Far far away  14








 ことん。


 と、いう小さな音が聞こえた。続いて種類を選ぶ電子音、ピーという警告音と、液体が紙カップに注がれる音。部屋の外の自販機で、誰かがコーヒーを買っている。紅茶かココアかもしれないが。

 作業机でうつらうつらしていたドラ爺は、その音に気付いて腰を伸ばした。

「いててて、て。またうたた寝しちまってたか」

 ひとり言を言いながら、ドラ爺はなんとなく廊下の気配を窺った。自分以外滅多に使わないこの階の自販機。誰が買っていくのかとちらり思う。と、鍵をかけていないドアが開いて、彼、が入ってきたのだった。

「おぉ。なんだ? お前だったのかい。カメラどっか調子悪くなったか? それとも?」

 好みの甘いカフェオレを差し出す彼の手を、ドラ爺はしげしげと見て、それから眉を上げつつその顔を見た。

「なんだなんだぁ? ギンコ。頼まれもしないのに自分から差し入れってな、珍しいこともあったもんだ」

 遠慮なく受け取り、美味そうにそれへと口をつける。甘い匂いが狭い作業部屋に漂った。そんなドラ爺の目の前を横切って、机に置かれる小振りのカメラバック。

「もしかしてあれか? 奥谷線の写真データも持ってきたのか?」

 そう言いながらバックを開けると、取り外しも出来る内ポケットの中に、保護クッションで丁寧に巻かれたデータカード。テープでナンバリングがとめてあって、それは1から4まであった。一枚につき200枚以上入っているとして、収められている写真は千枚ほどというところか。

「…はぁ。お前、ほんっとに俺に全部任せる気でいるのかい」
「そういう約束だったろ。俺は撮るだけだ。それから、こっちが借りて貰ってた資料。それから、これも、返しとく」
「あ? 俺は俺のを持ってるよ。そいつはお前んだ。持ってなかったんだろ?」
「いい。粗末に扱いたくないから」 

 彼のその言葉に、ドラ爺はまたデータカードに視線を落とした。粗末にしたくない。ってか? そりゃまぁそうだろうが。だったら大事にすりゃあいいものを、どうも捻くれてんなぁ、相変わらず。

「しゃあねぇ、わかった。急いで目を通すし、選んで先方に送っておく。あー、お前、手の甲、怪我してんじゃねぇか。ズボンの膝穴空きそうだし上着よれよれだし。結構大変だったんだろ? 無茶もしてそうだなぁ。あんま心配かけんじゃないよ。イサザにしても、ほらあの、先生にしてもお前のこと本気で気にかけて」
「メンテも、頼む」
「ほいほいっと」

 ギンコはさっぱり人の話を聞いていない。肩をすくめてデータカードを横に置き、ドラ爺はバッグの中のカメラを取り出した。左右に傾けたり、スイッチを入り切りして、彼はすぐに気付いた。機種はほぼ同じでも、これはいつもギンコが使っているカメラじゃない。

「おぉお? 珍しいなぁ、こっち久々に使うんじゃないか? 随分放置してただろ。スイッチがやや渋くなってるしよ。ふぅん、ほぉん。へぇ~。や、しっかりみてやるけどよ? いったいどうしたんだ? こいつ"お前の"カメラだろ?」

 ドラ爺はにやにや笑っている。このカメラがギンコのものになった経緯も彼は知っていた。これはあいつがギンコに譲ったカメラだ。お前さんにやるよ、と、無造作に素っ気なく、けれど内心ではご機嫌だった親友の声を思い出す。

 にやにや笑いを見ようとはせずに、ギンコは壁際のパイプ椅子に腰を下ろした。頭上の柱に無理にくっつけたスイッチを押すと、換気扇が煩い音を立てて回り始め、彼はポケットから煙草とライターを取り出した。

「ちょっとな、知り合いに…譲ろうかと思って」
「…へ? あ…あぁ、そう?」

 我ながらおかしな反応をしてしまった。とドラ爺は咳払いをした。これはギンコの大事なものの筈だ。それを人に譲るとは? でも大事じゃなくなったなど考えられず、ならば答えはこれしかないと、妙に納得がいってしまった。

 つまりそれは。

「あの先生にかい」

 ズバリ、言い当てた、とドラ爺は思った。言い当てられたギンコはうろたえるかと思ったのだが、彼は小さく首を傾げて煙草を深く吸い込んだだけだった。煙を上へ向けてゆるく吐き出してから、頷いたともとれる感じに下を向いたのだ。

