Rajul Bila Wajah … 2  





 カサブランカ空港から二人で列車に乗り、さらに数時間の車窓の旅。飛行機では化野が窓側だったので、今度はギンコに窓側を譲った。少し隙間を開けた窓からは、日本とは違う風が入ってくる。

 前髪を吹き乱されながら、伏せたギンコの睫毛が綺麗だった。窓の向こうの風景を見る振りで、化野はほとんど、目を閉じたギンコの顔を眺めていた。

 そういえば、彼はまったくの手ぶらだ。飛行機を降りるときからずっとそう。それに随分と軽装で、ふわりと飾り気ない軽い服を纏っているだけなのだ。まるで、自分の住む街を散歩でもしているように…。

「この国は、初めてかい…?」

 ぽつん、とギンコが聞いたのは、乗って随分経ってからだった。何時間もの沈黙を経て、居心地悪く感じないのが不思議に思えた。でもそれは嬉しいことだ。ギンコも、少しでもそうだといい。そんなことを願ってみる。

「…初めてだよ。だからガイドブックで読んだことぐらいしか知らなくて。この列車はフェズ行きだよね。迷路の街と聞いてるけど、案内人とかは」
「案内人…。まぁ、大丈夫だよ」

 大丈夫、と言っていたのに、平たく言うとちっとも大丈夫なんかではなかった。フェズの駅に着いてからのギンコは、随分と足早だった。人混みを縫う足取りは、まるで華麗なステップみたいで、軽くまとった白いシャツの残像を追っているような気がしてくる。

「待って…まっ…。あ、すみま…っ、Pardon!」
 
 ぶつかり、ぶつかられしているうちに、あっという間にギンコとの距離が開く。ちらり、こちらを振り向いた気がしたのに、彼は足を止めないのだ。このままじゃはぐれる。今から行く場所も聞いてない。大声で呼びとめようと、息を強く吸い込んだ途端、後ろから伸びた手に化野は口を塞がれたのだ。

「ギン…っ! むっ、グ…ッ」

 口だけじゃなく、胴にまで腕を回され捕まって、首だけでぐるりと振り向くと、見るからにはっきりと、日本人の顔をした男だった。無造作に乱れた髪に、無精髭。愛想のいい笑顔の。

「おぉおーっと、焦んな焦んな。こっち、な」

 そう言って、男は化野のボストンの紐を掴み小走りに歩き出す。もしや鞄を奪われるのでは、と一瞬戦慄して引き戻そうとしたが、どうもそうではないらしい。

「あいつの行き先だったら、分かってる。夜には落ち合うことになってるんだが、ついて行った方が面白いんで、急ぐぜ、せんせい。あ、あんた医者だって聞いてっからよ」 
「あなたは、だ、誰なんですか…っ?」

 ボストンバックを間にして、細い路地から路地へと必死について走りながら、化野はそう聞いた。振り向かずにその男は、笑い混じりの声で言うのだ。

「あー、そうだなぁ、俺はあいつの保護者。うん、保護者ってとこだわな…っ」
「ほ、ほごっ、しゃっ?」
「喋ってる暇ないぜ、せんせ」

 そうやって、息が切れるまで走って、そろそろ足がもつれそうになった時、やっと男は足を緩めた。鞄の取っ手もやっと離して貰えて、化野は腰を折り、息をせいせいとついている。そうしているうち、気付いたら一人になっていて、ぎょっとして見回すと、薄暗くなり始めた路地の奥で、露店の煙草を男は買っていた。

『一本くれ』
『あいよ、旦那。そっちのお連れはいいのかい?』
『あぁ、ならもう一本』

 そう言って、もう一本買い求め、男はそれを胸ポケットに大事そうに収めている。化野にと買ったわけでもないらしい。

「あ、あの…っ」
「おっと、ギンコだ。ほら、そこの店の前」
「えっ?」

 見れば確かに、階段を少し上がった場所に、店から出てきたばかりのギンコが。でも言われなければ分からなかったかも知れない。彼は細長い薄茶の布を頭と肩に緩く巻いて、下から吹き上げる風に、その布を揺らしていた。


 アブヤード。

 サラーム、アブヤド。

 ムーダ、アッサラーム。

 
 あちこちから、声が上がる。それが彼に向けられた言葉だと、なんとなくわかった。でもギンコはそれらへ一々返事をしない。差し出されるナツメヤシの実を齧り、グラスに注がれた、琥珀色のリキュールをほんの少し舐めて、そうしながら、好きなように分かれ道の一つを選び、また次の一つを選んでゆくのだ。

 
 サラーム、ヘルゥ。

 アブヤード!


