Rajul Bila Wajah … 1  




 数か国語で繰り返されるアナウンスを耳にしつつ、化野はバック一つを持って通路を歩いていた。プライベートでの行動力は、どう大目に見ても無い方で、こんなに思い切ったのは生まれて初めてだったかもしれない。

 この飛行機もまた広くて綺麗で、とてもいい席だ。本当によかったのだろうかと、彼はまだ申し訳なく思っている。それでも、座席に落ち着いてすぐ眠くなってしまうのは、何日もよく眠れていなかったからだろう。

 海外旅行は経験があるけれど、化野の中で、それは何か月も前から計画してから臨むもので、思い立って次の日には機内だなんて、まるで自分じゃないみたいに思える。

 CAの差し出す毛布を受け取り、ふんわりとしたそれを広げて肩までを覆いながら、小さな窓の外を見やれば、そこには、見慣れない風景。そういえばこの国だって、世界的に人気のある観光地。でも目的地は此処じゃないから、せめて窓からの風景を見ておこうと、眠い目を擦って身を乗り出したその時、声がした。

「Excusez moi」

 返事を期待していない風のその声に、形だけ振り向いて、

「Oui」

 と化野は返したのだ。遅れて一応視線をやって、彼は反射で、激しく立ち上がりそうになり、自分で締めたシートベルトに引き止められる。

「ギ…!」
「…Silence」

 しぃ、静かに。フランス語で言いながら、倒した座席に深く沈み込む、彼。仕草も表情も物憂げな彼は、確かに"彼"だった。

 え…っ。なに。どうして。
 なんで、今ここに?
 だって彼は一週間も前に、
 日本を発っていた筈じゃ。

 ぐるぐると渦巻く思考。あの日から今日までを、化野は脳裏で巻き戻し、思い返すのだ。


 

 あの日。

 イサザに言われて、全力で走って行ったホーム。いくら見回しても、其処にいる筈の人は居なくて、狐につままれたようだった。でも、間に合わなかったのか、と、肩を落として帰ろうとした化野の前に、想い人の彼の姿があったのだ。

「…イサザは悪戯好きだから、気を付けた方がいいかもな。発つのは今日じゃない」

 ぽかん、と口を開いて立ち竦み、それから言ったのはなんでか弁護の言葉。

「でも…っ。でも、優柔不断で何も出来ない俺の背を、彼はいつも、押してくれてる、から」
「世話焼きではあるよな。お節介なぐらいに。なんだかんだ言って、あんたのそういうとこ、嫌いじゃないんだと思うぜ?」

 ギンコは少し笑って、三度目にまたあの言葉を言った。

「来るかい? 俺の部屋に」

 化野は、不思議なぐらい何も考えずに、首をゆっくり横に振ったのだ。自分と、彼と、イサザと。そうやって、もう繋がっていることに、安心したのかもしれない。

「…ううん、今日は、いいよ」
「そう言うと思ってた。明日発つけど、用が済んだら、多分この街へ戻ってくると思う。一か月後か、二か月後か、もっと先か。分かんないけどな。じゃあ、化野。イサザによろしく言っといてくれ」

 背を向けたギンコの背中を見送ったあと、五日間。次はいつ会えるか分からないと思うと、まるで抜け殻のように力が入らず、気付けば彼のことばかり考えている。彼に少しでも近くありたくて、化野は毎日毎晩、共通の友人である、イサザのいる店を訪ねてしまうのだ。

「…ったくっ。そんなに好きなんだったらさぁ、さっさとくっついとけばよかっただろぉ。大事にしたいんだか、大事だから怖気るんだか知らないけどね。毎日毎日、そんなユーレイみたいな顔見せられる俺の気にもなりなって」
「…はは。酷いな、幽霊、って。生きてるよ、ちゃんと」

 そう言って、さっきから目の前にあったカクテルに、ようやく目をやる化野だった。

「これ、俺に作ってくれたのかい? 綺麗な色だね。青い…」
「Bleu et vert。あんたフランス語、分かる? 青と緑って意味なんだ。新作、いいだろ。でさぁ、青い街って知ってる? 化野」

 唐突に問われて、化野はカウンターに頬杖をつく。閉店まですぐで、自分以外に客は居ない。だから試作品を、しょげてるあんたに特別に、とイサザは言って。 

「知ってる…よ? ええと、確かスペイン」
「違う違う。モロッコ」
「モロッコ…。あぁ、そうだった。…シャウエン。憧れてるんだ、いつか行きたいな…って」
「そのくせ、間違えてんじゃん。いつかとか言って、それじゃ一生実現しないよ。憧れてても好きでも、ちょっとやそっとじゃ動かない。そういうの、あんたの悪い癖」