「よ、よし! 俺がしっかりメンテしてやるよ。え、ええっと、さっきのデータも見なきゃなんないから、ちょっと預かるが、いいか? なんかあったら連絡するっ」

 自分でも笑えるぐらい上機嫌になってしまって、今すぐに取り掛かりたいところだが、急ぎでやることを当のギンコに持ち込まれたばかりだ。それでもちょっとみてやりたくて、外回りを革布で拭き始める。擦ると細かな傷も見えてくるが、その傷一つ一つに理由があるのをドラ爺は知っている。

「いや、懐かしい。いろいろ思い出しちまう。お前聞いてるか知らんがこのカメラは、あいつが俺と最初に"向こう"に言った時によ」

 倒しちゃいかん、と紙カップのカフェオレを飲み干し、ドラ爺はギンコに話しかけた。でもギンコはその語り掛けを聞いていようとはせず、窓枠にのってた携帯灰皿に吸殻を押し込んでいる。ぎしり、とパイプ椅子が鳴いて、ギンコは立ち上がっていた。

「ドラ爺」
「おぅ、なんだもう行くのか?」
「手持ちのメモリカード全部使っちまって、今使えるカメラが無いんだ。貸してくれ。すぐ使えるのがいい」

 ドラ爺は革布を持つ手を止めて、困ったように眉をしかめた。

「カメラ貸せったって、俺はカメラマンじゃないし、貸出機なんか置いてないぞ。あー、でもそうだ、こいつがあったか」

 デスクに座ったままで、ドラ爺は脇の棚に手を伸ばした。カメラ一台分にぴったりの小さな箱に、収められて蓋をされていたカメラ。ギンコのそれよりももっとずっと、傷や色褪せが酷くて随分古い機種。

「これよぉ、修理上がりのヤツなんだが、試し撮りしねぇとなんなくて、お前にそれ任せていいか? その代わり信用するからな? そのうちに持ち主に返すヤツだから」

 差し出されたそれを、ギンコは静かに眺める。黒い機体が灰色の斑に見えるほど傷だらけだ。ドラ爺は心底気の毒そうにこう言った。

「あんまりな扱いされてたみたいで、可哀想なヤツなんだ。だから借りてる間だけでも、お前さんが大事にしてやってくれるか? パーツはもう製造してなくて、なんとか合うやつ探して、調整しながら直したんだぜ。俺じゃなきゃ無理だったろうよ」

 そうしてギンコが片手を差し出し、そのカメラに触れた一瞬に、ドラ爺は何故かびくりと手を引っ込めかけた。

「……あ、あぁ、すまん。じゃあ、頼んだぞ、ギンコ」

 真新しい傷の目立つギンコに手の中に、もっとずっと、傷で埋められたようなカメラが手渡される。ギンコはひとこと、預かる、とだけ言って、ドラ爺に背を向けた。ギンコは素っ気ないままで帰って行って、壊れかけた換気扇の音だけが、部屋の中に響いていた。



 

 砂の色をした風が、遠い風景を霞ませている。

 飛行機を降りた時も汽車に乗った時も、ギンコは違和感ひとつ感じなかった。まるで、時間が戻ったかのようだ。違和感を感じない、というそのことが、あとにしてきた時間と自分とを、急激に切り離すようで怖くなった。

 臆病になったと笑いたくなったが、以前この国に居た時に、強かったなどということはない。いつもいつも、庇って貰っていたことを思い出す。

「…スグロ」

 来たぜ、約束通りに…。
 いや。
 あんたは俺に何も頼まなかったけどな。
 だからこれは、俺が俺のしたいことを、
 勝手にやりに来ただけだ。


 風が強くなると、近くの風景までも霞んで消えた。戻れないのではないかと言う予感が、ギンコの体に静かに沁みていく。それでもいいさ、と思いながら、ギンコは少しだけ笑んでいた。ふと、何かを思って真顔になる。

「そんなこと考えてたら、あんた怒るよなぁ」

 汽車を下りて、ギンコは歩き始めた。














 かなり短いのですが、ラストとして切るのはどう考えても此処でしょう、と思いました。でもこの続きも少し書いてしまったので、次の話の冒頭も、近いうちにアップしたいと思っています。冒頭だけアップして暫く休止するんじゃないかな(そしてまた書き始める時苦しむのね)。

 あぁ、とうとう行ってしまったんだなぁって、切なく思いながら、あえてイサザや化野が今何を思っているのかは書かず。いや、きっとギンコは来週あたり戻るのかな、とか思ってるんですね。えぇ。何か予感したらしいのは、やはり直前に会ったドラ爺。

 あのなギンコ、ご老体に辛い思いさせるんじゃないよ、ってちょっと思いつつ、これにて「Far far away」終了でございましたよ。するっ、と終わったし、続きを書きかけているので、妙な気分ですがっ。

 どうも、ありがとうございました。




2020.01.26