続・モノクローム

Closed door 3






 見掛けたのは、出張に行く途中の電車の中でだった。同じ車両内の、一番後ろと一番前。帽子を目深にかぶり、席のない壁に左肩で寄りかかり、項垂れ、目を閉じ。だから、誰だか分らなかった。

 知っている誰かだった筈だ。病院に何度か見舞いに来てた人、とかだったか? 数度しか見掛けていない等だったら、記憶が曖昧でもおかしくないけど、覚えている筈の人が分からないような、奇妙な居心地の悪さがずっと胸にあって、失礼とは思いながら、化野はちらちらとそちらを振り向いていた。

 降りる駅までは時間もかかり、視線の先の相手も下りる様子がない。だけれど車内は少しずつ混んできて、ますます姿が見えにくくなる。もう少し。もう少しこちらを向いてくれたら。あるいは一瞬でも目を開けてくれたら、わかるかもしれない。

『…カーブ内少々揺れます。お気を付け下さい』

 妙に大きな音で車内放送が入り、化野の視線の先で、男が顔を上げ、うっすらと目を開いた。彼はじっと見つめたままで、はっきり相手を思い出した。

 随分前に、一度しか会ってない。
 名前は、ギンコ君…と、そう。

 不思議だ。だったら覚えてなくてもおかしくはないのに、どうしてこんな気持ちになってるんだろう。声を掛けようなどとは思えなかった。彼が目を開けた途端に分かった、酷く沈んだ表情。偶然ですねだとか、どこへ行かれるんですかなんて聞いたら、きっと酷く迷惑に思うだろう。

 かたたん たたん
 たたんた たたん

 意識していなかった音が、耳に聞こえ始めた。一つ一つの停車駅案内も。停まる駅ごとの喧騒も、車両内の人の話し声も。さっきまでずっと、無音の空間ように感じていた自分に気付かされる。それだけ集中してた、ってことか。なんだろう、彼、凄い存在感だな。

 いや、違う。
 彼が目立つんじゃない。
 これは、
 俺の中で彼の存在感、が?

 また己の思考の中に沈みかけて、気付いたら丁度下りる駅だった。ホームへと足を下ろしながら首を回し、姿を探すものだから、右肩でも左肩でも人にぶつかった。すみません、と律儀に左右に会釈して、けれど視線は彼を捕えることが出来なかった。

 何考えてるんだ。仕事中だっていうのに。でも、今夜はもう移動できないから、どうせここで一泊…だったか。たまに利用するホテルは、駅からほんの少し離れていて、歩かなければならない。資料の入った重たい鞄を手に持ち、速足で歩いていく先に、化野はまたあの姿を見た。

 ここで降りてたのか。でも、
 どこに、行くんだろう。
 何しに…、って。
 どうしてこんなに気になるんだ。

 宿泊先は次の角を左なのに、体は右へと、ギンコの行く方へと進みかけてて、本気で自分に呆れる。あぁそうか、つまり自分の用事に気が進まないから? 形式だけの会合で苦手な人たちと会うからか。逃避というわけだろうか。駄目だな、こんなんじゃ。

 首をひと振りしてもうギンコの方を見ないようにして、化野は角を曲がった。曲がってからその声を遠く聞いた。

 遊ぶかい…? 
 人形なんかを、相手にしたかったら。

 気怠げな。それでいて何処か媚びるような? まるで何かに引き戻されるように、化野は自分が曲がってきた角まで戻って、その声のした方を見た。でも、知らない男が一人、風俗嬢に絡み付かれてるのが見えただけだった。

 考えてみたら、ギンコと自分との距離はかなり離れてた。あんなにはっきり、声が聞こえる筈はないんだから、さっきのはきっと別の誰かのものだろう。声が彼の声に聞こえたのは、ただの気のせいで。逃避するのにも程があるよ。

 とにかくどんなに無為なことだったって、出席するしかないんだから。ルームサービスで軽く食べて、今日はもう、シャワーを浴びて寝てしまおう。

 そうやって一晩寝て起きて、化野はまた予定の通りの電車に乗り、予定の通りの無意味な会に二日も続けて出て、それこそ肩書きがお偉い人らに挨拶をして、三日目の朝一番に、漸く帰りの電車に揺られていた。

