Far far away  2  





「その日は仕事だ」

 ギンコがそう言ったので、次の"デート"の約束を取り付けようとしていた化野は、落胆しながら思い出していた。今仕事は特にしていない、と彼本人から聞いたのは知り合った電器屋でだったが、もうあれから随分経っている。

「ギンコ君。仕事、してたんだね」

 思った通りを、真っ直ぐに聞いた化野に、ギンコは皮肉っぽく笑って答えた。

「してるさ。こう見えて、俺はイサザのヒモじゃないんだぜ?」
「や、そ、そういうつもりじゃ、ないけど。でもじゃあ、一緒に出掛けるとか、もうあんまり…出来なくなる?」

 此処は医院の傍にある小さな喫茶店。ギンコの向かいの席で、化野は小さなテーブルに肘をつき身を乗り出して、抑え気味に言うのだ。この店の店主も手伝いの女の子も、当たり前によく知っているし、彼らだって化野のことをよく知っている。こんな話を聞かれるのは、少し、困る。

 そもそも、店の外に出たって、この町の他のどの場所に居たって、どうしても人の視線が気になる彼だった。だからこそ、休みの日に電車に乗って、ギンコと二人で町の外へ出るデートは、化野にとっては特別で、とても貴重だ。後ろめたいことなんかでは、ないのだけれど。

 店でたったひとつの喫煙席にいて、それでも窓を少し開け、ギンコは煙草に火を灯す。吸い込んだ煙を外への隙間に逃がしてから、彼も化野を真似るように肘をついた。互いの距離が近くなる。

「仕事って言っても、常にってことじゃない」

 ちらり化野を見る目が、どうでもいいような様子で。けれどそれが、わざとそう見せている風情。

「なんなら、一緒に来るか?」
「…え、行く、よ…!」

 化野は勢い込んで即答する。そんなこと、勿論だ。断る選択肢なんかある筈がない。何処に行くとかどんな仕事かとか聞かなくても、それはきっと、写真を撮っている彼の傍に居られる、夢みたいな幸せな"デート"だ。

「化野。そろそろ時間だろ?」
「うわ、ほんとだ。じゃあ、また」

 言われなければうっかり休憩時間を過ぎるところだ。焦って医院に駆け戻りながら、顔が火照って仕方なかった。看護士にも患者にも、顔が赤いと言われる始末の化野であった。




 赤陽線の奥谷駅から出るバスで、
 終点の南奥谷に十五時四十五分。
 夜明かしになるがそれでもいいなら。

 仕事の後で電話を掛けたけれど、ギンコが自分から言ったのはこれだけだ。相変わらず、殆ど説明してくれない。

 何度か食い下がって聞き出したことによれば、軽い登山レベルで、かなり歩くということ。夜明かしと言うのが野宿であるらしいこと。寝袋や、急な雨を考えての小型のテントはギンコが用意する。飲むものや食べ物のことも、特に考えなくていい、と。

 それじゃあまりにも任せっきりだと、化野は気にした。もっと自分も、何か。そう言っても取り合って貰えず、諦めて電話を切るしかなかった。

 だから自分なりに考えて、彼は色々と用意を整える。今は晩夏だが、行き先によっては朝晩冷える。風を通さないものを含め、重ね着するものを二枚。嵩張らない襟巻も持った。カイロも用意した。水筒にカロリーバーに、溶けにくいチョコレート。

 それから、チャンスがあれば覚えたいので、野鳥のと草花のと、ポケット図鑑を各一冊。あとは何か他に、持って行くべきものは。

 ふと思い付いて、化野はその小さなケースを荷物に入れる。拙くて笑われるかもしれないけど、彼が笑ってくれて、その顔を見られるなら、いっそ嬉しいぐらいだと。

「よし、これでいい。いよいよ明後日だ…っ」

 言ってから思わず苦笑してしまう。明日じゃなくて、明後日。なのにすぐ出掛けられるぐらい準備を整えて、どれだけ楽しみなのかと思うのだ。

 当日、あらかじめ調べておいた方法で、化野は約束の場所を目指す。七夕町を出て電車を二回乗り継ぎ、揺られること一時間半。さらにバスで一時間と少し。

 街から離れるようにして、随分来た。鳥渡里とどちらが、と思うほどの人家の無さ。人の居なさ。バスはとうとう目的の場所に停まり、帰りを気にした運転手が、この後何時に一本きりだよ、と親切に教えてくれた。

「ありがとうございます」

 化野はにこやかに笑って、リュックを持って下車する。埃まみれで色褪せてもいるバス停。その横に、これまた古びた野ざらしのベンチひとつがあって、そこで誰かが寝ていた。

 誰か、というか。それがギンコであるらしい。

 防水のジャンパーで腰から上、頭までを覆っている。錆びてボロボロのベンチに仰向けで、はみ出た脚の踵が、地面に無造作に届いていて。

「ギ、ギンコ…くん?」

 恐る恐る声をかける。起きない。疲れているんだろうか。見ればジャンパーもズボンも薄汚れている。推測するに、これは、野宿で何日目か、なんじゃないだろうか。

「ま、待った、かなっ?」

 もう一度声をかけつつ、化野は遠慮勝ちに、ギンコのジャンパーの顔の辺りをずらしてみる。こう言う場合、肩あたりを揺すってみるのが普通だと分かっている。ちょっとでも寝顔が見たいなんて、思ったのが本当の本音だった。

