Far far away 3
そろそろ23時を回るころだろうか。イサザは自転車を漕いで部屋に帰ってきた。
居酒屋のチラシ配りのバイト最終日、まかないを御馳走してもらい、さらに余った唐揚げやら春巻きやらを渡されて上機嫌。小さく鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けて屈んで、奥に押し込んである缶ビールを手に取り。
自転車とは言え、酔って乗るのは危ないからと、勧められたのを我慢して帰ってきたから、実のところ飲みたくてたまらない。唐揚げを一個だけパックから手掴みし、片手で下げたビールを、コンッ、とテーブルに置いて、その時気付いた。
「あっれ?」
それは、もう冷蔵庫に残っていない筈のお高いプレミビア。いつもの買い置きとは別に、とっておきに、と二缶買ってあったのを、この間、両方ギンコに渡したのだから間違いない。
「なんだよ、あいつぅ…」
言いながらもイサザはそれを安ビールと取り替えずに、ぷしっ、と小気味のいい音を立てて開けた。そうして二口ほど、喉をならして味わう。
「うっま…ッ。ってか、せっかく先生と二人分、ってつもりで渡したのにさぁ」
まだほんの少し温みの残る唐揚げを、ぽいっ、と口に放り込みつつ、イサザは数日前のことを思い出してにやにやした。
「たーだい…っ。え、ええーっ。何これっ」
バイトのあとだったから、それはやっぱり今ぐらいの時間。帰宅し、短い廊下を抜けてドアを開けたら、目の前に見えたのは、そこを通れないほど床置きされた、いろんなもの。
手前から順に、簡易テント、寝袋、上着など衣類、食べ物と水筒と、手袋、小さなランタン、モバイルバッテリー、そして地図に、カメラの収まっているだろうケース。それらの向こうにはギンコが居て、巨大なリュックの口の中へと、ひとつずつ詰め込もうとしているところだった。
「えっと。ギンコ、旅行…? 山とか、そういう?」
蹴らないように足の踏み場を選んで、どうしても通れないところだけ、少し押しやったりしながら、イサザは何とか部屋を横切る。ちゃんと返事など返らないと分かっていつつ、何処へ行くのかと聞き、その諦めと同時に心配事がひとつ。
「あの、さぁ。またお前、なんで、とか、必要ない、とか冷たく言うんだろうけど、遠出する時とかさ、そういうのぐらい先生にはちゃんと伝え」
「遠出って程じゃないし、連れてく」
「……は…?」
あまりに意外なことを言われたものだから、イサザは一瞬呆けた。たった今言われたこと、そのギンコの声を耳の中から外へともういっぺん引っ張り出すような気持で、疑問符をつけ聞き返す。
「え、今、連れてく、って言ったの? 一緒に旅行っ?! で、その荷物ってことはキャンプ?」
「キャンプ」
オウム返しのギンコの声が、どことなく笑って聞こえた。
「とは違う。仕事だ」
家族で行ってバーベキューとか、友人同士で魚釣りの成果を囲んでとか、そういういかにも和気あいあいとした「キャンプ」とは違うと言いたいらしい。
「土日だけな」
それはきっと、化野が仕事休みの、週末だけ一緒に、という意味なのだろう。まさか病院長の化野が、しかもあの真面目な彼が、そういう理由で平日を休むとは思わない。
「そう、なんだぁ」
イサザは、口元が笑うのを堪えられなかった。少しでもごまかすつもりで、話しながらキッチンへ向かい、冷蔵庫で冷えてる安ビールに手を伸ばす。屈んだ拍子に見えたのは、さらにその奥で冷えている、銘柄の違うビール。
にやにやを隠すために背中を向けたのに、もっとニコニコしながら振り向いて。
「なあなあ、これさ、持ってきなよっ。どこいくか知んないけど寒いかもだし、ちょっとアルコール入れれば、テントでもよく眠れるかもだしっ」
たった二缶しかないのを、両方並べてギンコの前に押しやった。要らないって言われそうだったから、またすぐキッチンへ。自分用の簡単夜食を、在り合わせでイサザは作る。
長芋と長ネギはそぎ切り。茹でてだけあった豚バラと。ぽん酢とごま油でさっと混ぜて炒めて、それをそのままあっためたご飯の上に。
「お、わりといけるっ。ギンコもちょっと食べる?」
「いや、いい」
「そぉ?」
カツカツと掻き込んで、熱いお茶を飲んで、使った食器やらを洗って伏せてから振り返ると、もうさっきの大量の色々は、リュックの中へと殆ど消えていた。入るようには見えなかったのに、びっくりする。
「なんか手慣れてるって感じ、だね。そういうの出来るのもカメラの仕事で?」
「別に。…見様見真似だ」
「……ふぅん」
ほんの少しの間があった、ギンコの返事。イサザは頭に浮かんだ言葉を、言葉にしないよう口を閉じていた。
見様見真似って、誰の?
