Rajul Bila Wajah … 13
耳に、鋭い音が刺さって。化野は、はっと顔を上げた。目の前に広がる見慣れないものの集合に二度も三度も瞬いて、それが、いつも通りの自分の日常だということを、不思議な思いで理解する。今聞こえたのも、ただの車のクラクションだ。
「…また、か…」
もうこんなことは何度目だろう。帰って来てから、もう三日もたつというのに。時刻は深夜の23時を回っている。勤務医の仕事を終えた彼は、歩いて帰るかタクシーを使うか迷いながら、結局歩き始めていたのだけれど、どうにも真っ直ぐ帰る気になれない。
そういえば、彼にお礼もしていなかった。そう思い出した。貰った飛行機のチケット代も、払わなければと思いつつ、寝起きの時間帯が真逆なので、電話で話してすらもいない。
今日は通し番だったから、そうすると明日は遅番。帰りが遅くなっても大丈夫だから、と化野はイサザの店へと足を向けるのだった。
「そういや、もう帰ってたんだっけね。おかえり」
別の客へグラスを渡した後、イサザはカウンターに両肘をついて化野へと少しばかり顔を寄せる。
「どうだった? 旅行。面白かったかい?」
「たっ、ただいま。うん、本当にありがとう」
「別に俺にお礼言わなくたっていいよ、チケットのことだったら、ツテがある、って言ったろ? 何飲む? 水割り、軽くとか?」
「あぁ、それでいいよ。いや、そうじゃなくて。そんなわけにいかないじゃないか。ちゃんと払うよ、今は持ってきてないけど、ほんとにちゃんと」
手慣れた仕草で水割りを薄く。そのグラスを化野の前へと滑らせて、イサザは面白そうに笑うのだ。
「いらないって。でもそんなに言うんだったら、向こうでどうだったかいろいろ話して欲しいかなぁ。あいつと会えたろ? そんで楽しかったろ? どう進んだか、とかさぁ」
小首を傾げて化野の顔を覗き込み、イサザは目を輝かせている。彼がギンコのことを、どこまで知っているのか気になった。少なくとも自分よりずっと知っている筈で。
「そうだ…。イサザ…っっ」
「うわっっ、な、なに、どうしたの?」
スツールをガタつかせてまで身を乗り出し、化野はイサザの顔に顔を寄せる。店の空気が少しざわついた。帰ろうとしていた数人も振り向いている。ここはゲイの出入りも多い店だから余計だろう。そんな空気の中、化野は触れんばかりに彼の耳に唇を寄せ、こう言ったのだ。
「君、知ってたんだろう、彼が…っ」
「えぇ? 彼、ってギンコ? 何を俺が知ってたって?」
「だっ、だからそのっ、か、彼が…じゅ…っ。ま、まだ未成年だ、ってことをだよっ」
知ってて俺に、
早く体の関係になっちまいな、
とか…。
全部は言えない化野の前で、イサザは何故か唐突に、げんなりした顔をした。
「あー。あいっつっ。なんかおかしーと思ったことあったんだよなぁ。仮に17や18でそーゆーことしてたって、この界隈でしかもゲイなら珍しかないけどさ。けど、あんたみたいな真面目なの相手に、それだったら俺もちゃんと釘刺すよ」
ったく、とブツブツ言いながら、イサザは化野に渡したはずの水割りに酒を足し、自分がごくごくと呷ってしまった。
「あいつ俺には19だって言ったんだ。知り合った頃の二年前にね。ここはこういう店だから、二十歳越えてるってことにしとけって言ったのは俺だけど。じゃああんとき17だったってことかよ。高校生っっ? うっわ、いくら薄暗いったって、俺の目もどうかしてたなぁ」
てか、あいつ。
雰囲気作るの巧すぎ。
仕事柄、
かもしんねぇけどさ。
横を向いて呟くイサザ。そのタイミングで店に一組だけいた客が、彼に追加の酒を注文する。イサザはそれへ軽く詫びする仕草を見せて。
「悪いね。今日はちょっとばかり早仕舞だ。次にきてくれた時、好きなお酒をサービスするからさ」
客はがっかりした顔をしながらも、イサザが差し出す店名入りのライターを、笑って受け取り帰っていく。ドアまで送って、クローズのプレートをノブに下げ、外を照らす灯りを落としてから、イサザは化野の隣のスツールに跨った。
「あんたもゲイなら分るだろうけど、殆どは体目当てだし、体が合うかどうか分かってから今度は気持ち、みたいなのが普通だろ、このギョーカイってさぁ」
いや、あんたがそうじゃないのは分かってるよ、勿論。でもさぁ、普通はさぁ。
そうやって、イサザは自分で合いの手を入れながら。
「誰でもそうちゃぁ、そうだろう? どうせなら楽しいレンアイ、したいもの。あいつは見た目があんなだから、寄り付く相手も多いんだ。だから最初のコンタクトで、手っ取り早く確かめてるだけ。自分にとって、相手がどういう存在かってことをね」
俺はそれに協力してたっていうかさ。
