注・少し怖い描写があります…。
続・モノクローム
Closed door 7
化野は最終電車の座席で項垂れていた。少し、気分が悪かった。風邪気味で微熱があったから薬を飲んだのだが、ここのところずっと思い悩んでいることがあって、ぼうっとしていたら、何か間違えて飲んだらしい。
医者にあるまじき、だな、と苦笑しながら、予定通りに家に帰りたくてて、ぐらぐらくるのを無理にホテルを発った。揺れる電車の振動に、軽い嘔吐が込み上げる。それを必死で堪えながら思っていた。
馬鹿だな、俺は。
今悩んだって仕方がないのに。
ぐるぐるといつまでも。
ヨウコちゃん。あの子が今のままで居るのが容易くとも、これからまだまだ、ずっと長い年月を生きていく為に、今のままではいけない。いつまでも、クマちゃんと自分と母親のいる世界にだけは居られない。
それで化野は、専門の医師のところへ話を聞きに行っていたのだ。けれど、結果はただ、打ちのめされて帰ってきただけだ。薦められた方法は、彼女からぬいぐるみを取り上げること。いきなりが無理なら日に数時間だけと決めてヌイグルミを与えて、時間になったらやはり取り上げる。
乱暴な方法だと思う。時期は選べるが、結局はそれしかないのだと言われても、簡単にそうしようとは思えなかった。
彼女は泣きはしないかもしれない。けれど、何も起こらないわけではない。意識が朦朧として、食事が喉を通らなくなり、それでもヌイグルミを渡さなければ、あの子の時間は、恐らく過去へと戻る。父親が事故で死んだ日へと、戻って行く。だって、あのヌイグルミは、あの子にとって…。
化野だとて聞いた話でしかないが、教えられたその日の事が、変にリアルに脳内再生される。
夜遅くにタクシーで、家に帰ろうとしたヨウコちゃんの父親は、横から突っ込んできた飲酒運転の車のせいで死んだ。家の目の前での事故だった。幼い娘のために買い求めた、大きな黄色いクマのヌイグルミを、必死で体の影に庇っていたのだという。
父親は即死、ヌイグルミは血塗れ。事故の凄まじい音で目を覚ましたヨウコちゃんは、窓からそれを見てしまった。父親の死を理解できない娘の為に、母親が作った黄色いクマのヌイグルミ。それは、ヨウコちゃんにとって、戻らない父親の代わりなのだろうに。
「それを、無理に取り上げるだなんて」
つい、言葉に出して言った。ここは走る電車の中だ。でも傍には誰もいなかった。同じ車両の逆端に、柄の悪そうな数人が居て、彼らがちらりと化野を見た。少し笑われたようだが、そんなことを気にしている気持ちの余裕はない。
いつ言ったらいい、どう言ったらいい?
ヨウコちゃんの母親はどう思うだろう。
それよりも、本当に他に方法はないのか。
答えが出ない。嘔吐感が酷くなった。視野がずっと揺らいでいた。終電は走り続けている。各駅停車で止まっても、一番後ろのこの車両には、誰も新たに乗っては来ない。
普通に座席に座っているのも辛くて、横の手すりに寄りかかる。膝の鞄がシートへずり落ちたが、誰もいないから構わない筈。
目の前が軽く旋回を始めて、このまま乗っていて大丈夫だろうか、降りて歩けるのだろうか、と今更のように化野は思っていた。
危なっかしい。
視野にある見知った姿にそう思う。偶々だろうが、また同じ電車に居合わせて、化野は妙にガラ空きの隣の車両。境目の窓越しにその姿を見るでは無く見て、ギンコも電車の揺れに身を任せていた。
自分のいる車両がまあまあ席も埋まっていて、一番端の隣の車両が空いている理由は、ちょっと様子を窺えば分かること。四、五人の危なそうなのがたむろして、あれは、そう、スリだのひったくりだのなら、平気でやりそうな群だろう。
しかも化野はどこか具合が悪そうで、荷物なども膝で抱えていられず、滑り落ちたまま横のシートに置き去りで。
カーブで車両が揺れて、化野の鞄が床に落ちた。流石に気付いて手を伸ばしているが、前屈みになった途端に、胸を押さえて化野は蹲る。ギンコはそれをみて、急ぐでもなく、隣の車両へと移動した。
近付いて、鞄を拾い上げ、それを化野の膝へと渡し、親切な人が、と顔を上げる化野の視線を待たず、彼の隣へと腰を下ろす。
「寄り掛かりなよ、具合、悪いんだろ?」
背中に回した腕で、ぐい、と強引に引き寄せ、化野の頭がギンコの肩に乗る。
「あっ、いや、あの…」
知らぬ相手、しかも男にそんなことをされては、と、済まなさと、あとは一応世間体から、身を強張らせる化野の視線が、間近にあるギンコの横顔に止まる。目を見開いて。
「…ギン…っ」
「あんたとはよく偶然会うよな…?」
笑う顔に、眼差しは釘付けだ。
「にしても、あんたさ、無防備過ぎだろ? 気ぃ付いたら鞄ごとなくなっててもおかしかないぜ? あんなヤバそうなのと、平気で一緒の車両にいるし、なんかふらふらしてるし」
ヤバそうなの、と言いながら顎でそちらを差すギンコだが、凄んでいい相手、とは認識されていないらしい。滲むような、なんらかの凄みでも感じるのか。
「もう終点だ。一人で歩けなさそうなら俺が支える。そんであんた、どっか入って吐いた方がいい。酒の匂いはしねぇけど、吐きたいんだろ?」
「いや…ただ薬を多分、二度飲みしただけで、今に…」
化野はそう言った。寄り掛かったのを何とかしようと、思うばかりでうまく体が動かず、結局はまるで…男女の恋人同士か何かみたいに、寄り掛かり、寄り掛かられの姿でいて。
「医者の癖に? …なぁ、足掻くなって、そう嫌でもないだろ?」
言いつつ指先で、く、と顎を上げられて、その時確かに唇が唇に、軽く…。かすめるだけだったけれど、今のは紛れもなく。
「な…っ、こ、ここ…っ。電車…ッ」
「その切り返しも随分と無防備だけどな。電車じゃなきゃ、いいのかって。あぁ、終点だ、支えるから、立ちな、ほら」
震え上がり、突き放そうとした手を逆に取られる。自然なように支えてくるのがうまい。ホームに降りたものの、急に動いたせいか足元が定まらず、ますます眩暈に、吐き気。ここで吐くわけにいかないと、口元を強く押さえた。
「ゆっくり休めるとこに行くかい?」
言ってから、くく、ギンコは笑うのだ。
「頷くなよ? そしたらホテル直行コースだ。少しは警戒心ってもんを持ちな」
「俺、は…っ、う…ぅ」
返事どころではない、支えられながらホームに吐瀉するとか、極力避けたいに決まっている。想う相手に、そんな無様な、最悪な…。
待て、今、ホテルと言ったのか?