野宿して写真撮ったり、そのためのそういう準備も、手慣れてる風なお前は、俺の知らないお前な気がする。気になるよね。でも、知っちゃいけない。聞いちゃいけないことだよ、イサザ。前にドラ爺が、そう言ったろ。
それでもさ。
それでも前より、お前、
そういうところが。
言い方や眼差しが。
いったい、なんて言ったらいいんだろう。よくわからないけれど。きっと少しギンコは、いい方向へ変わった。
「気を付けていけよっ、そんで気が向いたらさぁ、最近撮ってる写真もそのうち、俺にも、見せてよっ」
むくむくと頭をもたげる嬉しさ、そしてまだ消さない不安とをないまぜにしながら、その日のイサザはギンコより先に眠った。そうして朝になったら、もうギンコは出掛けてしまって居なかった。
「遠慮したんだか、入んなかったんだかしらないけどさー」
ごく、ごく、とまたプレミビアをあおって、イサザは今度は春巻きを齧った。指についた油を舐めつつベッド手前の床に座り、逆の手でテレビのリモコンを弄る。
映ったのは深夜のニュース。なんだか、遠い国の内乱のことを伝えていて、地雷が。砲撃が。被害者数は凡そ、と。やだな、こういうの。って、どうしてなんだろう。って。知らない国のことでも思うから、イサザはチャンネルを他へと換えた。
そしたら今度は、長閑な田舎の風景が写る。ほっとして、またビールを傾けた。
『この町は、東側半分。ちょうどこの川を越えた向こうは、もう人が殆ど住んでいないんですね。田んぼも畑も、何年も何も作っていないから、こうして遠目に見ても、ただの野原みたいに見えています。でも、これから有志で少しずつ手を入れて、町興しをしていこう、と』
田舎道をゆるゆると歩きながら、説明している声と、歩きの速さで流れている風景。イサザは興味を惹かれてテレビに見入った。これから田んぼや畑をまた使えるようにし、朽ちかけた家を再生して、穫れた新鮮な作物は古民家ペンションや、古民家カフェで、と、話している。
「へぇ、いいな、こういうのって」
自然とイサザは鳥渡里のことを思い浮かべた。あそこはまた、複雑な事情がある土地だから、テレビに映るなんてありえないが、こういう番組を見ると、なんだか嬉しい。
「ギンコと先生も見るかなぁ。途中からだけど、録画」
そう思って録画ボタンを押そうとした、その時だ。鞄の中に入れっぱなしのケータイがバイブで震えた。ついで音も鳴り出して、焦ってベッドの上へ放ってあった鞄を引き寄せる。画面表示には「ドラ爺」と。
「えー、何? ギンコにじゃなくて、俺?」
あぁ、もしかしなくてもあいつが電波の無いところに居るから、それで俺のスマホに、かなぁ。そこまで思って出ると、相手からは、もしもし、の前に数秒の沈黙、そしてそのあと一番に、これ、である。
「………おうそれ、その番組、丁度見てたのか? それな、シリーズ構成になっててよ。来週の分、録画しといてくれたら助かる。そんで『旧奥浦渓谷線、他』とかって紙でも貼って、あいつが見そうなとこに置いといてくれ」
見てぇはずだから。などと、ドラ爺は一息に捲し立てる。そこでやっと口を挟む隙間を見つけ、イサザは言った。
「ドラ爺ー。びっくりするだろこんな時間にー。それでなに? ギンコに見せたい番組ってこと? あいつ今、野宿するようなあれこれ持って、どっかに仕事行ってるよ? だから連絡も多分とれないけど」
