Rajul Bila Wajah … 9
三頭のラクダにそれぞれ乗って、彼らは砂漠を進む。目深に布をかぶり、すっくりと背筋を伸ばした長の姿は、もう老人には見えない。そして慣れた様子のスグロも、砂漠の民と何処も変わらず、そんな二人と居る自分は随分場違いに見えるのではないか、などと化野は思う。
どう見えようと、どう思おうと、砂漠はただそこに広がっているだけだった。どこまでともわからずに歩き出して暫し、はたと気付いた化野が、気掛かりそうにスグロに聞いた。
「…あ、あの…。長を連れ出したりして、さっきの彼らは…」
「襲い掛かってきたりしねぇのか、って?」
「いや、護衛役を果たしていないと、後から咎められたりは…?」
あぁ、そっちか、とスグロは笑い、ゆっくりと真後ろまで顔を巡らせた。つられて同じように首を回した化野の目にも、遠く点のような何かが見える。左の丘に一つ、右の丘にも一つ、たった今越えてきた真後ろにも一つ。
「長自らの『人払い』を守りつつ、見通しのいい場所を抑えてああしてずっとついてくる。お役目も大変だわな。けどよ、長を連れ出して悪いとか、考えねぇでいいんだぜ? 何もすることがないのは彼らには苦行だ。役目を果たせることが喜び、ってことらしい」
「…わかる気がします。いえ、此処ではそうなんだ、ってことが、ですけど」
出来れば働きたくない、働かず好きなことだけしていたい、なんて、誰でも一度は思うことだが、きっとこの国では違うのだろう。する仕事が無い、任された役割が無いことは、そのまま生きる価値がなく、生きていく糧もないことを指す。
ふと、メフディたちの顔が浮かんだ。部族を追われ、砂漠を出ていくしかなくなった彼ら。街で生かしては貰えても、それまでの役目や仕事を奪われ放り出されたことは、きっと言いようのない不安だったのだろう。生きては居られても、生き甲斐のないまま続く日々。そんな時、うっかり麻薬に手を染め…。
「あ…!」
「どしたい、今度は」
「護衛って言ったら、俺の護衛」
「あぁ、彼らかい? そっちも大丈夫だ。あんたを俺んとこへ連れてくるまでの約束だから」
「ならよかった」
それを聞いたスグロは、どこか情けなさそうにまた笑う。あんたとことん優しいねぇ、と零れた声は嬉しそうなような、悔しそうなような、不思議な響きを持っていた。
「さて、と。陽も十分に傾いた。今登ってるこの緩やかな斜面の天辺が、ここいらで一番高い場所になる。風景が変わるぜ」
最後のあと少しを、スグロが先頭になって登っていく。その次には長のラクダがゆっくりと、そして最後に化野が続いた、崩れる砂を、ラクダの大きな足が踏んでいく。そうして頂の向こうが見えた、その時、化野は息を止めていた。
「な…」
さらさら、さらさらと零れるだけの細かい砂が、よもやそんなふうに見えるとは、その丘の向こうを見るまで、化野は知らなかったのだ。まるで雲海だ。金色をした、淡くて儚い雲が、止めどなく流れていくような…。
此処が砂漠だと分かっている。モロッコに来て、今はサハラの砂を踏んでいることもわかっている。それでも違う世界に突然放り込まれたように思えて、体が震えた。
太陽が地平線に沈みかけ、橙を帯びた金朱の色が、砂丘の表面を滑る砂の粒の、一粒ずつを染めているのだ。風に巻き上げられ、舞い上がった砂すらも染めて、きらきらと。そしてその中に、不意に見えた、もの。
「あちゃ。あいつ、あんなとこに居やがる」
のんびりしたようなスグロの声が、コマ切れでしか脳に届かず、それが遅れて意識に落ちてきた頃には、化野は自分がラクダに乗っているのも忘れ…後ずさりそうに、なった。
「なぁ。せんせ、見えてるかい? あすこにギンコが、」
