Rajul Bila Wajah … 4  





 ギンコの姿の無い街は、普通のシャウエンだった。などと、初めてそこを訪れた化野が思うのは、おかしなことかもしれなかったが、それでも化野はそう思ったのだ。

 あまり多くは無い住人と観光客とが、少しざわざわとしながら行き交っている。ボストンバックを持った彼を「お客」と見た露店のおばさんが、にこにことよそ行きの顔で話し掛けてくる。髪まで覆う、長い衣服の胸元に、細かくて綺麗な刺繍があって、それを指差しながらこう言うのだ。

『一人旅かい? 国で待ってる人にモロッコの刺繍、どうだね。ストールもあるしハンカチもある』

 その、少し訛って聞こえるフランス語へ、やんわりと断りの身振りを返しながら今居る道の先を見れば、左右の壁には沢山の品が下げられていて。

 バッグ、履物、上着。
 帽子、ストール。
 アクセサリー類に、タペストリ。
 階段の両端には、壷や皿などまで。

 あざやかな色をしたそれらは、青の世界に驚くほど映えて、きょろきょろと目映りが止まらない。他に色はないって言われたけど、この一角には眩しいほどの色、色、色がある。一色に目が慣れてしまっていたからか、そのあざやかさにとても惹かれる。

『さあさ、こっちもごらんよ、お兄さん』
『手に取ってもいいんだよ、これなんかどう?』
『ほら見なって旦那! きれいな色だろう?』

 これはもしや、一つ買ったら大変なことになるのでは、と、そう思った化野は、ひやかすそぶりを少しずつしながら、階段をゆっくり上がって進んでいく。少し進むと、商品ではなくて、カラフルな鉢植えが左右に沢山下がった一角へ出て、そこにはあまり人は居なかった。

 さらに化野は道を進む。足元を見、左右の壁を見、見上げて上の方の壁を見、その向こうの空を見る。人の殆ど居ないところまでも進んで、繰り返し訪れる日陰と日向とに、目を眇めたり、手で光を遮ったり。

 そうして気付いたら、少し不思議な場所へと出ていた。その場所は壁がうっすらと紫で、なんだか奇妙な心地にさせられる。人の姿は無くて、居るのは猫達だけかと思ったが、細くなる路地の向こうから、たったひとり、男が近付いてきた。

『おやおや、にいさん。観光かい?』
『あ…、ええ』
『ふぅん? ならさ、こいつはもう試したのかい?』

 イントネーションのおかしなフランス語で言いつつ、男は小さな紙包みから、茶色く乾いた何かを手のひらに出して見せている。そして、それを強引に化野の鼻の傍へ。

 あ、これはもしかしなくても、まずいんじゃないかと思ったのだ。身振りとフランス語で、いらない、必要ないと伝える。少ししつこくされたが、やがては解放してくれて、ほっとしながら化野は元の道を戻った。いや、戻ったつもり、だった。

 でも、気付いた時には、小さな石の部屋の中に、彼は寝かされていた。

「…え…? ここ、どこ?」
『起きたのかい? どこって? そうさな』

 隣には知らない男が居た。しかも、随分と体が近い。何も言わない男が、ドアの無い入口の階段に座って、じっとこっちを見ている。

『あんたの知らない、いいとこさ。じっとしてな。もっといいとこへ連れてってやるよ。ほら』

 近くに居る男がそう言いつつ手渡してきたのは、手の中に隠せるほどの四角い瓶。入っているのは茶色の棒のような、なんだかわからないものだった。

『吸いな。金は取らねぇからさ、なぁ? いい話だろう』

 ああ、これは、まずい。
 絶対的に、まずいと分かる。
 わかるのに、体が動かない。

 瓶の中から茶色のものが取り出され、それを男は化野の口や鼻の傍へ。すぐに息を止めたが、それも長くは続かない。苦しくて顔を背けてから息を吸ったつもりが、その得体のしれないものは、ずっと鼻の傍に差し付けられていて。

 くらり、と、眩暈。
 でもそれは、
 酷く、気持ちのいい眩暈だった。
 快楽に、とてもよく似ている。
 危険なほどに。 

「あ、あぁ……ぁ…」




「カン…ッ、カヒル、ジダナン…っっ!」

 スグロの声を、水の底で聞いたと思った。遠くて籠っていて、怒っているように聞こえるそれが、この世で最後に聞けた音のようにすら。でも、水底に沈んでいる筈の体を、なにやらゴワゴワとした布で覆われて、重たい瞼を開くと、そこにはとても美しいものが見えたのだ。

