Flower Flowers 9
なんだろ、あの恰好。珍しいけど、でも案外似合ってた。
そんなふうに呟いたのは、バイトに向かうイサザ。自転車をガシガシと漕ぎながら、グレーの、胸にワンポイントのマーク入りの、フード付きの、ちょっともっさりした感じのパーカーだった化野のことを思う。
借りもの、かなぁ。鳥渡里だったら、初めて会った知らない人に「返すの今度でいいから」などと、普段着を貸すような人が、普通にいる。そういう町だ、あそこは。きっと昔から変わってないよ。七夕町より、もっと。いい意味で、他人を他人と思わない。
自分でも知らない間に少し笑んで、それからイサザは、はたと気付いた。
鳥渡里。ずっともう何年も、随分行っていないのに、なんだか最近見た気がする。なんでそんな気がするんだろう。覚えていない夢の中にでも、あの風景を見ただろうか。昔、子供心に、きれいだと思った、山々の、重なり合う波のような姿。その灰紺と青と水色が、枝の向こうに遠く見え…。
「こっちです、こっち、あの…イサザさんですよね?」
「あっ、すいません、おはようございますっ」
うっかり行き過ぎて行こうとしていたイサザを、駅前で待っていたチラシ会社の新人社員が呼び止める。今日は彼と一緒にチラシ配りだ。イサザのしたいよう、指示してくれていいと聞いていた。
配るチラシは、大手スーパーの野菜の大安売りのもの。とにかく大量に安く仕入れた野菜を、なるべく残さず三日で売り切りたいと、依頼主の要望だ。薄利多売を当て込んで、山と売れ残った、では損害になる。
「持ってきてくれてますか、指定した色の服と、日よけの大パラソル」
頷かれて、壁の前でさっと開かれたパラソルの陰、イサザとチラシ会社の社員は上半身ごと着替えて、真っ赤なシャツを来て、スーパーのロゴの大きく入ったエプロンをする。
「いい? 最初は俺の真似していいから、とにかく大きい声出してっ。照れて声出せなかったら、今月の給料出ないと思ってねっ」
「え、ええっ、僕、デザイン担当だし、そういうの苦手で」
ここのチラシ会社は、どの部署の社員にも当たり前のように「配り」を経験させる。チラシを依頼してくれるお客様の立場を理解する為に、と、それを貫いているのだ。イサザは逃げ腰の彼に、にっこりと笑って見せる。
「へぇ、苦手でこの会社入ったの? じゃあよかった、克服するチャンスだ。それにね、大きい声出すとすっきりするよ」
悩んでることも心配してることも、気にしてることも、声張り上げてる間は何処かに飛ばして消せる。少なくとも、消したと思うことができる。
「で、でも僕ほんとに苦手…」
「あーそーなの? 給料いらないの?」
「いっ、いっ、いりますっ。給料っ欲しいですっ!!」
やけになりつつ叫んだ声は意外とデカくて、声出てるじゃん、まずは俺のを聞いてて、とイサザは笑って、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「はいはいっ、通りすがりのみなさーんっ、10時から赤い野菜の投げ売りやりまーすっ。トマトに唐辛子、赤パプリカ、ニンジン…っ。ニンジンはオレンジだ…って? 細かいなーっ、オレンジのシャツ無かったんだよ。我慢してよっ」
口上が始まり、笑い声が上がると、それを聞いたスーパーの担当者が、打ち合わせ通りに赤い野菜の箱を抱えて出てきて、イサザ達が立てたパラソルの下にそれらを積み上げる。
「おっと、カボチャも? カボチャって赤? カボチャ色のシャツもないからしょうがないっ」
集まり始めた人々の中から、どっ、と笑いが巻き起こった。ひとり唖然としていた新人社員は、目を白黒させながら、それでもイサザの言葉をなんとか頭に入れようと、ブツブツ言いながら箱を開け始めている。
もう数人の客がイサザたちの前に来て、箱の中身を覗き込み。
「トマト三つ下さいな」
「カボチャと、それからー」
「あれぇ、俺10時からって言ったよね、5分フライングですか、お客さーんっ。すいませんね、レジは向こうなんでっ。5分かけてレジ行って下さい。レジ担当さぁん、五分以内に位置についてーっ」
また、どどっ、と笑い。敵わないな、もー、などと隣で新人社員も吹き出してて、今日も楽しいバイトになりそうだ。
そんな中、ふと高い空を見て思う。
俺は楽しくやってるよ、ギンコ。先生も、きっと何かを一生懸命にやってるところさ。ギンコだってそうだろう? 人はみんなずっと、ひとり、ひとり。でも俺も、先生も、お前と重なっていたいんだよ。
化野は駅舎の外に一人で立って、遠くに見える風景を眺めて息を吸い込んだ。最初に訪ねてからもう三度目になる。此処の空気の味も、もう体で覚えた。日差しを浴びていると暖かいが、日が沈むと急に寒くなる、そんなことも覚えて、ラフな格好に上着を一枚持ってきてある。
山は、もう、ぐっと季節が進んだ。一面の紅葉、と言うにはまだ早いが、山の北側から見事な色のグラデーションが臨める。スマートフォンは電波が来ていないから、持っては来ているがナビにはまったく使えない。時計と、カメラと、せいぜいがメモ代わりに使えるかどうかと言ったところだった。
「よし、行くか」
にっこりと笑って、化野は歩き出す。そう早い時間ではないが、まだ朝だから、急ぐ必要も無い。すぐにあの老人の家を目指すことも必要なく、長めの散歩とか、ウォーキングとか、そんな気持ちで歩くのだ。脇道には、積極的に入ってみる。
りん、りりん、と、まだ新しいデイバックにつけた鈴が鳴った。鈴は古いものだ。熊避けだと聞いて受け取った。気休め程度だ、出くわす時は出くわすよ、と、前に服と風呂を貸してくれた女性は笑っていた。あまりにも大らかな笑顔なので、怖くはないのかと聞いたのだ、そうしたら彼女の曰く。
都会じゃ随分、事故や事件が多いんだろ?