そんなスグロの声に重なるように、化野は言ったのだ。
「か…彼、なんですか、あれが…」
聞いてから、化野は何故か長の姿を見る。この砂漠の地で、一つの部族の、沢山の民を率いているのだろう長を見、そしてもう一度、遠く見える人影を、惑う眼差しで捉える。
だって、彼が、それ以上に、何かの上に立つ者のように…。いや違う。もっと、もっとだ。何か。ヒトの中で、とか、そういうことですらなく。
その人影はたった独りで、立っていた。白い布を体に纏い、やわらかなそれを、舞う鳥のように風に広げて。幾重にも宙に流れている、金色の砂の粒子の向こうに、霞んで消えてしまったり、また現れたりしながら、確かに彼は、其処にいるのだろう。でも。
「ほんとうに、あれが…?」
「まぁ、遠すぎて、な。誰なんだかさっぱりかもしれねぇけどよ」
「違うんです、そうじゃない、そうじゃ…」
あぁ まるでそれは
貴くて触れられない何か。
それでいて、今にも消えてゆく、
蜃気楼の よう な …
何故だか、泣きたくなった。そんな化野の傍に、静かに長がラクダを寄せ、言った。
「あんたは彼を、好いておるのか?」
化野は長を見て。ゆらゆらと微かな風に揺れている、豊かな白いその髭を見ながら、じわりと目を潤ませた。
彼を、好きだ。
それは、誰がどう見てもきっと、
分るのだろうぐらいに、はっきりと、
揺らがぬ思いで、もう。
それほどに、好きだ。
けれども、今それを意識するのはきつかった。
あまりに彼が、遠く、思えて。
「彼を、好…」
「この地では、禁忌、なのじゃがの。同じ性を持つものに、そういう意味で惹かれることは…。それも、仕方あるまいて、相手が、アブヤドでは」
ティフルシーイ
長が、微かな笑みと、諦めを重ねた声で、そう言った。そうして唄うように続ける。
「砂漠では、誰しも水を欲するもの。喉が渇き、やがてその身が乾き切れば、生きるものは誰も死ぬのじゃ。尽きず溢るる水に焦がれるのは、命あるものの本能じゃから」
アブヤドは白。白い水の、静かな煌めき。
誰しもそれを求める。誰しもそれに焦がれる。
手に入らなくとも。届くはずがなくても。
そして長は、首から下げていたカメラを、少し情けなさそうに見下ろして、それを指で戯れにつつくと、遠くに見える「彼」の姿を真っ直ぐに見た。
「サハラに在るアブヤドをこれで撮るのは、思いのほか難しいの。こんなちっぽけな黒い小箱を覗き込んで、それ越しに彼を見るなぞ、惜しくてとても出来ん。せっかく、教えてもろうたに」
太陽は強い光を放ちながら、大地の向こうに沈む。砂漠の成す緩やかな曲線は、風に刻々と姿を変える。その二つゆえに、濃く長い影も、呼吸する生き物のように形を変えた。光と影は、遠い「彼」の上を繰り返し染めては消えて、やがて影は黒色に、すべての大地を覆ってゆく。
「大丈夫か? 化野。ちゃんとあいつは…あいつの体はこっち側だから。戻ってくるから、よ。目ぇ逸らさねぇで、見てやってくれや。あんたも怖いんだろうけど、でも、あいつも。あいつもな…」
「え…」
「お。先生。見なよ、上。すげぇから」
「……あぁ……」
そして化野は、幾度目かにまた息を飲む。ついさっきまで、空は夕の色だったのに、何かを裏返したように、そこはもう夜空だ。
仰のいた視野いっぱいに、散りばめられた星が見える。その星々は呼吸ひとつするごとに、百ずつ、或いは千ずつほども増えてゆく。夜空は黒い筈だなんて、何故思っていたのだろう。星の光は白いなんて、間違いだったことも知った。
一面に、輝く星を抱いた空の下では、夜は、暗いものですらなかったのだ。暫し目を奪われて、視線をやっと地上に下ろした頃、ギンコの方へと、沢山のラクダが近付くところだった。もちろん人も乗っている。