 呆れて肩を竦めながら、イサザは綺麗にカットしたライムをグラスに沈め、ミントの葉をそうっと添えた。これでブルー・エ・ヴェー。名前の通りの、青と緑になる。

 イサザはそのカクテルグラスを、指で、つ、と化野の方へ差し出して、こう言った。

「行っちゃえば? 夏の休暇、明日からだろ? せっかくの連休を、魂抜けたまんまで過ごすぐらいだったら、憧れてたその街にいきゃあいい」
「そんな。無理」

 急すぎて飛行機が取れないに決まってる。ホテルだってそうだろうし、計画も無く、調べもしないでなんて。それに、ひとりでそんなとこに行ったって。並び立てられる否定の言葉を、白い封筒一つ目の前に立ててイサザは封じた。

「ごちゃごちゃと。そんなのいいからっ。ほらっ、これ、融通してやるよ。実は俺ね、ツテがあるんだ」

 逆さに振られた封筒から、ひらひらと零れるチケット。拾って、よく見て、化野は怪訝な顔になる。

「ド、ドバイ…?」
「うん、そこは経由地だよね。乗り継ぐのはこっち」
「…カサブランカ。モロッコ、だ。じゃあ…ほんとに、シャウエン」
「そ。だからそれ飲んだらさっさと帰って、支度してっ」
 
 化野は部屋に帰ってから、思っていた。

 青い街、シャウエン。イサザには散々なことを言われたけど、言われるのも無理はないけど。憧れてたのは本当だ。憧れて、好きで、でも一生行くことはなくて、思い馳せてはただそのまま憧れていることは、そんなにもおかしなことだろうか。

 けれど、イサザのあの言葉が、何を意味していたかなんて、勿論ちゃんと分かってる。

 気になるんだったら。
 イイと思うんだったら。
 好きなんだったら。
 もっと、さぁ。
 
 繰り返し言われた言葉は、全部胸に残ってて。それでも動かずもたもたしていた自分の前から、とうとう"彼"は消えてしまって。

「…悪いと思ってるよ、イサザ。君は友人思いで世話好きで、ほんとは凄く優しいんだ。だからしょ気てる俺に、こんなことまでしてくれて」

 あのカクテルは美味しかった。甘くてほろ苦くて、エキゾチックで。不思議な香りが、今も漂っている気がする。Bleuに沈めたライムのvertが、まるで"彼"の、瞳の色。




 その"彼"が、何故。回想を経てやっと現実へ戻った化野の前に、ギンコは居るのだ。

「ど…どうして、此処に?」

 問い掛ければ、眠そうな目がうっすらとだけ開いて、彼は言った。

「…仕事。此処でのが終わったから、次の国に」
「仕事、って。何を…。聞いて、よかったら」 
「興味があるかい? でも、それは…また。fait de beaux reves…」

 ギンコのかすれた、小さな声は、とても魅力的で。でもところどころ聞こえにくくて、なんて言ったのかと聞き返しそうになってから、化野はやっとその意味を掴む。

「よい、夢を。って…」

 もう、ギンコは眠っていた。眠る姿を間近で見る、まさに夢のような。だから、化野も座席に背中を付けて、背もたれを少し倒す。顔をギンコの方へ向けて、彼の寝顔を見ているつもりが、あっさりと睡魔が化野を捕えていった。



 なんとも言えない良い匂いがして、化野は目を覚ました。途端に視野に飛び込んできたのは、白ナプキンで胸を覆ったギンコの姿。

「食べるか? カレー」

 言いながら彼がスプーンで口に運ぶのは、確かにカレーだ。

「う、うん、食べる」

 CAを呼んで、もう一食分同じのを、と頼むフランス語。化野は慌てて背もたれを起こし、顔を洗いに行った。急いで戻ると、丁度化野の分のバターチキンカレーが来たところ。

 また一回前を通らせて貰って、元の席に収まり、目の前に食事のトレイを置きながら、化野はギンコにこう言った。

「えっと。うまい、んだね、少し驚いた」
「…て? 食べないうちから食事の感想か?」
「違う違う。言葉だよ」

 流暢なフランス語。カタコトではなく、たどたどしくも無い。

「あぁ。別に、必要最小限しか喋ってないけどな」  

 でも、綺麗な発音だった気がする。あぁ、なんでそんなことを聞いているんだろう。もっと聞きたいことがあった筈なのに。そう思いながらも、寝落ちる前の質問を繰り返せないのだ。根掘り葉掘り聞くとか、迷惑だったら哀しいと思って。