そんなふうに続くイサザの言葉に、だんだんと化野は項垂れる。でも。だって。彼はそんな子じゃないはずなんだ。あんなに無垢で澄んでいて、きれいで。
「あぁ、悪い。あんたの酒、俺が飲んだんだっけ」
イサザはそう言ってカウンターの中に戻り、なにやらいろいろと酒を合わせて、化野にカクテルを作る。差し出されたのはあの酒だ。ブルー・エ・ヴェー。旅の前に飲ませてくれた、あの…。
その美しいカクテルを見つめて、化野は改めてイサザに聞いた。
「教えてくれないか。仕事柄ってさっき言ったね。イサザ、君は彼の仕事のことも知っているんだね」
「そりゃ知ってるけどさ。俺は撮影見たことはないよ。あんた旅先で直接見たろ? それに、今までだって見てきた筈だ。雑誌のページで、街のポスターで。『それ』がそうだなんて思ってなかっただろうけど」
「え?」
心底不思議そうで、分かっていないのだろう化野に、ひとつ苦笑をして見せて、イサザはカウンター奥の棚から雑誌を一冊取った。グラスや酒のボトルが並ぶ間に、気の利いたディスプレイみたいにいつも置いてある、それ。
化野の前に置いて、ぱらりと表紙を捲った中に広がる、美しくて広大な、何処か他所の国の風景。その風景に、透けるように重なっているのは、淡い紗の布を翼のように広げ、顎の線だけをうっすら見せている写真モデル。
「え、…ぇ…っ。これ…」
「あいつだよ。ギンコはここの『専属モデル』だから」
ここ、と言ったのはこの広告の、ということだろう。化野の目が、餓えてでもいるように、その見開きの写真を上をさ迷った。写真の中の美を、邪魔しないよう、それでもさり気ない存在感を聞かせて添えられているのは、短いキャッチコピーと、社名。
『見知らぬ世界に出会う旅・Wing Blue Air Wark』
そして左端に小さくロゴ。『WBAW』と。フランス資本の航空会社だ。航空をメインに今では様々な分野を世界に展開している、巨大企業。
そうだ、この会社の広告なら、雑誌だけではなくて、街角や駅でも毎日のように見ていた。いつも、海外の美しい風景の中に、モデルが一人いるデザインで。それにモロッコへ行った行きも帰りも、航空会社は確か、そこだった。
そして、シャウエンで渡されたステッカーに書かれていた文字とそれは、同じ。
「な? だから言ったろ。飛行機のチケット渡すとき、ツテがある、ってさぁ。化野? 聞いてんの?」
「それじゃあ…」
化野の手が、やっとカクテルのグラスへと届く。彼は大事そうにそれを両手で包み、声を震わせる。もしかしたら少し、涙ぐんででもいるような。
「…俺を旅に呼んだのは」
「そう、ギンコだよ。あっ、でもチケット代返すとか言わなくていいと思うな。あいつ雇い主のこの会社から、好きにチケット貰えるんだって。豪気だよなぁ。さすが世界的企業」
「イサザ」
カクテルグラスを手に包んだまま、妙に真顔の化野が、イサザを真っ直ぐに見る。
「ん? 何」
「早く彼と寝ちまいな、って、まだ俺に言うかい?」
イサザは笑った。呆れたように肩まですくめて。
「いや? だってそういうことして手っ取り早く相性を確認、だなんて必要、もう無いだろ? 根掘り葉掘り聞きたいのは俺の娯楽だからまた別だけど? で? 異国で再会して熱烈ハグした? ポスターみたいにロマンチックなとこで、お互い告ってキスとかしたっ? 有名な観光名所で撮った記念の写真ないの? なぁなぁ、見せろよ、教えろよー」
わざとだろう、軽いそのノリがツボに入って、化野は笑い出してしまう。
ギンコの魂は、きっと本当に無垢だけど、その無垢さはイサザの言う彼の在り方と重なっても、けして穢れたりしない。それに、彼は彼だ。ギンコという、一人の。
「イサザ、いくら何でもそんな」
何かを言いかけた化野の声と、ドアの音が重なって聞こえた。ノブに掛けたクローズのプレートが、カラカラと鳴る音も。
「おっ、なんだなんだ、やってんじゃねぇか、ウォッカくれ」
唇に火の消えた煙草をぶら下げ、スグロが店に入ってきたのだ。
「うわぁ、うるさいのが来ちゃったなぁ」
イサザは自分のことを棚上げして、そう言った。
続
やっぱりラストスパッと追われなくて、あと一話どうぞお付き合いください。イサザって今までそんなに出て来てなくて、今更思ったんですけど、あんまり正確掴めてなかったかもですっっっ。もう終わるんだけどもっっっ。
そして変わらぬ存在感でクローズしてる店に入ってきちゃうスグロが、ほんっとらしくて好きですよ! でもたぶん、イサザとはそんな何回も面識ないんですよねっ。スグロ、ギンコイサザ、化野のこの四人って、みんな個性ばらばらで、でも実は一人ずつきっと、ぱっと見でも人目を惹くんじゃないかって思ってます。
はぁ、モブとして街角で擦れ違ってみたいなぁ、などと思いつつ。ラスト一話、頑張りますねっ。
2019.01.13
