Far far away 11
南奥谷へ行くバスを待ちながら、ギンコはベンチに地図を広げる。かつて、奥浦渓谷線が生きていた頃の地図から、必要なことだけをトレスし、それへ様々を書き込んだ彼自身の手書きの地図である。
地元の人間がごくまれに通る道。人は入らず獣だけが行き来する道。どちらでもないが、彼が自身で踏み入り通れると知った道。目印の樹や岩、其処から見える覚えやすい風景、危険だと思ったことも書き入れてある。
蝮が居た。蜂の巣があった。触れただけでかぶれる種類の草。山菜とよく似た毒草が生えている。足場が緩い、滑る、崩れやすい。間違えやすい分かれ道、と、その目印にしてあるもの。逆に食べられる山菜が多くある個所も、分かるように記してある。
そして、これまでの間にひとつひとつ見つけた、今はもう朽ちていくばかりの、奥浦渓谷線の、跡、跡、跡。
ギンコは手書きの地図の上に、小さな手帳を開いて置いた。箇条書きの言葉と、それぞれに関して綴ったいくつかのメモ。二重丸をつけてあるのは、もう写真に収めた場所。丸印は簡単に行けていつでも撮れる場所だ。そして、印の無いところは見つけていない場所。三か所ある。
「この地点。このトンネルの入り口と、トンネルから出てすぐに、川の上を渡した短い橋のところ。あとは海を臨んで山肌に弧を描いていた覆道。どれもあのDVDの中に映っていた…」
ぱ、ぁあん…っ。
と、どことなく間の抜けたクラクションの音がした。顔を上げると向こうから近付いてくる古いバス。ギンコはリュックを肩に、そのバスに乗り込む。
「おっ、頑張るねぇ。まだまだかかるのかい、写真は。なぁあんた、いつも何にも言わんけど、奥浦渓谷線のレールを辿って撮ってんだろ? 今日も教えてくれねぇのかい? 秘密主義かい?」
胡麻塩頭の老いた運転手は、ハンドルからすっかり手を離し、ギンコの方へと体を捩じっている。答えんうちは走らねぇよ、とでも言いたそうな顔で、ギンコは暫し黙っていたが、終いには苦笑して頷いた。
「そうだが、憶測を言い触らすなよ」
「憶測って? また写真集が出るんじゃないかとか、そういうことかい? 言わねぇさぁ、言って違ってたらみんながっかりしちまう。おっ? てぇことは本当にっ?」
「憶測を口にするな、って今言ったばかりなんだけどな」
ギンコが表情を消して淡々というので、運転手はちょっと鼻白んで前へと向き直った。
「わかった、わかったって。あんた若いのにおっかねぇなぁ。誰にも言やせんよ。今だってあんたがカメラ持って此処に通い詰めてたり、テント張って寝泊まりしてんのを誰にも言ってねぇんだ。あんた別に口止めもしなかったけどよ、ずうっと前に通ってたカメラマンと、おんなじだと思ったから」
買い出しにだって協力してんのになぁ、と運転手はブツブツ言っている。ギンコはハンドルを握る老人の後ろ頭へと、こう言った。
「…それ、十何年前の話だろ? その時のカメラマンは、あんたとどんな話をした? 覚えてるかい?」
「あぁ、勿論さぁっ」
問えば老人は、随分と嬉しそうに声を大きくしたのだ。
「あの人、いいヒトだったねぇ。よく喋って良く笑って、面白くってねぇ、気前も良くてなぁ。あ、気前がいいのはあんたもおんなじだ。頼むもんもだいたい同じ。知り合いだろ? 聞かなくたってわかるさぁ。なつかしいな、俺はあの人にいろんな話をしたよ。昔の話、奥浦渓谷線の現役だった頃の話。あれやこれや取り留めなく、楽しかったねぇ、あんときゃあさぁ」
老人は話す。ギンコ以外誰も乗ってこないバスに、彼の声と、たまのギンコの小さな相槌が響く。ギンコは席を前の方に移って、半分目を閉じて、聞いていた。
「やれやれ、喋り通しですっかり喉が乾いちまったよ」
ギンコが降りる時、から、っと笑って運転手が言った。大きなリュックの中から、ギンコはお茶のペットボトルを一つ出して彼へと渡す。礼の言葉のないギンコに、老人は皴を深めてもっと笑う。きっと彼の中では、ギンコと遠い昔の別の男が重なっているのだろう。
「写真上手に撮ってくれよぉ、ここいら沿線は、本当にいいところだったんだ。今だって長閑で静かでいいとこだけどな」
バスが走り去った後、ギンコは其処に置かれた埃だらけのベンチで、また地図と手帳を開いた。ずっと昔の、スグロのことを聞けたのだ。どうやって廃線を辿ったのか、彼はあの運転手にいつも話をしていたらしい。その時のことが詳しく分かる話も、沢山あった。沢山聞けた。
だからギンコは、忘れないうちに必死でメモを取る。なんなら聞きながら書けばよかったのに。書き留めるからもっと詳しくと言えばよかったのに。結局は不器用だと、今更自分に駄目出しをする。
「一人でなんでもやろうとなすんな、ってな。すっかり忘れてたよ、あんたのこの言葉…」
化野を連れてきたりしながらも、これは俺ひとりだけでやりたい、なんて、ずっと何処かで思っていたよ。でもまだ間に合う。秋はもう少し先で、紅葉は始まってもいないのだから。まだ、ここから、最善を尽くせばいいだけだ。
ベンチの座面に地図を広げて、体を捩じっていたギンコは、ふと「彼」を思って顔を上げる。
今日も仕事かい?