「アマーズィーク達だ。それと、中に俺らんとこのカメラマンもちらほら。もうちっとばかし俺らも近くに行こう、邪魔しない程度にな」
そう言ってスグロはラクダを早足にさせ、長も勿論それへと続く。ついさっき、遠くて、蜃気楼のようで、近付けないと思ったばかりなのに、そんな化野の気持ちを蹴飛ばしていくような勢いで、スグロも長ももう遠い。
「えぇ…? ま、待って…っ、走ってくれ、ほら、お前も…ッ」
走らせる合図なんて知らなかったから、化野は懸命にラクダの首を叩いた。その気持ちが通じたのかどうか、彼のラクダも砂を蹴立てて走り出し、一瞬でスグロたちに追いついた。
ぐらんぐらんと揺れるラクダのコブの上、必死で噛り付いたまま、化野はなんとか前を見る。十騎ものラクダとアマーズィークが、まだ遠い砂漠を進んでいて、その先頭に、自身もラクダに乗ったギンコがいるのが見えた。
振り落とされそうな自分と比べ、ラクダの上で、喉をそらして天を見上げているギンコの姿。この国の人間じゃないのに、とてもそうは見えない。
ギンコはずっと先頭をゆく。十騎のラクダと砂漠の民は、ある程度まで彼に近付くと、まるで何かに阻まれているように、歩調を緩める。一人だけ白い姿のギンコ。離れてそれを追いかけるアマーズィークの姿は、明るい星空の下では、濃い藍色に見えて、影が光を追うが如く。
それを斜め遠く後ろから、近付き過ぎないように追いかけるのが、スグロと長と、化野。
やがて、ギンコのラクダの歩みがゆっくりになると、アマーズィーク達はおずおずと戸惑うように歩を緩めつつ、それでも彼に追い付き、群れの中に包むような位置を維持して、進んでいく。大切に守っているようだ、と化野は思った。かしずくような、とても言えばいいのか。
それとも大切に思いながらも、逃がさないように…だろうか。どうしてか、そんなふうにも見えるのだ。
「水」
ぽつり、と言ったのは自分だったのか、スグロだったのか、それとも長が? わからないままで、化野も淡々とラクダを歩ませた。スグロが下がってきて、隣へと並び、水の革袋を化野に突き出し、飲めと言う。ずっと思い出しもしなかったが、喉がからからに乾いていた。
「そうだそうだ。水だよ。水。長も、お忘れでは? 水、お飲み下さい」
「…おぉ、本当だ」
ギンコという、触れられないオアシスを追いかけて、砂漠の部族の長さえも、水を飲むことを忘れるのか。最後にスグロも、返された革袋に口を当てて、喉を逸らしている。
「てかなぁ、見てりゃあいつも、ずっと水飲んだ様子がねぇんじゃ? あれでどうしてぶっ倒れず済むんだか、よく分ら…。って、おいっ、先生…っっ!」
気付いたら、化野の耳で風が鳴っていた。自身の乗ったラクダが走っているのだと、人ごとのように、思った。
続
いったこともない場所の、見たこともない美しい風景を描いてみたい。そして其処に居る彼らを描きたい。と、思って描きました。
ムズいですねぇ。当然ムズかった。資料?に色々見てみて。動画とか、写真とかをね。それを頭の中において(資料を見ながらは書かないのです)、自分なりに作り直す感じにしてみたんですが、どこまで書けているのか。
でもとりあえず、しばし止まってましたので続きが書けてよかったです。砂漠でのシーンは、次回で終わるかな。そしたらあとは帰るだけなんですけども。ともあれどうぞラストまでお付き合いくださいませ。
此処に居るアブヤドと、日本に戻ったギンコとの、ギャップと重なりが…この話の中か、別の話で書けたらいいなぁ、って願いも抱きつつ。ではでは、またーっ。
2018.12.03
