないボタンも幾つか。よくまぁこんなになるまで使ったもんだと、感心しつつも呆れるし苛立つ。
カメラを大事に出来ねぇカメラマン…。
そういうやつは、駄目だ。
本当は大切に思っている筈なのに、
雑に扱っているのなら余計に危ない。
撮ったデータさえ無事ならもう、なんて、
そう思っているとしたら、そいつは…。
自分の命すら、
きっと軽く放り出す。
実際そいつは今、何処にいるかって言ったら…。ドラ爺は目を揉んでいた指を離して、少しは楽になったその目で、目の前のコルクボードに貼ってあるメモを見やる。焦点がゆっくりあって、読み取れたそれは、あまり聞いたことのない響きの、病院名のメモだった。
響きになじみが無いのは、日本の地名じゃあないからだ。
「自分はそこから帰ってこれもしねぇくせに、カメラだけこっちへ寄越して、治して送ってくれ、とか、よ。嫌なこった。御免こうむる。やってらんねぇ。そんな重てぇ仕事。俺は引き受けねぇよ」
もし万が一、と、どうしても思う。カメラはきちっと、治すだけしてやる。でも、自分の手元に欲しけりゃ取りに来い。生きてるうちに、自分の居場所へ戻って来い。例え全然知らないやつでも、そう思うし、そのままの返事をしたのだ。
だから、ドラ爺は多少無理をしてでも、今手元にあるカメラを治す。随分古い型だ。部品が足りない。もう製造していない。なら似たのを探して加工してでも、絶対治す。使えるようにしてやる。ドラ爺と呼ばれていた、その意地にかけてでも。
「…おぉーーーーー」
甘いコーヒーでも飲もうかと、立ち上がろうとしてよろけた。急に動いたせいで強い眩暈が襲ったのだ。そのまま椅子ごと転がったが、カメラを持ったままじゃなくてよかった、と、そう思った。
「いててて。笑ってるかぁ、おい、スグロ」
今はもう居ない旧友の名を、ぽろっと呟いて、転がったまま宙を睨む。誰のせいでこんな気持ちになってると思ってるんだ、生きて戻らなかったお前のせいじゃねぇか、最低の、最高の、今でも唯一の親友よ。
「でもいい顔だなぁ」
俺の頭の中に浮かんでる、お前の笑顔の、その笑い皴も深い頬。だって一番の心配事が無くなったもんな。あぁ、あいつは今、俺の紹介した仕事をやってるよ。楽しみなんだ、あいつがそれで撮ってきた写真を見るのが。お前もそうだろ。なぁ、スグロ。俺に、感謝しまくれよ?
ドラ爺は作業机の上のカメラを、丁寧に箱にしまい、閉じた蓋の上から、ぽん、ぽん、と叩いてそれを棚の空いているところに収めた。作業はまた明日だ。俺もひとのこたぁ言えねえ、ちょっと無理をし過ぎた。一寝入りするとしよう。
ドラ爺はその作業部屋の奥に入って行き、一つきりの窓に分厚いカーテンをひいて、真昼の明かりを少しでも遮ると、寝慣れたベッドに潜り込むのだった。
潮を含む風が、強く弱く、吹いている。
その風には波の音が乗っていて。その音には草の揺れる音も混じっていて。心地いいその音を聞きながら、化野はギンコの閉じた瞼を見ていた。
砂でも入ったのだろうか。と、思う。けれどもそれをどうしてか言葉に出せない。そうこうするうちに、ふっ、とその瞼が開いて、両目がこちらを向いたので、化野は慌てて立ち上がってこう言った。
「旧奥浦渓谷線。って、もしかして奥谷線とか、南奥谷とかの名前の由来なのかな」
「多分そうだろう。この奥浦渓谷線が廃線になってから、もうざっと二十五年にもなるらしい。だからこの通り、ってことだな」
「そう…」
改めて、化野もギンコの見ている方と同じ方角を見た。緩い弧を描く波打ち際。寄り添う帯のような、今は狭い砂浜。さらに殆ど同じ曲線で、背の高い草がびっしりと生えた緑の野。そしてその揺らめく緑の中に、赤く錆びたレールが二本。
「…あれ? 二本、しかないのかな?」
化野はふと不思議に思って、腰をかがめながら、さっき自分が躓いたレールから、少し離れた先の草の下を見ようとした。進んでいって両手を伸ばして、背が高くて細い草を掻き分けたが、さっきの二本以外、レールらしきものはない。
