Rajul Bila Wajah … 3  




 その日の宿は、近くの住人の家だった。その家の人らは、彼ら三人の為に二階の一部屋を空けてくれたのだが、其処に居ると知った周囲の家の人々が、次々食べ物や酒を持ってきてくれる。けれど、歓迎されている最中に、ギンコは舟を漕ぎ始め、それを見た人々は波が引くように帰って行く。

 家具など殆どないその部屋の床に、三人して敷物を敷いて、川の字を描いて横になった。化野の隣がギンコで、その向こうがスグロ。もう正体の無いギンコの寝顔を、不思議なものを見るように眺めていたら、スグロが身を起こして、窓の傍に背中を寄り掛けていた。

 彼は持参のマッチで煙草に火を点け、その煙を外へ漂わせながら、化野へと話し掛ける。奇妙なほど静かな夜で、小声でもよく聞こえた。

「分かるか? こいつが此処で寝てるから、こんなに静かなんだぜ?」
「そう、なんですか?」
「慕われてっからなぁ、慕われてるどころか、内心じゃ崇め立ててるもんまで居らぁ。このフェズの街の外れはな、ほんの一部だが、前は貧民窟みたいになっててよ。ガキはすぐ死んじまう、悪いヤツは入り浸る、汚れてっから病気が蔓延して、ヤバい感じになってたのさ。そんで、結果としてだが、そいつを助けたのが」
「彼、なんですね」

 スグロはにいっ、と笑って、嬉しげにまた煙草の煙を吸い込む。

「分かるかい? まぁ、そんなら細けぇことはいいや。明日はシャウエンだ。あいつが仕事してるとこ、見せて貰えるぜ。だからもう寝ろや」
「はい、ありがとうございます」

 言って、寝返りを打ち、瞼を下ろそうとしたその途端、彼と目が合った。寝ていた筈のギンコの目がうっすら開いて、化野を見たのだ。

「ギンコ君…」
「悪いな…。寝てばっかりで」
「え、いいよ。疲れているんだろう?」
「いつもこうなんだ、仕事の時はいつも…。化野、俺を、見ててく…」

 すう、と、ギンコは寝入った。意味もよく分からないのに、化野は頷く。ギンコの向こう側で、スグロもまた横になったようだった。

「おーい…。俺だって、見てるぞぅ、ギンコぉ…」

 ぼそり、と言ったスグロの言葉が、なんだか無性に可笑しかった。

 次の日の移動は朝からバスだった。フェズでは、大勢に笑顔で手を振られて見送られた。そのあと行ったターミナルの傍で、観光客に案内らしき冊子を売っている男がいたので、化野はそれを一冊買ってみる。

 リサイクルであるらしく、埃っぽく汚れていて、失敗したかなと思ったけれど、中に挟まっていた手書きの単語集のようなものが、彼にとっては嬉しかった。きっと前にこれを使っていた誰かがメモしたものなのだろう。

 バスに乗ったあとも、ギンコはぼんやりしていてろくに喋らない。眠そうなので邪魔をしないように、化野は静かに単語集を捲った。日本語なのが有り難い。スグロはと言えば、バス運転手の傍に陣取り、フランス語とアラビア語のごちゃまぜで、何か世間話でもしているようだった。

「ええと…」
  
 タマーム完全な、アブヤド白の、ジャンシ色っぽい、シャッル悪い、ムーダお洒落、モカッダス神聖 、ハヤーリー幻想的、ナビール高貴、ファーヒル華やかな、ムタナースィク粋な、ヘルゥ、カーミーラ、ガミール、ジャーミール美しい…。

「美しさを表す言葉が、こんなにあるのか、へぇ…」

 これから行くのは、いよいよシャウエン。どんな「ジャーミール」に会えるのだろう。それともやっぱり「ハヤーリー」だろうか。

 何時間かかかったが、バスは滞りなくシャウエンに着いた。降りた途端に青いのかと思ったけれど案外そうでもなくて、近くの商店で食べものや飲み物を買っているうちに、またしてもギンコの姿は消えている。