でも家に籠ってたら生きてけないから、
みんな外を歩くじゃないか。
その通りだが、なんとも言えず、ちょっとびくびくしながら化野は歩く。蛇を踏まないように気を付け、獣の強い匂いがしたら十中八九熊だから、匂わないかも気をつけつつ、自然を楽しみ、歩く。
「あぁ、これは可愛い。見たことがあるけど、なんの花だろう」
地面に屈んでスマホを取り出し、草の上に頬をつけかねないような姿勢で、一枚撮る。ボケボケだ。これはいけないともう一度屈む。またボケる。ようやくうまく取って、よくよく思い出したら、どうやらピーマンの花だ。
元はここはピーマンの畑だったのかもな、と、一人頷きながら雑草だらけの原を見渡し、そんなことを何度もしながらずっと歩いて、太陽が真上を過ぎた頃、目的の小さな畑に辿り着いた。
「どうです? 作物の育ちは!」
何処へともなくそう言うと、誰も居ないと思っていた畑の真ん中から、むくりと灰色の頭が持ち上がる。
「…またあんたかい、先生」
「先生じゃぁありません、化野、と」
「物好きだな」
化野は顔全体で笑って、こう言った。
「休日に、したいことをしているだけですよ」
そうして彼は老人に近付いて、スマホで撮った写真を見せる。
「あぁ、ピーマンだな。これ見ただけで、お前さんがどこの道通って来たか分かる」
「そうですか」
スマホを持った老人の手首を、化野は支えるように取った。脈を計り、じっとされるがままの胸に触れ、腹を押し。その手を背中へ腰へと回し、触れ、撫でて、雑談のような口調で様子を問う。
ここの痛みは? こちらは?
喉の方は? 痰が? 三日前の寝るときにですか。
この間お渡しした鎮痛剤は、効くようですか。
どこもあまり変わらずで。何よりです。
ありがとう。
あぁ、風が今日も案外あたたかい。
紅葉の盛りが、なかなか来ない筈です。
楽しみです。
化野は老人の隣で、自分の周りをよくよく見て、作物をうっかり潰さないように細心の注意を払いながら、仰向けに横になる。老人は背を伸ばして座ったまま、葉を揺らす風を眺めている。
「治療費はいいのかい?」
「何もしていません」
「なら、診察代は」
「してませんよ、何も。散歩中ですから」
「診てるだろうが」
「診ていません」
ずっと静かに笑んだままで、化野は空を見ている。流れる雲を。
「だから、お孫さんに聞かれても、来ていないと言って下さいね。俺はただの、週末ごとのウォーキングが趣味の、変わり者です」
ただたまたま持っていた痛み止めをくれただけの、時々立ち寄る、変わり者。そうでなければ、診ても、診ぬふりは出来ない。するべき治療を、勧めないわけにいかない。すぐ入院を、と言わないわけには…。
だから、医者じゃ、ない。
老人は化野の横に体を伸べて、じっと空を見て、目を閉じてから、言った。
「…雲が、速いなぁ」
「でも、日の暮れるにはまだ早いです」
「そうだな…」
「そうですよ」
何をしているのか、化野自身にもよく分からない。もしももっと、重篤になったなら自分はその時どうするか、どうするべきなのかも、分かっているようで、それが正しいのかどうか。医者としてではなく、ひとりの人間として。
この、どうなろうと此処に居たいと願うだろう、老人の傍らで、今はただ、静か、だった。
続
時々、何の話を書いているか分からなくなる。駄目なんだろうが、書きたいように書いています。今回なんかは、オリジナルの爺さんのことを書きながら、イサザのバイト風景を書きながら、化野という人を、イサザという人を、書いているのだと思います。楽しいんだ、これが。スイマセン。
ところでさ、思ったんだが。
イサザさ。これチラシ配りのバイト、プラスアルファ…いやそれ以上の仕事だねぇ。教育係はやってるし、スーパーの販売員もやってるようなもん。
きっとスーパーの方からの指名で、そっちかもバイト代が出るに違いない、そうだったらいいね、っていうか、イサザ凄く楽しそうだし、出なくてもやりそうだよねw
15/08/08
