続・モノクローム
Closed door 8
「おいギンコ」
ごつ、と頭を張られたのは空港だったか。あまりにそこが、見慣れたままに何事もなく「平和」なのが気味が悪かったのを覚えている。だって、そうだろう? たった丸一日と少し移動しただけで、まるで別世界のようだったから。
こんなにものが溢れてて、誰も飢えていなくて、目の前を行き来する何百人、何千人の人間たちは、当たり前に明日も生きていくのだ。爆弾に吹き飛ばされる訳でもなく、家を瓦礫に変えられる心配もなくて、ざわざわ、ざわざわと、何も知らないで、平気な顔で。
「なぁんて顔、してんだよ、お前さん。……ギャップがおっかねぇかい? あんまし考えねぇことだよ、いつまでもぐるぐるしてっと、心をやられちまうからな」
頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられ、そのまま肩を抱かれて引き寄せられて、包まれる温もりに、ゆっくりと安堵したんだ。そうでなければ目の前の平和を、憎んでしまっていたかもしれない。
「聞きなよ、ギンコ。世の中には幾らでも不幸な人間がいる。でも、それが目の前に見えるんじゃなくて、自分自身や自分の身内の事じゃなかったら、心は動かされないもんなんだよ、人間ってのはな。でも、それでいいんだ。他人の不幸にいちいちズタズタになってたら、個人も世界もぶっこわれちまうから」
あたたかい温もりをくれながら、噛んで含めるように、そうやって何度も何度も、同じ意味のことを教えてくれたあんた。
不幸なのはずっと自分で、
知らぬ顔して通り過ぎていくのが他人たちだと、
心の何処かで思っていたんだ。
それで普通だ当然だと、分かったふうで、
本当はいつも苛立ってたさ。
でも少し視野を広げただけで、違うと分かった。
ちゃんと、教えて貰った…。
なのに。
ひとつの不幸の欠片も知らずに、無邪気に笑う子供を見た時、ぽつりと小さな苛立ちが、一息に胸へ広がり掛けて。
あんな小さい頃は、笑い方が分からなかったっけ。
大人に手を引かれた覚えもない。
放り置かれて、人形みたいにじっとしていたら、
楽だ、とかって、初めて褒められたっけな。
「だから、そうやって人形なんかになってんなよ。お前はちゃんと人間だよ。まだなれねぇってか? しゃーねぇなぁ、だったらまだ傍にいな」
でもその温もりも、奪われた。
…っ…ドぉ ---------…っ…
音、振動。
体が震えた。目に映るのは、けれど、砂礫や瓦解した街ではなく、赤黒い色でも、なく。
『 …ん番線に、電車が… せんの内側まで… 』
今のは電車がホームに入る音だ。鼓膜を破るほど変に大きく聞こえたのは、多分気のせい。雑踏に混じって届く、切れ切れの案内の声。そして、息のかかる距離にあるのは、
「すま…ない…。止めるべき、だったんだろうけど、動けなくて」
真っ白い、紙のような顔色の癖、頬だけうっすら染めたスーツ姿の男が、救急用の狭いベッドに仰臥して、両手を体の脇で押さえ付けられ。
彼を押さえつけているのはギンコだ。伸し掛かったのもギンコの方。からかう様な言葉を吐きながら、何度も口を吸い、深く重ね、舌を無理に絡ませた。それなのにこの男は…化野は、酷く心配そうな顔をして、ギンコの顔を覗き込んでいる。
「その…大丈夫かい…?」
「…なにがだよ」
抑揚の無いギンコの言葉が問い返す。化野は逡巡しながら、それでもはっきりと自分の感じたことを言った。
「いや…だから…。最初、君の唇は熱いぐらいだったのに、途中から温度が引いて、し、舌まで冷たくなったよ。口内を愛撫はしてるけど、なんだろう、楽しんでるようにはとても思えなくて、君の動悸も、変にゆっくりになっていくし、まるで…」
自分にも流れ込んできそうな、怖ろしいような、それ。
「まるで、目を覚ましたままで……悪夢に、うなされているような、そんな気がしたんだよ。なんだか酷く、苦しそうで、なのに俺は体に力が入らなくて、助けられなくて」