「……ぎ…?」

 見えたのはスグロではなく、ギンコの顔だった。白い髪に、白い睫毛に、きれいな、濡れた色の瞳と、何か言っている、唇。音はさっきの激しい言葉を最後によく聞こえなくて、聞こえないことが哀しかった。

 せっかく、ギンコが俺に、
 何かを言ってくれているのに。

 哀しくて、泣きたくて、本当に泣いてしまったかもしれない。頬が濡れているのが分かったから、みっともないところを見せてるなぁ、とぼんやり。

 でも。

 その次に起こったことで、化野の頭は七割方、一気に醒めた。ギンコが。ああ、ギンコが、その唇を。

『こいつは、俺の大事なヒトなんだ。ぜったい、二度と、手を出すな』

 その言葉はアラビア語だったから、化野にはやっぱり分らなかったけれど、でもどういう意味の言葉だったのか、分かった気がした。ギンコのその手の震えと、取り押さえられている二人の男を見据えている、彼の目の奥の、深い深い怒りとで。

「おやまぁ、やっこさん、凍りついちまってるぜ、ギンコ。そんだけでまぁ、うぶいもんだわな」

 そのあと、化野にハシシを吸わせた男たちは、知らなかったんだ許してくれ、と頭を地面に擦り付けて詫びたそうだ。額が傷付いて、流れた血で彼らの顔が真っ赤になったのを見て、もういいから、と取り成したのは化野だったのだが、言った本人はよく覚えていない。




「スグロが悪い。ステッカーを剥がすなと言わなかったからだ」
「や、けど、わざわざ剥がすと思わねぇしなぁ」
「俺も悪い。化野があんな目に会ってたのに、何も考えずただ寝てた」
「いやいやいや、それだってお前。お前はしょーがねぇだろう。お前が撮影のあと寝ちまうのはいつものことだし、無理に起きてたって、倒れちまうんだしよ」

 まだ頭がぼんやりとして、二人が何を言っているか、半分も分かっていない化野。喧嘩をしていることはわかるので、両手を浮かせて止めようとしていたが、その上げた両手に、左右から猫がすり寄って、二匹で取り合いしつつ、化野の膝に収まってしまう。

 無意識にそれを撫でて、ごろごろと言わせながら、化野はまだ少し擦れている声で言うのである。

「ええと、お、俺も気を抜き過ぎてたんだ。危ないこともあるって、飛行機で見たガイドとかにも書いてあったのに、あんまり考えなしに、ふらふら歩いてて。でも結局何もされてないし、たぶん、大丈夫だから…っ」

「何もされてないってか。せんせえ、二人の男に連れてかれて、脱がされかけてたの覚えてないだろ。身ぐるみ剥ぐつもりだったのか、それともナニかする気だったかまで問い詰めやしてねぇが。まぁ、未遂っちゃ未遂かぁ。もしかして、多少弄られてはいても、たぶんまだそんな…。いやいやギンコ、そんな顔すんなって…っ」

 スグロの言うとんでもない内容も気になったが、目の前に居るギンコの表情に、化野はなにより心を打たれていた。もしかして、泣いているのかと思って。そのぐらい、目が潤んで見えていて、宝石のようで。   
 
「ギンコくん」
「……なんだよ」
「心配かけて、ごめん」
「…あんたが謝ることじゃない」


 あぁ、
 あのときギンコくんが言っていた言葉を、
 日本語で聞きたい。
 願望も含めた勝手な想像じゃなくて、 
 彼の口からもう一度。


「あの…さ。ステッカー、失くしてないから、持ってるから。もう一度ちゃんと貼って、今度は剥がしたりしないし。そうしたら君の存在が、俺を守ってくれるんだろう? この国の何処に居ても、だから」

 君はもう、休んでくれ。

 元々白いギンコの顔が、ずっと青くて。それこそ倒れそうに見えて、心配だった。化野がそう言うと、ギンコはそれでも納得がいかないように、化野の顔をずっと見続けて、やがては小さな、何かの飾りを化野に手渡したのだ。それは細い白い布に、青くモロッコの刺繍を施した腕飾りだった。

