Rajul Bila Wajah … 5  





「…しの…化野、大丈夫か…?」
 
 酷く優しい声で名を呼ばれ、化野はゆっくりと目を開いた。焦点が中々合わなくて、二、三度瞬きしたのち見えた色は、美しい白と潤んだ翡翠色と…。

「あぁ…もう、大丈夫だよ、ギンコく……」
「いやいや、生憎ギンコじゃねぇんだなぁ、これが」

 べたりっと音でもしそうに、化野の額に触っているのは確かにギンコではなく、スグロだった。スグロはびっくりして見開いている彼の目を、さらにぐい、と広げさせて覗き込んでくる。

「わ…っ、お、おはようございます…っ。彼は…っ?」
「んー? あいつなら今、この後の打ち合わせしに、外に出てる。よし、熱はねぇし眼球も揺れてねぇな。でもまだふらつくんじゃねぇのかい? 夕べは随分変だったもんな、あんた」
「そっ、そんなにですか?」
 
 起き上がるのに怠さを感じ、多少ぐらつく頭を前に傾ければ、視野がほんの微かにぼやけた。それでも、化野はスグロにちゃんと詫びを言って、その後そわそわと立ち上がる。

 ちょっと力が入り難いけど、立てる。視野ももうなんともないし、吐き気や頭痛もなかった。専門外だからあまり良くは分らないが、多分、質の悪くない麻薬を、ほんの少量、だったのだろう。免疫がないので酩酊したが、それなら抜けるのは早い筈だ。

「もう、大丈夫です」
「…それでもあいつはどう思うか、だがね。あと、おはよう、じゃねぇぜ。あんたは半日以上寝てた。もうとっくに昼を過ぎてるよ」

 そこまで話したところで、ギンコが戻ってきた。彼は足早に部屋を横切り、白くて長い服を頭からかぶって着て、今にも出掛けてしまいそうな態なのだ。そうして、化野の方を見もせずに言った。

「具合は」
「大丈夫だよ、もう何ともない。ギンコ君、昨日は」

 化野の、詫びようとする言葉を遮るように、ギンコは続けるのだ。

「ならいい。今日明日は此処に居てくれ」
「え…?」

 そのまま出ていこうとするギンコに、化野は必死の声で縋った。

「か、体なら本当に大丈夫なんだ。今日はメルズーガなんだろう?」
「駄目だ。着くまで遠いし、着いてから先は砂漠だ」
「砂漠なのはわかってる、パンフレットで見たし」
「そういうことじゃない。とにかく、すっかり薬を抜くためにも、外には出ないで此処に居てくれ。昨日みたいなことが無いように、見張りもつけるから、安心して寝ていられる」
「嫌だ」

 そう、化野は言った。言ってかぶりを振った。聞き分けのない子供のように見えるかもしれない。でも嫌だった。着くまで遠くて大変だって、少しぐらい具合が悪くなったって、そんなことは構わないのだ。とにかく、此処で一人でいるのは嫌だ。彼の傍に居られないのが、見ていられないのが、嫌だった。

「……み、見ててくれ、って言ったのは君じゃないか…」

 そう呟くと、ギンコは急に動きを止めて、化野を見た。いや、その目は彼を見ては居なかった。微妙に視線が逸れている。

「そんなに言うなら、来ればいい。ここからフェズまで、タクシーなら三時間だ。そこで別のタクシーに乗り換えて、今度は四時間かかるが、メルズーガには着ける」
「タクシーで。うん、分かった。ありがとう」

 その時、視野の端でスグロが何か言いたげに身じろいだが、結局は何も言わずに、窓辺に寄り掛かったままだった。

「話を付けてくるから、出掛ける支度だけして待っててくれ」

 出ていくギンコを追って、スグロも部屋を出て行った。ひとり残された化野は、とにかく急いで支度をしたが、それが終わってもギンコ達は戻ってくる様子がない。そのうち食事が運ばれてきたけれど、それは、彼の分だけだった。

 多分、化野の体調を考えてくれたのだろう。野菜や肉を軟らかく煮たスープとパンと。おいしそうな匂いのするそれに、礼を言って手を伸ばしつつ、聞いた。

『えっと、アブヤドと、スグロさんの分は?』

 スープを匙でひと掬いしながら彼がそう聞くと、給仕してくれた少年はこう言ったのだ。

『アブヤドなら、もう発ちました』




 嘘をつかれたんだと思って、化野は酷く落胆した。後悔しても遅いが、あんなことを言ったからギンコが怒ったんだとも思えてきた。昨日心配してくれて、あれほど取り乱してまでくれたのに、それがただの幻覚だった気さえ。