口づけを解いたあとの、まだ濡れた唇のままで、化野は心底心配そうな顔をしている。伸べた手で胸に触れられて、びくりと、またギンコは震えた。怯えた目で化野の手を見て、けれど無理にでも彼は笑い、平気な振りで軽口をきく。
「助けてくれるって? なら、冷えた体が温まるようなことを、しようか?」
「…温まる、ような…こと」
たどたどしく繰り返して、続ける言葉に暫し迷って、化野はギンコの目を見た。そしてこう言った。
「いいよ…。明日も仕事があるから、この近くのホテルで、ってわけにいかないけど、家に戻ってからなら。帰宅したら深夜二時近いね。でも出張の後のシフトは、十一時まで出勤すればいいはずだし、最悪、今夜は寝ないつもりになれば」
「…あんた」
「頭が固いと思われそうだけど、俺はそういうタイプだから、先に言っていいだろうか」
何かを言い掛けたギンコに、化野の言葉がかぶさる。
「…君が、好きなんだ」
真っ直ぐにギンコの顔を見るなど、出来てはいなかったが、それでも彼が伝えたいことが、言葉から溢れ落ちていた。
分かって欲しい。
俺は簡単に誰とでも寝るような人間じゃない。
好きだからさっきのキスも嫌じゃなかった。
好きだから、こんな俺で力になれるなら、
寝るのぐらい構わない。
寧ろ、欲しがって貰えるのが、
きっと俺は、嬉しいんだ。
だから君となら、だから…。
言葉を聞き終えて、真剣な化野の姿を眺めて、何が言いたいのか恐らくはほぼ理解して、それからギンコは、軽く吹き出した。
「ふ…、はは…っ。あんた、ほんとに危なっかしいぜ? ヤってる最中の写真撮られて、ばらまくぞ、とか脅されたらどうする気なんだよって」
「え。そんなこと君がするとは思えない。それに、今はカメラ持ってないじゃないか」
「あぁ、古いカメラだし色々無茶させてきたヤツだし。しょっちゅう調整とか分解清掃とかいるんで、今日また預けてきたんだ。でもカメラなら持ってるけどな、ほら」
ギンコは上着のポケットから、手の中にすっぽり収まるようなコンパクトカメラを取り出す。片手で操作して、化野の顎から下、胸までをアップで撮る。
解いたネクタイが首にぶら下がり、シャツのボタンを半分まで外した様だけを、あえて区切って撮ったショットは、酷くソレっぽく見え。それを見せられて絶句して、消してくれるよう化野は頼んできた。ギンコは応じないで、笑っている。
「いいだろ。余程あんたの体を知ってるヤツじゃなきゃ、これがあんただなんて分かりゃしねぇって。今日の記念だ」
「や、でも…っ。それだったらもっと普通の」
なんとか消して貰おうと、触れたギンコの手はもうっすらと温かかった。ほっとして無意識に指を深く絡めて、よかった、と化野は言ったのだ。
「寒いと、心は弱るんだよ。まだもっと温かくなった方がいいけどね。…うち、来るかい? 本当に、俺は」
「…すげぇ誘惑、タラシはあんたの方かもな。そろそろ終電だ。家までちゃんと送ってやるさ。着く間での間に気持ちが変わったら」
「変わらないよ、そんな軽い気持ちじゃ…っ」
絡めたままの指で、すり、と、ギンコは化野の指と指の間をなぞった。たったそれだけのことで、ぞくりとさせられる。本当に、火が点きそうになる。
「いや、そうじゃなくてさ、俺の気持ちだよ。あんたが家のドアにキーを刺した時、俺がそういう気分だったら…ってことだ」
「…っ、ぁ。えと、終電、今、時間はっ」
指だけの愛撫に耐え兼ねて、化野は慌てて手を捥ぎ離す。縺れそうな足でベッドから下り、テーブルにある鞄を引き寄せ、ケータイを取り出そうと焦って、鞄を逆さに落っことしてしまう。数枚の書類が床を滑って、ギンコの足元でゆっくりと、止まった。
続
難しいけど楽しく書きましたっ。それにしても、過去の断片がよく出て来ますが、これ、なんのことだかさっぱりですかね? 当たり前ですが、惑はある程度過去もこの先も知ってて書いてるので、そういうの書く上であんまりないことだから、どうしていいのか悩みますっ。
はぁ、早く進めたいっ。
今回、化野先生のキャラがとても気に入りました。なんといさぎよい!(え、違う?)
14/04/12
