Far far away  1  






 キ、と音を立てて、アパートの前に自転車が止まる。数日続いたチラシ配りのバイトが、珍しくかなりハードだったので、イサザは疲れ果てて部屋に戻ったのだ。時刻は夜の11時過ぎ。

 昼飯を食べる時間も無く、腹が空いて倒れそうで、バックの底で、ペシャンコになっていたサンドイッチを、キッチンに立ったままで引っ張り出して一先ず腹へ入れ、水道の水を喉を鳴らして飲んだ。

 汗だくの体にシャワーを浴びてひと心地付くと、イサザは床に座って、ベッドに背中で寄り掛かる。ギンコはどうやら先に寝ていた。灯かりをつけなくても、壁の方を向いて丸くなっているのが、毛布ごしに分かるから。でも、イサザが座ったタイミングで、もそりと少し、動いたか。

「…起きてる? 起こした? 起こしたんだったら、悪い」

 小声でそう言って、改めて開けたスポーツドリンクのペットボトルを、ぐい、と煽ったその途端。

「…んっ、ぐ…ッ。ちょ、ギンコ…!?」

 ぐりっ、と後ろを向かせられ、口内のドリンクを口で奪われた。イサザは気持ちの上だけでも飛び離れる。でも、既にギンコの両腕が、イサザの首や肩に回されていて、微塵も逃げられやしなかったが。

「…今、バイト帰りか」
「そうだけどっ。そうじゃなくって、もうこんなの…っ」
「こんなの、って?」

 低く擦れたギンコの声。盛っているのだとそれだけで分かる。ギンコは片手をイサザのTシャツの襟の内側に入れて、そうしながら彼の首筋を吸ってくる。イサザは辛うじてペットボトルの蓋を閉じ、それを放り出してからギンコの手を剥がしにかかった。

「ギンコ…っ、お前もう先生と付き合ってんだろ…っ!?」
「だったら?」

 言ったら止まると思ったのに、ギンコは行為をやめなかった。喉、首、肩へと吸い付き、容赦なく跡を付けながら、イサザのシャツをたくしあげて、胸まで弄る。今までだったら、疲れてても流されたし、したいことに付き合ったかもしれないけど、もうこれからは駄目なんだと、イサザは逃げようとし続けた。

 数度目にキスされて、口内に入ってきた舌を噛んでやろうとした途端、ギンコは半笑いしながら、やっと離れる。

「お、おま…っ、ほんっと、先生の気持ち少しは考えろよ! おんなじベッドってだけでも気にすると思って、わざわざ長期のバイト入れたんだぞ俺は…ッ」
「…あいつは気にしないぜ?」
「き…。馬鹿かっ、気にしないわけ…っ! やめろってっ」

 濡れた髪を指先で弄られて、イサザはまた声を荒げる。ギンコときたらめちゃくちゃ巧くて、表情で声で誘うのが巧いからタチが悪い。輪郭ボケるほど間近で見られて触られると、本気で抵抗しにくい。いや、しにくい、というよりも、このままじゃ…。

「いいもうっ、俺、余所に泊まるっ」

 パジャマ兼部屋着のスウェットのまま、着古しのパーカーを一枚引っ掴み、イサザはそのまま部屋の外に出た。心臓はバクバクと鳴っていて、足の間がじんわり熱いのは、さっき火を点けられてしまったからだ。肉体関係無しのフツーの友人に、ギンコとなるのは簡単なことじゃない。

 向こうがその気になってしまってから抗い切れた回数は、そういえば今まで0回じゃなかったか。こうして部屋を出てくるしか、止める方法が思い付かない。

「あー、もー。俺の部屋なのに」

 改めてパーカーの袖に腕を通し前を閉じて、自転車を引っ張り出し、暗い夜道をよろよろと漕ぐ。もう0時近くのこの時間に、泊めてよ、と訪ねていける種類の知人はこの街に居ないし、遠くの知人を訪ねようにも、終電は済んでるし、自転車だと厳しい距離だ。

「疲れてんのにさぁ」

 どこ行こう、駅舎で寝ようか。それとも、と、ぼんやり考えて適当に進む。喉が渇いて、ほんのちょっとしか飲めなかったスポーツ飲料を思い出し、ポケットを探ると小銭がほんの数枚。遠くに見えた自販機まで行って、ちゃりちゃりと硬貨を投入していたら、頭上から声が降ってきた。

「もしかして、イサザ君?」

 見上げると、辛うじて輪郭の見える人影が、夜空を背景に手を振っていた。

 こんな非常識な時間だというのに、上がって休んで行ってよ。と、化野は普通に言ってくれた。断る言葉も出て来ずに、イサザは初めてその部屋に案内される。こんな時にあがるのが申し訳なくなるぐらい、きちんと整理整頓された部屋だった。

「俺もなんか眠れなくて。丁度ね、飲み物買いに下りてくところだったんだよ。この町は夜は凄く静かだろう? 階段を下りながら、君の足音は聞こえていてさ。だから、まさか、徘徊老人でもいるんじゃ、って心配になったぐらい」  
「徘徊老人て」

 ひでぇな、とか、そんな軽い会話をしながら、隣り合ってソファに座り、それぞれで買った飲み物に口をつけて。

 五分経ち、十分が過ぎた頃に、イサザは自分の重大な失態に気が付いた。背中の方におろしてるパーカーの帽子を、両手で掴んで首の周りに、引っ張り上げてみたりしてみるも、哀しいかな、殆ど無意味だと分かる。