 ギンコの手で、その飾りは化野の右の手首に巻かれる。そしてほぼ同じものを、ギンコは自分の手首にもつけていた。

「ステッカーだけじゃなく、これも、外さないでくれ。この国を出るまで」
「…わかったよ、ありがとう」
「じゃあ、寝る」
「うん」

 普通に、うん、と化野が返事をした後、ギンコは唐突に化野の方へと倒れ掛かってきた。膝に居た猫二匹は、ギンコの体と化野の体に挟まれそうになって、慌てて逃げていって部屋の隅で毛繕いをし、丸くなったり長くなったりで寝てしまった。ギンコもまた、化野と体を重ねて、既に深い寝息を立てている。

「ちょ…。う、わ…これは…」

 ギンコの体が楽なように、もそもそと姿勢を変えてやりながら、化野はバクバクと騒ぐ心臓を、どうしたらいいのか途方に暮れる。

「あーーーー。一言で言うと、生殺し、ってか?」

 スグロが喉奥で笑いながらそう言って、その後もっと大きな笑いの発作が起きそうになって、同じ部屋にいて肩を震わせている。思い付いたような言葉は、ただの軽口ではなくて、本当に提案だったようだが、化野は苦笑して首を横に振ったのだ。

「俺、出ていった方がいいかい? せんせ」
「…いえ……」
「そうか? ぶっちゃけそんままヤっちまっても、そいつ怒んない、というか、多分ほっとするぐらいだと思うぜ?」
「いいえ、しません…」

 スグロは寝返りをうち、窓の外に見える僅かな月明かりに目をやる。煙草を吸いたくなったのか、自分の体のあちらこちらを探ったのち、見つからないので諦めたようだ。

「あーぁ、やっぱそいつ、Tifurushiiだわ。そんであんたは、もしかすっとそいつの、muearadat alqadr。ッかー! 腹立つ。ヤられちまやよかったんだ。…って今、一瞬思ったけどな、一瞬だけだ勘弁しろや?」
  
 ティフルシーイ、は分る。何度も聞いた。
 でも、今の、ムエラダットアルカドル、が、
 初めて聞いたから、分からない。

 スグロは一番遠くの壁の方まで、ごろんごろんと寝返りを打ち続けたと思うと、ゴンっ、と壁に頭をぶつけたきりで動かなくなった。どうやら眠ったらしい。化野は二匹の猫と、ギンコと、スグロの寝息を聞きながら、しばらくの間、窓の外の夜空を見ていた。動けなかったから少しだけだったが、白や青白い色や淡い赤色の星が見える。

「きれいだ…」

 その言葉は、星だけじゃなく、この国で見た様々なものに、そして何より"彼"に。

 フェズとシャウエンを経て、明日はメルズーガだろうか。砂漠だと、パンフレットには書いてあった。さらさらと崩れる砂の音を、想像しているうちに、化野も沈むように、眠った。













 腐女子の血がちょっと、うずいてしまったようです。すみません。でも観光してて「ハシシ買わないか? 吸わないか?」って、声掛けられることもあるそうですし、女が一人でいると「気持ちいいことしないかい?」という意味の誘いもあるらしいので、書いてしまいました。えへへ。

 でも未遂だし!!

 ギンコが化野のことを、めっちゃ心配する姿が書きたかった。体の関係うんぬんじゃなくても、化野とってギンコが特別なように、ギンコにとって化野が特別なのは三話の「見ててく…」で少し表したように、そうなのです。スグロの為に特筆するなら、スグロもギンコにとって特別ではあります。たぶん、化野の次に、イサザと同じぐらいの特別さで。

 フェズを書いた時に書けなくて、んんーーーっ、って思ってたことを、シャウエンにもそういうのあるって知って、書けたのでよかったです。カラフルないろんな売り物のこと。観光客に話しかける陽気な売り手のことも少し。あと、青じゃなくて薄紫の壁の一角があることとかね。

 この話、改めて書き始める前は、毎度少し不安なんです。行ったことないし知らないし、書けるかな、って。でも書き始めて調べて、想像も混ぜて書いていくと、驚くほどワクワクしてスムーズ。翼いっぱいに広げて、知らない国の上を飛んでる気がする。

 楽しいです、凄く。私にはそういう翼がある。誰もが持っているわけじゃない。少しの人しか持っていないものだと思っている。そういう実感が、幸せです。ありがとう、本当に。書かせてくれて、読んでくれて、ありがとう。

 では次は、砂漠で会いましょうv なんてね。



2018.09.23