「知ってる知ってる。その仕事の情報、教えてやったの俺だし、渡りつけてやったのも俺。で、あいつ一か月はろくに帰らねぇかもしんねぇけど、まぁ、ほどほど心配してやってくれ」
挨拶も何もなく、いきなりぶちりと電話は切られた。通話の切れたスマホを思わず眺めて、あまりの不躾さにイサザは吹き出しそうになる。
気付いたら、さっきの番組はもうエンディンクだ。下の帯にスタッフロールが、右から左へと流れていき、最後に次回予告が凝ったロゴの文字で出てきた。けれども、ドラ爺から聞いた路線名を、かすりもしていない。
「まぁ、いいや。旧…おく…奥浦渓谷線、だっけ。今から予約しとこ」
カラのDVDもセットし、番組名と正確な時間をスマホで確認しつつ、ちゃっちゃとリモコンを操作する。
「あ、今日って土曜日だな。なら、今頃一緒に居んのかなぁ。デートを邪魔なんてしないけど、いいなぁ、キャンプ。楽しそうじゃんっ、羨ましー。帰ったら話聞いてやろっ」
唇を尖らせてそんなことを言うと、イサザはビールの残り一口を、勿体なさそうに啜った。
海と空と草しか見えない其処に、潮を含んだ風が、さぁ、と流れていった。
「大丈夫か」
「う、うん、ちょっと、びっくりしたけど」
微かな笑いも含まれないギンコの声、そして差し出される手。鳥渡里では尻を打って、青アザがしばらく消えなかった化野だけれど、今転んで打ったのは両膝と、そして両手のひらだった。痛みは然程ではなく、いったい何に躓いたのかと、彼はいぶかしむ。
つま先に引っかかったのは、随分と堅い感触の何かだった。だから、土の塊や木の根っ子なんかじゃないのは見る前から分かった。なのに、見回しても一見、何もなく。
気になって、だから化野は自分の手のひらで、地面に生えている草を掻き分けたのだ。そこに見えたのは、赤茶色をして真っ直ぐな、鉄の。
「……レー…ル? レールだ、これ」
言いながら、化野は視線を少しずつ、遠くへと伸ばしていった。錆びているし、生えている草のせいで見え隠れしているけれど、それは間違いなく線路だった。彼らがたった今、歩いてきた草の原が、緩い緩い弧を描いて途切れ、そこへ二本の線を引くように、線路は敷かれているのだ。
「旧、奥浦渓谷線、と言うんだ」
まだ地面に膝をついたままで、化野は顔を上げ、ギンコの姿を見た。彼はもう化野の方を向いてはおらず、レールの続く、遠くを見ている。海から通る風が彼の髪を吹き乱し、閉じた左の瞼の上を、白い前髪がさらさらと揺れていた。
続
物凄く久しぶりになってしまいました。ごめんなさーいっっm(- -)m 続きを結構考えていた筈なのに、想定外の長期中断をしたおかげて、思い出すのに中々苦労しましたが。って…いや、まだ思い出せないこともあって…。今すぐは書かないことだけど…。ううっ、頑張る。
(考えていたのは全部、けっこう先のことだった気もする…)
とりあえず、半年もの間化野はすっころんだままだったのに、久々のこの一話でも立ち上がっておりませんで、立とうよ、先生っww そんなこんなで、なんとなくのんびりした再スタートな気がします。いつも長いのでまた長いような予感もしつつ、楽しんで書きたいと思いますので、また是非よろしくっっですっ。
線路の残ったままの廃線、見てみたいな。近くにないかな…とか思う惑でした。
2019.02.19