 行きと同じ電車を降りて、あとはこれ一本でいつものあの町まで着くから、と、漸く肩の力がすっかり抜けた時、また目が、彼の姿を映したのだ。

 ギンコ君…。

 でも、行きに見た姿とは、違っている。いや、朝の光の中で見ているからだろうか。数日前の時よりは帽子を浅くかぶり、白い髪も、首筋や頬のあたりに見せて、目は、やっぱり閉じているけど、少し表情も違う気がした。立ってはいずに、座席に座っていて。

 ここは始発駅だから今は時間合わせの為の、数分程度の停車中だ。ギンコの姿は進行方向に近い方。化野は真ん中より後ろの席に座ったが。立っている客が居ないどころか、席もあちこち空いていて、視線が彼まで、真っ直ぐ通ってしまう。

 やがて電車はごとごとと走り出した。走り出して暫し後、誰かに譲る為でも何でもなく、すい、とギンコが席を立つ。座席の無いところに、窓の方を向いて立ち、流れる風景を見ているようだった。黒い大きなショルダーを、右肩に掛けて持っていて、大事そうにそれへ右手を添わせている。

 目は真っ直ぐに、木々と畑と古びた家々の景色へと。静かだけれど強い眼差しだと思った。やっぱり行きに見た姿とは違う。別人に見えてしまいそうなほど。

『次はぁ、イチノマエぇーイチノマエぇー』

 幾らか訛っているような、停車駅案内の声。この駅の先が七夕町で。一ノ前駅のホームへと、電車がゆっくり滑り込む。少し痛んだ線路の故か、少々車両が振動する。小さな赤ん坊を抱いて、すぐ隣から立ち上がろうとした女性に、化野は一瞬気を取られた。そんな彼の前を、濃い色の上着を着た影が、すい、と。

「あ」

 ギンコだった。てっきり七夕町へ帰るものだと思っていたのに、どうしてまた一つ手前の駅で降りるんだろう。また妙に気にしている自分に気付いて、知らずに浮かし掛けた腰を、化野は座席に下ろした。

 ホームに降り立ったギンコが、黒いショルダーのファスナーを開く姿が見えて、その中から、同じく黒い色の何かを取り出すのまでが見え、そこまでで動き出す電車に視野が切られてしまった。今のは、カメラ? バッグの中にも黒いものが幾つも並んで、あれはつまり、カメラバックというやつじゃないだろうか。

 カメラが趣味なのか。いや、趣味というには凄い揃え方なんじゃないのかな。あのバッグの中が殆どそれ関係だとしたら、それは相当の。いや、詳しくないから、なんとも言えないけど。でも仕事は今はしてないと、前に彼自身が言ってた。

 ということはやはり趣味の域の。でも彼は、どんな写真を撮るんだろう。それが凄く気になって。

「…おーい、先生ぇ? 下りないのかい? 今日はこの先までいくのかい?」
「え…っ」
「もう発車しちまうよー」
「あっ! お、降りますっ」

 ホームから駅員が、運転席からも笑い混じりの声がして、もうあと二、三人の乗車客もみんな笑っていた。総合病院の若い院長は、この路線では知らないもののないほど、いい意味で有名で、みんな迷惑そうな顔などする筈もなく、疲れてんだねぇ、今日病院休みだろ、よく休みなよー、などと声が掛けられる。

 少し照れながら皆に会釈して、化野は電車を降りた。そしてまだ顔の少し赤いうちに、改札外で自転車に乗ったイサザと擦れ違う。

「…イサザ君っ」
「あー。化野先生ですよね。おはようございますっ」
「あっ、あの今、割いて頂ける時間は無いですか」

 挨拶を返すのを忘れて、しかも妙に丁寧に口走り、イサザに目を丸くされる。また自分はいったい何を、と思いはしたものの、出した言葉は引っ込められない。

「えと…。俺、これからチラシ配りのバイトで」

 見れば自転車のかごの中には、山ほどのスーパーのチラシが。はい、と一枚化野に渡しつつ。

「開始に丁度いい時間までには、まだちょっとだけある、あります…から、その間だったら」
「忙しいところ、すみませ…」
「ごめん、その喋りやめない? センセ」

 唐突にイサザはそう言って、本気で困り果てた顔で小首を傾げた。ハンドルを握り、キ、と短くブレーキの音を鳴らして、自転車から下りる。サイドスタンドを立てて、ズボンの尻ポケットから小銭を出して、缶のコーヒーを二つ自販機から。