 白い髪が見え、額が見え、ついで目を閉じた両方の瞼が見えて、どきりとした。真っ白で、髪と同じに綺麗な睫毛。閉じた瞼だけでも色っぽく見えて、心臓が騒いで止まない。

 この目が開けば、あの翡翠の色の目が現れるのだ。もう何度も思ったことだが、美しい、と素で思う。化野は無意識に、右の手を伸ばしていた。まだばらばらに額にかかっている、彼の前髪を避けるために、おずおずと…。

「…っわ…ッ」

 いきなりガシリ、と左の手首を握られた。当然ギンコにだ。痛いぐらいの強さで、反射的にもぎ離そうとすれば、あっさりと離れて行く彼の手。 

「ご、ごめ…」
「何が? 今来たのか、化野」

 ギンコはベンチに起き上がって、普通に座り直し、突っ立ったままの化野を見た。その時にはもう、彼の前髪はいつもの通り、顔の半分が殆ど見えない、化野の見慣れた姿である。

「その…。よ、よく寝てたみたいだったのに、起こして」
「寝過ぎたぐらいだ。…遠かっただろう」

 そう言って、ちらりと化野の背を見やると、彼は小さく笑う。笑っているかどうか判断が難しいぐらいの、彼のいつもの。

「何を持ってきた?」
「え、っと。重ね着するものと、カイロと、水筒と、小腹が空いた時食べる用のちょっとした…」
「別に要らないって、言っといたのにな」
「いや、だって…そんなわけに」

 立ち上がったギンコは、ベンチ下に押し込んであった荷物を引っ張り出して歩き出す。随分と大きなリュックで、それを見た化野は、一瞬だが絶句してしまった。考えてみたらそうだ、テントや寝袋を持つとなると、そのぐらいにはなるだろう。焦って追い駆けながら申し出る。

「少し、持つよっ」
「いい。あんたが一緒だから、歩調がかなり遅くなる。それだけで十分楽だし、昔はこのぐらい普通によく背負ってたんだ」
「あ…。そ、そうなんだ。でももしきつくなったら、言って欲しい。ちゃんと手伝うから」

 歩調のことを言われた時、足手まといだろうかとつい思った。そんな化野の想いを分かっているように、ギンコは一度足を止め、化野の顔を真っ直ぐに見る。

「その靴は正解だな、トレッキングシューズ。ここから先は道が無い、草の中を行く間、本当の足元は見えないから、気を付けてくれ」

 そうして彼は、真新しい化野の靴を面白がっているみたいに、目元でまた笑って、化野に手を差し出したのだ。

「う、うん」
 
 差し出された手に手を重ねるのが、どうしようもなく気恥ずかしくて、化野はギンコの顔が見られない。手を繋ぐということにだけじゃなくて、何度も何度も見せて貰える、少しずつ違う笑顔にも。ギンコは前よりもずっと、笑うようになった。

 見るたびに化野は眩む。想いが募る。その想いにつける名前は「恋」でしかなくて、それを悟られることも恥ずかしくて堪らないのだ。

「ちゃんと前向いてな。それから、音を上げてくれんなよ。この先は人のいる土地から離れる一方だ、途中でリタイヤしたくなっても、無理だからな」

 化野は手を引かれて草の中を歩き続けた。平らなように見えて、足元は凸凹と起伏があって歩き難い。突然石が転がっている時もある。それでも、ただ漠然とついて歩くのではなく、なるべくギンコと同じ位置を踏むといいのだと気付いてからは、かなり楽になった。

 頭を使って、歩く。一歩一歩を確実に。速過ぎず遅過ぎず、ギンコに合せて。彼と、ひとつになった気持ちで。慣れると、無意識に出来るようになった。いつの間にかギンコと、息遣いまでひとつな気がした。

「なんだろう、さっきからなんだか、懐かしいような匂いがする」

 ひとり言のように言った化野の言葉に、振り向かずにギンコが問い返す。

「海のある土地が、あんたの故郷だったりするかい?」
「そうだよ。硯ヶ浜っていう長い海岸線のある、…う、うわ…っ」

 言葉の途中で、声を上げてしまった。そうして続きを言うつもりが、何処かへ飛んでしまって、化野はそれきり黙った。

「海」
「……」
「ここ、海辺だったんだ」

 真っ青な空の下、もっとずっと青い海が広がって、目の前は二種の青で埋め尽くされた。届くのは潮風。微かに聞こえる波の音と、海を渡る、強い風の音と。

「化野、足元」

 ギンコが言うのが遅くて、化野は何かに足を引っ掛け、ものの見事に転んだ。







  

 





 気の合うことで。と思いつつラストを書きました。此処は一話ずつ全員を転ばせてしまうべき? というのは冗談でwww 楽しく二話目が書けました(^^) ギンコも化野も幸せそうで何より。お仕事デートなんてしちゃってさぁ、この事を知ったイサザやドラ爺が、にんまりと笑う顔まで見えて来そうです。

 時に、持ち上げてから落とすのが、惑さんのいつもの手法ですが、どうなるやら、って自分で思いますよ。さておき、これから書くことは、ずっと先のストーリーに凄く関わってくるので、本当に大事なんです。頑張りまっっすっっっ。

 ではまた次回!




2018.09.02