Rajul Bila Wajah … 8
「…なんとかするが、どうなんとかすりゃあいいかねぇ」
スグロは一人、ふらっと天幕を出て、強い日差しの中、崩れやすい砂を踏んで歩いた。頭も、顔の殆ども覆った目元の肌に、静かな風と細かな砂の粒を感じる。額の半ばを覆う布をさらに引き下ろし、考え事をしながら行くと、真向かいから若い男が歩いてきた。
『よぉ、どしたい?』
まるで仲間のように声をかけると、それに釣られて相手も気安くこう返してくる。
『今日は護衛を仰せつかって、気を引き締めてたんだけど、気が散るから離れてろっておっしゃられる。他の二人も追い払われちまったんだ。俺らの何がダメだったのか』
若くともアマーズィークだ。腰に小さめの曲刀を差しているし、体もがっしりしている。そんな彼の肩を叩いて労って、スグロは言った。
『あぁ~。まぁ、けっこう気紛れ…なんて言ったら不敬に当たるかもしれんが、お付きも大変だなぁ。じゃ、今ひとりでおいでなのかい?』
『いや、まさか本当におひとりには出来ないよ。三方向から、すぐ天幕の見えるとこでお守りする、ってことになった』
『なぁるほど、大変だ。ちょっとご挨拶に伺っても構わんかね』
スグロが言うと、その男は急に刀を抜いて、腰あたりで日の光を当てると、右に左にその光を二、三度煌めかせた。見れば遠く二方向に、彼と同じ役目なのだろう男たちがいて、向こうからも同じ光が返ってくる。
『あぁ、いいよ。今合図しといた。あんたは特別だって聞いてる。けど、もし万が一があったら』
『分ってるよ。インシャアッラー』
首元の布を少しずらし、スグロは自身の喉を撫でる仕草をした。アマーズィーク流の言葉無き合図だ。万が一の時は、命を捕られても文句は言わない。部族の男とすれ違い、スグロはその先の天幕へと進んだ。近付いて、布を下ろした入り口の数歩前で膝を折り、中の気配に窺いを立てる。
『長』
と、彼は言った。
『長、人払い中に失礼を』
途端に布がばさりと揺らめき、もしゃもしゃと白い長い髭の老人が、必死の顔をして出てきた。
『スグロー。スイッチが入らなくなってしまったっ、壊したじゃろうか、見てくれッ』
差し出されたのは小さなコンパクトカメラ。スグロはそれを.押し頂いて、ひとつ深いお辞儀をすると、ちらっと見てすぐに立ち上がる。そして老人と共にその天幕に入っていった。
『大丈夫ですよ、長。こりゃただの電池切れですな。ええと、乾電池を入れた箱はっと。あったあった。充電できる機種なら、もうちっと長持ちするんですけどね、此処じゃ中々難しいし』
『おおお、生き返った』
電池を入れ替えられ、元のように動いたカメラを長は嬉しそうに受け取る。そしてスグロへ向けて、ぎこちなく構えると、無造作に一枚撮った。
『おっ。チーズっ。気に入って頂いたようで、なによりです。うまく撮れてる』
中途半端に笑った顔が、カメラの画面に映っていた。
『気に入ったとも。これでアブヤドが撮れるんじゃろう。アブヤドが国に帰っても、此処に居たアブヤドがいつでも見れる。そうじゃろう?』
『そうですそうです』
これこの通り、長の心も鷲掴みときた。スグロは内心で、ギンコの存在感に慄くやら、大きな部族を率いる長が、ただの気のいい老人に見えてしまうやらで、ややこしい気持ちになる。
『まぁ、それ一番簡単なヤツなんで、物凄く綺麗に撮れるってわけでもないですけどね。最初はそれに慣れて、次の時はもっといいの進呈致します。で、使い方、なんとなくわかりましたかね?』
ついつい気安い口調で話してしまうスグロだったが、この長ももともと直ぐな質なのだろう。怒るでも苛立つでもなく、身を乗り出してこう言った。
『スイッチを入れるのと、撮るのは出来たのじゃ。でも撮ったのを見るのと、要らないのを消すのがなにやら怖い。間違ったら全部消えるじゃろう?』
『んー、まぁ。そうですねぇ』
なら消さなければと言いたいが、電池使用の古くて簡単なのだから、撮っておける容量が百枚足らずと多くない。初心者なら撮り間違いが多いし、撮って保存して、いいのを選んで他は消して、とやらないと、すぐに使用不能だろう。
『ええっとぉ。じゃあ少し、使い方を書きますかね』