 次から次へ、路地へと進むギンコの姿は、化野には追えない。でもここまで一緒に来た男は、迷うことなくゆっくりと歩いている。万が一にも、その背まで見失わないように気にしながら、化野にも段々と分かった。


 ティフルシーイ。

 ワレイコム、アブヤッド。

 
 男はこの声を聞いているのだ。親しむようなどこか乞うような、独特の響きを含んだ、モロッコの人々の放つ、言葉たち。知りたくて、化野はすぐ傍に居た露店の少年に、フランス語で聞いた。


「君、君、教えてくれないか。アブヤードって、どういう意味なんだい? ムーダ? ティフルシーイ、っていうのは?」

 はっ、と気が付いて、些少のチップを手渡すと、少年は嬉しそうにそれを握って、あまり上手でないフランス語で、それでも一生懸命に教えてくれた。

『アブヤードは真っ白、っていう意味。ムーダはお洒落だってこと。ティフルシーイは悪い子。それって、さっき通ってった彼のことを言ってるんだよ。他にもあるんだ。教えてあげる。ヘルゥとかジャーミールはきれい。ジャンシは、ええと…ね、色っぽいってことだよ!』

 化野がお礼を言いながら、もう一枚チップを渡すと、少年は満面の笑顔になって走り出す。どこまでも曲がりくねった階段を、駆け上って遠ざかりながら、彼は歌うように、幾つものアラビア語を化野に聞かせた。


 モッカダス

 シャッル

 タマーム

 ハヤーリィ

 ファーヒル

 ムタナースィク

 ガミール

 カーミーラ

 アブヤド

 アブヤド

 アッブヤーーード


「あぁ、あぁ、あんたが引っ掛かってるから、あいつどこ行ったか分かんなくなっちまったよ、しゃあない。疲れるけど登るとするかい」
「あ、えっと、す、すみませ…」
「俺のことはスグロでいいや、俺もあんたを化野って呼ぶからさ。さぁて、ちっとしんどいけど、あんたギンコのこと見たいだろ。来なよ、こっちだ」

 スグロと名乗った彼は、それからひたすら狭い坂や階段を登った。一段一段、深さと高さの違う階段。曲がりくねっては、ばらばらに分岐し、互い違いに交差しては、斜めに折れる路地。家々はどれも似たような茶色で、窓や扉の形も似通っている。

 まさにそこは迷路。

 段々と日は暮れてくる。ひとりだったら、二度と出られないだろうって、そう思っている化野に、心を読んだようなスグロの笑み。彼は笑いながら、一軒の家の中に入って行く。そこはガランとした空洞のような部屋で、四方には硝子の入っていない大きな窓があった。

「もしはぐれたら、ここらに居る誰にでも"アブヤド"の知り合いだと言やぁいい。道も教えてくれるし、親切にして貰えるよ」
「…それは、何故?」
「うーん、まぁ、このあと分かるんじゃねぇか? 件のあいつは、今あそこらへんらしいぜ、ほら」

 教えられ、外を見て息を飲む。いつのまにこんな、と思うほどの風景が、其処には広がっていた。街を一望する高さだった。そして濃い夕闇に沈みゆくフェズの街の細かな道々には、橙色の柔らかな光が無数に、それぞれの明るさで灯されていたのだった。

「こいつはな、マサルアルド。光の道って意味だ。このフェズの新しい観光資源なんだってよ、すげぇだろ。それにしてもまぁ、相変わらず歓迎されてること。そりゃそうだろうけどなぁ」

 スグロの口調で、化野にもそれと分かる。光の一際強いところに、きっと彼が居るのだ。この街で…

 アブヤド

 ヘルゥ

 ジャーミール

 そんにふうに、呼ばれている"彼"。彼のことを知りたいと思った。彼の仕事はなんなのか。どんな人なのか。どうしてこんなにも、此処の人びとに慕われているのか。今、あの光の中で、何を想っているのかも。