「え…と、ギンコくんは…?」

 もう化野もそんなには慌てない。その様子を見たスグロが、ちょっと詰まらなそうにしたぐらいだ。

「あいつは『お仕事』。悪いねぇ、詰まらんだろ。一緒に観光出来ると思ってたかい?」
「いえ、こんな異国で彼の傍に居られたり、彼の姿を見られることだけで嬉しいし、充ぶ…」

 言っている途中で顔を赤くして、化野は黙ってしまった。それを見たスグロは、面白いものを見たとでも言いたげににやにやし出す。

「なぁ、あんた。ギンコとはそういう仲じゃない、って、本当か?」
「え…ッ!? や、その…ほ、本当…です…」
「あいつが相手にしてくんねぇのか?」
「…そ、そうじゃなくて。その、す、好きだったら、すぐにそうならなくてはおかしいですか…っ?」

 此処では日本語の分るものなど、殆ど居ないだろう。だからもあるが、少し自棄になって化野はそう言った。

「…んー、まぁ、おかしいってか、珍しいんじゃねぇのかい? 特にゲイとか。性の対象が普通じゃない人間は、そもそも相手が少ないから。早いとこ相性確かめて、しっくりくる相手を捕まえたいとか、あるよなぁ。じゃねぇとずっとさびしーし?」
「………ス、スグロさんは」
「俺ぇ? あぁ、俺はゲイ寄りのバイってぇ感じかな。前は逆でバイ寄りのゲイだったんだけど、あいつ見たらそうなっちまった。女よっかキレイとか、罪深ぇヤツ」

 ふふん、何かを懐かしむように、スグロは笑う。

「あんたなぁ、気になるなら聞けよ。俺とあいつがどんな仲かとか。何年か前に、二、三回寝たけどな、溺れそうなんでやめたのさ。今はマネージャーってか、保護者ってかそんなんだ。あいつは色んな意味で、時々、ティフルシーイだから」

 ティフルシーイ。確か、意味は「悪い子」。どうしてそんな呼び方をされているのか、聞けなかった。

「喰ったら行くぜ? 街ん中にな。他の色、今のうち見とけ、入ったら青いもの以外殆どねぇから」

 少し歩くと、すぐに青い家々が見えた。そしてあっという間に「青」に取り囲まれて、化野は思わず立ち止まる。

「凄い。空気まで、青いみたいだ」
「いや、まぁ、それはねぇけどな、気持ちは分る。あとなんか他にも、感想言ってみなよ」
「…魚になった気がする」
「はは、それ、最初俺も思った。空ってより海。海んなかって感じだよな、きっと狭いからだろうよ。こう…太陽の光が届くぐらいに浅い海の底の、大きな岩なんかの間、みてぇな?」

 言葉で言うなぁ、むつかしいわな、とスグロは頬を掻き。

「まぁ、さ。なんにしても」

 美しい、ところだ。

 照れ隠しみたいに、小声で言うのが聞こえた。昼間だというのに、この街も随分静かだけれど、もっと、街の人や、観光客がいるものじゃないのだろうか。時々、住人が窓や、開いた戸の中に居るのが見えて、あとは動くものと言えば、沢山の猫。

「多いですね。猫。のんびりしていて、可愛い」
「猫の街でもあるって話。あ、そうだ。忘れてたわ」

 そういいながら。スグロは化野のボストンに、手を伸ばしてポン、と触れた。同時に彼の右の二の腕にも、さりげなく。

「なんですか?」
「いんや別に。そろそろ見えてくるぜ? そこの狭いとこを抜けたあたりからは、どんどん入って行かずに、そうっと、先を覗いてみろや」

 どうして、とはあえて聞かずに、化野はスグロの言葉の通りにしてみるのだ。青い、青い、夢の中のような美しいところ。そんな街で今だけは、臆病で小さな魚になる。向こうが見えないところでは、少し鼻先だけを覗かせて、そっと向こうを確かめる。

 息さえ詰めて、少し進んではまたその先を、そろりと覗く。繰り返し。そんなことをしているうちに、その不可思議な空間の中で、化野の中から、ギンコのことさえ消えそうな。

 そして、あぁ、忘れかけていた"彼"が、再び、青い青い、青い視野の中に現れる。黎明の空の映る、明るい青の海の中、月がこそり潜んでいるのを、見つけたような気持ちになった。

