Far far away 12
ギンコはここへ来てから、よく夢を見る。テント泊だからかもしれない。波の音や木の葉の擦れる音、高い空をゆく風の音のせいで、深夜でも早朝でもたびたび目が覚めた。だからそれまで見ていた夢を、覚えていられたのかもしれない。
お前、意外と記憶力がいいな。
そう言われたのはいつのことで、あれは何処にいる時だったか。多分自然の中だった。見よう見まねで火を起こし、その火に直接風が当たらないように、風上に座っていた彼だった。スグロが言ったのだ、彼の頭をぐしゃりと混ぜながら。
それに頭がいい。
別に俺はお前に色んな事、
教えてる気はなかったけどなぁ。
そう見える、って言われたよ。
弟子を取ったのか、ってな。
その時の風の音を覚えている。空気の匂いを覚えている。傍らに咲いた花は白かった。木漏れ日がまだらに地面を照らしていて、彼の声はどことなく嬉しそうだったような気がする。だからほんの時々、冗談に紛らせて「師匠」と呼んだ。
師匠ってなんだよ。
カメラのかい?
仕事になんかしねぇでいいぞ。
お前が撮りたいなら、
撮りゃいいってだけだ。
彼が本当に嬉しそうだったかどうかは、正直分からないけど、でもあの時、自分が嬉しかったことを覚えている。こうしてそれが遠い過去になった今、夢で見ただけでも嬉しくなるんだ。だから自然と仕事になったのだと思う。
あんなことがあったってのに。でも、それでよかったと今は思っている。
スマホのアラームが鳴った。すぐに止めて、ギンコはテントの中に起き上がった。昨日目印を置いていた場所に、目印通りの方向へ向けて三脚を立て、カメラを向け、日が昇るのを待ちシャッターを切った。光を見ながら、数分おきに何度も。
昨日と同じに本を開いて、目の前の風景と見比べていた。季節と、天候と、日の高さと。そこまで合わせて、でもそっくりの写真を撮るのが目的じゃないから、パソコンに落として細部を見比べるまではしなくていい。
数十枚撮って満足したギンコは、何も持たない身一つでトンネルへと近付いた。草を鳴らして近くへ行って、中を覗き込むが、それほど奥まで見えることはなく、真っ暗だった。小石を一つ投げてみる。音の響きで、塞がれているのが分かる。
「…このまま中を通って抜けられれば楽だったが、そう都合よくは行かないか」
その時、確かに彼の中で誰かがほっとしたのだ。時間はあるのだから、そんなに急ぐことはないんだ、と。
ギンコはテントの傍へ戻り、手持ちのもので朝飯を済ませる。昨日来たばかりだから、まだ調理の必要のない食べ物があって、時間は殆どかからない。火の必要が無いから火を焚かず、火を焚かないから火の始末もいらない。
地図を広げて眺めながら、おにぎりとお茶で腹を満たすと、テントを畳み、荷をまとめてそこを離れる。その後は、もう見つけてある場所を行きやすい順に数か所、日の高さを見つつ順調に写真を撮って、夕までを過ごす彼だった。
レールが真っ直ぐなままに残っている場所。地盤が崩れたせいで、レールが大きくうねっている場所。壊れた駅舎の残骸を横に、草の上に落ちた遮断機。斜めに傾いだ踏切信号。
倒れて朽ちた古木の傍に、新しく芽吹いた若い木。大きな木が倒れたせいで、日の当たる時間が増えたからだろう、生えている草も古い写真とは違うようだ。花も別種のが栄えていた。レールを敷く時に避けたのだろう大岩が、いい感じに苔むして緑が美しい。
そうした時間の流れを、ギンコは、淋しいような悲しいような心地で見て、全てをそのまま写真に写した。その日の夜は海の見える高台にテントを張った。風向きのせいか、間近く波音が聞こえて来て、眠りながら思い出す。
そういやあいつは、海のある街に住んでいたんだと言っていた。硯が浜海岸と言ったっけ。ちょっと調べれば何処だかわかる。生憎今はスマホに電波は来ていないが。波音を聞きながら目を閉じて、彼は呟いた。
「そういやあれから、結構経ったな…。会いたいかい? 俺に」
声に出して言ってから、苦笑してギンコは思う。そんなことを思うのは、自分が会いたいからだ。テントの中の暗がりで、彼はうっすらと両目を開けて、そうして、片方の瞼に指を触れ、片目だけを静かに閉じた。義眼の方だけを、静かに。
会いたい誰かが居ること。
失くしたくないものがあること。
帰りたい場所があることも。
全部、全部、幸せなことなんだよ。
この先もしも会えないとしても、
取り戻せないとしても、
例えば二度と戻れないとしても。
だから、愛するのをやめるな。
あぁ、彼の言葉だ、これも。確か、あの日の数日前に、聞いた。今、初めて思い出した。今までずっと忘れていたのだ。いや、忘れたふりをしていたのかもしれない。思い出せば、心が壊れるほどの言葉だったからだ。少し、前までは。