顔を上げて、まわりを見回しても、もう一対のレールがあるようには思えない。だから化野は首を傾げた。線路というのは、普通は上りと下りが並んでいるものだ。勿論例外はあるので、これがおかしいとは言い切れないが。
「ここって、単線だったのかなぁ」
単線というのは、上りと下りの電車が時間を割り振って同じ一つの線路を使うものを言う。
「詳しいな」
「え? いや、そういう呼び方をするらしい、って知ってるだけだけどね。でも…」
化野が足を取られた一対のレールの横に、もう一対が並んでいたように、化野には思えた。平らで、今は鬱蒼と草に覆われた場所の広さが、そう思わせる。
「奥浦渓谷線は、開通した当初は単線だった」
ギンコは化野の方を見ないまま、どことなく独り言のように静かに言った。続く言葉は平坦で、なんの感慨も無いように聞こえて消えていくのだが、きっと、そうではないのだと化野は理由もなく思う。ギンコの言葉は、時折、風の音に紛れそうになりながら、少し長く続いた。
主に物資を運ぶためだけの汽車が走っていて、
本数も一日に数回のみだったから、
それで間に合っていたんだろう。ところどころに、
まだ切り替えポイントの跡が残っているが、
長い年月が経って、殆ど朽ちている。
単線で十一年、その後、沿線に住む人が徐々に増え、
需要があるから複線に直して、廃線まで何十年も。
「でも、今残っているのは、こうしてこの一対だけなんだ」
どうして? と、化野は聞きかけた。でもその言葉が出る前に、ギンコは背負っていたリュックを下ろし、幾つもあるポケットの中から、一冊の本を取り出す。ビニールで簡素なカバーをかけたその本は、随分古い本で、そしてどうやら図書館のものであるらしかった。
「借りものだからな、汚すなよ」
「あ…ありがとう」
受け取る前に自分の手が汚れていないかどうか、化野はよくよく確かめる。そうして両手を差し出して、しっかりとそれを受け取る。立っていて不安定なまま開き、落としたら大変だ、と座る場所を探す化野の横を通り抜けて、ギンコは線路脇の大石の上に、ぽん、と何か大きなビニールの包みを放り出した。
「これに座れ。着替え類の入った袋だが、尻げにしていいから」
「えっ、ありがとう。いいのかな?」
「良くなけりゃわざわざ出さない。予報では雨はない筈だが、風向きと波の高さによっては、波頭のしぶきが此処までくる。風を気にしていてくれ。危ないと思ったら、本をすぐこの袋に」
丁寧に、そういう時にすぐにしまう為の袋を、ギンコは差し出す。ものを大切にする為人を感じて、化野は真っ直ぐに言ったのだ。
「君のそういうところも、好きだなぁ」
言われたギンコは表情も変えず、化野の方にぐっと近付くと、彼の後ろ頭の髪を片手で握って、その耳朶にいきなり口づけた。
「ぎ…っ…」
「煽るなよ。これから仕事だ」
キスの瞬間、ギンコの逆の手は、さっきの本をしっかりと押さえていた。急なことで万が一、化野が放り出さないようにということだろう。
「が、がんば…って…ね」
どきまぎしながら真っ赤な顔で、化野が言う。
「本に飽きたら、たまには俺の方も見ていいぜ?」
どっちが煽っているのだか。化野は暫く、顔の火照りに困ることになる。勧められた本よりも、ギンコの方ばかりを見てしまいそうで、化野はなにやら変に気を引き締め、その古い本を開くのだった。
続
今回少し短いです。少しずつ情報量が増えていくこのシリーズ。後のことを考えろよ、と自分に釘を刺す。刺す。刺す。
さておきドラ爺とスグロがどんな友人通しであったか、過去のことってそういや殆ど書いたことが無かったのですが、ちらちらと細かく綴る今回のようなことで、なんだかわかるような気がしてきませんか。
遠慮がなく、互いに信じ合った仲だったんだろうなぁ。ドラ爺はギンコのことを凄く気にかけているけど、きっと彼も暫く立ち直れなかった一人だろうと思うのです。
そんなこんなで『4』をお届け。続きも頑張るね。
2019.03.10