そこへ、行くって?
お、俺はそれで、うんと言ったのか?
混乱しているのが分かるのだろう、間近にあるギンコの顔が、またおかしげに笑って、彼は駅員に手で合図をした。見ていて多少の察しはついていたのか、直ぐに救護室とプレートの貼った部屋に案内される。
駅員が慌てたように、医者がここには居ない旨、多少の救急道具しかない旨伝えてくるが、ギンコが一言「この人本人が医者だから」と言った途端に黙った。ただ休ませて欲しいだけだとも言い添えている。
「狭いけど一応ベッドがあるな。けど横になるより先に」
駅員が居なくなってから、椅子に化野を座らせ、支えに出来るよう両腕を机に乗せさせ、それからギンコは一度傍から離れた、部屋を出てすぐのところで、自販機のミネラルウォーターを二本。
「立って。 そこの流しのところで、 水飲んで、 吐きな」
言葉をゆっくり伝えながら、その通りに誘導して、流しで化野の体を前屈みに。横から抱きかかえるように腰に腕を回され、背中を摩られ、えづいても吐けないでいたら、今度は口にギンコの指が。
「んぅ…っ、そん…っ。じ、自分で…ッ」
「喋ってる暇があるなら吐けって、口、開けて」
「…んッ、ぐ…っ」
少し水を含んでは、ギンコの助けで吐いて、吐いて、吐くたびどんどん楽になった。楽になると、体を抱くように包むようにされているのが気になって、顔や首筋が熱くなる。こんなに人と距離が近くなったのは、子供の頃を除いたら初めてだと思う。
「も、もう…大丈夫だから…。その、なんとお礼を…」
「礼なんか別に。こっちも悪くない気分だったしな。一応、横になりなよ、そこ」
言われるままに、今度は狭い寝台へ。支えがなくとも歩けて、吐け気も眩暈もほぼ消えていて、化野はほっとしていた。それほど時間はたってないから、まだ乗り継ぐ電車はある筈。日付は跨いだが、なんとか家に帰れるだろう。
横になって息をついていたら、ギンコが独り言のように呟いた。
「にしても、なんでかな。同じ町に住んでるのに、あんたとはよく外で会う。院長先生は、そんなに出張が多いのかい? 学会とか、研究発表とか、そういう?」
「いや、今日は…別の医師に教えを請うことがあって」
そう言って表情を曇らせた化野が、ふと気付いてギンコに尋ねた。
「カメラは今日は、持ってないんだね…。この前、君の撮った写真を一枚だけ見たんだ。ポストカードだったけど」
ちり、と皮膚の産毛が逆立つような、気がした。ポストカードは確かにイサザが一枚持ってる。そんなものを何処で手に入れたのか、気になったが聞いていない。それを追及することで、何かが揺り起こされてしまいそうな気がしたからだ。
けれど、追究しなくとも、化野がこうして聞いてくる。
「なんだか少し淋しい感じがして、もしも見せてくれるなら、そのうち他…っ」
「……」
「ん…っ!」
ぼんやりと、寝台に仰臥して話していたその唇が、また奪われた。今度は生易しくはない、深く重ねて、吸って、舌を。一度は何処かへ行った眩暈が、また彼を襲っていた。前後左右が一瞬で分からなくなり、抵抗することすら思い出せなかった。
でも、あることを辛うじて思い出し、必死でギンコの胸を押し戻す。
「…はっ、吐いたばかりなんだよ、だから、や、やめ」
「あんたの言うのを聞いてると、電車の中とかじゃなく、吐いた後でもないならOKだって言ってるように聞こえるよ。それで解釈はあってんのか?」
笑い顔に、また更なる眩暈。今更のように思った。さっきホームで吐き気を堪えながら、確かに化野はこう思ったのだ。ギンコのことを「想う相手」だと。
続
物凄く読み返して、物凄く色々考えて、ギンコについてメモとって、よし、と思いつつも、書きたいところをすぐに描写できないのは、仕方ないのでした。ぐぁーっ、もどかしいっ。とりあえずこの二人もう……
ですよっ。
そんな感じの7話ですっ。
14/03/23