 それは一体、何だったのだろう。白く長いすっぽりと身を覆う布を纏って、彼は誰も居ないその場所に居て、壁を背にひとり、ぼんやり空を見上げているのだった。確かに白い衣服を淡く染めるように、その場所の青が、彼の身を包んでいる。

 夜。

 夜、だっただろうか、今は。
 それとも夜の、明ける頃。

 いいや、違う。まだ昼にも届かない時分か、昼をようよう過ぎた頃か。なのにまるで、彼の居るその場所だけが、夜でも夕でもない、明け方でもない、この世でさえないような、不思議な空間に思えて。

 … カシャ

 カシャ カシャリ …  

 それを、何の音かと思って。聞いたことも無い奇妙な音だと思って、一瞬後にはそれがカメラのシャッター音だと分かった。化野がそうしているように、何人かの目立たない衣服を着た男たちが身を隠しながら、膝をつくなり、立ったままなりで"彼"の写真を撮っていた。

「あ、また」

 夕べみたいな輩が。そう思って、化野が零した言葉が聞こえたのか、スグロが後ろから彼の肩を、ちょいちょい、とつついて気を引く。そうして彼は言ったのだ。

「ありゃぁいいんだ、うちらのスタッフだから。そら、みんなどっかに印付けてんだろ?」 

 指差すスグロ。写真を撮っていた男たちは、足元に置いたカバンや、腰のベルト辺りなどに、確かに同じロゴマークを付けているようだった。遠かったり斜めだったりでよく見えないが、W…B…? 目を眇める化野の顔の前に、急にスグロが手首を突き出す。そこにも、同じロゴが。

「な? あんたにもさっきつけといた。カバンと、一応腕んとこにも」
「俺にも?」

 指し示されて見てみれば、確かにカバンと二の腕の後ろに、布で出来たステッカーで「WBAW」と。なんだったろう、このロゴ。どこかで聞くか見るかしたことがあるような。

「あんたほんとは部外者だから、それ付けてないと、すぐに普通の観光客と間違われて、やんわり遠ざけられちまう。おっ、場所移るぜ、行こう」

 腕を引っ張られ、連れて行かれる。行く先々で気付いたが、一本隣の路地。交差する別の路地には、観光客がそこそこいるのだ。更によく見てみれば、露店で物売りしている男や、ただこの街に住まうもの達が、本当にやんわりと、ギンコの今いる場所から人々を遠ざけている。

「……」

 あまりに奇妙で見事で、かえって言葉が出てこない。スタッフとやらが、いったい何のスタッフなのか。何故彼らはギンコを撮っているのかも、化野にはさっぱり分らずに。けれどもただ、今は、彼を「見たていたい」とだけ。

 青い街の幾つかの場所で、人ではない不思議なもののように、寄り掛かる彼。佇む彼。階段に腰を下ろしている彼。少し移動してはそんな彼を見て、見て。そのうち、スグロがこう言った。

「今日はすぐ終わる。ギンコがちっと、疲れてるみたいだから。なんなら、先生、そこらを『観光』してきたら? 迷子になったらこう言いなよ『アブヤドに呼ばれてる』って」

 言うなりスグロは狭い路地から、狭い十字路へと出ていって、その向こうにいるギンコの体を、寸でのところで抱き止めたのだ。くたり、と崩おれる姿を見て、失神したのかと心臓が跳ねた。けれど、寝ているだけだ、心配するな、とスグロがこちらへ身振りしていて、それ以上、近付くことは出来なかった。

 スタッフとやらもいつの間にか消えていて、化野は一人そこに残された。カバンと二の腕に付けられたロゴを、化野は自分で丁寧に剥がし、大事にポケットにしまい込んで、普通の観光客たちのいる路地へと、彼は歩いて行くのだった。

 











 ちょっと時間あったので、続きを三話のラストまで。ギンコの様子が気になりますね。彼は日本に居ても、ほんの少し、普通の人とは違う空気を持っていた気がするけど、この異国の地ではどうしてこんなふうに…。

 そこらへんは、またおいおい。てか、自分で書いているようで。このお話は何かに引っ張られている感じが少しするので、私もよく分からないや(おいーーーっ)。でも凄く楽しいのは確かです。

 書くきっかけをくれた方に、心よりの感謝を。続きも頑張りますv



2018.09.14