Rajul Bila Wajah … 7
最初に気付いたのは化野だった。遥か遠くに、茶色の、大きな壁が見えた。それが見る間に近くなり…。
『いけねぇっ、砂が…ッ』
あっという間に砂除けの覆いが吹き飛ばされた。バシムは手を伸ばしたが、到底間に合わない。彼はすぐにも三頭のラクダへと走った。砂を蹴立て走りながら、ヤアグーブとメフディに叫ぶ。
『守れ…ッ、絶対にだ!』
『勿論でさ…ッ』
『旦那、伏せてくだせぇッ!』
ばふりっ、と体の上に広げた布が被せられる。化野は力でもって押し倒され、熱い砂を胸に感じた。耳元に誰かの息遣い、体には重み。おそらく二人分のそれは、風になぶられ幾度か軽くなってはまた伸し掛かった。聞こえていたのは、獣の吠え声のような風の音。
いったい、どれだけの時間が経っていただろう。音が止み、最初に声を立てたのは…ラクダだった。
べぇぇぇぇーーー。
『だ、旦那、旦那…っ』
『……』
『旦那っ』
『あぁ、大丈夫、だよ』
返事をしながらもそりと動くと、上からまた二人の声がした。
『あぁ、よかった、つぶしちまったかと』
『今から少し隙間を開けまさ、狭ぇでしょうが、布をなるべく体にぴったり巻き付けて』
『わかった。……うん、いいよ、もう』
さぁぁ、と、砂の流れる音がした。化野の上に覆いかぶさったヤアグーブとメフディが、順に体を起こしていく。音は二人の上に積もった砂が、彼らの纏っている布の上を滑り落ちる音だろう。
べぇぇ、べぇぇぇぇ。
すぐ近くでまたラクダの声がして、化野が顔を上げたら長いまつげをした目が、間近で瞬くのが見えた。
『よぉし、よしよし、お前もありがとうよ』
メフディが蹲っているラクダの首や背中から、砂を払い落としている。多分だが、化野を一番下に、ヤアグーブ、メフディ、そして一頭のラクダが折り重なるようにして、風塵をやり過ごしたということらしい。ラクダの次に外側にいたヤアグーブは、腰近くまでを砂に埋もれた格好で、それでも手を伸ばし、化野の体の砂を払ってくれた。自分はまだ砂まみれだというのに。
「あ、あり、がとう」
『へ?』
『ありがとう、って言ったんだ。今のは俺の国の言葉なんだよ』
『ア・アリ・ガトーゥ?』
いや、そうじゃなくて、と言いかけて、化野はやっとバシムのことを思い出した。か、彼は? ひとりでラクダの方へ走る背中が、砂に飲まれるのを見た気がする。
『バシム…っ?!』
見れば、少し離れた場所に、砂の山が一つ。それがもこりと動いて、次々にラクダの頭が持ち上がった。その下からバシムが、太い笑いを浮かべて顔を出す。
『おぅ。こっちのラクダもみんな無事だ。旦那びっくりしたろう。小さい風塵で、助かった』
あれで小さかったのか、と絶句してしまいながら、それでも無事だった安堵に、化野の顔が綻ぶ。さっきの、茶色い大きな壁に見えたあれは、もう近くにはないかと360度を見回している時に、その人影が、ぽつり、と視野に見えた。
『人がいる。あれは…アマーズィーク…? 君らの、仲間?』
殆ど同時に、他の三人も気付いていたらしい。緊張した顔をして、メフディとヤアグーブが化野の体の前に立った。
『…まぁ、アマーズィークなのは確かだな。けど仲間じゃねぇ、同じ部族でもねぇわな……』
『俺らが、行きまさっ』
『待っててくだせぇ』
ぼそりと言っているバシムの言葉に、被せられる二人の声が、止める間もなく遠くなる。メフディとヤアグーブは、立ったままのラクダによじ登るようにして跨り、走り出していたのだ。二人が向かう丘の上に、一頭のラクダと人影。けれどその人影は見る間に増えて、今はもう五つになっている。
微動だにしない、青を纏った人影。