 だって「跡」は喉にも、鎖骨の周りにも。

「イサザ君、それ、さ」
「あっ、違うよ、これね。その、友達っ、バイト一緒の友達が、酔ってふざけてさー。あはは、参るよねぇ、はは」

 でも、化野は冷静に言い当てた。

「違う。ギンコのつけた跡だ。時々彼、一度軽めに吸って、もう一回吸うから、跡が薄く二重になる」
「………あーーー、もう…。ごめん。でもキスだけで未遂。逃げてきたから、ダイジョブ! 安心してよっ」

 謝ると、どうしてか化野は軽く吹き出した。

「いいんだ。他の人だったら、ちょっとは気にするかもだけど、イサザ君だったら気にしない。キスでも、セックス…、でもね」  

 何とも思ってない顔とは思えなかったけれど、確かに化野は取り乱しても居なかったし、怒っている風もなかったのだ。不思議だったから、イサザは逡巡したあと、聞いた。

「なんで俺だと、いいの? 一番嫌じゃない? だって一緒に住んでるんだよ? 誰より傍にいる時間長いし、昔からの付き合いだしさ。不安じゃ、ないの?」

 真っ直ぐ、静かにイサザの顔を見ていた化野が、する、と視線を逸らした。洗って乾かしたばかりらしい髪が、さらり、首筋を撫でて落ちる。耳朶のすぐ後ろに、殆ど消えかけの赤い跡があるのは、たぶん見間違いじゃなくて。

「だって、君は俺よりずっと彼を知ってて、彼は君の存在を支えにしてると思うから」
「先…っ。…先生さーー」

 はあーー、と長い溜息をついてから、イサザはソファから床へと滑り落ちた。今まで座っていた場所に頬を付けて半分顔を隠し、脱力仕切って呟くのだ。

「先生ってば、優し過ぎだよ。あんなヒトデナシとくっつけたの、俺、今更申し訳なくなっちゃうな」
「君にくっ付けられたわけじゃない。俺は彼のことを自分で好きになって、自分で近付いて、誘って、カラダの関係になったし、今だって彼を心底好きだよ」

 イサザはがばりと顔を上げ、彼の方からも真っ直ぐに化野を見て、首だけを前に傾けて謝った。

「今の、失言。ごめんなさい、取り消す」
「ありがとう」

 そんなイサザに向けて、にこり、と化野は笑ってくれる。それから彼は二人分の熱いコーヒーを入れて、目の前のテーブルに置いた。

「イサザ君、いつか君に聞いてみたいと思っていたことを、今聞いていいだろうか。彼のことだ。君は彼の『過去』をどれぐらい知っているんだろう? この町で君と部屋をシェアする前のことや、もっと前のこと…」

 問われて、イサザは答えた。

「ごめん、俺も知らない。でも、知らないままで居てやってくれ、って、ある人に言われたんだ」
 
 それを聞いた化野は、何度か、何かを聞きかけて唇を震わせて、でも結局は何も聞かなかった。自分の分の、まだ熱いコーヒーを、最後までゆっくり飲んで、そして小さく項垂れた。

「君が誰にそう言われたか、分かる気がするよ。そしてその人はきっと、俺にも同じことを言うんだろうなぁ」

 何があったか知ったとして、それで救えるものじゃない。それどころか知られたという事実で、彼をもっと傷つける。きっと、そういう種類のものなのだろう。

 罪

 命

 死

 どうして見えるのか知らない、幾つかのそんな言葉が、ちかりと胸で光って、化野は震えた。ならば俺に彼は救えないのか。イサザにも彼は救えないのか。ただ傍らに居て、その傷に触れないよう、触れないようにしてやるだけのことしか、出来はしないというのだろうか。

「…でもさ…っ」

 項垂れた化野に、イサザが明るく。

「でもっ、先生や俺やドラ爺がいるから、あいつ一人じゃないよっ。もし、誰かが昔、あいつの前から消えたんだとしても、この先俺らはあいつを一人にしないんだからっ」

 そうだね、と化野は言って、イサザの真っ直ぐな目を見て笑う。

「ほら。そういう君だから、彼が君と寝ても何しても、俺は嫌じゃないんだよ、イサザ君」

 これからもどうか彼の傍に居て。俺も彼の傍から、離れないから。





 イサザは一晩化野の部屋に泊めて貰って、翌朝に自分の部屋に戻った。ギンコはイサザから香った化野の部屋の匂いに気付いて、何とも言いようのない顔をする。

「へへっ、告げ口してきちゃった」

 イサザはそんな軽口を叩いたが、

「…は、好きにしなよ」

 と、ギンコは言って踵を返し、廊下と部屋の段差に躓いた。














 微妙に間抜けな始まり方をしたワンフレーズシリーズの新しいお話「Far far away」です。タイトルからして何かを予感させますが、まぁ、いつかは此処に辿り着いてしまうわけですよねぇ。

 書き始める前にワンフレーズシリーズを最初から読み、メモ書きにも軽く目を通しましたが、そこにも何処にも書いてないことをあらかじめ読みたかった。いや、何言ってんでしょうね。だって難しいんだもんっっっっ。頑張るしかない。

 このシリーズのギンコ、って書くの難しいけど、傷付いていて純粋で脆くて可愛いので、楽しみつつ彼らしく書いて行きたいですっ。難しいけどっ(二回目)。

 てなわけで、書き手がこんなですけども、どうか「Far far away」の彼らを見守ってやって下さいねv


2018.08.16