 そういえば、さっき此処で言葉を交わした時の、あの素っ気なさ。そうか、なら夕べのあれは、本当に幻だったんだ。ハシシのことがあったから、彼は元々化野に怒っていた。それなのに、言ってくれた言葉ひとつ持ち出して、彼に無理を言ったりして。

 見ててくれって、そう言った彼のあの言葉が、あんなにも嬉しかったのに。

 じゃあもう、このまま日本へ帰るべきなんだろうか。これ以上彼に嫌われる前に。そんなことを思っていた化野のところへ、さっき食事を運んでくれた少年がやってきて急かせるように言った。

『ダスィーノ、タクシーが迎えに来てます』
「えっ? そっ、それじゃあ…っ」

 ダスイーノというのは、どうやら「化野」のことらしい。急げ急げと言われながら、化野は家の外へ出る。とにかく世話になった礼を言い、歩き出そうとしたら、奥から出てきた随分体の大きな男が豪快に笑って、彼の首根っこを掴んだのだ。

『待ちなって、あんた。俺はバシム。アブヤドにあんたの護衛を頼まれたんだ。役に立てて光栄だ』

 何処かで見たような顔だと思ったら、バシムは化野と共に歩きながら、自分の弟のことを話し出した。

『俺にゃ弟がいる。ハリムってんだけどなぁ、フェズに住んでて、よくアブヤドの遣いなんぞをさせてもらってんのさ。あんたとも会ったって言ってたよ』

 それでわかった。バシムと似た顔をした、もうひとまわり体の小さな男が、ギンコの傍に居て、盗み撮りしたやつを捕まえたりしていたのだ。兄弟なら似ていて当然だ。

『アブヤドはあんたのことが本当に大事らしい。ここからメルズーガまで守ってくれって言われたよ。よろしく頼むな、ダスィーノ。急にどっかへ消えないでくれよ?』
『こ、こちらこそ、よろしくお願いしますっ』
 
 ずっとタクシーだったら、護衛して貰わなくとも、と一瞬申し訳なく思いはしたものの、化野だって何事も無くちゃんとギンコの居るメルズーガに着きたい。一人でも平気だなんて、夕べの今ではとても思えなかった。

 シャウエンの街の外に出ると、そこには一台の車が停まっていた。夜だから限りなく黒に近く見えたが、それはシャウエンの街のように、青い色をしたタクシーだった。

 バシムは陽気な男だ。車中、化野の方から話し掛けなくとも、この国の話をしてくれた。彼によると、シャウエンの青色はイスラムの神聖な色なのだという。そして昔この街に住んでいたユダヤ人たちにとっても、青は神聖な色だったというのだ。

 昔、故郷を追われ、ここに移り住んだユダヤ人たちが、
 この街をこんなにも美しい青色に染めた。
 青は彼らにとって神聖な色であり、故郷の色。
 ユダヤ人たちはやがて、イスラエルに移って行ったが、
 今住んでいるモロッコ人にとっても、青は神聖な色なのだ。
 だからこの青を昔と同じに、今も皆で守っている。

 などと、良い話をしたあと、わははと笑ってこんなことまで言い足してくる。
 
『白だと眩し過ぎて目が痛ぇんだよ。何処も全部青に塗っときゃ、なんとなく涼しいし。来たひと皆がキレイだって言ってくれて、おまけに虫もよらねぇしなぁ』

 笑うバシムに化野もつられて笑って、その頃には、もうシャウエンから随分とフェズへ近付いていた。

『あと一時間もしねぇうちにフェズさ。フェズじゃあハリムが迎えに出てるから、そのまま弟んちに泊まってってくれ。アブヤドの友人が来たって知れたら騒ぎになるから、こっそりなぁ』
『えっ。泊まって、って。すぐタクシーを乗り継ぐんじゃぁ?』

 すぐにもギンコに会いたい化野がそう言うと、バシムは困ったように首をひねる。

『悪いなぁ、そうするようアブヤドに言われてるんだ。あんた疲れてるしずっと車じゃ具合悪くなるかもしれねぇから、フェズではちゃんと寝させてくれ、って、アブヤドが』
『具合が悪くなんかない』
『そうかもしんねぇけど、でもアブヤドが』