とは言ったものの、書こうとしつつスグロは眉を寄せた。自国語じゃないフランス語で、カメラの使用法を、細かく書きつけるのは如何にも大変だ。あまりややこしくなると、今度は長が理解しないのでは。かと言って、アラビア語でカメラの説明を書くなんて、もっと無理だ。
その時、スグロは何かにピンときた。そしてニヤッと笑うと、いったん長の天幕を辞し、さっき擦れ違った男の方へと走る。そして一言二言。それから今度はラクダを一頭借りて、化野のいる天幕へと走るのだった。
閉じた小さな天幕の屋根に壁に砂が降っている。さらさらざあざあという独特な音を聞いていても、入り口の布に隙間を開けて、果て無き赤い砂を眺めていても、時間の感覚が分からなくなってくる。腕時計は、砂塵に襲われたときにぶつけたらしく。いつの間にか止まっていた。
『ヤァグーブ、今何時頃だろう?』
『時間ですかい?』
問われたヤァグーブは天幕の布を少しずらして、ちらっと外を見てから答えた。
『四時、ってとこですかね』
『四時かぁ。今、何を見て、そう?』
『何って?』
首を傾げたヤァグーブの代わりに、バシムが化野にわかるよう教えてくれた。
『影だよ、ダスィーノ。天幕の影の向きや長さと、色』
『影の、色?』
『日が暮れ掛けると橙になる。暮れ終わる頃には青が混じる』
『そうなんだ。へぇ。ありがとう』
時刻を教えてくれたヤァグーブにも礼を言おうと、視線を戻したら、彼は腰に差してある剣に軽く手を添えるところだった。見ればメフディもそうしている。
『それ、ちゃんと取り戻せたんだね。砂に捨てているのを見たから、気にしてたんだ。よかった。あの時のお礼もちゃんと言ってなかった気がする。本当にありが…。? どうかしたのか?』
腰の剣に手を添えている二人の様子に、ようやっと気付いて化野は聞いた。バシムも片膝立ちになり、天幕の入り口を見ている。すると外から砂を崩す足音が聞こえ、次いで声がした。
『俺だ、スグロだ。先生、暇してないかい?』
「スグロさん?」
また唐突に表れたスグロを天幕に迎え入れ、化野は情けない顔をした。
「暇、したくはないんですが。でも正直、こうしている以外、何もできない。ギンコくんは、どうしてるんです?」
会いたい、と言う想いを溢れさせて、彼はスグロを見る。スグロはちょっと気まずそうに一度視線を逸らし、天幕の壁や天井を見ながら言った。
「あいつは砂漠に居るよ。ふらふらしてる」
「えっ? 撮影してるから会えないんじゃないんですか?」
「んー。まぁ、説明難しいんだけどよ。いろいろ、準備が要るのさ。でな、あんたにあいつを見せてやりてぇから、その前段階としてちょっと手ぇ貸してくれや。簡単なことだから、よ」
「前段階、って一体? いえ、なんでも。なんでもいいです。俺で出来ることなら、やる。やります」
化野はスグロと二人、二頭のラクダで歩き始めた。ゆっくり進んでいる筈なのに、今出てきた筈の天幕はすぐに見えなくなった。そうして砂の丘を越えた向こうに、まずは二人の、やはりラクダに乗った人影が見えてくる。
スグロは左右に遠く離れたその二人に、片手をあげて合図しながら一度は止まり、化野へ向けてこう言った。
「俺と同じ仕草をしてくれ」
そして彼は首の布を下げて、喉に触れる仕草をする。遠目にもわかるようにはっきりと。化野がそれを真似ると、遠い二つの人影が何か長いものを上に掲げて合図してきた。多分あれは、刀なのだろう。
「スグロさん、今のって。何かあったら殺されても構わない、って意味ですか…?」
「お、察しがいいな、その通りだ」
「…喉を見せる仕草を、メフディ達もしてたので」
ごくり、と化野は息を飲む。手を貸せというのは、いったいどんなことだろう。本当に自分の出来ることだろうか。そして、連れて行かれた、大きくはないが何やら立派な天幕で……。
化野は髭の長い老人にマンツーマンで、カメラの使い方を教えることになってしまった。
『その下の横を向いた三角の印のボタンが、撮った写真を見るスイッチなので、まずそれを』
『スイッチ。スイッチっていうのは、電源を入れるボタンのことじゃないのか? こっちじゃろう?』
『いや、そうなんですけど。とにかくまず、その三角を一回押して下さい』