「美味しいね、これ」
「あぁ。実は食べ飽きてるんだけどな」
「え」

 食べ終えて、口を拭いて、トレイを下げて貰ってから、ギンコは席を立つ。洗面所の方へ行ったと思ったのに、それから暫く彼は帰ってこなかった。だから化野は、寝る前からさっきまでのことが、まさか夢なのではと不安になる。

 ギンコの座っていた席には何も無い。小さなバッグの一つも、本の一冊も。探しに行くことも出来ず、化野はずっと待っていた。シートベルト着用のサインが出て、機内アナウンスが流れてから、やっとギンコは戻ってきた。

「もう着陸態勢だよ。その…今まで、どこに」
「ん? 知り合いがいるんで、エクストラ席に」
「エクス…」

 彼は誰かと来ているのか、と化野は思う。なんだ、そうだったのか。夢みたいだった時間は、もう終わってしまうんだな、と哀しくなった。そんな化野の顔を眺めていたギンコが、今度は無造作な質問を投げてくる。

「荷物は預けてるのか?」
「この上に入れてるボストン一つで」
「ふうん。重い?」
「そうでも」
「休暇はいつまで?」
「今日を含めて、六日」
「宿泊先は?」
「着いたら教えて貰える、ってイサザ君が」

 矢継ぎ早の質問に次々答えていたら、ギンコは急に笑い出した。

「イサザが、ね。あんたアイツを信用し過ぎてんのか、案外度胸があるのか、どっちなんだろうな? ホテル、なんて用意してない。インシャアッラー、だ、化野」
「い、いん…っ。ええッ、で、でもイサザ君は確かに、向こうについたら、って」
「まだ着いてないけど、今聞いただろ『ホテルは現地調達』だって」
「そ、そんな」

 モロッコはアラビア語とフランス語の国だ。化野はフランス語は話せるけれど、自信があるほどじゃないし、その都度満足にヒアリング出来るとも思えない。携帯端末はこっちで使えるようにしてきてなくて、観光でどこを歩くかだって、ホテルで聞こうと思っていたのだ。

「うわ、ほんとに…どうしよう」

 頭を抱えたい気持ちで、化野は今更な反省をする。やっぱりこんなこと、自分には合わなかったのだ。何も決めてない、行き当たりばったりな観光旅行なんて。

 悩んでいるうちに、飛行機の高度が下がって行くのが分かった。ギンコはそんな化野のことを、密かに眺めていたのだが、やがては、ひょい、と座席前のポケットから薄い冊子を引っこ抜く。開いて、項垂れている化野の顔の前へと差し出した。

 そして、ぱらぱらとめくりながら、ギンコは化野の視線を誘導するように、小さな写真をひとつずつ指差して。

「カサブランカ、フェズ、シャウエン、それからメルズーガ。このぐらい見れたらいいんじゃないか? あんたがそれでよかったら」
「う、うん、ありが…」
「…俺と来いって言ってるんだけどな、理解してるか?」

 言ってやれば、化野の目はみるみる見開かれた。

「えっ、でも…悪…っ」
「嫌か、嫌じゃないかで答えなよ」
「…嫌じゃない」

 化野がそう言った時、ギンコは笑った。それと同時に飛行機のタイヤが、カサブランカの大地に届く。ムハンマド国際空港への、到着であった。













 

 一話目と二話目を、同時アップします。これ実は、この連休中に書き上げるつもりだったんですけど「北海道胆振東部地震」と名付けられた地震による、停電と、その後の節電により、ちょっと進まなかった…いや、寧ろお話が伸びたせいも、あるのかもしれない。たぶんまだ折り返しあたりですよぉ、これっ。

 仕方ないことと思って、引き続き頑張って書きたいと思いますっ。むむんっ。

 タイトルは実はアラビア語です。意味は上手くいったら作中でラストまでに、上手くいかなかったら最終話後にあとがき(今書いてるこーゆーの)に書きますねっ。それにしても、また新しい?ギンコや化野を生み出してしまった(とても楽しい)。



2018.09.09