Far far away 13
逆光になった鳥の影が、高く頭上を行き過ぎる。少し危ない目に会うたび、大小の怪我を負った時にも、ギンコは決まってあの声を思い出した。その時、彼がしていた目を思い出した。
無茶をしないで、
怪我とか、無いように。
本当に、本当に、
気を付けて。
テーピングできつく固定した捻挫の足首。手の甲やら腕の、かさぶたやら生々しい擦り傷。青痣。何か危険があるとカメラを一番に守るから、その分体を庇えない。
「まぁ、でも、今日で終わりだ…」
ギンコは空模様を眺めて、懐に抱えたカメラを撫でた。この分だとお誂え向きの夕日が沈む。それをバックに、覆道のレール跡が撮れるだろう。随分かかった。秋がもう追いついて、気の早い木々は紅葉を始めていた。撮ったデータは、ドラ爺に任せるつもりだ。だから、撮り終えるまでが、ギンコの仕事だった。
あぁ、
あぁ。
見る間に、
夕日が落ちる。
木々が静かに影になって。奇跡的に崩れず残っていた、覆道の太い柱も影になった。カメラを構えてファインダーを覗くと、走ってくる汽車の音がする気がする。振動までが五体に響いて、彼を過去へと連れて行くのだ。きっと彼も。そう、きっと、スグロも、同じように感じただろう。
過去と今が重なって、彼と自分が重なっていく。向こうへ行ってしまった彼は、こんな時だけ惜しげもなく傍に戻って来てくれる。二度と会えないのに。生きては会えないのに。傍に居るのだ。此処にある。言葉も鼓動も息遣いも、温もりさえも…。
あんたはだから、きっと、向こうでも。
ギンコはシャッターを切った。これでいいと確信して。たった一度。念の為のあと数回は切らなかった。それをしてしまえば、ずるずると、長引かせてしまいそうで出来なかった。
撮影を終えてバッグにカメラを仕舞い、他の荷物を置いた場所まで戻ったその時、リュックのポケットに入れた電話が鳴ったのだ。圏外の筈だったが、高台だからか? たまたまそんなこともあるのかもしれない。驚いて手に取って、彼しては珍しいことに、表示も見ずにとった。
雑音と共に聞こえてきたのは、知らない声だと、ギンコは思った。
『…っと繋がった。お前、俺のことは覚えていないだろう。俺は』
けれどそこまでで電話は切れて、切れた後に、それがどこに繋がった電話なのか、ギンコはわかった気がした。声に覚えがあったわけではない、そうではなくて「雑音」に聞き覚えがあった。
呼び声だろう、恐らく、これは。
俺を、向こうへ、引き寄せる。
切れた電話をリュックへ戻し、ギンコはうっすらと笑っていた。
そして最後のテント泊。朝になれば、淡々と帰り支度をする。此処で為すべきことは終わったのだ。此処以外ですることは、まだあと幾つかあるから、急いだ方がいいだろう。確かに届いた「呼び声」に答えるために。
荷物をまとめて、ギンコはいつものバス停に向かう。時間までベンチで眠り、時間通りにやってきたバスに乗ると、何度も世話になった運転手に礼を言った。撮影を終えたことを伝えれば、しつこいほどの質問攻め。寝落ちたふりで何も答えず、降りる時にはもう一度礼を言う。運転手は満面で笑っていた。
「寝たふりなんかしやがってよ、最後までだんまりかいっ。口が固いやねぇ。でもいいさ、そんなにまでして撮ってくれて、嬉しかったからね、俺は。ありがとうよ、本当に」
去っていくバスを見送って、ギンコは今度は鳥渡里へと足を向ける。写真を撮るためではなく、あの空き家に置いたままになっている、いくつかのカメラの道具を取りに。
七夕町は素通りしたが、電車の中では見覚えのある母子を見掛けた。前の時と変わらず、窓辺の席に座りたがる女の子。そういやドアの傍の席に座って、菓子パンの袋を開けている初老の男は、前に冷凍みかんを差し出してくれた男のように思う。
鳥渡里では、元商店のおばさんがギンコの姿を見つけ、なんやかやと話しかけてきた。畑仕事に出る自分のためにと、作ってあった握り飯を強引にギンコに渡しながら、ドラ爺やイサザが計画して、此処でしようとしていることを、いろいろと話す。
「春を目指してかと思ってたんだよぉ。でも薄野原で遊ぶのもいいし、冬になって雪が降ったら、子供を呼んで雪遊びするんだと。雪だるま作りに、雪合戦だとさ。楽しみだよねぇ。こんな日が来るなんて夢みたいだ。あんたには写真撮ってもらうからって、ドラ爺言ってたよ。いい写真頼むねぇ。なんだかおっきな荷物背負ってるけど、今日は下見なのかいっ?」