 アブヤドに。 
 アブヤドが。
 
 そればかりだ。でもそれを覆すことは出来ないと、化野にも分かっている。彼は此処では、ギンコじゃない。その事が、化野には何故か少し、哀しかった。あの時の言葉をまた思い出したのは、どうしてだったろう。


 俺を 見てて くれ 

 見るよ、君を。だからちゃんと、俺も君の傍に行くよ。 


 置いて行かれはしたものの、ギンコは化野が自分を追って来られるように、タクシーを呼び、泊まる場所を気にし、身を守る護衛までつけてくれた。何処にも不満に思うことは無い。ただ、たった今傍に居ないことが、もどかしいだけだ。愚かで迂闊な昨日の自分のせいだ。


 タクシーはシャウエンに着き、ハリムの家で夕の食事を出して貰った。そうして勧められるままに横になって休んで、真夜中に起こされた。さっきまでとは違う色のタクシーが待っていて、化野はバシムに伴われ、今度こそメルズーガに向かう。

 シャウエンからフェズへの三時間よりも、フェズからメルズーガの四時間の方が、不思議なほどに短く感じた。

 タクシーの運転手とバシムが、自分らはアブヤドにものを頼まれた。アブヤドに頼りにして貰えたのだと、小声で嬉しそうに話しているのが聞こえて、思わず化野は笑んでしまっていたのだ。

『貴方たちにとって、アブヤド…彼は、どんな存在なんですか?』

 聞きたくなって、そう言葉にすると、バシムもタクシーの運転手も、きょとりとして不思議そうだった。

『どんなって? そりゃああんた』
『あぁ。きれいだし、まぶしいし。見てるとなぁ、俺らの国に来てくれてることが、やけに嬉しくなってきてよ』
『なんかいいことが起こりそうで、わくわくすんのさ。実際アブヤドのお蔭で、フェズは助かったんだしなぁ』
『そうそう、分かるだろう、ダスィーノ、あんたも』

 交互に言う二人の言葉は、なんだか不思議だった。はっきりとした理由なんかないのだと、そう言われた気がしてくる。アブヤドはアブヤドだから、慕われ、好かれている、というような。

 不思議に思いながら、化野は頷く。

『俺も、彼が好きですよ』

 三人「アブヤド」のことで意気投合して、さらにメルズーガまでの道のりは近くなった。そろそろ空が微かに白んできて、運転に疲れた男が眠くならないようにと、バシムが太い声で歌を唄う。

 それはアラビア語だったので、化野には歌詞の意味が分らなかったが、歌い終えた時に聞いたら、バシムは嬉しげに笑った。

『砂漠の砂の金色と、貴き水の青、降る雨の糸の白とを、讃える歌だ。俺らの中に伝わる、とても古い歌さ。魂の歌だよ』

 夜が明ける。空が白む。白は明るさの色であり、水の色でもあるのだと、化野は気付いた。そして緑も、豊かな水を思わせる。それは、十分に水を吸い上げ、いきいきとした草の葉の色。

「まるで、オアシス…だ…」

 彼の言葉が聞こえたのだろう、バシムはようやっと停まった車のドアを開け、砂の上にしっかりと立って言った。

『あぁ、この先目指すのは逃げ回るオアシスさ、ダスィーノ。見つかりゃいいなぁ。インシャアッラー』
『…インシャアッラー…』


 あぁ、本当に。
 早くギンコの元へ、
 導いてくれますよう。

 インシャアッラー。

 神の御心のままに…。
  



 

 

 



 いつものことですが、大部分が行き当たりばったりで書いています。でもなるべく現実のまま、有り得るように書くのがコンセプトではあるので、目的地から目的地へ、利用可能な交通手段で、実際にそうしたらどのぐらいの時間がかかるかも、考えてはいます。

 あと、アラビア語もちゃんと調べて書いていると同じで、現地の人の名前とかも、実在するのを使います。が、そういうのを調べるのがね、まいどめっちゃ時間かかるわけよ。はっはっは。ま、最終的には「こう書きたい」を優先するんですけどねっ。

 中々砂漠に着きませんで、今回だららん、としたお話になってしまったかもです。ギンコが居ないとやはり華やかさに欠けますな! 砂漠に居る彼を、早く書きたーいっっ。ぜったい似合うと思うんですっ。頑張りますっ。


 

2018/10/01