続・モノクローム

Closed door 4









 小さな手で縋り付かれて、化野はやんわりと笑顔になった。

「ヨーコっ、ヨーコねっ、お昼ご飯せんせいと…っ!」

 ここは病院の、外来と中央棟を結ぶ渡り廊下だ。目を通したい書類は山積みだし、食欲なんかないから食べないつもりだったけど、そう思っていた気持ちが、見る間に溶けて緩む。

「だ、駄目よ、ヨウコ、先生はお忙しいんだから」

 気兼ねして困っている母親へと、ゆるりと首を横に振ってみせ、化野は芯からの本音で言う。

「構わないです。正直、助かってるぐらいで、お母さん。ヨウコちゃんのお蔭で、たまにはまともにお昼を食べるようになれましたからね。じゃあヨウコちゃん、今日は先生とお外でご飯食べようか」

 お母さんはもしよかったら、付き添いの方用の仮眠室で、少しだけ横になったら? そう、さり気無く化野は付け加えた。慣れていることとは言え、心の病を持つ難しい子供を、24時間見ているのがどれだけ大変か、化野には分かっている。何度も遠慮しつつ、母親も最後には娘の頑固さと、化野の微笑みに根負けした。

「す…すみません、それじゃあ、本当にお任せして。ヨウコっ、いい子にして先生の言う事よく聞くのよ? ヨウコが悪い子になったら、クマちゃんも悲しむからね?」
「うん、うんっ。ヨーコね。あのね、オムライスっ!」

 母親の言葉に、こくこくと頷きながら、それでも心はもう好きなメニューへと飛んでいる。

 化野はその子の手を引きながら、彼女が斜め掛けにしている赤いバックから、クリーム色のふわふわしたものが覗いているのを確かめた。母親の作ったクマのあみぐるみ。ずっと心の病のこの子は、それがないと心のバランスを崩してしまう。

「いいよ、先生今日、中番で昼休憩いっぱいあるから、ゆっくり外を散歩しながらいこうか」

 ちら、とナースセンターを見ると、二、三人のナースまでが真顔でこくこく、と何度も頷き、ちゃんと食べて休んできてください、と無言で化野の背を押していた。そうして化野は、柔らかな陽光の中外へ出た。季節はもう春。散歩の心地いい時間帯でもある。子供の歩調に合わせ、拙く話し掛ける声に返事をしながら、ゆるり、ゆるりと町の反対側まで。

 イサザのいるCDショップの前も通ったが、どうやら今はいないようだ。丁度正午ぴったりにカフェに入ると、隣の小さな病院の看護婦も兼任している、働き者のウェイトレスが水を持ってくる。

「あらぁ、ヨーコちゃん、今日は先生とデートなのぉ、羨ましいなぁ。この先生モテるのよぉ?」
「でぇと、って、なぁにー?」
「え? えーっと、あの…あとでお母さんに聞いてみて?」

 小さな子供に分かる言葉が、すんなりとは出て来なくて、彼女はヨーコのお母さんに丸投げの構え。くすり、と笑う化野の横顔に、うっかり見惚れたせいでもあるか。

「じゃあ、俺はこのA定食と、飲み物はコーヒーで」
「ヨーコね、オムライスっ。おこさませっとのっ」
「はいはい、かしこまりました。お客様方、少々お待ちくださいませねー」

 お昼丁度だから、店内は混んでいる。カウンター席まで埋まってほぼ満席だ。この店には慣れているのか、ヨウコちゃんは自分で好きな絵本を持ってきて、クマちゃんに読んで聞かせたりしている。たどたどしい語りは、じっと聞いていると心地よくて、うっかり眠ってしまいそうな。

 ヨウコちゃんは本当にいい子で、食事が来て、ちゃんと食べられる量を食べ終えるまで、おイタもヨソ見もしないお行儀の良さ。生憎、子育ての経験のない化野だから、こんな子でなければ気安く預かれないのが本当のところだ。

 余所でよく見る、ヤンチャな子が相手だったとしら、彼の食事や休憩になど、なりはしないだろう。

「もう、いいのかい?」
「うんっ、ヨーコお腹いっぱい」

 今このまま店を出ても、休憩は半分も使えていない。かといって、まだ客の入りそうなこのカフェの席を、塞いだままというのも…。

「あったかいし、すぐそこの公園でも行こうか」
「…うん……」

 窓の外の青空を見上げながら、化野はそう言った。ヨウコちゃんは何かをじっと見たまま、何やら夢中になっているような。

「ヨウコちゃん? どうし…」

 そうして化野の言葉と眼差しも止まった。ガラス一枚越しの向こうに、日の光を浴びた、白い。

「きれーい、まっしろー」

 あぁ、本当だ。
 綺麗で、白い。

 子供は無邪気でいい。などと、化野は心の何処かで思っていた。だってこんなふうに、思い浮かんでしまった事をそのまま言葉にしても、ちっとも変じゃないし、恥ずかしがることもないから。