そうだ、とも、違う、ともギンコは言わなかった。でもどうやらギンコは笑っていたようだった。その顔を見上げた彼女が、ぱっ、と嬉しそうにしたからギンコ自身にもわかった。
「帰りにもお寄りよぉ。饅頭があるから、貰っとくれねぇ」
ギンコは彼女とわかれて、明るい日差しの中を、山の中のあのあばら家へと向かう。辿り着くと背負っていた荷物の中から、野宿の為のあれこれを抜き、その代わりにそこに置いてあった、いくつかのカメラの道具を詰めた。今日の用事はこれだけだ。
帰りの電車の時間まで間があるから、迷った末に数時間、写真を撮って過ごした。夏から秋へと傾くこの季節。紅葉にはまだ早いけれど、優しい木漏れ日が、いつかのあの日を思わせる。この土地には特別な力があるのだろうか。それとも、置き捨てられた「場所」すべてで、それは起こり得ることなのだろうか。
約束をしなよ。なぁ、ギンコ。
かの声が耳元で、そんなことを囁く。聞こえた声の続きを拒むように、ギンコは手のひらで片耳に蓋をしたが、それでも声は直接、心の奥へと響いた。
そうやって、
シャッターを切ることが、
もうお前の約束だ。
違えたら許さないぜ。
絶対に許さない。
ギンコはシャッターを切り続けた。少しでも心が動いた場所を、ためらわずすべてファインダーに収めていく。
「約束なんか、しないよ、俺は」
あんたがしなかったようにね。
「あぁ、時間だ。電車が来る」
ごくり、とギンコは息を飲んだ。駅へと戻る前に。そしてホームに滑り込んできた電車に乗る時にも。走り出した電車が七夕町の駅へと入り、降りる時には、鼓動まで止まりそうだった。
若い駅員がにこにこと笑って、またコーヒーご馳走させてくださいね、と、言った。駅長はその言葉を咎めたりはせず、コーヒーなら俺の方が美味しく入れるよ、などと、ギンコへ向けて、からり笑う。
駅舎の椅子に座って、女の子を連れた母親と、男の子を連れた母親とが待合の椅子に座っていた。男の子は眠たそうにしていて、母親二人はお喋りに夢中だった。女の子だけがギンコの姿を見て、じっと見て、ギンコが駅舎を出て暫くしたあとで、ぽつんと言った。
「ヨーコね、ヨーコ。あの白いひとのこと、知ってる」
ギンコは一人で、町を歩いた。この町での用事は簡単に終わる。たぶんものの30分。電車の時間と合わないから、少し遠回りをして歩く。コインランドリーの前を通り、銭湯の前を通り、やおやの前と、魚屋の前と、電気屋の前を通った。遊具のある子どもの遊び場の前も通った。総合病院の近くと、CDショップの前は通らない。
そんなふうに遠回りしたのに、用事はすぐに終わってしまった。だからギンコは駅にはいかずに、駅前で道を折れる。そして彼は、線路脇の道をずっと歩いた。ずっと、ゆっくり歩いて、歩いて、ゆっくり、七夕町から、遠ざかった。
途中で電車に追い抜かれて、その音が遠ざかって行った後、ケータイが着信音を鳴らし始めた。ギンコはポケットからケータイを取り出し、知らない番号からの電話を取った。
「…あんたのこと、思い出したよ」
相手が何かを言う前に、ギンコからそう言った。
「怪我は、もういいのかい…? なんてな。治ってなきゃ、またそっちに行っている筈もないよな。で、俺に何の用だい?」
しばしギンコは相手の声に耳を傾ける。相槌も打たずにただ聞いて、やや長く続いた電話の向こうからの声が途切れた後、ギンコはこう返事をしたのである。
「丁度俺も探していたんだ、そっちへ行く方法を」
電話を切りながら、ギンコは何もない道端に立ち止まる。上を向くと、空は奇妙なぐらい高く見えた。
「…あぁ、いい空だ」
続
うっかり「終」と書くところでした。もうちょっとあります、ギンコがこちらですることが。でも書くのは来年になるかなぁ、って。今回のお話はちょっと駆け足っぽかった気もするんですが、そうでもしないと彼も踏ん切りがつかなそうだったんだよなぁ。
それにしても、どんな感じに見えるでしょうか、彼。なんかね、ずーーーっと前に考えていた時よりも、かなり前向きな感じなんです。まぁ、また微妙に変化していくかもしれないですがっ。何しろ物語は生きておりますのでねっ。
でも螺旋シリーズとは違い、こちらのシリーズはちゃんと終わりに向かっているようで、その点はほっとしましたです。いや、ずっと先ですけどねっ。
ともあれ、やっと書けましたっ。良かったですっ。
2019.12.08