バシムに身振りで促され、化野は彼と共に一頭のラクダに跨る。ラクダの上から見ると、砂を蹴立てながら、メフディたちが丘の上の五騎の男らに近付くのがはっきりと見えた。
『旦那ぁ、目ぇつぶってた方がいいかもしんねぇ、最悪の場合…』
そう言われたが、化野は目を閉じなかった。バシムから漂う緊張感が、そうさせなかったのだ。彼らに守られている自分は、けして無関係じゃない。当事者だ。
見ていると、走りながら二人が何かを投げ捨てた。おそらくは、鞘に収まったままの剣だろう。そして頭や首に巻いた布を解き、それを風になびかせながら、さらに走り続けた。武器を捨て、喉を曝した姿のあれは、敵意のないのを見せるためだろうが、もしもあそこにいるのが、バシムの言う"最悪"の相手だったら。
『メフディっっ、ヤアグーブっっ!』
『…言っとくけど、万が一があってもあんたのせいじゃねえよ、ダスィーノ』
『そんな…』
バシムが化野の体を、その両腕で包むように捕まえる。目を隠そうとしてくれていると分かったが、化野は首を振って抗った。隠させない、閉じない、逸らさないその目の中に、遠い砂の丘の上でラクダから降りる二人が映っていた。
『……どうやら、最悪、ってことはねぇみてぇだ。どころか、ありゃあもしかすると…当たりだぜ、旦那』
『…え?』
『彼らは多分、今、アブヤドと行動を共にしている部族だ』
まるでそれが聞こえたかのように、五つの人影が、確かにこちらを見たのである。そして彼らはメフディやヤアグーブと共に、ゆっくりとこちらへやってきた。化野の心臓はバクバクと騒いでいた。彼らに何かあったらと、正直、恐ろしかった。まだ震えが止まらなくて、情けない。
永遠と思える数分が過ぎて、やっと声が届くほど近付いた彼ら。その中の一人が突然、化野へと一際近付いてきて、こう言ったのだ。
「今にも卒倒しそうな顔だなぁ、先生」
「ス…っ」
被っていた布を後ろへと下ろして、その男は酷く面白そうに笑っている。
「スグロさん…っ!?」
「おうよ、俺だ。安心しただろ?」
びっくりしすぎて、安心しすぎて。化野は危うくラクダから落ちかけ、堪え切れずにスグロは大声で笑い出したのだった。
九頭のラクダと、そのラクダに乗った九人は、ゆるゆると砂漠を進む。化野の隣はスグロだ。青の布を肩に纏ったスグロは、ますますこの国に馴染んで見える。
「今此処に来てるってことは、ついさっき砂塵にあっただろ? それに、蠍の岩場も通り抜けてきた筈だ。やっこさんら、本気の本気であんたを守ったらしいな」
「砂塵の時は。えぇ、彼らが覆い被さってくれて。でも、蠍の岩場?」
そんな物騒なところを通っただろうか、と化野が首を傾げる。
「あそこを迂回してたら今頃此処には来れてねぇ。あんたを後ろに、奴らがずっと前を歩いてたろ? 巣穴から蠍が出てきていて、それをうっかり刺激しちまったら、ラクダだってただじゃすまない。暴れたラクダから落ちれば…。分るだろう?」
スグロはメフディたちの方を見ながら、そんなふうに話した。
「砂漠の民ってぇのは、義理堅くて正直だ。こうと決めたら命だってかけちまう。まぁあんたは、そうやって命をかけてくれた相手を失望させるような男じゃねぇしな。最初はアレだったが、お互い、悪かねぇ出会いだったんだと思うぜ? おっ、返せってか、悪ぃ悪ぃ、そう引っ張んなよ」
スグロが肩にかけている青い布を、アマーズィークの一人がぐいぐいと引っ張る。どうやら借りていたらしい。剥ぎ取る勢いで布を取り返し、何か軽口を叩いたらしき言葉をかけてから、その男はスグロから離れて前へ行く。
「青は彼らにとって、大事なもんだからな」