院長せんせい。
ここでつけた怪我は、
もう全部、消えたかい?
今、何を思って、
何をして、いるのかい?
俺のことを、たまに、
思い出したり、するのか…?
空を映した目を閉じて、ギンコは「化野」意識の奥へと追いやった。怪我をしないで欲しい、気を付けて欲しい、と、あんな声で繰り返しあいつは言ったから、その声だけを耳の奥に自由に放して、ギンコは重たいリュックを背負いなおす。
今日はまず、トンネルの入り口を目指すと決めた。秋には茸採りをしに、今でも人が入る近くだという。その人らの歩く道を聞いたから、遠回りでも西側の谷の下から、沢に添ってゆっくり登る計画を立てた。茸採りには女も行くという話だから、道はそこまで険しくないだろう。
地図を見て、改めて道筋を頭に入れて、ギンコは歩いた。途中腹ごしらえもしながら、時には足を止めて、地図に何かしら書き留めながら。もう、三時間半ほど経っていただろうか。
ふと見れば、如何にも茸が生えそうな倒木が、左右の草の中に倒れていた。試しにと、沢から直角に離れてしばし、ギンコはとうとう、日の陰る中に人工物を見つけたのだ。下の方は土が詰まっていたが、それはどう見てもトンネル入り口だった。
「…嘘だろう。おい。ちょっと腹が立つほどすぐ見つかったな」
荷を下ろし、ギンコは大事に持ってきた本を、リュックの背中側から取り出した。化野にも見せたあの本ではない。もう少し大判のムック本。目の前に開けた風景と、その本の中にある写真の一枚を見比べて、少し前へ出て、少し左へと。
「ここらへんか? だな。でも、光の向きがかなり違う」
三脚を立て、カメラを固定し、数枚撮りはするものの、欲しい写真は撮れない。今の時間では無理だと分かるから、ギンコはすぐに本をしまい込み、テントを設置し始めた。狙うのは明日の午前中。天気がいいことを祈りながら、夕暮れが来、夜が訪れるのを一人で見送る。
「ぁあ、凄い星だ」
気付けば満天の星だった。今欲しい絵はこれじゃないけれど、これも撮りたい。撮りたいなら撮れと、あんたは言ったから。
星空を撮るってんなら、
三脚はもっと安定させないとな。
レリーズ持ってきてるのかい?
すぐ隣に居るみたいに、はっきりと声が聞こえた気がして、驚くより何より笑みが浮かんでしまう。そんな耳元で、あんた。近くに居るにしたって、近過ぎだろ、息までかかるような。
楽しいんだろう、って? あぁ、楽しいさ。うまく撮れたら見せろって? あぁ、いいよ。他のみんなにも見せてやれよ、って? あぁ。
あぁ、それはばかりは、どう、だろうか。
くすん、とギンコは笑った。笑って、草の上に寝転んで、手にしたレリーズを、そらで押した。カシャリ、と大きくシャッター音。肉眼でも薄っすら見える、天の川。例えれば、俺はきっともう、あの岸の向こう側に。
だから。
今は考えるのをやめたくて、ギンコは急に眠くなったつもりになる。カメラと三脚を仕舞い、テントの中に潜り込んで、電波の通じていないスマホに、せめて目覚ましの役割をさせてやろうとセットする。時刻は明日の早朝、日の出前。
これで明日、撮りたい写真が一枚がなくなる。まだまだ沢山撮るけれど、それでもこうしてゆっくりと、成すべきことが消えていく。此処で彼が、なすべきことが。
続
随分久しぶりに、このお話の続きを書きました。たまたまですが難しいところで中断してしまって居たため、ふたたび書き始めるのが、めっちゃくっちゃに大変でした。まぁ要するに、どう続けるつもりだったのか忘れてしまってたんですね。分ってるつもりだったが…。などと化野先生風に言っても、わからんもんはわからんわけです。
おかげでワンフレーズシリーズを最初から全部読み返すことになって、まぁ、よかったのかな、って思ったりもしています。プロットをざっくりと立てたので、なるべく逸れないように書きたいと…。なるべく…なるべく…。
それにしても、彼のなんと淡々としていることよ。なんだか切ないよ。とっ、ともあれ11話の投稿でした。ありがとうございましたぁぁ。
2019.10.28