Rajul Bila Wajah … 10
「う、わっ、ちょ…先生…ッッ?!」
革袋を奪われて、スグロは焦り声を上げた。すぐ追って、引き留める、筈がどうしてか体が動かない。声を上げ、手を伸ばし、でもそれだけだ。ただただ彼は、遠ざかる化野とラクダを見ていた。
『追わないのか?』
問いかけてきたのは長だったが、その声を自分自身の声のように、スグロは一瞬思った。違う、長の声だと遅れて気付き、情けないような苦笑を先に見せてしまう。
『いや、まぁ…。長の部族は、他所の荒っぽいのと比べりゃ、問答無用で刃物振り回したり、しませんし…ね。最悪ラクダから引きずり降ろされて、砂の上でうつ伏せに四肢を抑え込まれたりとか、たぶんそんくらい』
『…それすらも、無いかもしれんが?』
『そう願いたいです。彼に何かあったら、傷つくのは、彼じゃなく…あいつだ』
駆け続ける化野のラクダの砂煙。伸びていくその一筋へと、三人のアマーズィークが、瞬時に己のラクダの首を向ける。手加減の無い追尾が始まった。あっという間に彼らは化野へと近付き、斜め前と、斜め後ろと、そして真横にラクダを並び走らせ。一人が言った。
『何者だっ、止まれ…ッ!』
アラビア語だ。化野には言葉の意味が分らない、が、それでも何を言われているのかは分る筈だ。けれど化野のラクダは止まらない。足を緩めもしない。
『止まれっ、止まれ…ッッ、止まらなくばッッ』
脅しの意味でだろう、並走するアマーズィークが懐に片手を入れた。取り出したのは鞘に収まったままの剣だ。それを見た化野の喉に、少し前自分で喉に触れた感触が帰来する。
何かあったら、
殺されても文句は…。
俺はあの時誓いを立てた。ちゃんと意味が分かってそうしたのだ。もし、此処で止まらなければ。あぁ、でも、動き出した衝動は、もう止まりそうにない。
『水をっ。彼に届けるだけだッ。頼むから、行かせて…くれ…ッ』
フランス語で叫ぶ声が、分かってもらえて聞き届けてもらえるなんて、そんなこと、欠片も思っちゃいなかった。でも必死で叫び、振り切れるものならとラクダの首を叩いた。意思が通じたように、化野のラクダはさらに疾走し、不思議ともう、誰も彼を止めようとしてはこなかった。
顔を上げれば、一際離れた遠くに、ギンコの姿。夜に染まり、黒に変じた砂の上。光るもので埋め尽くされた空の下に。化野は走る。正確に言えば、化野の願いのままに、彼の乗ったラクダが行くのだ。
「ギンコ、くん。待ってくれ、足をどうか止めてくれ。俺が追いつくまでの間…」
もう、化野の視野には、彼しかいない。それでも不思議なほどに距離が縮まらないのだ。ギンコは遠ざかる方へと進んでいる。でも駆けているわけではない。なのに、ラクダを疾走させている筈の化野との距離が詰まらないのだ。緩い起伏を繰り返す砂丘のせいで距離を錯覚していることなど、彼に分るはずがない。
「なんで…っ」
その時、星空の中央を上から一筋なぞるように、星が流れた。真上から、真っ直ぐ下へ。まるでスローモーションのように、白く、いいやむしろ、銀色に透けて。
あぁ、
アッラーよ。
どうか…。
生涯かけて、
彼に囚われても、
構わないから。
いつの間にこんなに彼に恋したろう。縁がなかったのなら仕方ないことと、諦めようとしていたのは、ほんの数日前のことだというのに。聞き分けよく諦めた振りをする弱い心は、何処に落としてきてしまったか。
星の落ちたその場所に、ギンコは立ち止まっていた。そしてギンコもまた、彼に見えた星の落ちた場所を見ているのだろう。辿り着くまで駆けて駆けて駆け通すはずが、化野のラクダは最後には、勝手に歩を緩めて、ゆっくりと近付いた。
「ギンコ…くん…っ」
叫んだ。でもまだ少し遠い彼は、わずかも振り向かない。ギンコはするりとラクダを降り、白い薄布を翻しながら、砂を踏んで歩いていく。どうしてか化野もラクダを降りた。水の革袋を大事に抱えて、何度もまろびかけながら、自分の足だけで彼の傍にいこうと。
「待って…。ギンコ…」
初めて、ギンコが振り向く。最初は顔だけで、ついで体ごとで。でもそのままくるりと元の向きになり、彼は歩いていく。
「ギンコく…。ギンコ…、なんで」
ふわりふわりと彼の纏う布は揺れ。何か煌めくようなものを零しゆくのは、ただの目の錯覚で。唄って、いる? 声は聞こえない。でも口元が何か、時折、動いていて。
「ギン…、水を……」
追いついた。そうして化野は、水を差し出した。また振り向いたギンコに、あぁ、と、ほっとしたのに、目が合わない。どうしても、合わない。彼の今居る世界には、自分は居ないのだと思い知らされた気持ちになる。
「みず…。水は大切なんだよ。飲んでくれ。ここは砂漠だ。飲まなけりゃ…最悪、死…」
慄きながら、手を伸べて、ギンコのその手を捕らえた。触れることができたことに、何故こんなに衝撃を受けるんだろうか。彼は此処に居る。確かに同じ砂を踏んで、同じ風を感じて、同じ時間の中に…。