そう言って笑うと、スグロは化野の肩をぽん、と一つ叩いて、さっきの男を追いかけるようにラクダの歩を速めた。彼の行く方に、きっとギンコもいるのだろう。化野もついていきたかったが、どうやってラクダを走らせたらいいかなんて、わからない。
スグロが離れると、バシムやヤアグーブたちが傍にラクダを寄せて来る。隣に来たバシムが、遠くを指さして言った。ぽつんと白くて、丸いもの。小さな天幕である。
「あの中で待っていろ、とよ、旦那。せっかくここまで来たんだ、アブヤドに早く会えればいいなぁ」
「…一応言うが、先生が来てるぜ? 丘の向こうにだ」
広い天幕に一度ギンコが戻った時、スグロはいの一番にそう言った。日本語で、しかもごく小さな声で、ギンコの方を向かずに言ったのだ。ギンコはけれど、その声に少しも反応しない。聞こえていないのかもしれなかった。
ぼんやりと遠くを見る目。気怠いような彼の所作に、スグロは首の後ろをぽりぽりと掻く。
「聞こえてねぇ、か。まだ撮影中だし、無理もねぇが。言わんわけにもいかんしなぁ。さて。あー。ギンコ、なぁ、お前の大事な"化野"が」
「………どこに?」
二度目に言いかけた時、ゆるり、とギンコは"目を覚ました"。スグロの方を向き、それから天幕の小窓で布を押し上げて、其処から見える風景へ視線を巡らせた。
「…もう、来たなんて、思ったより随分早い…。無理をしたんじゃないか…? 怪我はないのか? 体は? 薬の影響とか、どうなんだ…?」
「丘の向こうだよ。そっからじゃ見えねぇ。大丈夫みてぇだけどな。俺もあんまり話してねぇからわからんが、まぁ見たとこピンピンしてたぜ? ったくお前もよ、そんなに心配するんなら、こんなとこまで来られる算段なんか、つけてやらなきゃよかったろうが」
そう言って責めれば、ギンコはどこか拗ねた顔をする。殆どの人間には、おそらくわからないほんの微かなそれに、気付く自分が負けなんだろう、とスグロは苦笑するしかなかった。
「…とにかく大丈夫そうだったから、お前はまた"向こう"へ行っとけ。またすぐ撮影だろう。終わったら沢山話せばいいし、いくらでも傍にいさせりゃいいんだからな」
「…分ってる。分ってる、けど……」
ゆらり、ゆらり、熱い空気の向こうにいるように、ギンコの周りの空気が揺れている気がする。そうして彼はまた落ちるように"向こう"へ行った。シャウエンからこのサハラへと向かう間、スグロからも、誰からも距離を置き、淡々と進む古いバスで、彼は「ひとり」だった。
多分、今も「ひとり」。彼はこのモロッコで。この砂漠で、どこでもない場所にいるのかもしれない。
来たのか…
あだしの…
きた のか …
あぁ、また、この世が揺らぐ。
どこでもない場所に、なっていく。
「安心しなよ」
スグロは言った。言葉は届かないかもしれなかったが、それでも。だからこそ。
「ちゃんと見ててもらうさ。先生がお前を見ていられるように、俺が、なんとかする」
続
多忙を極めておりまして、書いたもののこれでいいのかの判断ができなくて。数日迷ってしまいました。結果、ちょいちょい直して、やっと七話をアップでございます。
スグロさんはすんごく、こういう国に馴染んでしまうお人な気がする。ギンコはギンコで、見るからに異質なままで溶け込むんだけど、スグロの方はたやすく自分が周囲に染まるというか、そんな感じかな。
そして化野はまた、ギンコとは違う感じに、するっと現地の人に気に入られる。素のままでいい人だからだと思いますねぇ。変な偏見とかないからってのも大きいかも。なんか、ある意味最強の三人組では?www 異国情緒たっぷりの旅先で、彼らの近くに居てみたいものです。
ではまた次回っっ。
2018/11/01
