続・モノクローム

Closed door 6







 最近よく眠れない。疲れを溜めてる自覚はいつもあって、前ならベッドで横になった途端に、体が沈み込むみたいにすとんと眠りに落ちたのに。それどころか家で眼鏡を外した途端に、眠気に襲われて困るくらいだったのに。

 理由はちゃんと自分で知ってる。寝ようと思って横になっても、目を閉じると同時に思い出してる声があって。そう、この前、真昼の公園で、ヨウコちゃんと一緒に居た時に会った、ギンコ君の。

 あんたが見たいんなら見飽きるまで見てれば。

 見飽きるまで見てていい、だなんて、凄いセリフなんじゃないかと思った。なんていうか、自信がある人の言い方。だけど言われたあの時、思ったんだ。あぁ、見ていたいなぁ、って。どうかしてる、だろ。そんなこと、今まで思ったことがない。

 ましてやそれだけのことを、随分経った今になっても、こんなに思い出して寝付けないとか。言葉を交わしたのは二回だけ。見掛けたのを含めても、会ったのはたった三回。また、声を思い出した。今度はギンコの声じゃなくて、それもまたおかしな安堵。

 一度しか会ってないとか関係なくって、
 あいつ、昔からタラシなんだよね…。

「…あぁ、もう。これじゃ眠れる気がしない」

 起き上がって、ホットブランデーを。ごく薄くしてグラスに半分。もう早朝の三時だ。朝まで酒が残っては意味がない。飲みながら、またあの声が耳に返ってきてしまっている。

「飽きるまで、って言ったって。その為だけに君に会いにいくとか、そんな」

 だけどギンコがそう言うのを見越したように、あるいは化野がこんな気持ちになるのを知ってたみたいに、イサザはこうも言っていた。

 会いたかったらたまーに、俺んとこ来てみて!
 場所はヤスイチスーパーの…。

「……仕方ないよ。もう、睡眠不足、限界だし。解決法が分かってるのに、いつまでもぐだぐだって、女々しい」

 行こう。会いに。明後日は医院は休み。そんなに書類もためてない。一度決めるとすっきりして、こうするために書類を頑張っていた気がするほどだ。

「うん、寝よう。…おやすみ」

 無意識に口にして、今、俺は誰にそう言ったのだろう、と、寝落ちる寸前に思った。




 お土産は大袈裟じゃないように、有名メーカーのパックのアイスコーヒー。1リットルのもの。冷えたのを買い求めて、ちゃんと冷たいうちに訪ねて、一緒に飲む流れになれば、という化野の作戦だ。でも買ってすぐに件のアパートを見つけ、外階段を上がりながら急に思う。

 グラスに注がなきゃ飲めない、大きいパックのコーヒーをお土産に、って。それは部屋にあげて貰う前提じゃないか! 何やってるんだ、俺は。でも、もう階段を上がった先にドアが見えてるのに、今更買い直ししにいくのは、どう考えても間が抜けてる。

 ままよ、と思って、ドアベルを押した。ぴーーんぽーーん。やや音割れしたような呼び出しベルが鳴って、待つこと暫し。留守ってことも、あるのか、と、漸く思い至った頃、返事より先に鍵を解除する音、そしてノブが回る。

「あ、あれ…っ?」

 顔を出したのはイサザ。勢いよく開き過ぎで、あやうくドアが化野にぶつかりかけた。

「っと、すみません! だいじょぶだった? 今、電子レンジが届くとこでっ、電気機屋さんかと…っ」

 そこまで言って、イサザはほかりと目を見開いた。

「化野先生…? びっくり。ほんとに来たんだ」
「…あ、」

 言われて、途端に居た堪れなくなった。会いたかったら来て、だなんて、考えてみたら何処にでも転がってる社交辞令。しかも本人に言われたわけでもないのに。化野は顔が全然見えなくなるぐらい俯いて、そのままで、アイスコーヒーの入った袋をイサザに差し出した。

「これ、その飲んでくれれば。お礼、みたいなものだから」

 今更、なんのお礼だか。心の何処か隅の方で、ますます自分が居た堪れなくなることを思ってしまう。そうしたら、いきなりイサザはコーヒーの入った袋じゃなくて、化野の腕を両方ともしっかり押さえて、ごめん、と言った。

「ごめん。ごめんなさい…! 俺ほんと言葉選ぶの下手なんだ。あの、来たのがちょっと意外ってだけで、来てみてって言ったのはほんとに本心っ。ギンコと先生は似合うと思うし、だからあのっ」

 俯いたままの化野の耳が、可哀想なぐらい赤かった。それでも彼はイサザの言葉に焦って、ちょっと体を斜めにして部屋の中を窺った。イサザがこんなことを言葉にしてて、部屋にギンコもいて聞いていたりしたら、多分、このままここで卒倒する。

「あ、ギンコ留守だよ、っていうか、もうかなり帰ってなくってさ。なんで安心して。あれ? このコーヒー美味しいヤツじゃん、やった! 一緒に飲もうよ。時間いいんでしょ? あがって」

 部屋は男の二人暮らしにしては、小綺麗に整っていた。ワンルームのように見えて、廊下脇に小さめの部屋が一つと、バスとトイレは別に。小部屋にはなにやらいろいろ詰まっていて、使っていない部屋といった感じ。

 キッチンと、小さなダイニングテーブルもある部屋の、一番奥の窓際にベッド。その手前に小さい折り畳みテーブル。もう一つ、パソコンの乗った机もあって。それでもごちゃごちゃ見えないのは、部屋が案外広いからか。