愛するものがあれば、それを失うのは辛い。壊れるほどに辛いものを、それでも愛せと彼は言った。そして…。
「あぁ、俺は酷いことをしたのかもな。…化野…」
名前を声に出すと、胸が痛んだ。あれほど心が柔らかな彼に、あんなにも互いに相愛だと分からせて、これから俺は、あんたを突き放すんだよ。
ギンコは目を閉じた。そして波音を聞きながら眠った。今まで以上の深い眠りに落ちて、その夜は夢を思い出せるような目覚め方はしなかった。
小さな公園のベンチに腰掛けて、化野はぼんやりと木漏れ日を受けていた。今日は風もあるからそんなには暑くない。院内の冷房で少し体が冷えていて、昼の少しの時間、外の気温に触れるのが丁度いいぐらいだ。
「あらっ、休憩ですか? 化野先生」
そう言って彼の前に立ち、ベンチの隣にかけていいかと身振りしているのは、化野より少し年上ぐらいの若い女性で。
「あ、えぇ。ええっと」
「私、看護師です。あそこの内科の。それとレストランのウェイトレス」
ふふっ、と悪戯っぽく笑う女性は、レモンイエローのシャツに、クリーム色で薄手のパーカーを羽織った姿。そして肩にかけた真っ青な布のトートバッグ。茶色の髪を軽く巻いて、肩より少し長くしていて。
「えっ。あーー。気付きませんでした」
すみませんというように、ぺこんと、化野が頭を下げると、彼女は手を顔の前でぶんぶんと振って見せた。
「いいんですいいんです。白衣やまとめ髪と感じが変わるから、みんな大抵すぐは気付かないし。それに先生、最近、なんか『ぼうっ』としてるって、みんな言ってるし?」
「………」
無言で、でも再度「あーー」と言う風に真上を見上げて、化野はいたく凹んだ顔をした。
「…そんなにみんな言ってますか…っ」
「んーーー、私が聞いたのは電気屋さんのおばちゃんと、駅員さんと床屋さんと、レストランの常連のおじさんにだけですから、みんなってほどじゃ、ないかも?」
「あぁぁあ…」
化野は両手で顔を覆って、今度は深く項垂れて呻いた。それは十分すぎるほど「みんな」だ。
「でも医院にいる時以外でですよ? あ、ラジオでは一昨日、二回ぐらい噛みましたよね?」
追い打ちをかけられて、化野は「うぐぅ」と唸るしかない。
「…すみません、なるべく、気を付けます……」
二回りぐらい小さくなって見える化野のことを、彼女はちょっとばかり面白く思っているらしい。ベンチに浅く座り直して、彼の顔を覗き込むようにしながら、こう聞いてきたのだ。
「好きな人でも出来たのかなー? なんて」
そう聞いた途端、化野は顔を両手で覆ったまま、さらに深く項垂れた。この手を今、断じて外すわけにいかない。だって顔が真っ赤になっているのがわかる。けれど手で顔を覆ったぐらいで、隠しおおせるものではないようで。
「せんせ、耳と首も、赤いです」
「やっ、ちがっ。た、ただっ、彼に暫く、会ってないので…っ」
顔を上げてそう口走った化野と、そんな彼と目の合った彼女は、見事に双方固まった。
「えっ」
「……あ、うわ…。だ…だ…、誰にも、言わないで貰えると…」「ええ、はいっ、もちろん。誓ってっ」
ぱちくり、と目を瞬いていた彼女は、しっかりと大きく頷いてくれた。
「こんな言い方も変かもしれないですけど、新時代がきてますもん。それにむしろ、化野先生らしいですよ? うんっ」
そこで化野のスマホのアラームが鳴った。休憩時間がそろそろ終わるらしい。くれぐれも、など念押しすることなく、化野は彼女の前から歩き去る。ベンチに座ったまま、指を一本立てて顎に触れつつ、彼女はちょっと青空を見た。
「…言わないし聞かないけど、もしかして、あの人、かも?」
一緒に居るところを見掛けたことがあって、その時の化野の姿が、いつもの彼と違って見えたから。
「んーーっ、恋かぁ、いいなぁ~」
彼女はベンチに腰かけたまま、どこか少女めいて、そう呟くのだった。
続
前半と後半の空気が、とっても違ってしまいました。それにしても、ちょっと前から思っていましたが、このお話のギンコさんは、ぱっと見は「やや都会派?」のような感じがしていたのに、なんなんだこのスキルはっっっ。
スグロは何処にでも彼を連れて行ったようです。可愛くてたまらなかったんだろうな。ギンコはギンコできっと、面白くも無さそうな顔しながら「行く」って毎回言ったんだろうな。なんて思ったよ。
もうちょっと先まで書き進めたら、また新しいキャラが出ると思うのですが、まだ人物像をしかと決め兼ねています。そろそろ固定させねばだわ。いつも大抵〆はこれですが「続きも頑張ります」。
2018.11.10