衝動的に、化野は革袋の水を口に含んだ。そしてギンコの両肩を掴み、引き寄せ、唇を重ねたのだ。同意なくこんなことをするなんて、いけない。そんな理性は想いで捻じ伏せた。
乾いた彼の唇が、化野の流し込んだ水で濡れる。こく、とギンコの白い喉が、ほんの小さく上下して、そして、彼の目がその時、確かに化野を見たのだ。
「………」
「ギンコ…」
「…あだ…し?」
目には見えない壁が、その時消えたと思った。繋ぎ止めた。連れ戻した。これで少しは安心だ。
「そうだよ、俺だ。やっと、君に…」
「…あぁ、これ」
ギンコの指が、化野の手首の片方に触れて、そこに結ばれている白い飾り布を、猫が気紛れにそうするみたいにほんの少し、つついた。笑う目元が滲むように綺麗で、綺麗で、化野の息の根が止まりそうになる。
「き…君が、つけてくれたろう…?」
「…いや、役に立ったんだな、って…思ったんだよ」
俺も、此処に、と彼は言う。言いながら纏う布をまくり上げて、左肩まであらわにすると、肘よりもずっと上につけられた、化野と同じ飾り紐が見える。彼は肩をすくめる仕草で、その紐にそうっと接吻けたのだ。
接吻けながら彼は何か言っている。言葉の断片だけが、千切れて聞こえた。
俺の …
ラ ット カドル
「え、何て…?」
その言葉は、一度何処かで聞いた気がする。なんだったか? 誰が言ったのだったか。
「なんて言ったんだ? 教えてくれ。もう一度、言って…?」
「もう何度も言った。聞こえるように、聞かせるように。さすがにちょっと、照れ臭かった、かな。…なぁ? 化野、来いよ。靴を、脱いで」
そう、ギンコが言う。聞かせるって、誰に? 重ねて問うことは出来ずに、言われるままに靴を脱ぎ、片手で持っていたら、それを奪われ放られた。
焦る傍から、うしろについてきていたギンコと化野のラクダが、一頭ずつそれを咥えてくれた。ラクダたちはそれぞれに、コブに結わえた布のたわみの中へとそれを落とし、鼻で押し込んでいる。
「へえぇ、賢いんだなぁ。ありがとう」
感心しながらふと見れば、ギンコのラクダの首元に、長い紐で結わえた一対の靴がぶら下がっている。彼もそういえば裸足だ。白い足が砂を踏む様に、どきりとする、小さな爪の形までが、奇跡のように綺麗だと思った。
「ラクダが好きかい?」
「え…っ? うん。好きだ。可愛いし」
「かわいい?」
「可愛いだろう? 目とか。睫毛とか。口の動きとか。あと、足もなんだか、ぽってりと大きくて可愛いよ。乗せてもらって、触れ合って、ますます好きになった」
化野の返事を聞きつつ、ギンコは自分の左手と、化野の右手の指を、互い違いに。そう、恋人みたいに、手を繋ぐのだ。そんなこと急にするなんて、反則だ、などと化野は思って、でも抗えない。
「砂漠は? 好きか?」
「怖いとも思うけど、好きだよ」
「この夜空は?」
「うん、とても綺麗で、好きだ」
「アマーズィーク達のことは?」
「好きだ。生き方に誇りを持ってて、信じたものや、約束したことに真摯で、惹かれる」
「…そう」
気付いたら、ギンコが真っ直ぐに化野を見ていた。何かを、求められているのだと思った。ギンコは手を繋いだまま、その手を顔の高さまで持ち上げて、化野の手首に、すい、と顔を寄せ…。
「化野、行こう」
と。そう言った。
行こう、向こうに。
今度はほんの少しだけ。
お前にも向こうを、
見せてやりたいから。
「…うん。あ、ああ、水。ギンコ君! 水を」
「ギンコ」
もう一度だけ焦ったように重ねて言うと、振り向いたギンコの顔は、ほんの少し唇を尖らせて、拗ねたような顔だった。
「え」
「ギンコ、だ。化野。水なら持ってるよ、ほら」
魔法のように何処からか、紐の付いた小ぶりの革袋を出して見せ、ギンコはそこから水を、喉を鳴らして飲んだ。
「アマーズィーク達は、俺が生身だってこと分ってない感じだし、俺自身も忘れちまうんだけどな。スグロにいつも、言われるんだ。耳中タコになりそうなぐらい、何回も何回も。しまいには腰に紐で括りつけられる、こんなふうに」
なぁんだ、君を案じるのは、俺だけじゃなかった。化野はそんなことを思って、ちょっとだけがっかりしてしまった自分を、一瞬後には激しく恥じた。
二人はそして、歩き出す。
続
とうとう10話にーっ。今思えばですけど、こんな答え合わせの必要そうなことを、各所にどんどん散りばめていってるストーリーが、三話や五話とかで終わるはずがなかった。伏線回収は実にまだ三つ四つ残っているのではあるまいかっ。頑張ります。
前回は難しくて、今回も難しかったんですけど、今回は前回よりはノリノリで書けた気がしているよ。てか、この話のギンコはなんかほんと謎めいていて、でも可愛くて、なんって存在なんだと思います。
ラスト付近であることを明かすつもりでいて、それがとても楽しみ。や、大したことではありませんがね。でもウキウキしてるよ。はいっ、また次回ーーーっ(唐突)
2018/12/08