「あぁ、月が顔を出す。今日の    は、もう終わりか。合流するとしようか、とっくに成人済みのティフルシーイとな」

 何と言ったのか、全部は聞き取れなかった。スグロがその家を出ていってしまうので、化野は名残惜しく、もう一度だけマサルアルドを見た。月に光を譲るかのように、地上の灯火が次々に消えていくところだった。

 上ってきた坂や階段とは、また別の路を通って二人は下りていく。途中、乞いもしないのに一つずつ燭台を手渡して貰えた。そうでなければ危ないほどの暗闇が、既にゆらゆらと足元を浸す。

 随分と下った先で、茶色の布のかかった入り口を潜ると、そこはどうやら、食べ物屋であるようだった。

「ワアレイコムッサラーム」

「サっ、サラームワレイコム」

 声を掛けられ、焦って返しながら奥へと通される。それ以上は入れない一番向こうに、白い布を幾重にもまとったギンコが、その布をひとつひとつほどいているところだった。

 ひと目見て、化野はぎくり、としてしまう。ギンコだと思っていたのに、その顔を見た途端、別の何かに思えたからだった。

「よぉ、ギンコ、お疲れさん」

 でも彼は、スグロにそう呼び掛けられて此方を向いた。 

「スグロ、それに、化野も。悪かったな放ったらかして。疲れたかい?」
「おいおい、随分しおらしいじゃねぇか、そんな詫びや労い、俺はついぞ貰ったことがねぇなぁ」
「あんたは仕事だろ」

 そうやって、軽口を叩くギンコの姿。その顔。紅をさしているのだろうか。化粧も、軽く? 冷静に見ればちゃんとギンコだけれど、纏う布のせいか、紅のせいなのか、それともほの暗いこの空間のせいか。どこか自分と違うもののように思えて仕方ない。

「化野? 大丈夫か? こっちへ来いよ」

 言って差し出す武骨なグラスに、多分酒なのだろう、金の何かが横から満たされた。

「軽いヤツだから、飲むといい」

 言いつつ、小さな手布で口元をぐい、と拭うギンコ。紅がちゃんと拭われず、頬の方へと斜めに伸びて、それがまた壮絶なほど色っぽく。

 化野がグラスを受け取っていたら。カシャ。何処かでシャッター音が聞こえた。ギンコはじろり、とそちらを見て、すぐ傍にいる男に何かを言った。するとその男は素早く立ち上がり、カメラの音を立てた人間をすぐに見つけ出す。

「カエせ、ソレ。ケせ。アブヤドがイッテる」
「いや、消さなくていい。どうせ仕事のと媒体を別にしてあるんだろ。データカードだけこっちに寄越して」

 抜き取られた媒体はギンコの手に渡され、彼の手から今度はスグロへと。

「小遣い稼ぎに他にも何枚か撮ってる筈だ。全部プリントして、あとはいつものようにしてくれ、スグロ。金になったら、ちゃんとこの店に」

 日本語が分からなくとも、彼が今何を言っているのか、此処にいる人々には分かっているのだろう。歓声が上がり、あちこちからまた、アブヤド、と彼を呼ぶ声がする。その時になって分かった。スグロが言った言葉で、聞き取れなかった部分。彼はあの時、マサルアルドを見下ろしながらこう言ったのだ。

 今日の「撮影」は、もう終わりか。
 
 と。











 

 もうちょっとだけ先まで書いていますが、今日は此処まで。スグロさんまで出てきましたが、これでこのシリーズ(ブログに書いた二作も含め)には、四人の人々が出てきましたね。

 これ以上増えないとは思いますが、去年書いたヴォイスパートナーみたいに、味のあるオリキャラが居てもよかったなぁ、なんてちょっと思ったりもしました。まぁ、まだ折り返し当たりなので、もしもそんなのがこれから出てきたら、歓迎してやって下さいねv 

 これを書くにあたって、ウェブ上を検索によってかなりうろうろしましたが、モロッコが魅力的だとして書き残している方が沢山。そんなに素敵な土地なのか、いいなぁ、と思えど自分ではいけないので、彼らに代わりに、なんてね♪ 言った方から話を聞くのも楽しみです。うふふ。

 ではまた次の三話、頑張って書いて、今月中にアップできたらと思っていますよv



2018.09.09