 一瞬でそこまで見て、ちょっと違和感を感じたけど、考えてる場合じゃないような事をいきなり聞かれた。飾り気のないグラスに注いだコーヒーを、飲む余裕は戻ってきてくれるだろうか。

「で。どうしたの? この間公園で会ったって聞いたけど、それからもう結構経ってるよね? 会わない間にあいつのこと、もっと好きになっちゃった?」
「や…っ。そ…」

 口篭もる化野から、イサザはふい、と目を逸らした。なんか目の毒。先生ってば、また耳どころか首まで赤くなっちゃって、今日ここに居たのが俺じゃなくて、ギンコだったら、今頃どうなってたか、考えるの怖い。

「美味しいね、これ。あ、俺ごめんね。敬語とかほんと駄目で、仕事ではいちお簡単なの言うけど、プライベートで敬語使ってると、自分の思ってること全然言えなくてさ」

 化野は返事をしない。アイスコーヒーにも口を付けない。ダイニングテーブルの上の一点を見たままでいる。イサザはグラスを空にして、それから化野の視野の外に出た。奥のベッドまで言って、そこに乱暴に腰を落とす。

「せんせいさー。人、好きになったのとかって、もしかして初めて、だったり…」
「…そう……、…れない」

 そうかもしれない、って多分、言った。「好き」ってのは便利な言葉で、ちょっと気が合うなっていう好きもあるし、試しに付き合ってもいいかなー、ぐらいの好きも。そして、愛してる、のかわりに使う好きもある。イサザは今、二番目と三番目の間ぐらいの意味で聞いた。そして化野も、きっとそういう意味で答えた。

「そっかー、じゃさ、俺、応援するから。前に…ギンコにも言ったんだよね。先生のこと本気で好きになるなら、応援するって。俺、まだそんな喋ったことないけど、先生がいい人なのはちゃんと分かるからさ」

 ちらり、化野の方を見ると、ようやくコーヒーを一口飲むところ。まだ顔は赤いまんまで、グラスを持つ手が少し震えている。同性愛とか、どう思ってるんだろ。人を好きになったのが初めてって言ってるのに、そんなことを聞くのは駄目な気がする。

「ギンコのことでさ。なんか聞きたいこととかあったりする?」
「……どんな…」
「どんな? あ、答えれないことはあるよ。知らないこともきっとたくさんあるし」
「どんな、写真を撮るんだろう、って」

 聞かれた途端、見せたいなって思った。きっと凄く惹かれると思う。態度やなんかで見えないギンコのいいところが、綺麗な写真何枚かですぐに分かって貰える。まさか勝手に見せられないし、見せられる場所に放ったらかしになってたのは、少し前までの話だけど。そう、イサザが勝手に化野に見せられる写真は、たった一枚。

「見る? ポストカードだけど、これ」

 本に挟んでしまってあったのを取りだして、化野の傍まで来て差し出した。

 化野はグラスの水滴のついた手を、ハンカチでちゃんと拭いてからそれを受け取る。モノクロの写真だ。都会の、コンクリのビル壁と、罅の入ったアスファルトの地面だけを撮った、風景写真とも言い難いほどの、無機質な。

「……とても淋しい写真だね。辛いことから抜け出せずにいる人が、逸らせずに見ている景色みたいだ」

 言われた途端、イサザの心にすとんと何かが落ちてきた。何かが分かったわけじゃないし、何かの答えを貰ったわけでもないのに、ただ、そうか、と思った。

「先生、凄いね。俺、尊敬するよ。もっとそういうふうじゃない写真も、少しはあるんだけどさ。ギンコ、見られるの嫌がるんだ」
「……そう…」

 それは、何かから立ち直ろうとしている自分を、人の目に触れさせたくないからだろうか。自分でも、そんな自分を見たくないからだろうか。それでも撮るのは、本当は安らぎたいからなのだろうに。

「美味しいね、このコーヒー。またお土産にこれを買うから、来てもいいだろうか」
「いいよ! 勿論。手ぶらでもいいけど、ちょっとそれだとカッコ付かないかな」

 お見通し、ということだと分かって、また少し化野の耳が染まった。

「な、もう俺とは友達ってククリでいい? 最初っからこんなタメ口だけど、一応さ、今日からってことで」
「勿論、いいよ、イサザ君」

 差し出されたこの手は、握手? 友達になるとき、握手っているっけ? イサザは不思議に思いながら、それでもそのあたたかな手に手を重ねた。ありがとう、と呟いた笑い顔を、ギンコに見せたらどんな顔すんだろ、などとイサザは思っていた。

 早く帰ってこないと、俺と先生、すぐでも「イイ友達同士」ってやつになっちゃいそうだよ、お前が知らない間にさ。だから、ギンコ、お前を待ってるここへと、早く、早く、帰ってこい。






 

 




 
先生がこんなに可愛くていいんでしょうか。総合病院院長のこの凄まじき可愛さっ、この破壊力! どぉりで看護士さんや患者さんにも大人気だよ! いいなぁ、七夕町! 住みたいっす!

しかしギンコとそういうふうになったら、苦労するに決まってるっていう、ここで惑のサドっぷりがですねっ。あぁぁ、ごめんなさい、先生っ。でもこの話で誰が一番苛められてるって、ギンコだよね。過去からさー。

というわけで、進むの遅くてごめんなさい6話です! 
 

 
14/03/02