『押しても全部消えないか?』
『大丈夫です。いきなり消えません。中に入ってる写真を呼び出すだけなので。消す操作はその先の』
『やっぱり消えるのか』
『いや、だからまず。あー、ちょ、ちょっと失礼を』
さっきからこの調子である。喋り通しで喉が渇いて、化野は水袋から水を一口飲んだ。怖いことも危ないこともないが、これはこれでなかなか大変だ。文明のリキに今まで触れたことのない老人に、殆ど一からデジカメの使用法を教えるとは。
『出た。出たぞ。ずらっと出た。次はどうするんだ?』
『そしたらまず安心のために、消したくないものを選んで鍵をかけて置きましょう。そうすればもし何か間違えても、急に消えなくなりますから。選んだら今度はこっちのボタンを』
消したくないのを選んでくれるよう言ったら、その老人は天幕や砂漠や空ばかり写っている写真の中から、スグロの顔のアップの写真を選んでいる。微妙な笑顔が可笑しくて、化野は笑いそうになってしまった。
『それ、残しておきたいんですか?』
『残す。だって、これは大事じゃ。アブヤドを連れて来てくれた男じゃから』
『……あなたも、アブヤドが好きなんですね』
静かに問い返した言葉に、老人は言ったのだ。
『あぁ。…だが、降っている水や、流れのある水を留めて置くことは、誰にもできないのでなぁ』
不思議な言葉だった。スグロからはなんの説明もなかったが、この老人は誰なのだろう、と改めて化野は思った。二人かと思ったら、三方向に居た、ラクダに乗ったアマーズィークたち。天幕を囲うように要る彼らは、この老人の護衛ではないのか。もしかして、今目の前に要るこの老人は…。
『じゃから、此処に残したいんじゃよ。鍵のかけ方は分かった。次は要らないのを消す方法を教えておくれ。一つしかない器に要らないものばかり入れておけば、必要なものをとっておけないのじゃからの』
三時間、いや、もっとだろうか。老人と化野とは外へ出て、砂丘で写真を撮ったりもした。老人はもともと理解力があるようで、一度分り始めると、どんどん新しいことを覚えた。
目の前の天幕を撮って、ピントの合わせ方を学び、離れた場所のラクダを撮って、望遠の使い方を覚えた。夕暮れになり、薄暗いときは手ブレに注意することも知ったし、連写という機能まで理解した。
画面の中心でピントを合わせて、シャッターを半押し、被写体を画面の中心から端へずらして、シャッターを押し切る、なんてことも教えて、それもちゃんと覚えたぐらいだ。たった数時間で、凄いと化野は思った。
『流石は長だ』
するり、と自然にそんな言葉が零れた。長は目を見開いて、知っておったのか、と一度聞き返した。肯定されて、化野は今までの非礼を詫びようと思った。けれど、砂に膝を付き掛けた化野を長は止めた。
『長じゃあない。ただの「アブヤドのフアン」じゃ』
そんな面白いことを言い出すこの老人は、きっと部族に尊敬されている長だろう。膝をつくのをやめて、化野は笑った。
そのあと、天幕に戻るとランプが灯され、食事も運ばれてきており、随分豪華だと化野は喜んだ。長と差し向かいで食べていると途中でちゃっかりスグロが相伴に現れる。
むしゃむしゃと食べ、食べたいだけ食べ終えると、スグロは長に向かい言ったのだ。
『さぁて、長、カメラはご理解されましたか。あぁ、でしたら良かった。では、この者をお付きに、これから「小さなオアシス」を探しに参りましょう』
続
むちゃくちゃ長いっっっ。しかしギンコ出ていないっorz また新しいキャラを出してしまいましたねぇ。出る予定ではあったのですが、どんな人にするのか、書きながら長いこと迷っていました。怖い人にするのか、ヤバイ人にするのか、とかね。
そして結局、一番意外な人になったかも。柔軟でユーモアがあって。きっと、古きを大切にしながら、新しきも過剰に拒絶しない人。立場を笠に着ない、立派な人なんだと思いますよ。まぁ、脇役ですけどねっ。
勿論、次こそギンコが出ます。綺麗なシーンにしたいと思います。頑張るよ。そういや今更ですが、このお話のタイトルはアラビア語で「ラジュル・ビラ・ワジャ」と読みますが…。ねえ? これ何話で終わるのかしら…? 汗。
2018.11.11