「無糖と微糖、どっちいい?」
「あ、ありがとう。じゃあ…無糖の方で」

 しっかりした革の財布から、二人分のコーヒー代を取り出すが、イサザは一人分だけ貰ってそれをまた尻ポケットへ。

「俺に用ってこと? どしたの? あ、ヨーコちゃん?」
「いや…」

 そう問われ、尚更自分の行動の突飛さに思いが行く。イサザ君にだって会って三度目で、接点はそのヨーコちゃんの一件だけで、ギンコ君と彼が一緒にいる時に会ったことだって無いのに。

「え。じゃなくて?」

 だったら何、とイサザの顔に文字が見えるような。

「ギ…ギンコ君の…」

 と、化野は言った。イサザはぱちくり、と目を瞬き、ややあって困ったように頭を掻いた。缶コーヒーをあおり、ほぼ一気で飲み干して缶を捨てに行ってから、あいつ…とぼそり呟いている。

「俺にはなんも言ってこない癖に、もしかしてもう先生と何回か会ってたり、ってこと…? あいつときたら」
「ち、ちが…うんだ。一度、名刺渡した時しか会ってないけど。さっき、その…電車で見掛けて、それで。気に…なって…」

 イサザはそれを聞いて、もう一度頭を掻いた。顔見ただけで「気になって」の意味がなんだか分かってしまった。

「そう、なんだ。それはその…。俺、あいつの代わりに謝った方がいいのかなぁ? 一度しか会ってないとか関係なくって、あいつってさ、昔からほんっとタラシ、なんだよね」

 溜息と共に零れて、そう聞こえてきた言葉に、化野は胸を刺されたような気分になる。それは、どういう意味なのだろうと思った。そういう人たちに偏見はないけど、自分とは別の世界の話で。だから今、たったそれだけのイサザの言葉で、それはつまりそういう意味なのか、と認識している自分のことすら、どうかしてしまったように思う。

 鼓動が速くて、それに今日はなんだか暑いみたいな。手のひらにまで、こんなに汗を。

「先生…? だいじょうぶ? あの…あいつ人としてイイ奴じゃないけど、そんなに凄く悪い奴でもないから、さ。あー、ごめん、あんまりフォローできてないや。でも先生のラジオの声、とか、好きみたいだよ、凄く」

 先生さ、さっきからずっと顔赤いけど、今もう耳まで赤いよ?とは言わないことにしたイサザだった。親切だよな、俺って。じゃあなに? つまりはもう両思いってこと? はっや!

「…って。あ、まずっ。もうチラシ配りやんなきゃっ。えっと、先生。ギンコとのことは俺、本人には何にも言わないから、会いたかったらたまーに、俺んとこ来てみて! アパート、ヤスイチスーパーの一本奥の通り、ベージュの壁の二階っ」

 そういうんじゃなくて、と思いながら、駐車車両の窓ガラスに映った自分の顔の赤さと、その表情に、化野は本気で座り込みそうになる。ただただ、今日は医院が休みで、特に行かなきゃならない用事もなくて、本当によかったと、思った。







   


  


 引き続き、なんとなく呑気な日常ではありますね。でも結構ギンコは荒んでるんですよ、あれで。先生は本当はちょっとは気付いてるんです。変だなーとか。そういう意味で最初は気になった筈なのに、会った途端の一目惚れーな感覚を無自覚に思い出しちまって。

 顔を赤くする大人クールなサラリーマン、って可愛いと思うんです← いや、だから、これは本来そういう話じゃない。落差半端無くなりそう。今から覚悟する惑でした。ギンコがほったらかした名刺は、イサザが持ってます〜。
 


14/01/03