「…ギ……。あ、じゃあ公園いこうか、ヨウコちゃん」

 ギンコの歩み去った方向に、芝生と花壇と水飲み場ぐらいしかない、小さくてささやかな公園がある。レジで急いでお金を払って、またヨウコちゃんの手を引いて、化野はギンコの後ろ姿を眺めながら行く。

 見ていたら、ギンコの目的地も同じらしく、こちらを振り返ることもなく、彼は公園の小さな柵を通り過ぎた。少し後ろに離れているせいか、化野はずっと気付かなかった。その手には、立派な黒いカメラ。

 あぁ、やっぱり、写真を撮るんだ。
 仕事でだろうか。趣味だろうか。
 どんな写真を撮るんだろう。
 この小さな公園が、この草や木や光が、
 彼の目は、どんなふうに映って。

 思い始めたら心は止まらない。聞いてみたい。話し掛けたい。話し掛けてもいいだろうか。前に電車の中で見た時のように、張り詰めた雰囲気ではない今ならば。話し掛けるなら、どんなふうに話し掛けたら…。

「あんた」

 振り向いた顔が、真っ直ぐに化野を見た。あまりに突然で、化野はヨウコちゃんの手をしっかり握ったままで、慄いたように足を止める。ギンコの視線が、自分自身の手の中のカメラに一瞬落ちて、それからまたゆっくりと上げられ。

「それは癖なのかい? 随分、人をじっと見るんだな。…この間もそうだった」
「この、間」
「見てたろ、俺のこと。俺が目を閉じている間も、ずっと」

 いつのことなのかすぐに分かった。気付かれていたなどと思わなくて、ここは詫びるべきところだろうかと、どこかで遠く思いながら、口が中々言葉を紡いでくれない。結局零れ出たのは、詫びでも何でもない、言葉の欠片だけだった。

「つい、目が行って。つ、つい、逸らせ…なくて」
「そんな狼狽えなくていいぜ? この見目だ、慣れてるさ。あんたが見たいんなら、見飽きるまで見てれば」

 逸らさせない直視が、仕返しのようにずっと化野を見つめ続けている。眼差しは時として、痛いものなのだと初めて知った。こちらから逸らす自由なんか、もう無い。

「で…も、俺は、そういう」

 化野が零した言葉に、まだじっと見つめたままで、軽くギンコが首を傾げる。浮かべたのは笑みだろうか。唇の端が、ただ軽く…。 

「…そういう、って? あんたイサザに会ったのか? いつ? 会って何か聞いたんだろ。そうでなきゃ、そういう話にも空気にも、ならない筈だしな。ま、どっちにしろガキの傍でしていい話じゃないか」

 ふい、とギンコの視線が逸らされる。同時にあっさり背中を向けられて、追い縋る勇気はなかった。ヨウコちゃんが、ほんの少しの花を咲かせた花壇を見つけ、そっちへ手をひっぱってくれる。

 これは、怖気た心を分かって、逃げ出すのに手を貸してくれたのか…? そんな筈もないのに、化野はそう思った。

「は、走っちゃだめだよ、ヨウコちゃん、転ぶよ」

 言いながら、子供の背を追い駆けていく背中を、もう一度ギンコは振り向いた。手の中のカメラのОN/OFFを意味なく指が弄る。レンズのキャップは今は外さない。ファインダーも覗かない。ただ、ギンコは小さくこう言った。


「これで、いいのかい?」


 俺はもう、魂を磨り潰された空っぽの生物なのに。もともと心など持たない人形みたいなものなのに、そんな俺に、まだあんたは。ギンコの脳裏に映る男の顔が、苦笑混じりの嬉しげな、とても不思議な顔をしている。そしてその唇が動いて、こう言っていた。


 目ぇ逸らすな。
 てめぇがとりたいもんを、
 さっさととれよ。


 

 










 医者は患者の体を治す場合が殆どですが、それは「体」というものが、心を入れる入れ物だからなのだと思います。そんなことを思いつつ書いた、ドアーの4話。読んで下さった方、ありがとうございますっ。


14/01/26